表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/22

第3話 薄明(7)

「ヘリオドーラ」


 いつ帰ってきたのか、居間の扉の前に、アルディラーンが立っていた。

 わたしは長椅子の上で本を読んでいた。アルディラーンは大股に歩み寄り、わたしの肩を掴んだ。


「ベイオウルのあの修道女が、魔女の嫌疑をかけられたらしい」


 緑の瞳が、燃えるように見つめている。わたしは無言で見つめ返す。


「彼女に魔術をかけられたと訴え出た者がいたそうだ」

「ふうん。それなら、そうなんじゃないの」

「ミロエが白状したぞ。おまえに命令されて、金で雇った連中に証言させたと」

「……だったら、なによ」


 わたしはぐいと顎を上げた。


「あの人が悪いのよ。平凡な女のくせに、聖女のふりなんて、しているから。――いい気味だわ」

「どうしておまえが、そんなことをするんだ!」


 衝撃が襲った。アルディラーンがわたしを長椅子に手荒に倒したのだ。肩を握る手に力を込め、椅子に敷いた敷物に押しつける。

 掴まれた肩が痛んだが、声は出さなかった。


「……どうして、おまえが……そんなことを」


 彼は唇を噛みしめた。きつく、噛み千切りそうなくらい、強く。


「アル、血が……」


 青年の唇から、血が滲む。彼自身の血を見たのは、これが初めてだったかもしれない。

 アルディラーンの血も、わたしと同じ色をしているのだと、不思議な心地で眺めた。

 アルディラーンはわたしを放し、身体を起こした。唇の傷を乱暴に拭い、背を向ける。


「どこに行くの?」


 呼びかけるが、彼は振り向かない。戸口に立ち、一度足を止め、部屋の外へ踏み出そうとする。


「――行かないで!」


 思わず叫んだ。いつのまにか、とめどなく涙があふれていた。


「そんなに、あの人が好きなの? あたしよりも?」


 しゃくり上げながらの言葉は、切れ切れだった。

 アルディラーンは振り返り、驚いたようにわたしを見た。


「わたしが、誰を、好きだと?」

「あの人よ。あなたの肖像画の女の人。あなたが仲間にしようとして、やめて、永遠に失った人……。聖女は肖像画の人によく似ていたわ。だから、聖女に会いに行ったのでしょう。知っているわ」

「ヘリオドーラ……馬鹿なことを」

「なにが馬鹿なことよ! いつもいつも、あなたはわたしに嘘ばっかりついているじゃない。それがわたしへの優しさだと思っているなら、それこそが馬鹿なことよ!」


 抑えきれない感情の渦が、涙とともにばらまかれてしまう。


「本当のことを言って、アル――ひとりの夜が、怖いのでしょう?」


 いつまで続くかわからない、長い長い孤独な夜。気の遠くなるような時間を、たったひとりで越えてきた彼。


 我慢なんか、しなくていい。欲しいなら、そうしてくれていい。


 ――あなたと一緒に行けるなら、呪われた冷たい夜も怖くないのに。


「ヘリオドーラ」


 痛ましそうに顔を歪め、アルディラーンはわたしを見つめていた。そして、小さく首を振り、目を逸らした。


(それが、答なのね……)


 彼は奪わない。最初から、そのつもりだったのだ。


(――でも、それならどうして)


「どうして、あたしを拾ったの?」


 語尾がふるえる。形を成した暗い不安が立ち上がる。もう隠しきれない。


「どうして、育てようなんて、思ったの。あたしは……あなたの娘になんか、なりたくなかった」

「ヘリオドーラ……」

「殺してくれていたら、よかったのに。あたしを見つけたときに、ほかの獲物みたいに、あたしを狩っていてくれたら、よかったのよ」

「何を言い出すんだ、ヘリオドーラ」


 アルディラーンは戻り、膝を折ってわたしの顔を覗き込んだ。


「おまえは獲物なんかじゃない。おまえは、ほかの人間とは違う。わたしにとって、特別な存在なのだ」


 彼は、かき口説くように言った。心変わりしかけた恋人を、引き留めるように。

 その言葉に嘘はないのだろう。ただ、彼が気づかないだけ。

 わたしは首を振った。


「特別じゃない。みんなと同じよ。あなたとあたしは、違う時間を過ごしている。絶対に、同じ時間には立てないの。あなたといても、あたしはいつも、ひとりだわ。あなたの傍にいればいるほど、あたしは、そのことを思い知らされるのよ」


 太陽の贈り物だと言った。大人になるのが楽しみだと言った。


 かつて人間だった彼が、闇に生まれ変わったとき、永遠に失ったものたち。太陽も、鼓動も、経過していく生命の時間も、彼には二度と手の届かないものとなった。


 わたしの中に、それらが全部あった。彼にとって、わたしは、手に入れることのできないすべてのものの象徴だった。


 いつか失うとわかっている。だからこそ、価値があったのだ。


 ――優しくて、残酷なアルディラーン。やっぱりあなたは、魔物だった。


 アルディラーンがわたしを抱きしめる。壊さないよういたわりながらも、強く、力を込めて。そうすることしか、自分にできることはないと覚悟しているかのように。

 彼の想いに答えて、わたしも彼の肩に腕を回した。虚空を抱いた冷たい身体を抱きしめる。


「……あたし、生きていたくない」

(失うことを前提にした生を、どうやって続けていけばいい?)


 アルディラーンは静かに首を振った。


「おまえは、生きなければならない。それが、おまえという存在の、意味なのだから」


 深い緑の瞳が見下ろしている。何度となく降り注がれた、切ない月の光。

 唇に、そっと口づけられる。わたしは彼の頬を両手で挟み、


「あたしのこと、愛している?」

「愛しているよ。ヘリオドーラ、わたしの娘、わたしの、大切な生命……誰よりも、おまえを、愛している」


 わたしは彼の首に縋りついた。

 ゆるやかな巻き毛の中に、彼の吐息を感じる。差し込まれた指が髪をそっと掻き上げ、首すじに唇が触れ、ついで鋭い痛みが与えられた。


「――!」


 わたしは短く息を吸い、彼の肩をぐっと掴んだ。力を込めた指先が、少しずつ、ふるえてくる。


(あたしのこと、忘れない?)


 心の中で問う。


 ――忘れない。忘れはしない。絶対に。


 アルディラーンの思考が伝わってきた。わたしたちは、いま、ひとつに繋がっていた。

 薄れていく意識の手前で、わたしは笑った。


(嘘つき。あなたは、忘れるわ。いままでだって、そうやって生きてきたのでしょう?)


 くすくす笑う自分の声が聞こえる。アルディラーンの返事は、聞こえない。


(ねえ、アル。嘘でもいいから言って。本当は、あたしが欲しかったって。あたしを一緒に連れて行きたかったって――言って)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