5話 現実、現状
高校に入学して二ヶ月。中学時代の後半も合せると一、二年分。お互いの近況や最近あったこと、新しい環境について、羽馬と話すことは思いのほかたくさんあった。
気付けば、地元の駅に到着するまであっという間だったし、駅から出て駐輪場にたどり着いても、まだまだ時間が足りない。
だから、ああもうここでさよならか。もっと話したかったんだけどな。なんて思いながら自転車を引っ張り出したあとも羽馬を探して、同じく自転車に乗らずにこちらを見ている姿を見つけて、テンション上がってしまった。
ふたりで自転車を漕がずに押しながら、帰り道もお互い機関銃のように喋り倒した。
ああこの感じ、なんだよまったく変わってねーじゃん。ちょっと大人っぽく見えてたけど、中身あの頃のまんまじゃん、と嬉しくさえ思った。
これまたあっという間に、俺の家の前に着いてしまって、長いこと立ち話して、「じゃあ、またな」とお互い元気よく手を振って別れて家に入った時、俺はすこぶる機嫌良く鼻歌なんてしながら冷蔵庫からジュースを取り出していた。
なんとなく、どこかでずっと避けられていると思っていた。あんまり深く考えないようにしていたけど、たぶん、やっぱり、あの時から、当時の精一杯の言葉を書きなぐってしまったあのノートを渡してから、距離を置かれてしまったんじゃないかと思っていたから。
最初は、俺の気持ちを知って、安心したかなんかで、あの活発だった羽馬の動きがおさまったんだろう、なんて思ってしまっていた。
だけど、それにしては、あれだけ無駄に接触を試みていたアイツが、あまりにもピタリと息を潜めるように目の前に飛び出してくることなくなって。恥ずかしがって俺が避けてたからというのもあったにしてはおかしい、これはなんだか違うぞ、と思い始めたのは中学二年の半ば。
だからといって自分から何か行動起こすほど、男気も勇気も気合いもなく、そうしてだらだらと今に続いてたわけだけど。
だから、今日のことは素直に嬉しかったしホッとした。
部屋にカバンを放って椅子に座って、ペットボトルのキャップを開けて勢いよくジュースを喉へ流し込んだ。シュワシュワとした刺激が内側を駆け抜けていって、深く息を吐き出した。
それで、さっきまでのふわんとしたモヤの世界から目が覚めた感覚になる。
――羽馬は、円堂先輩と付き合っている――
アイツとの時間を取り戻したようでいて、すでにそれは残骸なのだ。一歩も二歩も先に進んだ羽馬が、昔馴染みの相手と横並びになって変な空気を一掃してくれただけで。「昔はこの人に一生懸命だったな、懐かしいな」なんて、過去の産物に成り下がっただけなのだ。
途端にジュースのあと味が口の中でざらついて、苦味さえ覚えた。
ひょっとして、いやたぶん、きっと、あのノートの中を羽馬は見ていない。
ふいに、ストンと呑み込めた。
それは恥ずかしさを考えればホッと安堵するものだ。だけど、なんだか虚しさが押し寄せる。
俺なりに、しかも恋愛ごとに疎かった当時の俺にしては、一世一代の勇気を持って挑んだアレは、完全なる不発に終わって、読まれることもなく部屋のどっかにしまわれてこのまま日の目を見ることはないのだろう。
あの絵が浮かび上がってくる。いつも必死に封印していたのに、ここ最近やたらとよみがえる。絵の詳細はどこかぼんやりとしてきてはいるのに、彩りはどこまでも鮮明に脳裏へ焼き付いている。
久々に至近距離で、一対一で過ごしたアイツは、やっぱり俺の中では青色だ。どこまでも突き抜けた青空みたいなイメージのままだった。
だけど先輩の瞳には、そう映っていない。暗闇にとけかけた藍色の景色の中で、何色も混じり滲んだ夕焼け色。
俺の知らないアイツを、先輩は知っている。そして手を伸ばして、自分の欲求通りに――
『僕は、彼女を抱き締めたいし、なんだったらそれ以上のことをしたいと思ってるよ』
ガンッと、衝撃を受けてペットボトルは本棚から弾かれ床に落ちた。投げたつもりはなかったのに、俺の手から離れたそれは、透明な容器の中で、パチパチと激しく炭酸がうなっていた。
**
体育祭に向けての準備が始まってきた。部活のない水曜日に委員会の仕事が毎週入ることになるらしい。
なんで体育委員を選んだのかと、入学したての当時の自分をうらめしく思った。
「おー、いい顔してるねー」
視聴覚室に向かえば、同じく体育委員である筧美乃里に出くわし、そんなことを言ってくる。俺の苦々しい表情をニヤニヤと拝みながらの発言であって、けしてほめていないのがまるわかりだ。
筧の前を素通りして適当な席に座ると、なんの迷いもなく隣に座ってきた。
頼むからさっさと委員会始まってくれ。
「どうだった? 色々、ここ最近」
「何が」
「すっとぼけちゃって」
筧のニヤニヤがマックスである。ほんとに、幸太はこの女のどこに惚れたのか。
「お前に言うことなんてなんもねーだろ」
「え、そんなこと言っていーの? 知りたくない? 例えば、今日は千香子、どこに誰といるだろーとか」
「……」
先輩のことを匂わせているらしい。なんで俺にそんな突っかかってくるんだコイツは。竹井の案件だろが。
「竹井ならもう諦めるってよ。彼氏いるのわかったんだから」
「なんだ、ガッツがないなー」
筧は椅子にふんぞり返って腕を組んだ。
「まあ、千香子が靡くとも思えないから、いっか」
「お前のそれは、何目線なんだよ」
「姉心でーす」
教室の中のざわめきは大きくなってきて、どんどん各クラスや学年の体育委員が集まってきている。
筧とふたりっきりなんて、羽馬より心臓に悪いから一刻も早く始まってほしい。
パタリと会話をやめた筧は、知り合いを見かけて手を振っている。でも、席を変わる気はないらしい。
居心地がすこぶる悪い。会話が止まったことで、逆にソワソワして、こっちが切り出したくなってしまう。
「本当に、あのふたりは付き合っているのか」と。
「あ、そーいえば、峯森って、テニス部のマネージャーと付き合うってほんとなの?」
「はっ?」
急な方向からの攻撃に、思わず目をひん剥いた。
「なんだよそれっ」
「え? 違うの? マネージャーじゃなかったっけ」
「いやなんでそんなことお前が嗅ぎつけてんだよ」
「なに言ってんの。一年生の間じゃ噂持ちきりじゃん」
「えっ!?」
部活も違う、クラスも違うコイツが知ってる上に、噂が持ちきりとは!
筧は珍しく驚いたように目を見開いてから、呆れたように深々とため息をついた。
「あんたって、ほんと色々疎い。もっと自覚持ったら? いや、この際このままがいいのか? いやーでもそれじゃ困るか……」
ブツブツと何かを唱え唸りだした筧に、切り込もうとしたところで委員会の開始が告げられてしまった。