第1話「死にたがりの女子高生を助けたら、何故か脅迫される羽目になりました」
ワイヤレスイヤホンというやつがどうも、苦手だ。
秋の夕方、大学帰りの駅のホーム。奈落のようにも見える暗い線路に目を落としながら、よく外れる右耳のイヤホンを撫でた。
音ズレがどうなどという話ではない。すぐに失くすというのは半分当たっている。いつ耳からこぼれ落ちるか分からない不安定なものを耳にくっつけながら音楽を聴くのが、苦痛とまではいかないまでも、不安で仕方ないのだ。部屋ならともかく、外で落としてしまえば、もう取り戻しようのない場所まで転がっていってしまうに違いないのだから。
しかし、そんな地味かつ小心者らしい理由で有線イヤホンを愛用していた俺も、最近めでたくワイヤレスイヤホンとやらを手にすることになった。何故か。
機種変更したスマホに、イヤホンジャックがついていなかったからである。
時代の流れというものは恐ろしい。乗るか残るかの選択を迫るまでもなく、選択肢ごと押し流してさっさと行ってしまうというのだから。
そんなわけで長きに渡って世話になった有線イヤホンに別れを告げ、ワイヤレスイヤホンデビューを果たしてから早数ヶ月。不本意な形でやってきた新顔は、今も何とか俺の耳にくっついている。
いざ使ってみるとそれなりに便利と感じる点はあるものの、やはり当初の懸念通り、着用時の不安感は拭えなかった。どうにも右側のイヤホンの収まりが悪い。サイズが合っていないのかもしれないが、こちら側のイヤホンだけゴムを付け替えるというのも、それはそれで億劫だ。
元より俺は積極的に音楽を聴く方ではない。映画鑑賞目的で加入したサブスクに、たまたま音楽配信サービスが付いていたことから、何となく使わないのも勿体無い気がして、大学の行き帰りに音楽を聴いているというだけに過ぎないのだ。
これといって好きな曲があるでもなく、曲はいつも流行りのものをシャッフル再生。一昔前の音楽好きが聴いたら激怒しそうなほど宝を持ち腐れている自覚はあるが、サービスを活用しているだけマシと思ってほしいものだ。
スマホの時計に目をやり、小さくため息をついた。電車が来るまであと十二分。音楽を聴きながら突っ立っているだけでも時間は勝手に過ぎてくれるが、このままサビしか知らない流行りの曲を三、四曲聴くだけというのも気乗りがしない。
右耳のイヤホンに触れ、伸びをするように視線をスマホから空へ、それから向かいのホームへ向けた。
寂れた駅のホーム、人はまばらだ。背後から差し込む夕陽が俺と、俺の後ろに立ちはだかるぎりぎり壁と呼べそうな高さの壁の影をくり抜いて、向かい側のホームを照らしている。
背中の夕陽を人一人分もないような高さの壁に阻まれ、影ばかりを浴びる俺と、夕陽を真正面から食らう向かいのホームの人々を比較して、眩しそうだなと呑気なことを考えた。暖かそうだなとも。
日向を避けて日陰を歩く季節は終わり、日陰を避けて日向を歩く季節になった。少し前まで腕まくりをして歩いていたというのに、近頃はマフラーを巻いて歩く人を見ても、何とも思わなくなっている。むしろ今この季節に上着以外の防寒具を身につけていない俺の方が寒々しいのかもしれない。
苦し紛れでポケットに手を突っ込みながら、仲間を探そうとホームに目を走らせる。マフラー、手袋、ネックウォーマー。向かいのホームに散らばる人影は、皆一様に何かしらの防寒具を身につけている。十一月にもなれば、そうなのだろう。吐く息はまだ白くないが、それでも上着だけで歩くには寒い空だった。
間延びしたチャイムが鳴り、それに続く自動音声。イヤホンから聞こえるドラマの主題歌に混じりながらも、はっきりと聞き取ることができた。
『──二番線、快速列車が参ります』
電車が来るまであと七分。どうせなら拾っていってくれないものかとも思うのだが、この駅から他の駅に向かう人間はともかく、この駅に来るため快速に乗る人間はいないだろう。
バスと違い、電車はきっちりかっちり定刻通りに来るものだ。時間通りというのはこちらとしてもありがたい限りなのだが、二、三分早い到着を見込めないのは少し辛いところだと思いつつ線路の果てに目をやると、俺が立っているホームの端に佇む人影が目についた。
マフラーなし、手袋なし、ネックウォーマーなし。イヤホンもなければコートも着ていない。
そこにいたのは、この時期にも生足を晒す女子高生である。
制服のスカートから覗く足は細く、青白い。しかし幽霊とするには奇妙な生命感を感じさせるような、まっすぐな目をした長い黒髪の女子高生だった。
そこまで考えて、あまりジロジロ見ていてはあらぬ疑いをかけられかねないと思い目を逸らす。そうして手元に目を落とし、スマホに夢中な現代人に溶け込んでみせた。まるで地球に潜入しにきた宇宙人のような心境だ。
ネットはアイドルグループのセンターが卒業を発表したとかで、上を下への大騒ぎになっている。明日の新聞の一面を飾るような大事件が発生しているということは分かるものの、彼女のファンでもない俺からすれば、膝から崩れ落ちるほどショッキングな出来事というわけでもない。
題名以上の情報など何も書かれていないネット記事を開いて大まかな情報を知るなり、さっさと別のアプリゲームを開いた。
『列車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください』
音楽に混じって耳に届く、駅のアナウンス。それは先ほどまでの自動音声と何も変わらないものだったが、何となく先ほど目にした、電車のドアからは少し離れた位置に佇む女子高生のことが頭に浮かんで、左目だけをホームの端に向ける。
