屋敷
《第一章》
ザ。ザ。ザ。ザ。
ウィルとクレアが森の中を歩きだして、ほどなく。
「で、行く当てはあるんですか?」
「さぁな。ただ、この辺りもセントラルシティから来る人間がいないだけで、粗末な宿の一軒くらいならあるだろう。そこで食料と水を確保するぞ」
「へぇ……。おにーさまらしいアバウト加減、塩少々です」
「そりゃ光栄だ」
「あっ、そうだ。突然ですけど、おにーさまはヘンゼルとグレーテルのお菓子の家って信じます? それとも信じません?」
「ん。なんだ、グリム童話か?」
「ええ、そうですわ。ヘンゼルとグレーテルのお話。まぁ、絵本のやつは初版からかなり改稿されて残酷性の欠片もありませんけどね」
「ああ、信じるよ。だって、かつてゲルマン・ドイツランドの農村には子捨ての習慣があったらしいからな。例えば、グリム童話全般でおなじみの狼だって、実際には森の盗賊の比喩だという説もあるくらいだ。当然、お菓子の家も何らかの比喩表現だと僕は受け取っている。でも、どうしていまそれを言う必要がある?」
「えー。だって……」
義妹に他愛のない言葉を返して、ウィルが足を踏み出したとき。
「あそこに見えるお屋敷。まるでその、お菓子の家みたいに素晴らしいんですもの」
ウィルより少し先で歩を進めながらクレアは瑞々しい口元をわずかに緩ませた。
「バカ、貧弱な家ならともかく、こんな気味悪い森の中に屋敷なんて……」
言いかけたウィルの口が動きを止める。
無理もない。
遠くを見れば、確かに大きな館が現われていた。
深い森の奥、黒い霧に覆われたそれはまるで夢か幻の世界の産物にしか見えなかった。
だが、それは白昼夢などではない。
確実にそこに存在していた。
遠目から見る限りでは、バロック様式の古めかしい洋館だ。
住宅街にあれば気品漂う邸宅かもしれないが、周囲に植えられた大量の夾竹桃(これは有毒なことで有名である)といい、建てられている場所が場所だけに不気味なオーラを放っている。
「うっとりですのっ。森のお屋敷」
「ほ、本当に屋敷だ。にしても、どうしてあんなところに」
「知りませんわ。何か理由でもあるのかしら。でも、ちょうどよかったのです。あそこで雨宿りや食料調達できるかもしれませんし、近くで見ていきましょうよ。おにーさま」
「おまえは、あの不気味な外観のどこに惹かれているんだ。まぁ、どのみち雨がひどいから、構わないといえば構わないが」
そんな会話を交わしながら、クレアとウィルは屋敷に向かって大きく駆け出した。
そして、洋館の門の前に来て立ち止まる。
古びた門の脇に木製看板が立てかけられているのに気がついたからだ。
【森のティーハウス・メルヒェン 営業中】
「えっ、ティーハウスだったんですねー。丁度いいですわ。入りましょ、ねっ、いいですわよね。おにーさまっ」
「なっ! 本当だ。にしても、こんな気味が悪いとこに妙ちくりんなものをつくる人間がいたものだね……」
「そろそろ、わたし。頭痛薬の時間でもあるのです」
「ったく、そうだったな。仕方ない。僕も腹を決めるよ」
ウィルがやれやれと思いながら、再び洋館を見上げた時には、屋敷を覆う黒い霧の一部が晴れて森の中へと飛び去っていった。
霧が晴れた部分。つまり、屋敷の窓に相当する場所からは内側の光が漏れている。
「ところで。まさか、この黒い霧……」
「あら、わたしは最初から気づいてました」
「全てカラス……だと」
「ですわねー。夜行性の品種かしら。嗚呼、面白いです。あははは」
クレアはけらけらと不気味な声で笑いだす。
「カラスの群れのどこがツボなんだよ! むしろ兄さんはこれで笑えるおまえが恐ろしいぞ。カラスだけに、……苦労が多い」
漆黒が深まってゆく中でも、ウィルは義妹に素敵な突っ込みを入れるのを忘れなかった。