世界で一番美しい生き物~サリエリの蛇とイヴ~
◆ ◆ ◆
「……いやはや、良くぞおいでくださった。歓迎いたしますぞ」
「こちらこそ光栄ですわ。【倶楽部】に入会して七年。いまだ誰もその姿を目にしたことのない、ご自慢の【彼女】に会わせていただけると聞いて、この日をずっと心待ちにしておりましたの」
柔和な笑みを浮かべる老人に対し、私はできるだけ上品に、愛想良く会釈を返した。
この老人こそは、世界有数の大富豪にして、裏社会にも顔が利く【倶楽部】の重鎮。
礼儀をどれほど尽くそうと、尽くし過ぎにはならないはずだ。
供された紅茶と茶菓子を楽しみつつ、当たり障りのない社交的なやりとりを重ねる。しばしの歓談の後、部屋の中に沈黙が落ちた。
「……さて」
精緻な模様に彩られた白磁のカップを皿に戻した途端、目の前の老人のまとう空気が変わった。
「【彼女】を紹介する前に、ひとつ念を押させてもらうのだがね」
笑みを浮かべた表情も、優しげな声音も、それまでと一切変わっていないはずなのに、こちらをねめつける視線の圧が違う。
相手を腹の底まで見透かし、値踏みしようとする、ぞっとするほど冷酷な光が眼の奥に宿っている。
「重々承知しております。ここで目にするものについては、一切の他言無用。万が一、秘密が漏れそうになった場合には、速やかに【除名処分】が下される……でしたわよね?」
背中をつたう冷たい汗の感触を意識の外に追い出しながら、何食わぬ顔を装って応えを返す。
──【倶楽部】というのは、上流階級の中でもごくごく一握りの人間しか知る者もない、秘密の動物愛好家たちの集まりだ。
希少動物、絶滅危惧種、外来危険種、天然記念物……そういった動物たちを秘密裏に、非合法にペットとして愛でる愛好会。
当然のことながら、秘密はこれ以上ない程に厳守されている。
必要とあらば──【除名処分】を用いてでも。
「わきまえておるならば問題ない。……いやはや、年をとると、妙に疑り深くなっていかんな」
一瞬覗いた雰囲気はどこへやら、老人は元の好々爺然とした笑顔で機嫌良く頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「あまり焦らしても申し訳ない。そろそろ、ご案内するとしようか。儂の宝、世界で一番美しい生き物──【イヴ】のもとへ」
◆ ◆ ◆
隠し扉の奥の螺旋階段を降り、秘密の通路を抜け。
私たちは、分厚い扉の前に立っていた。
私が手にしているのは、小さなハンドバッグのみ。老人は、左手で杖をつき、右手には、屋内で持ち歩くにはやや不似合いな紙袋を提げている。
特にボディチェックのたぐいを求められることも無かったのは、不用心さや信頼の表れというより、一種の共犯者意識によるものだろう。
そもそも、この老人と敵対するような愚か者が、【倶楽部】の一員として認められるはずもないのだ。
使用人たちにも、みだりにこの場に足を踏み入れる事は許していないのだろう。薄暗い通路は、空気を淀ませながら、ひっそりと静まり返っていた。
扉の脇の電子錠に、老人が暗証番号を打ち込むと、一枚目の扉が開いた。小部屋の中へ入り、扉にロックがかかったのを確認してから奥の扉に向かう。
今入ってきた一枚目の扉に施錠してからでないと、奥の扉は開錠出来ない仕組みのようだ。
防犯……というより、中にいる「彼女」を絶対に外に出さないための配慮なのだろう。
私は、ぞくぞくとした高揚感を覚えていた。
【倶楽部】の中でも、極めつけの好事家として名高い老人。
これまで彼が手に入れ、世話をしてきた動物は、ライオンなどの大型哺乳類から、蛇やイグアナなどの爬虫類、インコなどの鳥類、希少な昆虫や熱帯魚にいたるまで、実に多岐に渡る。
だが、老人が動物たちに向き合うその姿勢は、単に希少・高価な動物を珍重し、アクセサリーとして見せびらかすだけの成金コレクターの類とは一線を画していた。
それが琴線に触れさえすれば──それこそ痩せこけた雑種の野良犬だろうが、窓から飛び込んで来たカブトムシだろうが──老人は分け隔てなく、惜しみない愛情を注いだ。
