第2話 暗夜(6)
「嬢さま、あの、聖女の噂ですが」
帰宅するとすぐ、ミロエが声をかけてきた。
「街で聞いてきました。なんでも、修道院に付設した病院や救貧院で囁かれ始めたらしいです」
「そう。それで?」
「あ、はい……ええと、病院には身体中の皮膚が腐って溶ける病人が何人かいて、看護の修道女は病気が移るのを恐れて口を覆ったり、手袋をはめたりして手当をするんですが、あの人だけはなにもつけないで、触るんだそうです」
「素手でってこと?」
「そう、そうです。それで、あの人が素手で触ったところから、病気が治り始めたとか」
「それは確実なの」
「いえ……そういう噂だと聞きました」
「治ったって証言する患者はいないのね。なら、やっぱり噂よ」
「はあ……あ、でもそれが評判になって、病院も救貧院も毎日大変な混みようだそうです。みんな、聖女をひと目見たくて」
「普通とちょっと違うことをしたから、尾鰭が付いて大げさになっただけじゃない。結局、その程度よ」
突き放すように言うと、ミロエは首をすくめて、すみませんと小声で謝った。
(その程度で聖女だなんて)
直接会った修道女は、聖女などいないと言った。後ろめたそうな表情で、でもはっきりと否定した。
自分が聖女などではないと、自覚しているくせに――。
アルディラーンの残り香。私室に大切に飾られた肖像画。偽りの奇蹟にまみれた平凡な女。
(――いなくなればいい)
口の中に血の味がした。噛みしめていた唇が切れたのだ。
(これが、アルの味わう食事の味、アルの生命の糧……)
不意に、昼に見た葬儀の場面が蘇る。息苦しいほどの鮮明さに、胸がふさがれる。
喉にせり上がってきたなにかをこらえるため、わたしはさらに強く、唇を噛んだ。
苦くて悲しい血の味が、口の中に痛いほどあふれた。




