第17話:夜明け
重力に任せて、俺は足から水を突き破った。
高さが高さだったので、飛び込むときの痛みは勿論、底に激突することも覚悟していた。
自然と目も瞑っていたようだ。
しかし意外なことに、俺の身体はスムーズに水に馴染んでいた。
恐らく、水に入った時点で、俺の属性が水に透過されたのだろう。
目を開く。
水の中は真っ暗で、昼間とは勝手が違う。
それでも必死に朔夜の姿を探すと、前方に、彼女の身体が沈んでいるのが見えた。
俺は水面で大きく息を吸ってから、再び潜水した。
衣服を纏っているせいか、とても泳ぎづらかった。
なんとか朔夜の元に辿り着く。
彼女の身体には、ヘビのようにあの鬼が巻きついていた。あれのせいで、浮かび上がることが出来ないらしい。
彼女は気を失いかけているように見えた。
それでも、彼女の腕はこちらに向かって伸びていた。
俺はその手を取ろうと腕を伸ばす。
すると、鬼が威嚇するようにこちらに牙を剥く。
『邪魔をするな』と言いたいらしい。
……馬鹿な奴だ。
お前ごときに、渡せるわけないだろう。
『失せろ』
俺は心からの憎悪を眼にそのまま投影して、鬼を睨んだ。
すると鬼は慌てて彼女の身体を放し、逃げていった。
俺はすかさず彼女の腕を掴み、身体を抱えて、水面に上がる。
俺はすぐにプールサイドに彼女を引きずり上げた。
「朔夜っ!! 朔夜!!」
俺が彼女の名前を呼ぶと、気がついたのか、彼女は激しく咳き込んだ。
どうやら息は止まっていないらしい。
俺の胸にしがみついた手は、痛いほどに強く握り締められていた。
「……すけっ……英輔っ」
嗚咽交じりに彼女は何度も俺の名前を呼ぶ。
濡れているので分かりにくいが、どうやら彼女は泣いているらしい。
そんなに、水が怖かったのだろうか。
すると、彼女はしゃくり上げながら言う。
「……っく、し、死ぬかと思った、の……っ」
それを聞いて、俺ははっとさせられた。
つくづく自分の馬鹿さには愛想が尽きる。
……そんなの、当たり前のことだったのに。
どんなに彼女が強くても、死ぬのが怖くないわけないんだ。
彼女は絶えず震えている。
それを見て、胸が苦しくなった。
「まだっ死にたく、なかった……からっ、こわか」
俺は彼女の言葉を最後まで聞き終える前に、彼女を抱きしめていた。
「大丈夫だ。お前はまだ生きてる」
俺がそう言うと、耳元で、また新たな彼女の嗚咽が続いた。
身体全体に、彼女の温度を感じる。
向こうにも、俺の温度が伝わればいいんだが。
そう思って、一層腕に力を込めた。
8年前、届かなかった少女。
――――今度は、届いた。
空が、白けてきた。
朝の、穏やかな空気が流れ込む。
俺と朔夜は、大荷物と共に、校庭に佇んでいた。
「英輔もシャワー浴びればよかったのに。風邪ひくよ?」
そう言う彼女は濡れた服を着替えてさっぱりとしている。
「んなこと言われてもなあ、着替え持ってきてないし」
俺がそう言うと
「だから最初に準備しとけって言ったのにー」
彼女は呆れ顔でそう言った。
……そうか。あれからまだ、5日しか経ってないのか。それなのにどうしてこんなに、今が眩しいんだろう。
彼女は鷹の方へ戻る。
ここに迎えが来るらしい。
俺はそれを見送るんだ。
「お世話になりました。英輔のご飯、美味しかったよ」
朔夜は民宿から出て行くときのような台詞を言う。
俺はついつい笑いながら、
「そりゃどうも。あれくらいならいつでも作ってやるよ」
そう答えた。
すると朔夜は満足げに笑って頷いた。
そうしていると、遠くから、ヘリの音が聞こえてきた。
「……ん? こんな時間に?」
ヘリがこの辺りを飛ぶこと自体珍しい。
俺が不審に思っていると、その音はどんどんこちらに近づいてきていた。けたたましい音だ。
「あ、迎えが来た来た」
朔夜は声を張り上げつつそう言って空を見上げた。
「は」
俺も間抜けな声を出して空を見上げると、黒いヘリがこの学校の校庭に着陸しようとしていた。
「な!? 迎えって……車じゃなくてヘリなのか!?」
俺は改めて彼女の家のでたらめさに驚いた。
