第3話 薄明(5)
冷たい闇が部屋に降り積もっている。
食事も取らず、わたしは一日、寝台の上に横たわっていた。
(熱い……)
開け放した窓から、冷えた海風が流れ込んでいる。
なのに身体は、火照るほどに熱い。全身の熱が、駆け足で逃げ出していくようだ。
(このまま全部、流れ出してしまったら、なにも考えずにすむかしら)
昨夜、あの言い争いの後、わたしは私室に籠もった。それからずっと、こうして寝台の上にいる。
露台に向けて開いた窓から、月の光が差し込んでいる。太陽とは違い、生命を育てない不毛な光。
だが、その輝きが温かく、優しい気がするはなぜなのだろう。穏やかで慈しみ深い、包み込むような切ない光。
(……アルに似ているからだわ)
夜を生きる闇の眷属。死なない彼に、生命を生む能力はない。
不毛な光をまとう彼は、養い子のわたしに、太陽の名前を与えた。そして、玻璃の箱に入れて育てている稀少な薔薇のように、大切に、大切に育てた。
惜しみなく注がれる彼の愛。それは決して偽りではない。たとえ、なにも生まない、なにも始まらない、不毛な愛だったとしても。
「ヘリオドーラ、入るぞ」
アルディラーンの声が聞こえる。足音は聞こえなかった。呼びかける声も、水の中から聞いているように、鈍く歪んで響く。
天蓋の帳が勢いよく引き開けられた。
「ヘリオドーラ!」
切迫した彼の声。頬に触れる手を感じる。
「ヘリオドーラ、しっかりするんだ、ヘリオドーラ!」
アルディラーンは敷布を切り裂き、わたしの腕をかたく縛った。そして抱きかかえたわたしの頬を叩く。
「ヘリオドーラ!」
耳の傍で名前を呼ばれる。わたしは目を開けた。
「……間に合ったの?」
すぐ目の前に、緑の瞳が揺れていた。
「間に合ったよ。おまえは、生きている」
「……このくらいじゃ、死なないのね」
かたく縛られた腕をぼんやりと見る。薄い皮膚に走る刃物の傷。流れ出た血が、敷布の上に黒い染みを作っている。
頬に頬が押し当てられた。アルディラーンの肌は、わたしより冷たい。
「おまえは、死にたいのか。どうしてこんなことをするんだ」
わたしは答えない。
「おまえを手放しはしないと、約束したはずだ。ずっと、おまえの傍にいて、おまえを守ってやると、言ったはずだ。なのに、どうして、おまえは……」
「死ぬときは、一緒じゃない」
緑の瞳から目を逸らし、虚空を仰ぐ。
「だから、早く、終わりにするの。長くなればなるほど、そのときが来るのが、怖くなるから」
覚えていた台詞を言うように、わたしの口調は平板だった。
「アルは、平気なの? ひとりでも、生きていけるの」
アルディラーンは少し怯んだ。
「……おまえがいる」
「あたしが死んだあとは?」
「……」
彼は黙り込んだ。わたしは深く息を吸った。
「あたし、知っているわ。本で読んだの。不死者は血を飲み、与えることで、仲間を造ることができるって」
アルディラーンは息を詰めた。
「仲間を造ったこと、ある?」
首をめぐらし、彼を見つめる。
アルディラーンは、切るようにかぶりを振った。
「ないよ。――ひとりも」
「本当に?」
「本当だ。……造ろうとしたことは、あった。だが……やめた」
瞬間、彼の表情に重なる影があった。
(――あの人なのね)
彼の私室にかかる肖像画の女性――アルディラーンの愛した人。
「どうしてやめたの。誰かが欲しかったんじゃないの」
「――ヘリオドーラ」
アルディラーンはわたしの身体を包むように抱き、胸の上に顔を伏せた。
「仲間を造るということは、同じ呪いを与えるということだ。闇に生き、人間を狩り、その血を啜る。永遠の夜を這いまわり、終わりのない殺戮を繰り返すのだ。そんな呪われた宿命を、誰かに与えることが、できると思うか?」
胸に押し当てられた彼の頭を、そっと撫でる。胸の奥が、苦しくて熱い。
「……あたしを、愛している?」
「愛しているよ」
胸の上で、彼が身じろぐ。わたしの鼓動を確かめている。彼にはない血の活動。生から死への時間を刻む音。
「愛していても、連れて行く気は、ないのね」
「ヘリオドーラ……だから……」
上向いた青年の顔を、わたしは指で捕えた。指先を青年の頬にすべらせ、顎を支えて自分のほうへ導く。そして、唇に口づけた。
「そんなの、わからないわ」
青年の首に腕をからめ、顔を伏せる。抱きしめてくる腕の力を感じる。服を着ているのに、素肌を合わせたときのような肌の溶けあう感覚が伝わる。
この瞬間、わたしは、確かに彼の時間の中にいた。
でも、彼を抱く指のあいだから、少しずつこぼれていくなにかがあることを、意識せずにはいられなかった。




