10話 告白もどき
クスクスと耳ざわりのいい声が、ずっと真横から聞こえている。俺は真っ赤だが、羽馬も真っ赤だ。
「も、もういいだろ。笑いすぎだろ」
「う、うんっ、ごめっ、くふっ」
結局、電車のホームに向かわず駅裏にあるベンチに座って、前屈みになって全身を震わせ笑う羽馬の、波がおさまるのを待つかたちになっている。当初の予定と全然違う。
だけど、まあ、なんというか、変な緊張が抜けて脱力できたような、羽馬の笑い声をずっと聞いているのも悪くないな、と。
横で一生懸命呼吸を整えようとしている羽馬が、なんだか無性にくすぐったくて、さっきから俺の手のひらはグーパーとせわしなく動いている。妙な動きをしないように、役目でも与えているかのように。
「はーぁ、苦し。峯森くん、くふっ」
ようやく体を起こしたと思ったら、羽馬は完全なる涙目だった。
「もう存分に笑え」
ふてくされた台詞になってしまったけど、半ば変なプレッシャーがなくなって気が楽になっている。こんなしょうもない奴なんて、笑われる存在でしかいられないってもんだしな。
「怒った?」
羽馬が、指先で目尻を拭いながらこっちをうかがってくる。その仕草は、やっぱり俺の知らない羽馬だった。俺の中でのイメージは、腕で思いっきり豪快に拭く、そんなやつだったけど。
「ぜんぜん」
「うそ、顔が怒ってる」
「俺の顔はこれが標準なんだよ」
「ジュース奢るからゆるして」
「手を打とう」
「やっぱ怒ってたじゃん」
羽馬はクスクス笑いながら立ち上がって、すぐ近くの自販機でジュースを二本買って戻ってきた。
「はい、おおさめください」
「くるしゅうない」
なんとなく、にやつきそうになる自分の表情筋に喝を入れながら、ペットボトルを受け取った。
ふたりで静かに飲みながら、目の前の駅前ロータリーの、どんどん流れていく景色を眺めた。
不思議なもんで、この沈黙は居心地がよくて、会話がなくても一緒にいる感覚があって、さっきまでアタフタしていたあれこれが嘘みたいに、気持ちが落ち着いていた。
「なんか、中学の時、思い出しちゃった」
羽馬は、ペットボトルのフタを閉めると、ベンチにそっと置いた。
「峯森くんって、どこまでも真っ直ぐだったなって」
「まるで俺が直進しかできねーヤツみたいじゃねーか」
「あはは。違うよ。部活でさ、ボールを一生懸命に追ってるの。絶対届きそうになくても、迷いなく真っ直ぐ追っかけてたなーって」
なんだか照れくさい。あの頃、羽馬の視線に気付いてないわけなくて。その時の必死さは、ボールにというよりも、恥ずかしさを蹴散らしたい、どうせなら良く見せたい、そんな程度のものだ。
「先生にも言われたなー。『お前は真っ直ぐしか打ち返せないのか』って。コースがバレバレなんだってさ」
「そうなの?」
「おう」
「でもさ」
羽馬は靴底をコンクリートに擦り付けるようにブラブラと揺らす自分の足を、ジッと見つめている。
「峯森くんは、やっぱり、真っ直ぐだよ。どこまでも真っ直ぐで、折れないかんじ……ずっと眩しくて……」
ふつりと、羽馬の言葉は途切れた。揺らしていた足も止まって、長い髪の毛に表情さえ遮られて。
「……羽馬」
ペットボトルを横に置いて、でも、向き直るほどの度胸はやっぱりなくて。それでも俺は、言わなければいけない。
「俺は、ぜんぜん、真っ直ぐなんかじゃねーから。……ずっと、ぐにゃぐにゃ寄り道ばっかりしてるようなヤツだから」
違う。そういうんじゃなくて。
「いや、そのさ、失敗と後悔の連続だらけの、ずっと螺旋階段登ったり降りたりしてるような」
「それは、大変そうだ」
「だ、だろ?」
不思議そうにこっちへ振り向いた羽馬に、いや、喉まで出かかっている言葉に、心臓がものすごい音を立てている。
