回想回廊
――――ほどなく。
義妹はあくびをするとベッドに戻り、ウィルはいまだに見つからない予備の寝具を探すために広いクローゼット漁りを再開する。
「…………」
ゆっくりと流れていく時の中で、青年の視界は段々とではあるものの確実に闇に慣れていく。
と、不意に彼の頭の中では、先ほどの夜談会の帰り際、メイドのアカリと交わした何気ない会話が蘇ってきていた。
クローゼットの闇に吸い込まれる意識。
溶けゆく現在の感覚。
鮮明な回想。
どこか、ほの暗い回廊。
これは、つい先ほどの記憶だ。
気が付けば、薄いライトに照らされたエプロンドレス姿の少女がウィルの前に立っていた。
アカリである。
彼女は、柔らかな口調でウィルにこう問いかけてきた。
「へぇ。ウィルさんは推理小説家の方だったんですね。わたしも小説が好きなので、お名前だけは存じています。だから、口には出しませんでしたが感激しているのです。ところで」
「はい?」
一瞬の沈黙を挟んで、アカリの唇が開かれる。
「妹のクレアさんは何か持病のある方なのですか? 人形のように精巧なお顔が可愛らしくて、とても明快な答弁をされる方ですけれど、お薬がどうとか……。あ、申し訳ありません。もし気にさわるような質問ならば差し控えます」
これに対して、ウィルは。
「いえ。構いませんよ。そうですね……、あいつは確かに、不治の病に現在進行形で侵されています。でもね。ただ、それだけだったら、まだ僕としては良かったのですよ」
「え……?」
即座に、アカリの瞳が大きく見開かれた。
この女も他と同じような人種か、そんな思いが一瞬、頭の中をよぎる。
が、表情ひとつ変えずにウィルは言う。
「クレアは、今日の科学では合理的に説明できない超自然な能力の持ち主なので、それを抑える専用の頭痛薬が欠かせないのです……。いえ、たぶん、これ以上、話しても意味はないでしょう。一般人のきみに特殊な病気等の理解は難しいはず。それは人間が未知を恐れる本能に由来します。何も、きみだけがそういう反応をするわけではない」
「…………」
アカリの脅えたような目。
「とにかく。まぁ、この国には多種多様な人間がいると言いたかったのです。それこそ、僕たちの目には見えない苦悩を抱えている連中もいる」
予期していたそれをなだめる様に、青年は言葉を紡いでいく。
「それに、まぁ、信じようと信じまいと、ですね。フォークロアやアーバンレジェンドではないですが、今のは、僕の疲れから生じたつまらない冗談と受け取っていただいても構いません。そう、今の言葉こそネタの域を出ないものです。忘れていただいて結構」
ウィルは口元に薄い笑みを湛えて、その場を立ち去ろうとした。
「待ってください!」
その背中に、アカリからの声が掛かる。
「ん……。何か、まだ聞き足りないことがありますか? 敬虔なクリスチャンさん」
彼女に呼び止められたウィルはぴたり、と歩みを止めた。そして帰路を向いたまま、静かな口調で聞いた。
どうやら、敬虔なクリスチャンは知りたがり屋で、クレアの病気について教えても、まだ懲りないらしい、と思いきや。
次にアカリから返ってきたセリフは彼の予想を裏切るものだった。
「……ウィルさんは不治の病とおっしゃっていますが、クレアさんのそれはもしかして永久機関と関連したものなのではないですか?」
「な……!」
ティーハウス・メイドの放った不意の言葉に、青年は全身を流れている血液が、あたかも凍結したかのような錯覚を覚えた。
「どうして……、きみがそれを」
思わず振り返ったウィルの目を、アカリの真剣な眼差しが捉えていた。
「もしかして……。これは推測ですが、クレアさんは巷で噂が囁かれる、永久契約姫だったりするのではないですか?」
じっ、と見つめ合う数秒が、まるで永久のように感じられる。
アカリの眼差しは、もはや温和なものではなかった。隠し切れない。
「くっ」
ウィルは、思わず彼女の瞳から目線をそらした。
そして、観念したように頷いた。
「ご名答。確かにその通りです」
今、アカリが言った、永久契約姫というワード。
それは王室および王国では今でも禁忌とされる存在であり、人にもよるが、普段は用いることすら憚られる言葉のひとつだった。
通常、永久機関というものは国の機密のひとつであり、広く普及しておきながらそのメカニズムは、その永久機関ごとに異なるパターンで存在している。だが、どの永久機関にしても解明の手がかりは無きに等しい。
謎が解明されないままの理由としてはもちろん、そのバリエーションの多さや、あまりに難解かつ完成された特殊メカニズムを解明、理解できる頭脳を持つだけの人材が足りないということもある。
だが、それに加えて、本当にその理論、構造を解明した人物は「魔の英知」という異能に触れてしまい、国から追放、あるいは最悪の場合に処刑されるかもしれないという暗黙の掟があったのだ。
