Hello World
配管がたくさん這っていたり、針や液体で数値を示す各種メーターがあったりするが、正直言って第二の操縦席に座るアリスにその五割は理解できていない。「運転なんか操縦じゃなくてスポーツだから」と宣う機体技師の笑顔を信じる通り、絶賛飛行中の機体の操縦席で爆睡していた彼女は、今日も気楽な理解と危機感の中で覚醒した。
高度六百メートル弱。低速前進。出力、機体ともに安定。天気も良好。予定時間を超過するほど熟睡できるわけである。静かな心地よい振動と操縦席の程よい狭苦しさは、その類のスキマを好むアリスをすとんと眠りに落としていた。
大欠伸一つに伸び一つ。少女はがしがしと乱暴にブロンドを整え、寝惚け眼をうっすらと開いた。
「ハロージーク。思ったより寝ちゃった気がするんだけど、どのくらい進んだ?」
『ハローアリス。予定の二倍は進んだ』
「それって誰が凄い?」
『仮眠とか言いながら四時間寝たお前だよなぁ』
「準備しーよおっ!」
ちょっと茶化すだけのつもりが、内線から帰ってきた第一操縦席の声は想定していたより力が入っていたので、リラックスした状態だったアリスは軽やかに跳ね起きる。
結果として、元気な声は相方を呆れさせたようだった。
毛布のように被っていた重い皮コートを避け、ロックがかかったままの操縦桿にばさりとかける。寝るときにストレスがかかるのが大嫌いなアリスの格好は、たったそれだけ退けてしまえば砂漠帰りとは思えない軽装備である。
白く薄いワンピース一枚のみで、防砂帽もゴーグルもベストもコルセットもなければ、ブーツだって座席の下に畳んだままのうえ、手袋も靴下もなし。
だがしかし。やろうと思えば今から操縦くらい問題ないのだが、到着した後に機体の外に出られる格好では無い。砂塵やガスが充満する世界でその図太い常識は何処で育まれたのか。それ以前に、
淑女としてそれはどうかと、なにより相棒が文句を言う。
「あとどのくらいで着くかな?」
『三十分も飛べば外壁が見えるだろ。それなりにでかい都市だし、前回みたいな愉快なことにはならない。筈』
「笑ったねぇ。ってか笑われたねぇ。『空から俯瞰してるのに都市一つ見落とす馬鹿、そうはいないよ』って」
『あの都市は、あのステルス性を売りに出したほうが物見遊山の貴族が寄るぞ。……招待客を出迎えないあの都市の警吏も悪かった』
「詳しいこと聞かずに出発した私たちも悪かった」
『……否定はしない』
残念ながらアリスの座る席からは第一操縦者の顔は見えないようになっているが、内線から間をおいて出てきた相棒の声は若干の悔しさを引きずっている。平生の彼から想像するに、きっとその顔は筆舌に尽くし難い程の感情を押し込めた無表情でできているのだろう。
特にその原因を作りがちなアリスは、それ以上会話を掘り進めることをやめて、ブーツの靴ひもを固く締めた。
透き通るような白い肌に、さらに明度を上げる見事な金髪に金の目。年背丈は十五ほどの、顔の整った少女である。残念ながら年頃の男性に対して魅力的と思わせる胸部の豊かさは足りないのだが。
「ジークって外出る準備できてる?」
『向こうに着いてからでも充分できる程度だから、途中で操縦を変わってもらうほどじゃない。全然気にしなくていいぞ』
「昨日アウトサイドループしたのまだ怒ってる? もうやんないよ」
『別に、突然始まったエアロバティックチャレンジで飲み物ひっくり返したことや、その三割失敗してゲヴェールを木に引っ掛けたことなんか一切気にしてない』
「しっかり気にしてんじゃん」
『ない』
頑なな彼の物言いに苦笑したアリスがちらりと前の方を向くと、砂汚れの目立つ鉄枠のガラスの向こうで、彼がむすっと目を逸らしたのが見える。おしゃかになった水筒の中身より、親機と連結していた一人乗り飛空機を林に擦ったことを気にしていた彼は、機体の整備士の反応を想像してかなり気をそがれていた。
先月見かけた野良エアロバティックの芸を見て真似をしてみたかったが、思うとおりの結果は残せなかったので再チャレンジしたいと言うアリスの考えもお見通しである。昨日やらかした後に気持ちはわからんでもないがと説教されたので、あの派手で格好良い空中芸に目を奪われたのは彼も一緒であるはずだ。
だが、それとこれとは話が別である。
自分もできるかもしれない飛行技術を試してみたいというチャレンジ精神は結構だが、操縦席に水をぶちまけて計器を壊してしまってはこれから先の飛行も出来なくなると、アリスと同じくらい計器を読めない彼に長々と説かれた。
