表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/22

第3話 薄明(2)

「買ってきたのか」


 帰宅したアルディラーンは、少し驚いたように言った。

 わたしは自分の服の飾り紐を仔猫に投げつけ、じゃらして遊ばせていた。


「可愛いでしょう。ムスタファっていうのよ」

「もう名前をつけたのか」


 アルディラーンはわたしの向かいに座り、紐を追って飛び跳ねる仔猫を眺める。


「街でね、そう呼ばれる人がいたの。気に入ったから、つけちゃった。でも、ほかの子たちは、まだ名無しよ」

「ほかの子?」


 片手で仔猫の相手をしながら、もう片手で部屋の先を指差す。

 そこには丈の高い吊り籠に入った鸚鵡が一羽と、鉄の檻のなかを動きまわる栗鼠が二匹。


「にぎやかでいいな、生き物がいると」


 栗鼠が、檻のなかにある車を踏んで回している音が、軽快に響いている。


「鸚鵡はしゃべるかい?」

「ううん、まだ。――あたし、聖女に会ったわ」


 唐突に切り出す。瞬間、アルディラーンには、なんのことかわからないようだった。


「噂の聖女よ。ベイオウル地区のキリスト教修道院の」

「わざわざ見に行ったのか、そんなに遠くまで?」

「気になったんだもの。でも、なんだか普通の人。ちょっとがっかりした」


 飾り紐を高く掲げ、黒猫に飛びつかせながら、


「アルだって、会いに行っていたのでしょう?」


 端正な容貌が、さっと強張る。


「隠さなくてもいいのよ。知っているから」


 猫と戯れる手を止めて、青年をじっと見つめる。


「ヘリオドーラ……」

「あたし、期待していたのに。どんな奇蹟を起こすのかしら、とか、評判になるくらいだから、きっととても綺麗な人なのだろうなって。だけど、あんなに平凡な人だったなんて」


 つい、と唇を上げ、小馬鹿にするように、短く嘆息。


「あの人の、どこが好きなの」


 真正面に見据える青年は、愕然としているように見える。わたしを愛し、慈しんでくれるとき以外、彼がどんな表情を見せているのか、わたしは知らない。

 ミロエは主人である彼を、敬いつつも恐れている。恐ろしい彼を、わたしは想像できない。


 でも、あの肖像画に描かれた女性の前で見せていたアルディラーンの顔は、想像がつく。


(なら、あの修道女の前では……?)

「好きではないよ」


 青年が答える。抑揚のない声。考えるより先に、発してしまったような。


「そう? それにしては、会ったのは一度や二度じゃないみたいだけど」


 意識の真ん中に、肖像画が浮かぶ。灰色の瞳の女。あの修道女とよく似た容貌。


「好きなわけじゃない。ヘリオドーラと同じ、聖女の噂に興味があっただけだ。もう会わないよ」

「獲物にもならない?」


 アルディラーンは眉をひそめた。


「そういうことを言ってはいけない、ヘリオドーラ」

「どうして? だって、アルのお食事でしょう。必要なことじゃない」

「おまえはそんなことを考えなくていい」


 厳しい口調で拒絶するように言われ、わたしはむっとした。


「そう。あたしには関係ないってことね」

「ヘリオドーラ」

「なら好きにすればいいわ。――おいで、ムスタファ」


 黒い仔猫を拾い上げ、青年を睨む。


「……今日、街でお葬式を見たの」


 青年の表情が止まった。


「ムスリムのお葬式。立ち会ったのは家族や親しい人だと思うけど、みんな、泣いていたわ」


 わたしがなにを言おうとしているのか、図りかねるように、彼はまばたいた。


「家族が死ぬと、人って泣くのね。人が死ぬのって、そんなに悲しいことなの」


 アルディラーンが息を詰める。

 ずっと訊きたかったことを、わたしは初めて口に出した。


「あたしが死んだら、悲しい?」


 青年は驚いたように緑の瞳を見開いた。


「なにを言い出すんだ、ヘリオドーラ」

「答えて。ねえ、悲しいの」

(本当のことを言って、アル)

「悲しいよ。当然だろう」


 本当に、心底それが当然のように、彼は答えた。


(ほら、思ったとおり)


 心が、すっと冷えていく。


「そんなこと言うものじゃない、ヘリオドーラ。おまえはまだ小さい。これから、おまえには長い人生がある。おまえはまだ、ずっと生きていくのだ。だから、死ぬことなど考えるな」

「でも、いつかあたしも死ぬわ。いつかね」


 自分でも意外なほど、感情の抜け落ちた声だった。


 ――そう、わたしは死ぬ。いまではなくても、いつか、必ず。


「ムスタファ」


 甘い声で呼び、仔猫に頬をすり寄せて撫でる。


「昼間見たお葬式でね、お婆さんが遺体に縋って泣いていたの。死んだ男の人のお母さんじゃないかしら。名前を呼んでいたわ――ムスタファって」


 はっと、青年の呼気が乱れた。


「いい名前よね、ムスタファって。あたし、すぐに気に入っちゃった」


 呆然としたアルディラーンを置き去りにして、わたしは仔猫を連れて居間を出た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