「峯森くんが、どんな螺旋階段登ったり降りたりするの?」
「え? あ、おう……例えば、だな」
余計なことならスラスラ出てくるのに。
「風呂入ろうとして一階に降りて、下着持ってないのに気付いて二階に戻って、んで今度こそ風呂入って。ところがあるはずの部屋着が乾いてなくてまた二階に替えを取りに上がって汗だくになったりとかさ」
「あはっ」
「移動教室から教室戻って授業はじまる直前に筆記用具置き忘れたのに気付いて、また取りに戻ったらべつの学年の授業が始まってて、結局手ぶらで戻って。次の休憩時間にまた取りに行ったりとか」
「あははっ、すごいね、知らなかった」
「ひどいだろ」
「意外すぎる。目撃したかったなそれ」
「まだあるぞ、聞くか?」
「うんうん」
「ずっと特別だったはずなのに変な意地張って逃げ回ってたら、その子はもう見向きもしてくれなくなって、自覚した時には誰かの彼女になっちゃってたりとかさ」
「……え」
これ以上ないほど、遠回りな俺だな。
「羽馬……お前のことが、一番、遠回りしてるよ」
さっきまで聞き心地よかった町のざわめきが、今はまったく聞こえない、無音の世界。耳の穴になにか詰まって塞がったんじゃないかって思うくらい、静かでしんどい。
今さらこんなこと言われたって、どう考えても大迷惑だろう。多少は俺への気持ちが残っていたとしてもむしろ、蒸し返して欲しくない可能性だってある。だってそうだろ。いつの話だ、ってやつだ。今はあんなかっこいい彼氏がいるんだし。羽馬だってあの時のことをなかったことにしたくて、俺との接触をなくしてきていたぐらいなのに。ちょっと喋るようになった途端、蒸し返す男、ダサって……あーやっぱり、これやっちまった……。
熱くて重い頭は、どんどん重力に引っ張られて、俺の視線はもう自分の震える握り拳を通り越して、お腹あたりを凝視している。
言った。言ってしまった。さすがにこれは、あの時のノートどころの騒ぎじゃない。なかったことにはできないものだ。でも、この一生分の恥ずかしさなんて、一生の後悔に比べたら、全然、いいだろ?
「……峯森くん……」
俺は覚悟を持って、詰まりに詰まっていた息を深く吐き出した。
「……おう……」
「えっと……私が、どゆこと?」
「ん?」
ごめん、の一撃で玉砕すると思っていたのに、羽馬の反応は不思議なほど混乱していた。頭を抱えて、首を捻って、苦しそうな表情かと思いきや、やっぱり眉根を寄せて。
どうやら、全然伝わっていないようだ。
「峯森くん、好きな人がいた、という衝撃が強すぎて、ちょっと、そこで私の名前が突然出てきた意味が」
「あ、え?」
「好きな人、彼氏いるの? 誰? あ、いや、そういうことじゃないのか。峯森くんも彼女いるもんね。そうか、どっちも相手がいるからってことか……。え、でも、私のことが遠回りって、言った、よね? んん?」
「待て待て! 俺、彼女いねーし」
「え? でも先輩と結局、付き合うんじゃないの?」
「だから! 違う!」
慌てて羽馬に向き直った。真っ赤な顔している。なんだったら若干泣きそうな表情だ。
「いやほんとごめん! 彼氏がいる羽馬に、今さらこんなこと言っても、迷惑だったよなっ」
「え? ええ? 彼氏いるって、私? いない! いないから!」
「……はあっ?」
腹の底から声が出てしまった。羽馬を食い入るように見れば、向こうもみるみると驚いたように瞳を見開いていく。
「あ! 円堂先輩? 駅で会ったから? 先輩とは、同じ趣味でずっと交流させてもらってるけど、付き合ってるんじゃないから!」
「……へ?」
それはもう必死に訴えてくる羽馬の言葉に、俺は魂が抜けていくかのごとく口を開いたまま、ふにゃりと砕けた上体を支えるため、ベンチに腕を突っぱねた。