第2話 暗夜(7)
その夜、わたしはアルディラーンの帰宅を待たなかった。
自分の中で、なにかが動き始めているのを感じながら、薄闇に横たわる。
(このまま闇に溶けてしまえたら、いいのに)
だが、夢とのあわいを漂っているあいだに、現実の足音が聞こえてきた。
「ヘリオドーラ」
扉越しに呼ぶ声。返事はしない。天蓋つき寝台を覆う薄い帳のすぐ向こうに、一本だけ灯した蝋燭の炎が、頼りなく揺らめいている。
「眠っているのか――入るぞ」
扉が開き、淡い月光を遮って背の高い人影が寝台に近づいてきた。
「来ないでよ!」
反射的に叫ぶ。青年の影が止まった。
「女の寝室に、勝手に入らないで!」
言いながら、勢いをつけて背を向ける。寝台が激しくきしんだ。
「……すまなかった」
彼は素直に戸口に退いた。
「おやすみ」
囁くような言葉を残して、扉は閉ざされた。
再び戻った静寂の中、わたしは少し後悔していた。
(あんなふうに言うつもりはなかったのに)
初めて彼を拒絶した。九年間、ずっと一緒に夜を過ごしてきた。彼に触れない夜は、一度としてなかった。
同じ時間、同じ場所にいるのに、これほど遠く感じるなんて。
わたしは寝台を降り、室内靴を履いて部屋を出た。
灯りの洩れる居間を覗くと、長椅子に長身を横たえた青年が顔を上げた。
「ヘリオドーラ、どうした、眠れないのか」
「……さっきは、追い出して、ごめんなさい」
謝りながら上目遣いに青年を見る。アルディラーンは微笑し、両腕をひろげてわたしを招いた。
「謝るのは、わたしのほうだよ。寂しい思いをさせてしまったね」
青年の衣裳から、今夜はあの香の匂いはしない。わたしは薔薇の香りのする胸に、額をこすりつける。
(ここがわたしの、帰る場所なのに)
離れたくない。ずっとずっと、ここにいたい。一緒にいたい。
思う気持ちの反対側に、あの暗い不安がぴたりと張りついている。それを払い落とすように首を振った。
「ねえ、あたし、動物を飼いたいの」
寛げた青年の襟のあいだに鼻を寄せて、甘える。
「動物? どんな」
「猫。真っ黒で、つやつやした毛並みの仔猫がいい。あとね、しゃべる鳥と、栗鼠も欲しいわ」
アルディラーンはわたしの髪を撫でた。
「いいよ。明日、スタニョイカかミロエと買いに行っておいで」
「本当? ねえ、買ったら、一緒に名前、考えてくれる?」
「もちろんだ」
「嬉しい。ありがとう、アル」
わたしはしゃぎ、青年の唇に口づけた。




