第3話 薄明(4)
――血の匂いがする。
階段の上に立つと、濃密な血の臭いが鼻孔を刺激する。
階段下の床に散らばる、鳥の羽根。両翼は大きく広げられ、胸はざっくり裂かれている。
鸚鵡のすぐ傍には、二匹の栗鼠が、いずれも小さな腹を深くえぐられ、血溜まりの中に転がっていた。
足元に目を落とすと、黒い仔猫が、首を切り裂かれて息絶えている。
床一面に沁みている、大量の血。石が血を吸い取り、黒ずんで、天窓から差し込む落日を受けて粘るように無気味に光っている――。
「ヘリオドーラ、起きるんだ」
頬を軽く叩かれ、わたしは目を覚ました。
居間の長椅子で横たわるわたしの上に、覆い被さるようにアルディラーンがいた。
「あれは、なんだ。あのムスタファたちは」
わたしは視線をぐるりとめぐらす。
夢を見ていた。血の臭いに酔いそうな、生々しい夢……。
「おまえが、やったのか」
絞り出すように、彼は言った。
「どうなんだ、ヘリオドーラ。おまえが殺したのか。答えるんだ」
(なにを言っているの、アル? それ、わたしが見ていた夢の話なの)
「わたしを見ろ、ヘリオドーラ!」
アルディラーンはわたしを引き起こした。小さな身体は、ばねに弾かれたように、勢いよく彼の手に収まった。
(ああ……そうだった。あれは、夢じゃない)
わたしは、この手で、確かめたのだ。
「知りたかったのよ。――死ぬって、どういうことなのか」
両手を彼に差し出す。
「死を感じたかったの。自分の、この手で」
なにもない手のひらに残る、感触。温みと弾力、やわらかく、かたく、力強くもろい、命の手触り。
「だって、確実なものは、それだけよ」
この世でただひとつ、確実なもの。
アルディラーンが凝視している。瞳の緑色が、いつもより濃い気がする。苦しそうに眉根を寄せ、まるで痛みをこらえるように、歯を食いしばっている。
「どうして……ヘリオドーラ」
呻くような問いかけ。彼は両手で顔を覆った。
「なぜ、こんなことをするんだ。あんなに、大切に、可愛がっていたじゃないか。どうしてこんな残酷なことをする」
「残酷?」
そのひと言が、わたしのなにかを刺激する。
「なにが残酷なのよ。自分だって、しているじゃない」
わたしは彼を押しのけ、長椅子から立ち上がった。
「いくら愛していたって、大切にしていたって、結局いつかは死ぬのよ。望まなくたって、拒んだって、死ななきゃいけないのよ! たったひとりで!」
叫びながら、わたしは首飾りを引きちぎった。淡く輝く真珠の粒が、絨毯の上にちりばめられる――まるで涙のように。
「あなた、このあいだ奇蹟はないって言ったわよね。――嘘つき」
後ろ向きに退き、両腕を広げて青年に対峙する。
「奇蹟はそこにあるじゃない! 死なないんでしょう。年を取らずに、いつまでも生きていられるんでしょう。奇蹟を持っているくせに、どうしてこんな残酷なことをするのよ!」
愕然とする青年を、渾身の力で睨む。
変わらない彼、変わっていくわたし。同じ空間で過ごしながら、流れている時間は同じではない。わたしだけが年を取り、わたしだけが確実に死に近づく。
彼はそれを、ただ見ているだけ。いずれひとりで朽ちていくわたしを、彼はただ見届けるだけなのだ。愛していると、何度も囁きながら。
「……あたし、あなたの娘なの、アル?」
絞り出す声音がふるえる。
「いつまで、娘なの? そのうち、妹になって、姉になって、母親になって、お祖母さんになって……死ぬの?」
眼前にいる青年の姿が、歪む。霧がかかったように、白く、薄く、空気に滲む。
「あたしひとりで――死ぬの?」
――それでもあなたは、生きていくのね、アル。
霧の向こうで、青年の姿が、ゆらゆら揺れていた。陽炎のように儚く、わたしの時間から離れて、届かない場所に、ひとり、立っていた。




