神の血
風呂は実に心地よかった。
果たして前回湯に浸かったのはいつだっただろうか。
ロビンは風呂桶の中で考える。
まだ春先とはいえ、ずいぶん長く風呂に入っていなかった気がする。
さすがにもう少し身ぎれいにしておくべきだったか。
風呂から上がり部屋着に着替えると、間髪を入れず床屋が呼ばれ、ロビンの髪を整え、髭を剃りだした。
おかげで夕食が運ばれてくるころには、ロビンは実にさっぱりとし、まさに生まれ変わった心地になっていた。
夕食も極上のブドウ酒をはじめ、海の幸山の幸をふんだんに使ったこれまで見たことのないほど豪勢なものであった。
しかし、ロビンは空腹のあまり手当たり次第に食べてしまったため、残念ながらあまり味を楽しむことはできなかった。
「なんとも豪快なお食事でございましたね。セス殿下」
食事の後片付けを従僕に指示しながら女官のエレミヤが話しかけてくる。
「あなた様に話しかけているのでございますよ」
ロビンは腹を抱えて椅子にもたれかかっていたが、言われて初めて自分が話しかけられていることに気づいた。
「そうか、おれはセス王子なんだ……」
「早く慣れてくださいましね」
「ああ、注意するよエレミヤさん」
「そのような呼び方をしてはなりません。わたくしはあなたの臣下なのでございますから」
なかなか厳しい女性だ。
しかし、せっかくの機会なのでいくつか気になることを聞いてみることにした。
「セス王子……、本物のセス王子はどんな人だったんだ?」
「凛々しく高潔で聡明で、大変立派な方でございました。誰しもが優れた王におなりになると考えていたものです」
この程度のことはロビンもすでに聞き知っている。
「そういうありきたりな話じゃなく、面白い裏話とかはないの?」
「わたくしはそのようないい加減な話は嫌いでございます」
取り付く島もない。仕方なく、ロビンは話題を変えることにした。
「あのおじさん、ハーディン・ウィルクス卿はどんな人物なんだ? なんというか、かなり変わった人のように見えるけど」
「『ハーディ』・ウィルクス様にございます。確かに、いささか奇異な方ではありましょう。あの方のことを成り上がりだとか独断専行だなどと中傷する輩もございますが、それは大間違いというものです」
いつしかエレミヤの手は止まり、その声には熱がこもっている。
「あの方ほど王国と王家、そして臣民を大切にされている方はございません。ウィルクス卿が病臥されている陛下に代わり、セス殿下と対峙してでも強引に宮中をまとめなければ、あの性悪で強欲なガレリア王に今ごろファストロムは蹂躙されていたに相違ありません」
「そうなのですか……」
彼女の言葉はやや難しく、すべての意味はロビンにはわからなかったが、この女官がウィルクスに強い畏敬の念を抱いていることは理解できた。
「だいたい、ほかの大貴族の方々、特にブランシェット公爵などはいつも口ばかりで、何も行動が伴わない。何かの間違いで公爵のような無能が国政の頂点に立てばどのような悲劇が起きるか……」
ここにきてエレミヤは、はっとしたように話すのをやめた。
「申し訳ございません、殿下。ついで過ぎた口を」
「いや、いいよ。この国のことが少しはわかった気がする。ありがとうエレミヤ」
少し気まずくなったのだろう。
エレミヤはもう遅いのでと、一礼すると他の家来たちとともに部屋を出ていった。
ちょうどいいぐらいに眠気を感じていたロビンは明かりを消すと、そのまま寝台に飛び込んだ。
豪奢な天蓋のついた、想像もできないほど寝心地のいい寝台だった。
そこで、ロビンは数日ぶりの安らかな眠りにつくのだった。
翌日、日の出とともにロビンは起床させられ、まだ意識がはっきりしないまま、エレミヤに急かされ顔を洗い、着替えを済ませた。
朝食を終えてようやく目が覚めてきたロビンは、姿見の前に立って自身の姿を眺めてみた。
きれいに髪を梳かして髭を剃り、真新しいシャツに刺繍の施された立派な上着を羽織った堂々たる貴公子がそこにはいた。
まったく衣服というものの力には驚かされる。
着替えるだけで昨日まで酒場の給仕であったロビンが、王子に化けてしまうのだ。
ウィルクス卿の魔法にも驚かされたが、これこそが最大の魔法に違いなかった。
「なかなか似合っているではないかね」