また彼は、可能な限り動物たちの世話は手ずから行い、決して使用人任せで放置したりはしなかった。
適切な世話をするためとあらば自ら進んで専門家や獣医に教えを請い、必要な知識と技術を身につける努力を厭わなかった。
また、逆に、自分が責任持って世話する自信が持てない動物に対しては、老人は決して手を出そうとはしなかった。
彼が善人かどうかは別として、その動物に対する愛情と献身ぶりに関してだけは、私はこの老人に、同好の士としての、紛れもない尊敬の念を抱き続けていたのである。
その彼が、「究極の宝」「この世で最も美しい生き物」と賛美する愛玩動物。
【倶楽部】の古株たちの目にさえこれまで一度も触れさせようとしなかったそれを、初めて目にする栄誉にあずかれるのだ。私が期待に胸を高鳴らせたのも当然だろう。
◆ ◆ ◆
ごぐん、と重々しい音とともにロックが外れ、ゆっくりと扉が開いた。微かに甘い香りの混じった暖かい空気がむわりと溢れ出してくる。
こちらを振り返った老人に軽く頷きを返し、後に続いた。
足を踏み入れると、そこには、一見して植物園を思わせるような、緑の生い茂る空間が広がっていた。
体育館ほどの広さを持つその空間の天井には、太陽光に似せた光を放つ無数のライトが設置されている。
どうやって運び込んだものか、地下であるにも関わらず足元には黒い土が敷き詰められ、いたるところに南国系のフルーツの木が植えられていた。
水遣りを自動的に行えるようにするためにだろう、木々の根元には、目立たないように透明な細いチューブが張り巡らされ、奥の方からは水の流れる音も聞こえている。
部屋の中の気温は、初夏から盛夏に差し掛かる程度の状態に保たれているようだ。
じわりと肌に汗が浮き始めた。化粧が落ちてこないかと気にしながら、老人に一言断って上着を脱ぎ、左腕にかける。
「……ここからは極力、大きな声を出さぬようにな。【彼女】を驚かせたくはない」
低い声でこちらに告げる老人に頷き、足を進める。
色鮮やかな果実たちに彩られた緑の通路を進むにつれて、水の流れる音が次第に大きくなってきた。
不意に、目の前に大きく空間が開けた。
私たちが入ってきた入り口から見て、最奥にあたる場所だ。
前方には高さ六、七メートル程にもなるだろうか、なだらかな築山が設けられている。
築山の正面に当たる斜面には、表面を平らに均された石が緩やかな階段状に配置され、中腹にある洞窟のような窪みに続いていた。
窪みの前には、踊り場のように、平坦な地面が広がっている。
窪みの入口付近から内部にかけては、色とりどりの布や毛皮、クッションなどが無造作に敷き詰められていた。
形状も色合いもまるで違うのに、その様子はどこか、岩山の高所に猛禽類が作る巣のような何かを連想させた。
築山の麓にあたる場所には浅い池が掘られ、人工的に作られた小さな滝から、だぱだぱと澄んだ水が流れ込んでいた。
池から溢れ出た水は、地面に目立たぬように掘られた細い溝に流れ込んでいるようだ。恐らく、水はそこから回収され、濾過や浄化を経た上で循環しているのだろう。
その滝の傍ら、池のほとりに鎮座する、平べったい大きな岩の上。
そこに【彼女】はいた。
◆ ◆ ◆
「あれが──彼女が、【イヴ】」
それは、およそこの世のものとは思えぬ程に美しい、一人の少女だった。
年の頃は十三歳から十四歳程度だろうか。
光沢を帯びたような、瑞々しい褐色の肌。
背中まで伸びる、ウェーブのかかった艶やかな黒髪。
その身には、一切の衣服も装飾品もまとっていない。
身体つきは未だ成熟しきっておらず、その胸の膨らみも慎ましやかなものだ。
だが、手足はほっそりと長く、猫科の獣のようなしなやかさを感じさせた。
やや吊り目がちなアーモンド型の大きな目と琥珀色の虹彩を、長い睫毛が彩っている。
(なに、あれは……。どうして、あんなに)
少女は、右膝を抱え込むような気だるげな姿勢で、池のほとりに腰掛けている。
ゆらゆらと揺れる左足の先が、微かに水面に触れていた。その爪先は、水面に小さな波紋を作り出しては、またすぐにその波紋をかき消すように、逆向きに水面を撫でる動きを繰り返している。
