第3話 薄明(2)
「買ってきたのか」
帰宅したアルディラーンは、少し驚いたように言った。
わたしは自分の服の飾り紐を仔猫に投げつけ、じゃらして遊ばせていた。
「可愛いでしょう。ムスタファっていうのよ」
「もう名前をつけたのか」
アルディラーンはわたしの向かいに座り、紐を追って飛び跳ねる仔猫を眺める。
「街でね、そう呼ばれる人がいたの。気に入ったから、つけちゃった。でも、ほかの子たちは、まだ名無しよ」
「ほかの子?」
片手で仔猫の相手をしながら、もう片手で部屋の先を指差す。
そこには丈の高い吊り籠に入った鸚鵡が一羽と、鉄の檻のなかを動きまわる栗鼠が二匹。
「にぎやかでいいな、生き物がいると」
栗鼠が、檻のなかにある車を踏んで回している音が、軽快に響いている。
「鸚鵡はしゃべるかい?」
「ううん、まだ。――あたし、聖女に会ったわ」
唐突に切り出す。瞬間、アルディラーンには、なんのことかわからないようだった。
「噂の聖女よ。ベイオウル地区のキリスト教修道院の」
「わざわざ見に行ったのか、そんなに遠くまで?」
「気になったんだもの。でも、なんだか普通の人。ちょっとがっかりした」
飾り紐を高く掲げ、黒猫に飛びつかせながら、
「アルだって、会いに行っていたのでしょう?」
端正な容貌が、さっと強張る。
「隠さなくてもいいのよ。知っているから」
猫と戯れる手を止めて、青年をじっと見つめる。
「ヘリオドーラ……」
「あたし、期待していたのに。どんな奇蹟を起こすのかしら、とか、評判になるくらいだから、きっととても綺麗な人なのだろうなって。だけど、あんなに平凡な人だったなんて」
つい、と唇を上げ、小馬鹿にするように、短く嘆息。
「あの人の、どこが好きなの」
真正面に見据える青年は、愕然としているように見える。わたしを愛し、慈しんでくれるとき以外、彼がどんな表情を見せているのか、わたしは知らない。
ミロエは主人である彼を、敬いつつも恐れている。恐ろしい彼を、わたしは想像できない。
でも、あの肖像画に描かれた女性の前で見せていたアルディラーンの顔は、想像がつく。
(なら、あの修道女の前では……?)
「好きではないよ」
青年が答える。抑揚のない声。考えるより先に、発してしまったような。
「そう? それにしては、会ったのは一度や二度じゃないみたいだけど」
意識の真ん中に、肖像画が浮かぶ。灰色の瞳の女。あの修道女とよく似た容貌。
「好きなわけじゃない。ヘリオドーラと同じ、聖女の噂に興味があっただけだ。もう会わないよ」
「獲物にもならない?」
アルディラーンは眉をひそめた。
「そういうことを言ってはいけない、ヘリオドーラ」
「どうして? だって、アルのお食事でしょう。必要なことじゃない」
「おまえはそんなことを考えなくていい」
厳しい口調で拒絶するように言われ、わたしはむっとした。
「そう。あたしには関係ないってことね」
「ヘリオドーラ」
「なら好きにすればいいわ。――おいで、ムスタファ」
黒い仔猫を拾い上げ、青年を睨む。
「……今日、街でお葬式を見たの」
青年の表情が止まった。
「ムスリムのお葬式。立ち会ったのは家族や親しい人だと思うけど、みんな、泣いていたわ」
わたしがなにを言おうとしているのか、図りかねるように、彼はまばたいた。
「家族が死ぬと、人って泣くのね。人が死ぬのって、そんなに悲しいことなの」
アルディラーンが息を詰める。
ずっと訊きたかったことを、わたしは初めて口に出した。
「あたしが死んだら、悲しい?」
青年は驚いたように緑の瞳を見開いた。
「なにを言い出すんだ、ヘリオドーラ」
「答えて。ねえ、悲しいの」
(本当のことを言って、アル)
「悲しいよ。当然だろう」
本当に、心底それが当然のように、彼は答えた。
(ほら、思ったとおり)
心が、すっと冷えていく。
「そんなこと言うものじゃない、ヘリオドーラ。おまえはまだ小さい。これから、おまえには長い人生がある。おまえはまだ、ずっと生きていくのだ。だから、死ぬことなど考えるな」
「でも、いつかあたしも死ぬわ。いつかね」
自分でも意外なほど、感情の抜け落ちた声だった。
――そう、わたしは死ぬ。いまではなくても、いつか、必ず。
「ムスタファ」
甘い声で呼び、仔猫に頬をすり寄せて撫でる。
「昼間見たお葬式でね、お婆さんが遺体に縋って泣いていたの。死んだ男の人のお母さんじゃないかしら。名前を呼んでいたわ――ムスタファって」
はっと、青年の呼気が乱れた。
「いい名前よね、ムスタファって。あたし、すぐに気に入っちゃった」
呆然としたアルディラーンを置き去りにして、わたしは仔猫を連れて居間を出た。