いつの間にやら後ろに立っていたウィルクス卿が満足げな声を出す。
「だが、その姿勢はいただけない。もっと背筋を伸ばし、胸を張るのだ。顔つきもどうも締まりがない。口を閉じて目元に力を入れなさい。ああ、手で顔を触ってはいかん。自信がないように見えるからな」
「待ってくれ、そんなに一度にできるわけないだろ」
あまりの注文の多さにロビンは閉口する。
「やってもらわなければならないのだよ。君の正体がばれたらわたしまで破滅することになる」
「そうはいっても、短期間で完全に王子になりきるのは無理だ。それとも、しばらくおれをここに閉じ込めてでもおく気か?」
「その心配は無用だ。君はこれから旅に出ることになるからな」
「どういうことだ?」
「『高貴なる旅』という言葉を聞いたことはあるかね?」
まったく聞き覚えのない言葉だった。
「知らんか? まあ無理もない。最後にこれが行われたのは三百年も前の話だからな」
ウィルクスは説明を始めた。
曰く、古来、この大陸はしばしば闇の勢力の脅威にさらされてきた。
そういった危機が訪れたとき、デューレンの末裔である五王家の血をひく者が、聖都への巡礼の旅を行い邪悪に対抗する力を得てきたのだ、と。
「ちょっと待ってくれ」
ロビンは混乱し話を遮る。わからないことだらけだった。
「まず、デューレンってなんだ?」
「なんと、君はそんなことも知らないのか」
ウィルクスはあきれ顔だ。
「仕方ない。少しばかり歴史の勉強をするとしようか」
そしてウィルクスは長い話を始めた。
このアルデア大陸にはかつて圧倒的な力で全土を支配した国家が存在した。
それが神聖デューレン帝国で、はるかな昔天より地上に降り立ち、絶大な魔力をもって大陸を統一した光神の子デューレンの血を引く者が代々治めてきた。
三千年にわたる長き支配の末、叛乱により帝国は滅びたが、その後新たに勃興した五王国の王家にも何らかの形でデューレンの血が流れている。
ファストロムはその五王国の一つで、帝国末期の反乱にて活躍した英雄王レーン・セルカークを祖とし、大陸南部の一角を占め現在に至っているのだ。
「――つまり、ファストロムの王室には光神の血が流れており、そこに連なるおれも同じということか」
信じがたい話だったが、これまでの話をまとめるとそういうことになってしまう。
「その通りだ。君はなかなか理解が早いな」
ウィルクスは満足げな笑みを浮かべている。
ロビンを見るその目つきは、老獪な政治家というよりは生徒を見る教師のそれであった。
あるいはこの人は、元はそういう立場だったのかもしれないと、漠然とロビンは思った。
「デューレンの末裔は普通の人とどこが違うんだ?」
「神聖帝国の歴代の皇帝たちは圧倒的な神の力を行使しえたというが、五王国の王家に流れるその血はそれほど濃くはない。ましてや君はそのさらに傍流だからな。残念ながら一般人と変わるところはないだろう」
ロビンは落胆した。闇の勢力とやらも光神の力で一掃できればよかったのに。
「闇の勢力ってのは?」
「闇神を信奉する連中のことだ。それこそ有史以来、われら光神の信徒とは敵対関係が続いている。ここに来る途中、君は襲撃を受けただろう。やつらがそうだ」
「つまり、おれにセス王子のふりをして聖都まで行けということか。闇の勢力を倒すために」
実際はまだロビンにはよくわからないことだらけだった。
だが、一度に聞いても理解が追い付かないだろう。
「で、その『高貴なる旅』ってのはいつから始まるんだ?」
「明後日、出発に際しての式典が行われる」
これまた急な話だった。
だが、この旅の目的は、偽王子であるロビンを正体がばれる前にさっさと国外に出すことにもあるのだろう。
ならば、旅を始めるのは早ければ早いほどいいのは確かだ。
「だいたいこれで事情もわかっただろう。とりあえず君には今日の午後、陛下にお会いし、祝福を受けてもらう。それまではここで自由にするといい」
「祝福?」
「おっと、いい忘れていたか。『高貴なる旅』を行う者は聖都に赴く前に、各国に立ち寄りそこで王たちの祝福を受ける必要があるのだよ」
「……ほかに疑問はないだろうか。なら、わたしはこれで失礼する。式典の準備があるのでね」
そして内務卿は足早に退室していった。さすがに、一国の重鎮ともなると多忙らしい。