滝からの飛沫でしっとりと潤った黒髪が、濡れた羽のように背中に貼りついていた。
褐色の肌を滑る水滴は、光を反射して、透明な真珠の粒のように煌めいている。
下手に手を伸ばせば幻のごとく消えてしまうのではないかとさえ思わせる、絵画のような光景。
その時の私は、まるで古代の密林の奥の聖域にでも迷い込んだかのような、畏敬にも似た感覚にとらわれていた。
呼吸することも忘れ、魅入られたようにふらふらと、一歩、二歩、足を前に踏み出す。
その気配に気付いたのか、彼女が顔を上げ、視線をこちらに向けた。
相当に距離が離れているにも関わらず、琥珀色の視線と「目が合った」のを感じ、びくん、と心臓が跳ねた。
周囲から、音が消える。
目に映るもの全ての気配が、すうっと遠くなっていく。
霧に閉ざされたような、乳白色の視界。その奥から、琥珀色の双眸だけが、じっとこちらを見つめていた。
魂を絡めとられたかのように、二つの輝きから目が離せない。
目が合っていたのは、おそらく、ほんの数秒程度の間だったろう。しかし私には、それが数分の長さにさえ感じられた。
束の間の凝視を終えると、彼女はふい、と視線を外し、私に対しての一切の興味を無くしたように、また水と戯れ始めた。
こわばっていた身体が動くようになり、世界にじわじわと音と色が戻ってくる。
私は、止めていた息をそろそろと吐き出した。
これが、この生き物が──彼女が、【イヴ】。
◆ ◆ ◆
ふと気がつくと、それ以上近づくのを制止するかのように、老人の手が私の右肩に置かれていた。
「……儂はね。これまで、さまざまな動物を手に入れ、育て、愛してきた」
私に向かって言葉を発していながら、老人の目は私を見ていない。その視線は、ただひたすらに、水と戯れる少女に注がれている。
「動物というのは、おしなべてシンプルなものだ。獣だろうと鳥だろうと、昆虫であってさえ、その姿には必ずシンプルな美しさがある」
秘密の託宣を告げるかのように、老人が耳元で囁く。
「その中で、ペット──愛玩動物というのが、不自然な存在だという事は、重々承知しておる。野生動物とも家畜とも違う。不自然、というよりは、不合理な在り方、と言うべきだろうか」
生暖かい息の感触が耳にかかる。
「生きるため、生き抜くために、この上なく最適化されたはずの生命。その在り方を、機能を、全く活かすことなく、ただ奉仕され、愛されるためだけに存在する。……ああ、確かに歪んでおるだろう。歪であるだろうとも」
筋ばった指に力がこもり、肩の肉にわずかに食い込む。
「だが、それが何だというのだ? 似非自然主義者や、動物愛護団体の連中の戯言に、なぜ【我々】が耳を傾けなければならない?」
老人の声には、どろどろとねばつくような熱さと力が籠もっていた。
「【我々】は、美しいものが好きなだけだ。美しいものを愛したいだけだ。美しいものを手元に置き、育て、奉仕し、同じ時を共に過ごすことを望む。……その願いは純粋なものだ。恥じるべきなにものもない」
得体の知れぬ感覚に、ぷつぷつと肌が粟立つ。だが、身体は石になったように動かなかった。
「儂は、この世で最も美しいものを手に入れたかった。育てたかった。愛したかった。だから、考え続けたのだよ──この世で最も美しい生き物とは何だろうか、とね」
狂熱に浮かされた声が、黒い泥のように耳に潜り込んでくる。
「……その答えがあの【イヴ】──人間を愛玩動物として飼育すること、という訳ですか?」
細い声を絞り出す。自分の声が震えていないのが不思議だった。
「人間?……いいや、まさか」
笑みを含んだ声に、微かに怒りとも苛立ちともつかないものが混じる。
「人間など、儂も含めて、この世で最も醜い生き物だ。姿かたちといい、在りようといい、自然からはみ出した奇形の異形種に過ぎん。そんな物を飼ってどうする?」
怒りと苛立ちが嘲笑に、そして夢見るような口調に変わった。
「儂が求めたのは、人間を超越したもの──いや、今の人間に堕する前の、【真の人間】の姿だよ」
肩に置かれた手が離れ、老人が前に進み出た。水辺に佇む【イヴ】の方に向け、ゆっくりと歩き出す。
