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第2話 暗夜(3)

 翌日は雨だった。


 雨が嫌いなわたしは、外出を控えて読書をすることが多い。このころすでに、わたしの蔵書は大人顔負けだっただろう。

 洋の東西を問わず集めた書物は、居室のひとつを占領している。中には、アルディラーンでさえ読めないような言語の本や、子供が目にすべきではない悪書まであった。書のほとんどは、わずか九歳の子供が普通に読む水準をはるかに超えたものだった。


 子供らしくないわたしの嗜好を案じたアルディラーンは、一度、同じ年頃の子供たちを邸に招いたことがあった。

 どこから集められたのか、身なりの良い欧州の少女たちだった。言葉が通じないことはなかったが、わかり合えるところはひとつとしてなかった。


 ――おまえは大人になりすぎているね。


 寂しそうに言った青年は、ほかの子供を邸に招くことは二度となかった。


 雨音だけが響く中、たったひとりの長い読書に飽きたわたしは、本も菓子も散らかしたまま、部屋を出た。

 邸の中も、知り尽くしている。それでもわたしは、一番お気に入りの場所を目指して歩いた。


 二翼に分かれた邸の反対側の棟には、主人の私室がある。寝室と書斎が続き部屋になっている大きな居室。

 わたしが昼間、ときどき訪れることを黙認している彼は、鍵をかけたりしない。

 精緻な螺鈿模様が彫り込まれた扉を開けると、上質な香の香りがあふれ出す。アルディラーンの好きな、ヨルダンの薔薇。もう長い間、愛用しているので、彼の体臭にまでなってしまった香り。


(アルの匂いだわ)


 彼を抱きしめるように深呼吸をし、部屋に入った。

 私的な居間兼寝室には、使うことのない寝台が整えられている。生活臭のない主室の隣には、紙と墨の匂いに満ちた幸福な書斎があった。


 いつものとおり、無意識に書斎に踏み込んだとき、わたしは違和感を覚えた。最近ここを訪れたのは、三日前だったか。そのときはなにも感じなかったのに。


「変ね……どこも変わってないような気がするけど」


 ひとりごちながら、背にしていた壁側を振り返った、その瞬間。


「……!」


 壁にはダマスク織の壁掛けがある。聖書の中の一場面、数々の宝物とともに聖都イェルサレムを訪れた沙漠の女王を、精霊の王が出迎える様子が、絢爛とした色糸で紡ぎ出された見事なものだ。


 いま、その有名な場面の上に、見慣れない女の肖像画が掛けられている。


(誰かしら。初めて見る絵……)


 唐突な既視感がわたしを襲う。


(初めてじゃない。見たことあるわ)


 胸に波打つ豊かな栗色の髪、細面の蒼白い頬。まなざしは淡い青――というより、むしろ灰色に近い。


(蒼白い顔に、灰色の瞳……)


 ぐらり、と視界が揺れた。思い出したのだ。


「聖女、だ。昨日の、あの人」


 鮮明に蘇る、古びた修道院の修道女。平凡な、あまりに普通だった噂の聖女。

 それが、どうして肖像画に収まって、こんなところにいるのだろう。


(――落ち着いて。そんなはずない)


 よく見ると、絵は全体的に色褪せている。額縁の金の装飾は長く磨かれていないために黒ずみ、くすんでいる。保存が悪いわけではない。かなり古いものなのだ。


「似ている……でも、別人なのね」

 ――では、これはいったい誰なのか?


 アルディラーンが大切に持っていた肖像画。長い時間を越えてもなお、手放すことのなかった大切な絵姿。


「アルの……恋人」


 どきん、と鋭くはじけるなにかがあって、胸の奥が激しく疼き始める。かっと頬に血が昇り、額に汗が浮かぶ。

 なのに、手足は冷たい。ざわざわと不快な感触が、腕を、脚を這い上がる。


(そうよ、あの匂い……思い出した)


 昨夜、青年の衣裳に染みついたかすかな残り香。どこかで嗅いだ匂いだった。


(そのはずだわ。だって、あの聖堂に焚きしめられた香の匂いだもの)

「……どういうことなの」


 わたしは拳を握りしめたまま、立ち尽くした。真正面の女を睨みながら、身体中が急激に冷えていく感覚を味わっていた。

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