風と砂埃を巻き起こして、ヘリは無事着陸した。
そしてプロペラの回転が終わりきる前に、扉から黒いスーツの男性が出てきた。
「れーーんーー!!」
両手を広げてこちらに走ってくるその男性。
中年のようだったが体系はすらりとしていて、顔立ちもなかなかにダンディだ。
声とその雰囲気で、彼が朔夜高志なのだと俺は理解した。
案の定、彼は朔夜をすぐさま抱きしめて
「あれから連絡よこさないから心配してたんだぞ、憐! 毎日1度は連絡するよう言っただろう? こっちからかけても繋がらないし!」
そう言って彼女の頭をくしゃくしゃと撫で始めた。
「もー! 高志ってば時間無視するんだもん! 途中から電源切ってやったんだもんね!!」
朔夜が迷惑そうにそう言うと
「な!?」
彼は相当にショックを受けているようだった。
(……まあ、アドレス消されるよりマシじゃないかなあ)
俺は秘かにそう思った。
すると彼は俺に目を合わせて
「やあ、実際に会うのは初めてだね、東条英輔君。ケモノ抹消に協力してくれてありがとう。また後日正式にお礼状を送らせてもらうからね」
やけに紳士的にそう言った。
いや、もともとは紳士なのだろう。
しかし
「……ん!? 君、なんだかびしょ濡れじゃないか? 塩素の臭いも……」
そう言って鼻をくんくんさせて、それからこの世の終わりのような声で叫んだ。
「あー!? まさか君たち、夜のプールで何か破廉恥なことしなかっただろうね!? ねェ!?」
と、俺に掴みかかって、朔夜と俺の顔を交互に見つめる。どうも、朔夜のこととなるとひどく親馬鹿になるらしい。
「高志、それ、海外映画の見すぎ。しかも発想がやらしいんだけど」
朔夜が呆れ顔でそう言うと、彼は娘の言葉にショックを受けたのか、頭を抱えて悶えている。
……面白いお父さんだ。
ヘリの準備が整ったらしい。
朔夜の大荷物も全て詰め込まれた。
お父さんのほうは先にヘリに乗り込んだ。
あとは彼女だけだ。
改めて向かい合うと、なんだか妙な気分になる。
ほんと、こいつに振り回されてから、でたらめな毎日だった。
クラゲに巨人、蜘蛛に骸骨。
男にキスされるわ迫られるわ。
いきなりぶっ倒れて俺のベッドで爆睡されるわ。
ズル休みして遊びに行ったり。
学校中で変な噂立てられたり。
2階からプールに飛び込んだり。
今思うと、地味な俺の普段の生活とのあまりのギャップに笑ってしまう。
すると、朔夜も同じように何か思い出しているのか、笑っていた。
それから
「英輔、耳貸して、耳」
朔夜はちょいちょいと手をこまねく。
「?」
なんだろう、と俺は一歩近づく。
すると
「ありがと、英輔。助けに来てくれたとき、嬉しかったよ」
そんな言葉と共に、俺の頬に彼女の唇が軽く触れた。
「!?」
俺は慌てて後ずさる。
恥ずかしながら、顔が真っ赤になっているのが自分でも分かった。
すると朔夜は
「顔あかっ。これしきでそんなになってどうすんの」
と笑いやがった。
「な、な!! お前、そういうことはもっと大事にだな……!」
と俺は堅気の貞操観を振りかざす。
朔夜はそんな俺を見てさらにけらけら笑う。
(〜〜〜〜こいつはーーーー!)
ほんとに、人騒がせな、賑やかな奴だ。
朔夜がヘリに向かって歩き出した。
もう、あの背中を見ることはないんだろうか。
「朔夜!」
俺は彼女を呼び止めていた。
彼女は足を止める。
「……お前の本当の名前、教えろよ」
俺が叫ぶようにそう言うと、彼女はくるりと振り返って
「全部取り戻したら、ちゃんと英輔に教えにいくよ!」
そう言って、笑顔で手を振った。
俺も手で応える。
彼女が言ったんだ。
なら、また会えるだろう。
彼女は教えてくれた。
手を伸ばせば届くってこと。
何も起こらないことが幸福だなんて人生を悟るのは、本当はもっと、ずっと後でいいんだってこと。
だったら、それまで、俺は目を逸らさない。
逃げないで、色んなことをやってみようと思うんだ。
いつか、彼女みたいに、堂々と歩けるように。
俺は朝日に溶けていく、1羽の鷲を見送った。