「エデンの園で、【蛇】に勧められた知恵の実を口にした事でアダムとイヴは【人間】となった。【人間】に堕してしまった」
女神の祭壇の前に歩み出る聖職者のように、ゆっくりと老人は歩を進める。
「……ではもし、イヴが蛇に出会っていなかったとしたら? 知恵の実を口にせず、無垢な存在のまま生き続けていたとしたら?」
熱っぽい視線で宙を見上げる。その目は何も見ていない。ここには無い何者かを映している。
「儂はそれがどんなものだったかを夢想し──そしていつしか、自分自身の手で、理想の【イヴ】を作り出す事を夢見るようになった」
──ああ。
──この老人は【蛇】だ。
──この老人こそが【蛇】だ。
老人は黒髪の少女の手前で足を止め、手にした紙袋の中から清潔そうな白いタオルを取り出した。
体重を感じさせない動きでふわりと【イヴ】が立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。
煌めく水滴が褐色の肌をつたい、地面に落ちて、幾つもの丸い染みを作った。
目の前まで近づいても特に老人と視線を合わせるでもなく、【イヴ】はくるりと身をひるがえしてこちらに背を向けた。
老人は、無言のまま、慎重な手つきで少女の黒髪に柔らかな布を押し当てる。そして、自分の服の袖が水滴で濡れるのも構わず、ゆっくりと丁寧に【イヴ】の髪を拭いはじめた。
ひと通り髪の毛を拭った後は、肩から腕、そして背中へと。
何度も布を取り替えながら、少女の肌から水滴を拭い取っていく。
【イヴ】はそれが当然のことであるかのように、何も反応しない。奉仕され、尽くされることに、完全に慣れきった者の態度だった。
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地の底深くに築き上げられた、偽りの楽園。紛い物の陽光が降り注ぐ下、全裸の少女の身体を丁寧に拭い続ける老人。
それは、何やらひどくいかがわしく、背徳的な光景だった。
それでいて、そこに生々しい淫靡さや、性的な空気は全く感じられない。
そこにあるのは、老従僕が主に向けるような礼儀正しい敬愛の念と、それを当然のものとして無関心に受け流す女王の姿だった。
やがて女王の全身を拭い終わると、老人は無言のまま数歩下がった。
そちらには目もくれず、【イヴ】は池のほとりを通り抜け、優雅な足取りで築山の石段を上っていく。中腹に掘られた洞窟のような窪みまで達すると、敷き詰められた布とクッションの上に横たわり、猫のように丸くなった。
どうやらあの窪みが、彼女の寝所らしい。
──ほう、と溜めていた息を吐く。
「どうかね、君? 彼女は……【イヴ】は、美しいだろう?」
ここに至っても【彼女】から目を離せずにいた私に対し、振り返った老人が誇らしげに語りかけてきた。
女王に拝謁する栄誉を賜った臣下のように上気した皺だらけの肌と、奇妙に熱っぽい、湿った声音が不快だった。
「……いったい、どのようにして、【彼女】を?」
視線を【イヴ】に固定したまま、老人に問う。
「なに、特別な事はしておらんよ。エデンの園に倣っただけさ」
いかにも悦に入った様子で、老人はくつくつと喉の奥で笑い声をあげた。
「生まれて以来、外界から完全に隔離し、衣服や言葉、知識といったものを一切与えず……生きるに不自由のない恵まれた環境と、愛情だけを与えて育てる。それだけだとも」
「そんな、まさか! それだけで、あんな……あんなものが、生まれるはずが」
「無論、多くの失敗があったさ。大部分の【イヴ】候補たちは、単なる人の形をした獣……いや、獣以下か。だらだらぶくぶくと肥え太り、与えられた安穏を貪るだけの肉の塊になるだけだった。最後まで残ったのは彼女だけ──まさに、奇跡の存在だよ」
その他の【イヴ】候補たち──あまたの【失敗例】たちがどんな運命を辿ったのかは、想像するまでもなかった。
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「……ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
