第16話:伸ばす、腕
廊下は、さっきまでとは違って、怖いほどに静かだった。
傍らの朔夜は楽しそうに喋る。
「でも驚いたよ。まさか英輔がそんな貴重な人間だったなんて」
俺は答えない。けれど彼女は続ける。
「属性っていうのは前もちょっと話したでしょ? 基本は全部で5種類あって、一般に五行って言われてるやつ。その上にまた5つあるんだけど、炎を含めてそれらはもうほとんどが退廃してるんだ。その他はイレギュラー。無属性っていうのは有名だけど、透過性っていうのは初めて聞いたよ。不思議だったんだよねー。この学校で霊視力を持ってる生徒、私は英輔しか知らないのに、ずっとここにいたケモノが並より強力なはずの英輔の視力を取らなかったこと。英輔は並みの人間に溶け込んでたってことだったんだ」
朔夜はどこか嬉しそうに話をしているが、俺にはとても喜べた話じゃない。
だって、皮肉じゃないか。
その能力は、周りに溶け込むしか能がない俺に、ぴったり過ぎるほどよくお似合いだ。
透過して一体何の役に立つのか。
そりゃあ、今まで霊視力があったわりには厄介ごとに自分が巻き込まれることはなかった。
お陰で俺は見えるものから逃げることが出来た。
そう、『逃げ』だ。
結局俺は、逃げることしか出来ない、駄目な奴なんだ。
俺はただ、相槌も打たずに黙々と歩くだけだった。
すると
「……英輔」
彼女は立ち止まって、俺の上着の裾を後ろから引っ張った。流石にそれでは立ち止まるしかなかったので
「……何だ?」
そう返すと
「……手、繋いで。暗くて足元おぼつかないんだ」
彼女はそう申し出た。
手を繋ぐ。
朔夜の手は熱かった。
さっきはあの鹿の少年に『大丈夫だ』と言っていたが、やはり少しの無理はあるのだろう。
そう、それは全て、俺のせいだ。
俺をかばったせいで、朔夜はまた視力を取られた。
今の視力じゃケモノの輪郭すらとらえるのは難しい、とあの少年は言っていた。
もし、あのまま、彼女の視力が全部取られていたら、俺は…………
俯くと、ぽたりと、上着に水が滴り落ちた。
「……英輔?」
悔しいんだ。
思っていることが、うまく出来ない自分が。
本当は、守ってやりたい。
彼女に無理させたくない。
彼女が傷つくのは見たくない。
けど、俺はこんなに非力だ。
こんなに。
こんなに近くにいるのに、どうして手が届かないんだ。
「……泣いてるの?」
彼女の手が、確かめるように俺の頬を撫でた。
「……ごめん……ごめんな……」
俺はただ、謝り続けていた。
それは、彼女だけに向けられた謝罪ではなかったのかもしれない。
俺は、あの日を思い出していた。
春から夏へ、季節が移ろおうとしていたその日。
友達の家から帰ってきた俺は、家の近所がやけに騒がしいことに気がついていた。
見ると、向かい側の道路にパトカーと救急車が数台走っていった。
嫌な、予感がした。
家に帰ると、居間のほうから先に帰ったらしい姉と母が話をするのが聞こえた。
「ねえ、外にいっぱいパトカー来てたけど、何かあったの?」
「ああ……あのね、ほら、あの池で女の子が溺れたらしいのよ」
「え……で、その子は?」
「その子は奇跡的に助かったらしいんだけどね、助けに入ったご両親が、亡くなったって……」
「えー、可哀想…………その女の子ってどこの子?」
「香奈枝は知らないんじゃないかなあ。ほら、この間越してきたばかりの…………」
……その会話を聞いて、俺は『ただいま』も言わずに2階の自分の部屋に駆け上がった。
(あの池で……溺れた?)
