第2話 暗夜(4)
食卓に整えられた料理は、手付かずのまま冷えている。
わたしは長椅子に横たわったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。
アルディラーンが帰ってこない。明らかに遅い帰宅。
(きっと、また)
考えると、胸の奥が絞られるように痛む。
やがて、階段を上る靴音が聞こえた。いつもと同じ歩調で近づいてくる。
「ヘリオドーラ」
扉を開けて呼びかける、いつもの声。わたしは返事をしない。
「ヘリオドーラ、灯りもつけないで、どうした」
夜目の利く彼は、暗い部屋に迷わず踏み込み、燭台に火を点す。
「……」
わたしと食卓と部屋の様子を見回した彼は、少し驚いたように目を見開いた。
「食べないで待っていたのか。お腹が空いただろう」
「空かないわ。食べたくないの」
突き放すように言うと、アルディラーンは小さく溜め息をついた。外套を脱ぎ、床に散らかしたままの細密画を拾い集め、横たわるわたしの傍ら、長椅子ではなく絨毯の上に直接座る。
(また、この匂い)
やはり彼は、あの場所に行ってきた。
(――なんのために)
「……遅かったのね」
低く呟く。
「ああ。今日は少し遠くまで行ってしまった。待たせてすまなかった」
(どうして、嘘をつくの)
やわらかく髪を撫でる手のひら。それが疎ましく思えて、顔を背ける。
アルディラーンはいつだって嘘つきだ。自分のことも、本当のことも、なにも言ってはくれない。伝えてはくれない。
真実を知れば、わたしが傷つくと思っている。わたしを悲しませないために、わたしを守るために、彼はいつも嘘をつく。
――どちらがわたしを本当に傷つけているか、いつになったら気がつくの?
「ヘリオドーラ」
耳に吹き込むように囁いて、彼はわたしを抱き起こした。そのまま膝の上に乗せ、そっと抱きしめる。
「遅くなって悪かった。食事をしよう」
気遣うような声音。彼はきっと、以前のわたしの拒食を思い出している。そのことで、いまでも自分を責めている。
(ああ、アル。あなたはいつだって優しい。優しいわたしのお父さま)
そしてわたしは、いつまであなたの娘でいると思う?
わたしが食べやすいように、彼はパンやケバブを小さくちぎってくれる。目の前に差し出されたひと口を、わたしは受け入れた。
ほっと安堵の息を洩らした青年は、嬉しそうに目を細めた。
食事の後、いつものように風呂に入る。水の貴重なこの街で、毎夜の入浴は、皇帝よりも贅沢な習慣だった。
トルコ絨毯を敷いた大理石の長椅子に、裸のわたしが座る。アルディラーンはわたしの肌に湯をかけて潤し、香料入りの石鹸を泡立て、平織りの絹布で身体を洗う。
小さく、細く、女らしい隆起がまだ表れていない、幼いわたしの身体。手足を投げ出したわたしは、アルディラーンが洗うのに任せ、じっと動かない。やわらかすぎる子供の肌を傷つけることのないよう、彼は愛撫するように洗い流していく。
わたしは目を閉じ、洗っている青年の手の感触を全身で感じていた。
「おまえは祝福された娘だ、ヘリオドーラ。人も神も、誰もがおまえを愛するだろう。美しい、愛しいわたしの宝石」
青年の愛情に満ちた言葉が、わたしの肌の上を滑る。高貴な香りの泡に溶け、流れ落ちる。彼の言葉に磨かれたわたしの肌は、そうして輝きを増していく。
それでもわたしは、自分の中に、決して洗い落とせない醜い汚れが染みついてしまったことに、気がついていた。