口の中が乾き、ねばつくのを感じながら、私は老人に向き直る。
「良いとも。何でも尋ねてくれたまえ」
老人は大仰に両腕を広げ、上機嫌そうな笑みを浮かべる。
「……なぜ、【彼女】を私に?」
「……ふむ。そうきたか」
老人は意外そうに眉を上げる。
「なに、単純なことだよ。……儂はずっと、儂の【イヴ】を、いつか誰かに見せびらかしたかった。それが一番の理由さ」
──それは解る。理解できてしまう。
──解らないのは、なぜその『誰か』が、『他の誰か』ではなく『私』だったのか、ということだ。
「理由は幾つかある。そのひとつは、おそらく君も推察出来ているだろうが、君が女性だということだ。儂の【イヴ】に対して、下衆な欲望にまみれた、邪な視線を向けられたくはない。……そしてもうひとつ。君が望むなら、の話ではあるが……」
老人はわざとらしく言葉をためた後──最大級の爆弾を落とした。
「儂はいずれ──近い将来、君に【イヴ】を譲っても良い、いや、譲りたいと……そう考えているからだ」
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「……っ!?」
絶句する私の反応を愉しむかのように、老人は笑みを浮かべ、軽く肩をすくめてみせた。
「……無理にとは言わんがな」
「なぜっ……! いや、あれを──【彼女】を、手放すというのですか!? あなたが!?」
信じ難い内容に混乱する私に頷き、老人は気軽な口調で、さらに衝撃的な言葉を続ける。
「望んで手放す訳ではないが、やむを得んのさ。儂は末期の癌でな。……余命は、保って後半年、というところだそうだ」
「それ、は……」
「会社や財産などはどうでもいい。だが……【イヴ】のことだけが心残りだった。【彼女】の美しさはあと二、三年もすれば頂点に達するだろう。『向こう』に一緒に連れて行くことも考えたのだが、それはあまりにも惜しい気がしてね」
言葉が出なかった。
「唐突に聞こえるかも知れんが、以前より儂は、君の事を、高く買っておった。【倶楽部】の他のどのメンバーよりも、君は儂に似ておる。好みというか、美意識の点でな。そして今日、君の態度を見て──儂は確信したよ」
にたり、と老人の唇がひきつれたような笑みの形に歪んだ。
「──魅せられたのだろう、【イヴ】に? 美しいと、そう思ったのだろう? 触れてみたいと、そう感じたのだろう?」
黒い泥のような声がずるずると、耳から脳へと潜り込む。心臓へと絡みつく。
「君が望むなら……彼女を君に譲り、後を託そう。なんなら、この屋敷ごと、君に遺す事にしても構わない。君になら──彼女を、【イヴ】を任せられる。儂は、そう考えているのだがね?」
息が、苦しい。
「彼女を従えようとする者では駄目だ。彼女に魅せられ、彼女に奉仕したいと、そう考える者にでなければ、【イヴ】は託せん」
胸の動悸が、割れ鐘のように激しくなる。
「君自身、どう思ったね? 今日ここに来て、【彼女】を目にして……どう感じたのかね?」
目の前がちかちかと暗くなり、激しい目眩に襲われる。
「【彼女】を……【イヴ】を、欲しいとは思わなかったのかね?」
──ああ、やはり。
──やはり、この老人は、【蛇】だ。
──太古の昔、エデンの園で最初の女に誘惑の果実を差し出した時の【蛇】も、きっとこんな笑みを浮かべていたのに違いない。
私は息苦しさと、激しい動悸と、目眩の中、唇を開き。
そして、私は……
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「彼女を……彼女の姿を、もっと近くで見させていただいても?」
口から出た言葉は、予想外に平静な声音をしていた。
「構わないとも。ただし、彼女の眠りを妨げないようにな。寝入りばなを起こされると、彼女はいささか機嫌が悪くなる」
老人は鷹揚に頷き、杖をついているにしては危なげのない足取りで歩を進める。その後に続いて、私も石段を上った。
築山中腹の窪みの入り口の手前、数歩の距離。