俺はその事実が怖かった。
あの池からは嫌な気配がしていた。
そのことを姉に言っても全く信じてくれなかった。
母に言っても、父に言っても困った顔をされるだけだった。
……だから、知っているのは自分だけだったんだ。
『あの池には近づいちゃいけないよ』って、この近くで言ってやれるのは、自分だけだったんだ。
なのに、その子には伝えられなかった。
しばらくずっと、後悔していた。
後悔して、泣いていた。
けど、ある日、俺は思い至った。
『伝えられなかったんなら、助けに行ければよかったんだ』って。
それが難しいことだっていうのは、幼いながらも分かっていたつもりだ。
だけどあの頃は、『いつか、出来る』と信じていた。
信じてたんだ。
手を伸ばせば、届くんだって。
色んなものがこみ上げて、なかなか嗚咽が止まらない俺の背中を、朔夜はただ優しく撫でてくれていた。
そして
「……英輔のせいじゃない。私が、悪いんだから」
なぜか、彼女はそう言った。
完全に収まるのに、それからどれくらい時間を要しただろうか。
俺は朔夜に完璧に恥を晒したことに気恥ずかしさを覚えつつ、けれどどこかすっきりとした気分だった。
「……なあ。まだ、届くかな」
俺は彼女にそう尋ねていた。
すると
「……届くよ。諦めるのなんて、ホントの最期、それこそ身体が動かなくなる間際で、いいんだから」
朔夜はあの笑顔で、そう言った。
実に、彼女らしい言葉だ。
「そうか。そうだな」
俺はただ、頷いた。
次にそいつが現れたのは、2階だった。
朔夜の力の大半を奪って、奴の気配はさらに強大になっていた。
俺たちが駆けつけても、敵は余裕を見せている。
『……懲りもせず来たか。大人しく尻尾を巻いて逃げたらどうだ、人間。そんな目では十分に太刀を振るうことも出来まい?』
最もな意見だ。
朔夜は敵の姿を十分にとらえられていない。
「お喋りなクラゲだな。いい加減、反吐が出る」
そう彼女は悪態づいたので、声はなんとか聞こえているようだった。
『強がりを……』
クラゲはそう嗤うように言って、糸のような触手を伸ばす。
朔夜はその気配を読み取って、すかさず
「食らえ!!」
1枚の札を投げつけた。
属性護符、『土』の札だ。
札はクラゲの足に貼りついた。
途端、クラゲは動きを止める。
「止まった!」
俺は歓喜の声を上げる。が。
『……矮小な』
クラゲはそう呟くと、激しく身体を振り回した。
言い知れぬ風圧に俺と朔夜は易々と飛ばされる。
「ぁっ……!」
背中を壁に打ち付ける。見ると朔夜も床に手を付いていた。
『そんな札1枚ではもはや我を止めることなど出来ぬ。貴様らの浅知恵には愛想も尽きるわ』
勝ち誇ったようにクラゲは佇む。
札は1枚しかない。
これ以上、奴の動きを止められる手段はなかった。
『喜べ人間。貴様らの力、その血肉ごと全て貰い受けてやる』
クラゲの足が空間中に広がる。
逃げ場はもう残されていない。
身体が、糸のような足に絡め取られる。
朔夜も同じ状況だった。
このまま、あのグロテスクな口に呑まれて、死ぬのか。
2人一緒に?
俺は彼女に、何も出来ないまま?
「……馬鹿、言え!」
俺は腕を振り上げる。
これでも8年水泳で鍛えた腕だ。こんなに細いクラゲの足など、振りほどけないことはない。
『!?』
クラゲは驚いたようだった。
俺が諦めかけているとでも思ったんだろう。
だが
「まだだ!!」
俺はそれこそ泳ぐようにクラゲの足を掻き分け、朔夜が付けた護符に触れる。
ゴールタッチだ。
刹那、手に稲妻が走るような感覚を覚えた。
身体の奥から湧き上がる、生命力のような新鮮な力。
心臓が鼓動するたびに、その力は上へ上へと流れ、腕を通じ、手のひらを介し、クラゲへとなだれ込む。
クラゲは天井を貫きそうな苦悶の叫びを上げる。
動きは止まった。
「朔夜!!」
呼ぶと、彼女が傍らにやって来た。
刀を持つ手が震えている。限界が近いのだろう。
それでも、彼女の目はしっかりと前を向いている。
俺はその小さな手を、上から握って、導く。
「ここだ」
青色の丸い核。
その1点を、炎のように紅く光る刀が貫いた。
途端、クラゲの身体は爆発する。
「うわっ!?」
不意打ちの風圧で、俺はまた飛ばされてしまった。
ケモノの身体は跡形もなく崩壊し、その中から、巨大な白光が浮き上がった。
見ると、朔夜の身体に光が降り注いでいた。
視力が、戻ったのだろう。
俺はそれを確認して、ほっと一息つく。
が。
(――!?)
上方に嫌な気配を感じて俺は顔を上げた。すると
「な」
天井に、小さな鬼がへばりついていた。
痩せた蒼の身体、こけた顔、そして涎を垂らす醜悪な口を持つそれは、嗤うように目を細め、朔夜のほうを舐めるように見ていた。
「朔夜っ」
俺は慌てて彼女の名を呼んだ。
が、既に遅かった。
「!?」
鬼が天井から離れたかと思うと、それは水を纏いながら流星のような速さで飛び、彼女に直撃した。
そして、その勢いのあまり、
「ぁっ」
彼女の身体は、窓ガラスを破って、外に飛び出した。
「さ」
息が出来なかった。
俺はとっさに窓の外を見る。
真下はちょうどプールで、水柱が上がったのが見えた。
普通なら喜ぶべきところだ。
地面への墜落死は免れたのだから。
しかし
(あいつ、泳げないんだ……!)
事態は全く良くなかった。
今から階段を使って降りていては、絶対に間に合わない。
迷う暇などなかった。
8年前は出来なかったこと。
今度は絶対に、しなくちゃいけない。
今、俺が、出来ること。
それは――……
「朔夜!!」
俺は窓に足を掛け、夜の闇へと飛び込んだ。