飛空機は次の技を試そうという最高のタイミングで相棒の強制ロックがかかり、アリスは残念半分覚悟半分で操縦桿からぱっと手を離した。滞空のためのボタン、スイッチやレバー各種を手早く押した彼は、自分の操縦席のハッチを跳ね上げて第二の操縦席のハッチを毟り取り、先ずアリスの頭に手刀を落としたのだ。
「謝るよぉジーク。今度はもっと上手くやるってば」
『反省しろ馬鹿アリス。今後馬鹿をやらかす際には俺に許可を取るって誓うまでは、絶対にお前の操縦桿ロック外さないからな』
「やっぱ怒ってる」
『気にはしてない。怒ってる』
馬鹿をやらかす事自体を禁止しないあたりは、アリスという個を熟知した相棒らしい。
アリスをちらりとも振り向かない彼は、本人が言う通り怒っているのだろう。アリスよりも大人のくせにこういう頑固さはアリス以上の子供っぽさが見える。
アリスはため息をついて操縦桿に引っ掛けていたコートを引き取り、コートを背もたれにばさりとかけて、フットレバーの踵受けにブーツをひっ掛けて、
ガラス越しに相棒をじっと見つめたまま慎重に操縦桿ロックを外そうとして、失敗した。
相方が座る操縦席の端にはこの操縦桿ロックと連動するレバーがある筈。アリスがそーっと下ろそうとした操縦桿ロックがピクリともしなかったという事は、全てを察していた少年がロックレバーを握っていたという事であり、ぐぐっと入れた力があちらに伝わっているなら、それはつまり操縦権奪取の企みは相棒にバレたという事でもある。
『あーりーすー』
「あっはっは。…………ごめんてば」
反省の色がまるで見えない彼女をゆっくり振り向いた右目がジロリと見る。その煤けたガラス越しでもわかる怒気をもつ赤い目と、無線越しにくぐもって届いたアリスの名前は、アリスの悪戯心を睨んで小さく正座させた。
事前に渡された作戦要項のうち、一番自信を持って詳細に語れる部分は一も二もなく作戦成功報酬欄だが、それ以外を全く覚えていないと言う事でもない。計器のうちの一つを確かめて現在位置をざっくりつかんだアリスは、ぱっと顔を上げて前方を見た。
砂漠地帯ははるか後方。切り貼りしたような雑な境界線は、きつい崖と人の手が入った様子のない針葉樹の林のラインだったと思う。巨大な生物の足跡のように点在する、ぽっかりと開いた木々と地面の沈没箇所をいくつか見送って、昼を通り越したのは緑を見飽きた頃だった。アリスは確か飽きて寝たのだ。
起伏の激しい地域の最奥、ひときわ大きな陥没した地面の底にある都市へは、決まった入り口から決められた手順で降下するか、そうでなければ陸路を行かなければならないらしい。
アリスの相棒の腕をして時折機体が煽られるのを感じて、気流が複雑になっているという情報が正しかったことを知った。
遥か眼下の森の中の地下都市は、アリスが見たことのない未知の都市だった。
降下のために機体は大きく旋回し、上空へと向けた大きな道案内に従って高度を落としていく。
二人乗り飛空機・レーヴェが森の陰に隠れる直前。それまで背後にあった勇壮の夕日を、二人はちらりと見た。
「……垂直に降りなきゃいけないの、怖いね」
『ああ。このごちゃごちゃ気流は好きじゃない』
穴の底のうち、一部分は更に深い谷になっているようで、この都市はそこの崖壁に入出城ゲートを置いているらしい。固く閉ざされたゲート前まですいっと進んだレーヴェは、低速から滞空状態まで素早く切り替えて審査ポートについた。
第一の操縦席のハッチが開き、制服を着た官吏がそこへ近づく。
「失礼ですが、どちらからお越しですか?」
「央都から。アーデルベルト男爵より、南部商工会議所主催の親交会へ招待を頂いたんだが」
「アーデルベルト様の御客人でしたか。それは大変失礼しました。御屋敷まで案内させましょう。どうぞこちらへ」
ゲート番の警吏が、人の良い笑顔でゲート開放を指示する。人手と車の手配を迅速に終え、お待たせしましたとレーヴェを都市内部へと案内した。
ややあって先に機体を降りた相棒は、似合わない礼装姿でアリスをじっと見た後、恭しく彼女に手を差し出す。
「お手をどうぞ、お嬢様?」
「ふふっ、はい。ありがとうございます」
流れる様な見事なハニーブロンドに、幼さを残す大きな金の瞳が特徴的な、眩しい少女だった。
指先一つに視線を集める優雅さと、上流貴族であることを疑いもさせない迷いのない空気のまとい方。野蛮さのかけらもないたおやかな雰囲気は、花で例えるなら白百合か。
完璧でしょ? 完璧だな。
陥没都市ミルンに、資産家の娘とその御付きが到着した。