今では、かなり収まったが、かつては優秀な研究者が何人も犠牲になった時期が確かにあったのである。
この為、現在では一部の熱狂的なオカルト組織およびに反王室系団体所属の学者や貴族を除いては興味本位でソレを詮索する人間は殆どいなくなっていた。
しかし、人間の興味とは本能だ。
時に知的欲求は尽きないものらしい。
事態の収束を境にして、ある噂が流れた。
それは、有名な永久機関のひとつ『永久刃』の構造を解明して「魔の英知」に触れた一人の美しい少女に関する噂。
まさしく、この機械的文明社会に形を変えて蘇りし英知の都市伝説かつフォークロア。
それでいて、恩人から頼まれたことによる、偶然の出会いで彼女を匿うことになった作家ウィルしか知りえないはずの物語……。
実際、二人の素性も割れておらず、かなり身近なトップシークレットのはずだった。
だが、今、その伝説は確実に暴かれて。公に姿を見せようとしている。
今まで一度も暴かれたことなど無かった……。『クレア』という名の永久契約姫が青年のすぐそばに存在しているという真実。
「ふむ。僕たち兄妹の楽しい旅もこれまで……かね。今、国内の役所にクレアと僕を、エターナルとその同胞だっていう証拠と共に突き出せば、確か七百万レベッカと食料の麦パン三年分ですっけね。僕たちは散々ですけど、あなたにとってはメリットがある」
半分、観念したウィルは再び視線をアカリに戻した。
と、アカリは否定するように首を振った。
「いりません。そんなもの」
「え……?」
「それよりも」
そこまで言って、彼女は大きく深呼吸した。
そして。
「何かあった時は、お二人の力になりたいんです」
少し緊張した様子を残しつつも、アカリは言い切った。
「へ……」
あまりに意外な展開にウィルは一瞬だけ固まったが、アカリは続ける。
「クレアさん、ウィルさんの苦労は……。あの、今はまだ、理由は言えませんがわたしにも痛いほどよく分かります。それに、クレアさんには、不思議なほどに親近感を感じるのです。だから、だから積極的には動けないかもしれませんが、何か困ったとき、力添えが必要な時は惜しまずに言ってくださいませ! 協力いたしますので」
これを受けて、ぽかんと口を開けていたウィルも、
「じゃあさ、誰にも話さないってキミは約束してくれるのかい?」
「もちろんです」
「ふ……。嘘みたいな良い娘がいたものだね。まぁ、ある程度は察していたが」
「わ、わたし口は堅いですっ。ただ、自分を善人だとはこれっぽっちも思いませんけど」
「へぇ、面白いな。まぁ、僕もそうだけれど。……どちらにしろ、こんな間抜けなカエルを見逃してくれてありがとう。アカリさん。今宵は僕たちにとっていい夜になりそうだ」
ようやく幸運な状況を把握したのだった。
「いえ。万が一、クレアさんの状態が悪化しそうな時はいつでもおっしゃってください。森のグリーンハーブには、不安や苛立ちを取り除く効果があるんで摘んできます。こう見えても、わたし、高等専門校では植物に関係した研究をしていたんです。自慢じゃありませんが、この辺りにたくさん咲いている夾竹桃の花だってわたしが育てたものなんですよ。セントラルシティ固有のそれらは、形こそ美しいのに、一定の温度を超えると枝から有毒な液を出すのです。だから、老婆心かもしれませんが、外出などの際には、少しご注意されてくださいませ」
「そうだったのか。ああ、夾竹桃はここに来る途中にいくつも見かけたかな。もちろん、注意するよ。ご忠告ありがとう」
「はい。本当に、余計な老婆心ですけれどね。……すみません。雑談が長くなってしまいました。それでは、このあたりにいたしましょう」
「ああ、うん。鍵なしのあいつが、部屋に入れなくて、頬を膨らましているだろうから……。では」
「……あ、はい。そうです……ね。あ、あとウィルさん。実はオーナーについてなんですけれど」
「ん? オーナーが、どうかしたのですか?」
「いえ、なんでも。ただ、あの人は永久機関の魔道装置について、結構詳しいみたいです。これもご参考になればと思いまして」
「そうか、ありがとう。そうだね。機会を見つけて、彼とも色々話してみるよ。気さくな方だったし、僕も興味がある」
「は、はい」
「おやすみ」
おぼろげな回想の中で、ウィルがアカリに手を振りかけた時。
「痛っ!」
一見、ボーッとしているようにしか見えない彼の背中に今度は自著『永遠に刹那に』が投げつけられたのだった。
「いつまで空っぽのクローゼットを漁っているおつもりですか、おにーさま! あと、テーブルにある郷土料理フランクフルトはどうするんですかっ、とっくに冷めてますよ、バカっ!」
やはり、頬を膨らませたクレアの怒号が響き渡る。
いつの間にか起きてきたらしい。
おかげでウィルの意識は今度こそ現実世界に舞い戻った。いや、強制的に引き戻されたのだった。