女子高生は相変わらずスマホに目を落とすでも、寒そうに手を擦るでもなく、ただまっすぐ、睨みつけるような目で線路を見つめていた。立っているのは黄色い点字ブロックの上。つま先が点字ブロックからはみ出している。
危なくないだろうか。呑気な考えとは裏腹に、心臓が跳ねるのが分かった。
イヤホンから流れるドラマの主題歌と思しき流行の歌は、一番のサビに差し掛かっている。
『──ねぇ 後悔したくないって 思わせてよ』
ありふれた、恋愛ドラマの主題歌だ。誰と彼とが付き合って、こっちとそっちが仲違い。あいつとそいつが不倫して、誰が裁かれるでもなく、なあなあになって終わっていく。そんな話だと聞いた。ドラマの評判と主題歌の評判が反比例して、主題歌だけが未だ人気ランキングに居座っているのだとも。
『今あるもの全部 脱ぎ捨てていくから』
踏切の音が聞こえる。女子高生はまた一歩線路側へ。
電車の音が聞こえる。右のイヤホンと耳の間に空いた隙間。
電車の警笛。線路、女子高生。
その辺りで、考えることをやめていた。
「ちょっ──!」
言葉になりかけの声を上げながら、大きく三歩、女子高生がいる方へ踏み出す。ここぞとばかりに右のイヤホンは俺の耳からこぼれ落ち、女子高生の目がこちらに向けられた。
やかましく音を立てながら、俺たちのすぐ横を電車が通過する。咄嗟に伸ばした右手は女子高生の胸の三センチ前で静止しており、それは今の俺と刑務所との距離でもあった。
「──っとぉ……」
ため息にも似た情けない声を上げながら、敵意がないことを示すために両の手を挙げ、小さく一歩後退。そんな俺を、女子高生はまるで変態を見るかのような目で見つめている。とても命の恩人に向ける目とは思えない。線路に飛び降りようとしているように見えたのは、俺の認識違いだったのだろうか。
「何」
「いや、そこ危ないから、もうちょっと下がった方が……いいと思います」
ぼそぼそと、かろうじて聞き取れるような声でそう返すが、頭の中はどう弁明すれば変態扱いされないかということでいっぱいだった。あと三センチ、あと三センチ左にずれていたら、言葉は意味をなさなかったに違いないのだ。
だが俺の懸念に反し、女子高生は意外にもあっさりと俺への敵意を収め──少なくとも、顔には出さなくなった──何事もなかったかのように口を開く。
「ふーん。おにーさんいい人だね。あたしが飛び降りるって思ったんだ?」
いい人だね、という割には興味がなさそうな口ぶりで言う女子高生だが、ひとまず女子高生の胸に触れようとした変態扱いはされていないようで、安心ついでに手を下ろした。
首の皮一枚繋がった、というのはこういうことを言うのだろうか。ひと気のない駅だったことも幸いしたのだろう。
右のイヤホンはとうとうなくしてしまったが、冤罪で豚箱にぶち込まれる事態は回避することができた。あとはこのまま解散して電車に乗り込んでしまえば、全てが元通りだ。
そう、思ったのだが。
「おにーさん、今日泊めてくんない?」
相変わらず感情の読めない顔の女子高生から飛び出したのは、そんな言葉。
誰が誰を、どこに、泊めるのか。
口から飛び出すことのない問いかけを自分に投げ返し、答えを出したあたりで、また間抜けな声が出た。彼女と話していると、これまで出したことのないような声ばかり出している気がする。
せっかく最悪の誤解は回避できたというのに、見ず知らずの女子高生を家に泊めたとなれば、いよいよ本当に言い訳ができなくなってしまう。下手をすれば誘拐罪、殺人の次に重い罪だ。小心者の俺にはそんなリスクを負う度胸などないのである。
「いや俺、一人暮らしだし、流石に女子高生を家に上げるのは……」
「じゃあスマホ充電さしてよ。あと五パーしかない」
同じである。譲歩したように見せかけて、その後に何だかんだと居座る算段だ。
どんどん近付いてくる刑務所の足音に、俺は頭をフル回転させて、どうにかこの女子高生を説得する手段を編み出そうとする。充電ならネカフェでもできるはずだ、とか、家に帰りたくないなら福祉を頼るべき、とか、そんなものだ。
説得としては十分に正当性があるもののはずだというのに、口にした途端、彼女の勢いに押されて引っ込めてしまいそうで恐ろしい。
もうひと押し、相手を確実に黙らせることができるような文言はないものかと悩んでいると、それよりも先に女子高生が口を開く。
「断ったら次の電車出るタイミングで飛び降りるから」
「…………」
こちらをまっすぐに見つめる女子高生の目を見た途端、やっぱり飛び降りるつもりだったんじゃないか、とか、どんな脅しだ、とか、そんな言葉が頭の中にいくつも浮かんでは消えていった。ここで即座にそれを口にできない自分の性格が恨めしい。
相棒をなくして左耳だけになったイヤホンから、メロディを置き去りにした歌詞が頭に響く。
『ねぇ 後悔なんてないって 信じさせてよ』
後悔はない。かなりグダグダになってしまってはいるものの、これも立派な人助けだ。小心者の俺にしてはずいぶん頑張った方だろう。
だが、助けたはずの相手からこんな死ぬか殺されるかのような最悪の脅迫を受けることになるなど、誰が予想できただろうか。
『今あるもの全部 抱きしめていくから──』
現実から目を背けるように泳がせた目と、鳴り止まない踏み切りの音。次の電車が来るまであと僅か。
女子高生からの刺すような視線を浴びながら、ホームの際に転がるイヤホンを拾わせてほしいと、そんなことを考えていた。