老人に制止されたその位置で、私はしゃがみ込み、食い入るように【イヴ】の寝所を覗き込んでいた。
地面の上に幾重にも敷き詰められた、色とりどりの柔らかな布と大小さまざまなクッション。
その上で褐色の裸身を丸め、猫のようにまどろむ少女は──やはり、あまりにも美しかった。
先ほど見せた傲慢な女王のような凛とした様子は全く見えず、その姿は年相応……いや、むしろ年よりも幼げにさえ見えた。
小さく開いた口から規則正しい呼吸が漏れるたびに細い肩が上下し、睫毛が微かに震えている。
しばらく眺めていると、規則正しく続いていた呼吸がいったん止まり、引き結んだ唇がむにむにと動いた。桜色の舌先がぺろりと自分の唇を舐め回し、また引っ込む。そしてまた、規則正しい呼吸が始まる。
この閉ざされた世界に、彼女を傷つけるものは何ひとつ無いと知っているが故の、あまりにも無垢で、無防備な寝姿。
こみ上げてくる庇護欲で心臓をかきむしられるような気がして、私は胸を押さえた。
いくら眺めても、見飽きるという事が無かった。
──これが、これが【イヴ】。
──これが、この美しい生き物が、私のものになる。
──それはなんと甘美な、甘やかな生活だろう。
「さて、夢中になる気持ちは解るが……そろそろ、返事は決まったかね?」
傍らに立つ老人が、声だけでこちらに問いかける。【イヴ】に向けられた、その陶然とした表情を見て──私も今、同じ顔をしているのだろうな、と思った。
頭がすっと冷え、これから自分がすべき事を思い浮かべる。
「ええ。気持ちは決まりましたわ。先ほどのお申し出ですが……」
彼女を起こさないように、ゆっくりと立ち上がり。
左腕にかけた上着の陰でバッグに差し込んでいた右手を抜き出し、握っていたものを老人に向ける。
「──きっぱりとお断りいたします」
そう告げた私の右手には──冷たく黒光りする、小さな拳銃が握られていた。
◆ ◆ ◆
「……なんのつもりだ?」
まるで理解できない、という表情で、老人はぽかんと口を開いていた。
「ゆっくり下がって下さい」
拳銃を構えたままバッグと上着を地面に落とし、私は軽く手を振る。
私と老人と【イヴ】が正三角形を描くような位置まで、老人を下がらせた。
そうしている間も、私たちの動きと声は、まるで【イヴ】の眠りを妨げまいとするかのようにひそやかなもののままだった。
食いしばった歯の隙間から、怒りに震える囁き声を老人が絞り出す。
「何を考えている? こんな事をしでかして、どうなるか解っているのかね?」
「もちろん、ただで済むなどと思ってはいません。……ですが、私にはどうしても許すことが出来なかった。我慢することが出来なかったのです」
「何? 許せない、というのは……」
老人の眉根が何かに気付いたように歪み、次いでその顔に、ひどく失望したような表情が浮かんだ。
「今さら君が、人間を愛玩動物として飼うなど許せない、と言うのかね? あれ程に、あれ程までに【イヴ】に魅了されきった姿を晒しておいて。……これはまた、ずいぶんと呆れた言い草じゃないか」
老人の顔に冷笑が浮かぶ。
「土壇場で、人としての本来の倫理観に目覚めた、とでも主張する気かね? ……残念だ。本当に残念だよ。君は、儂と似ていると──儂と同じ美意識や価値観を持ってくれていると、そう信じていたのだがね」
吐き捨てるような口調からは既に一時の驚愕が薄れ、老人は次第に余裕を取り戻しつつあった。
──老人の余裕は正しい。私の目的が【イヴ】を人間として保護することなのであれば、【イヴ】が害される事を恐れる必要はない。
「それにしてもお粗末な話だな。一時の激情にかられ、こんな行動を取るとは……。こんな真似をしたところで何になる? おそらくはまだ誰も異常に気付いてはおらんだろうが、儂を殺せば、出口のドアを開くことはできん。たとえ儂を脅してドアを開けさせたとしても、階上には、使用人や守衛がひしめいておる。どのみち、【イヴ】を連れ出す事など不可能だ」
──老人の言うことは正しい。老人を撃てば私に未来はない。……いや、既に状況は「詰んで」いる。ここから無事に出て行く方法は、私が行動を起こした時点で、完全に失われていた。
