悪魔の誘惑――カゴメside
謹慎を言い渡され、自室で蹲っていた。
平時の業務も休まされている。
本来なら、この時間帯はミカドの食事を用意して傍らにいられるはずなのだ。習慣となっていた事が不意に断たれた時の漠然とした寂しさに加えて、出立を見送れないカゴメは悲嘆に暮れている。
我儘を言うなら随伴したかった。
以降は剣爵領地への入行を禁じられても構わないほど、ミカドの傍こそ自らの居場所だと心の芯から思っている。
ただ、カゴメにそれは許されなかった。
「……ミカド様?」
微かに屋敷内に響く声があった。
聞き咎めたカゴメは、扉に耳を当てて神経を研ぎ澄ます。
一瞬でミカドの声であると感じ取り、それが泣き声だと知るや心臓が凍りついた。
それは初めて聞いたものだった。
声を上げて泣くより、相手が蔑んだり罵ったりする理由に納得して苦笑するだけである。
カゴメが何度も自分にだけでも愚痴をこぼしたりしても構わないと言っても、文句の一つたりとてその口から出てくることもなかった。
屋敷にはミカドの哀哭が響いている。
ここまで感情的な彼は珍しい。
あるとすれば――誰かが不当に貶された時だ。
ミカドは自身の事には無頓着だった。
趣味の料理で厨房を借りる際も、使用人たちによる陰湿な妨害などを受けても、時機が悪かったと日を改める。
稽古と称して剣爵近衛団からの過剰な仕打ちを受けても、剣を受けきれない己の技量の未熟さと恥じるだけだ。
まるで他人に怒りを向ける事がない。
どうすれば、彼は人へと激情を向けるのか。
昨日の決闘でアザミが気味悪がっていたのも、その部分に起因している。
だが、彼らが知らないだけだ。
ミカドが純粋に激憤する時がある。
その全てが、他人を貶める者に対してだけ。
剣爵領地で働くようになった頃、ミカドに付いて街を練り歩く最中、カゴメを侮り、石を投げるような子供たちがいた。
彼らの行為を目にしたミカドが、初めて激怒して三人を追い返したのである。
当然、非力だったミカドが喧嘩に勝てる筈も無いが、その気迫に圧されて相手は逃げ帰るのだった。
この時、カゴメは心底からミカドを慕うようになった。
当初は、密輸船から自分を引き抜いた恩人程度で、他と比べて何処か力が無く、ぼんやりと日々を過ごしている頼りない主人の印象だった。
今ではその心根に触れて、他人の為に本気で怒れる彼の人柄を尊敬し、愛している。
傍でいつまでも支えようと自らに誓った。
だが、ミカドは辛苦を己の内だけに留める。
その胸裏を誰かに吐露することはない。
心の支えになりたいカゴメとも、本人としては無自覚に一線を引いて距離を取っている。
唯一、そんなミカドが心の拠り所としたのが曽祖父だった。
きっと、今玄関に彼がいてミカドの心中に溜まった膿を吐き出させているのだろう。
――羨ましい。
そんな暗い感情が湧き上がる。
ミカドに心から信頼された、あの無責任で自分勝手な男。
だが、ミカドが彼に救われているのもあって心の底から憎むことができない。
その役目を、自分が担いたかったという醜い嫉妬心だけだった。
ミカドが離れていく。
カゴメもそれを追いたかった。
それでも彼は許してくれない。
きっと、自分がいなくなった後はカゴメの待遇も良くなることだろうと踏んでである。実際に、彼の傍にいない時は異様なほど皆が優しい。
取り込もうとしているのは直ぐに理解できた。
本当に、醜い。
今、彼を泣かせているのはミカドを追い詰めた剣爵家と近衛団、この領地の人間たちである。
「みんな、死んじゃえばいいのに」
ぽつり、と小さく呟く。
扉の前で小さくなって漏れた声だった。
「………?」
『チチ、チチチチ』
その直後、窓を小突く音がする。
振り返れば、窓枠に一羽の黒い小鳥が留まっていた。
カラスではなく、羽にも艶がない異様な漆黒に染まっており、影がそのまま立体となって現れたかのような鳥だった。
カゴメは窓を開けて、鳥を中に招き入れる。
その足首に、結ばれた紙を認めた。
何事だろう、と結び目を解いて手に取るや紙面を展開する。
それが、悪魔からの誘惑だとも知らずに。