第3話 薄明(7)
「ヘリオドーラ」
いつ帰ってきたのか、居間の扉の前に、アルディラーンが立っていた。
わたしは長椅子の上で本を読んでいた。アルディラーンは大股に歩み寄り、わたしの肩を掴んだ。
「ベイオウルのあの修道女が、魔女の嫌疑をかけられたらしい」
緑の瞳が、燃えるように見つめている。わたしは無言で見つめ返す。
「彼女に魔術をかけられたと訴え出た者がいたそうだ」
「ふうん。それなら、そうなんじゃないの」
「ミロエが白状したぞ。おまえに命令されて、金で雇った連中に証言させたと」
「……だったら、なによ」
わたしはぐいと顎を上げた。
「あの人が悪いのよ。平凡な女のくせに、聖女のふりなんて、しているから。――いい気味だわ」
「どうしておまえが、そんなことをするんだ!」
衝撃が襲った。アルディラーンがわたしを長椅子に手荒に倒したのだ。肩を握る手に力を込め、椅子に敷いた敷物に押しつける。
掴まれた肩が痛んだが、声は出さなかった。
「……どうして、おまえが……そんなことを」
彼は唇を噛みしめた。きつく、噛み千切りそうなくらい、強く。
「アル、血が……」
青年の唇から、血が滲む。彼自身の血を見たのは、これが初めてだったかもしれない。
アルディラーンの血も、わたしと同じ色をしているのだと、不思議な心地で眺めた。
アルディラーンはわたしを放し、身体を起こした。唇の傷を乱暴に拭い、背を向ける。
「どこに行くの?」
呼びかけるが、彼は振り向かない。戸口に立ち、一度足を止め、部屋の外へ踏み出そうとする。
「――行かないで!」
思わず叫んだ。いつのまにか、とめどなく涙があふれていた。
「そんなに、あの人が好きなの? あたしよりも?」
しゃくり上げながらの言葉は、切れ切れだった。
アルディラーンは振り返り、驚いたようにわたしを見た。
「わたしが、誰を、好きだと?」
「あの人よ。あなたの肖像画の女の人。あなたが仲間にしようとして、やめて、永遠に失った人……。聖女は肖像画の人によく似ていたわ。だから、聖女に会いに行ったのでしょう。知っているわ」
「ヘリオドーラ……馬鹿なことを」
「なにが馬鹿なことよ! いつもいつも、あなたはわたしに嘘ばっかりついているじゃない。それがわたしへの優しさだと思っているなら、それこそが馬鹿なことよ!」
抑えきれない感情の渦が、涙とともにばらまかれてしまう。
「本当のことを言って、アル――ひとりの夜が、怖いのでしょう?」
いつまで続くかわからない、長い長い孤独な夜。気の遠くなるような時間を、たったひとりで越えてきた彼。
我慢なんか、しなくていい。欲しいなら、そうしてくれていい。
――あなたと一緒に行けるなら、呪われた冷たい夜も怖くないのに。
「ヘリオドーラ」
痛ましそうに顔を歪め、アルディラーンはわたしを見つめていた。そして、小さく首を振り、目を逸らした。
(それが、答なのね……)
彼は奪わない。最初から、そのつもりだったのだ。
(――でも、それならどうして)
「どうして、あたしを拾ったの?」
語尾がふるえる。形を成した暗い不安が立ち上がる。もう隠しきれない。
「どうして、育てようなんて、思ったの。あたしは……あなたの娘になんか、なりたくなかった」
「ヘリオドーラ……」
「殺してくれていたら、よかったのに。あたしを見つけたときに、ほかの獲物みたいに、あたしを狩っていてくれたら、よかったのよ」
「何を言い出すんだ、ヘリオドーラ」
アルディラーンは戻り、膝を折ってわたしの顔を覗き込んだ。
「おまえは獲物なんかじゃない。おまえは、ほかの人間とは違う。わたしにとって、特別な存在なのだ」
彼は、かき口説くように言った。心変わりしかけた恋人を、引き留めるように。
その言葉に嘘はないのだろう。ただ、彼が気づかないだけ。
わたしは首を振った。
「特別じゃない。みんなと同じよ。あなたとあたしは、違う時間を過ごしている。絶対に、同じ時間には立てないの。あなたといても、あたしはいつも、ひとりだわ。あなたの傍にいればいるほど、あたしは、そのことを思い知らされるのよ」
太陽の贈り物だと言った。大人になるのが楽しみだと言った。
かつて人間だった彼が、闇に生まれ変わったとき、永遠に失ったものたち。太陽も、鼓動も、経過していく生命の時間も、彼には二度と手の届かないものとなった。
わたしの中に、それらが全部あった。彼にとって、わたしは、手に入れることのできないすべてのものの象徴だった。
いつか失うとわかっている。だからこそ、価値があったのだ。
――優しくて、残酷なアルディラーン。やっぱりあなたは、魔物だった。
アルディラーンがわたしを抱きしめる。壊さないよういたわりながらも、強く、力を込めて。そうすることしか、自分にできることはないと覚悟しているかのように。
彼の想いに答えて、わたしも彼の肩に腕を回した。虚空を抱いた冷たい身体を抱きしめる。
「……あたし、生きていたくない」
(失うことを前提にした生を、どうやって続けていけばいい?)
アルディラーンは静かに首を振った。
「おまえは、生きなければならない。それが、おまえという存在の、意味なのだから」
深い緑の瞳が見下ろしている。何度となく降り注がれた、切ない月の光。
唇に、そっと口づけられる。わたしは彼の頬を両手で挟み、
「あたしのこと、愛している?」
「愛しているよ。ヘリオドーラ、わたしの娘、わたしの、大切な生命……誰よりも、おまえを、愛している」
わたしは彼の首に縋りついた。
ゆるやかな巻き毛の中に、彼の吐息を感じる。差し込まれた指が髪をそっと掻き上げ、首すじに唇が触れ、ついで鋭い痛みが与えられた。
「――!」
わたしは短く息を吸い、彼の肩をぐっと掴んだ。力を込めた指先が、少しずつ、ふるえてくる。
(あたしのこと、忘れない?)
心の中で問う。
――忘れない。忘れはしない。絶対に。
アルディラーンの思考が伝わってきた。わたしたちは、いま、ひとつに繋がっていた。
薄れていく意識の手前で、わたしは笑った。
(嘘つき。あなたは、忘れるわ。いままでだって、そうやって生きてきたのでしょう?)
くすくす笑う自分の声が聞こえる。アルディラーンの返事は、聞こえない。
(ねえ、アル。嘘でもいいから言って。本当は、あたしが欲しかったって。あたしを一緒に連れて行きたかったって――言って)