「全く馬鹿な事を……。こんな真似をせずとも、いや、何もしないまま数ヶ月もすれば、君は安全に【イヴ】を受け取る事が出来たのだ。そうすれば、お互い、幸せなままの関係で終われただろうに」
「そうですね。……おっしゃる通りです」
私は自嘲めいた笑みを浮かべる。
「あなたのおっしゃる事は全て正しい。……ですが──肝心なところで、決定的に間違ってるんですよ」
──ああ。
……今日、この屋敷に、来るのではなかった。
「どういう意味かね?」
訝しげな老人の問いかけには答えず、私は【イヴ】の方へと歩み寄った。
その気配に【イヴ】がぴくりと薄目を開けた。ゆっくりと身を起こしながら、気だるげにこちらを見上げる。
野生動物ならば決して有り得ない、警戒心や危機感の欠如した、緩慢な動き。
その姿は、やはりどこまでも優雅で、気品にあふれていて、美しかった。
「待て! いったい何を──」
老人が驚愕の表情を浮かべ、制止するように右の掌を突き出した。
だが、もう手遅れだ。
「つまり──こういう事です」
私は、老人に向けていた拳銃を【イヴ】の方に素早く向け直し──躊躇なく、三度引き金を引いた。
◆ ◆ ◆
「ああああァァ、【イヴ】ぅっ、儂の【イヴ】がぁっ……うぅ、おあァ、おオおォッ、うぁアあ」
呻きとも吠え声ともつかぬ、嗄れた声が先ほどから延々と響き続けている。
身も世もなく慟哭しながら、老人が壊れた【イヴ】に──【イヴ】だったものに、とりすがって哭いている。
壊れてもなお、その姿は美しかったが……あの、見る者全てを惹きつけ、狂おしくさせる魔性は、既にそこからは失われていた。
それはただの、美しい死体に過ぎなかった。
私は、拳銃を彼らの傍の地面に適当に放り投げ、背を向けて歩き出した。
石造りの階段の前まで辿り着いて見下ろすと、この小さな【楽園】の全景が易々と視界におさまる。
ポケットから煙草を取り出して口にくわえ、火を点けた。
階段を二段降り、一番上の段に腰かけて紫煙をくゆらせる。
「あ、あぁあァ、なぜ、何故……」
背後からは未だに老人の泣き叫ぶ声が続いている。
彼には、私が引き金を引いた最後の瞬間……いや、今この瞬間も、なぜ【イヴ】が私に撃たれたのか解らないのだろう。
──無理もない。高みを飛ぶ者に、地を這う物の気持ちは永遠に解らない。
かの老人の言葉は、何ひとつ間違ってはいなかった。
確かに私は、彼に、この上なく似ていた。彼と同じ価値観と美意識を持っていた。
彼と同じく、私は【イヴ】に魅せられた。魅入られてしまった。それは間違いない。
だからこそ、彼は私が【イヴ】を撃つとは微塵も想像していなかったのだろう。
……だが、それこそが老人の誤算。
魅せられたからこそ、私には【イヴ】の存在を許せなかった。彼女がこれ以上この世に存在することを、一瞬たりとも許す訳にはいかなかったのだ。
老人は、最後の最後で、私が彼に……彼の作品に抱いた感情を見誤ったのだ。
──それは、かつてモーツァルトに対し、サリエリが抱いた感情と同じもの。
そしておそらくは、【神】とその作品に対し、【蛇】が抱いた感情と同じもの。
──その感情の名は、【嫉妬】。
自分が生涯を傾け、心血を注いだ最高の作品。それを易々と飛び越えるような傑作を作り上げた者に対する、煮えたぎるような羨望と憎悪。
ああ、本当に……。
──本当に、老人と私は、よく似ていて……あまりにも似通い過ぎていた。
私は【イヴ】をひと目見て、理解してしまったのだ。
これは、私がずっと求め続け、ついに作り上げる事が出来なかったものなのだと。のみならず、これは、この先どれ程足掻き続けても、私には決して作り上げることのできない、永遠に手の届かないものなのだと。
そして、それを譲っても良い、と老人に告げられた時……私の心は、完全に壊れたのだ。
──想像してみるがいい。
自分が生涯を賭けて目指し続け、ついに生み出すことができなかった天上の楽譜。それを、さも自慢げなモーツァルトに目の前にぶら下げられて、「この曲をお前にくれてやろうか?」と言われたとしたら、サリエリはどう感じただろう?
たとえそれが、モーツァルトにとって純粋な善意から出た言葉であったとしても──きっとサリエリは、私と同様に、壊れてしまったに違いない。
老人が私に対してしようとしたのは……つまり、そういう事だったのだ。
「きさっ、貴様っ、このっ、この蛇めっ、きっ、くかっ、ゆる、許さ、ゆるさ……」
憎悪と殺意にまみれた呪詛の言葉を吐き出しながら、背後で老人が立ち上がり、ふらふらと近付いてくる気配がした。
ようやく、手元に落ちていた拳銃に気付いたらしい。
思ったより長くかかったものだ。
出来れば、一発で終わらせて欲しい。痛いのも苦しいのも、好きではないのだから。
……ああ、それにしても、本当に。
……私と老人は、なんと似た者同士だったことか。
私は、おそらくは最期の一服になるだろう新しい煙草に火を点けながら、私自身の屋敷の事を思った。
私自身の屋敷の地下で、何も知らずに私の帰りを待っているだろう【あの子】の事を思った。
私が死ねば、彼の世話をする者は居なくなる。
いずれは誰かが地下の隠し部屋に気付くとしても……そこまでは、おそらく彼の命も保たないだろう。
だが、それでいい。
結局【イヴ】と同じ高みには至れなかったにしても……あの子は、私にとって紛れもなく最高の作品であり、最高の宝物だったのだから。
(……さようなら、可哀相な、私の【アダム】。貴方を【イヴ】のように育ててあげられなくてごめんなさい)
(……だけど貴方は、自らを誇っていいわ。【イヴ】はもう、この世にいない。この世に彼女がいなくなった以上──)
私は立ち上がると、煙草をくわえたまま振り返って、両手を広げた。
目を血走らせ、拳銃を握りしめてよろよろと近付いてくる老人を待ち受けながら、晴れやかな気持ちで微笑する。
(──これで、今、貴方こそが紛れもなく、世界で一番美しい生き物なのだから)
fin.
【モーツァルトとサリエリについて】(※読まなくても特に問題はありません)
音楽史上、最大最高の天才作曲家として知られる、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
そして、彼が活躍した時代に神聖ローマ帝国の宮廷楽長をつとめていた、アントニオ・サリエリ。
モーツァルトの死後、「モーツァルトは、彼の才能に嫉妬したサリエリによって毒殺された」と噂され、この風説は、宮廷内のみならず、民衆の間でも広く信じられていました。
このサリエリ像は、1984年製作の映画『アマデウス』(アカデミー賞8部門受賞)によって、さらに世界中に広まります。
実際には、彼らの間に対立こそあったものの、そのような事実はまずあり得なかったろう、というのが現代の音楽界や研究者の間での定説になっています。
ただ、「天才に憧れ、憧れながらもその才能に嫉妬し、凡人であることに苦悩する人物」というのが、非常に魅力的なモチーフであることは確かです。
そのため、『STEINS;GATE 0』や『Fate/Grand Order』など、さまざまな作品の中で、モーツァルトとサリエリの関係は取り上げられています。