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wonderland/gradual decline  作者: 浅田ぼたん
6/8

wonderland/gradual decline6


―階段の踊り場にある、赤い砂の塊を砕く。

手応えは煉瓦の様に固かったが、何度か蹴りつけている内に、砂の塊には簡単に罅が入る。私たちは四つに割れたそれを乗り越えて、階下へ向かって、階段の残り半分を折り返す。その砂塊が他の砂を塞き止めるダムの代わりになっていたのだろうか、階段の残り半分に殆ど砂は無い。精々、踊り場付近にパラパラと散らばっているだけだ。後は白い急勾配な階段が、真直ぐ地下へと続いている。天井には等間隔に蛍光灯が6つ並んでいる。その内2つは内側から割れ、1つは取り外して持ち去られている。

「狭い階段だな。足を滑らすなよ、赤毛。カナエ、前はどうだ?」

「ええ」

「何か見えたらすぐに言えよ。何か聞こえてもな。ああ、本当に小僧と先頭、変わらなくて大丈夫かよ?小僧の方がお前より腕は上なんだ、それに、耳も目も―」

「ええ」

「…俺の話、聞いてるか?」

「ええ」

「俺様の名前は?」

「ええ」

(スイッチを入れた時に、気付くべきだった)

(言ったら本当になってしまう気がする)

(空気の流れが悪い。それに、黴臭い。もう、随分長い事、換気していないんだろう。空気が重苦しい。吸っても吸っても、息をした気にならない)

(そうでなければ良い)

(幻だ)

「―ぺちゃぱい」

「次言ったら殺すわよ。それと、帰ったら、あんたの全身の毛をガムテープで剥いでやるから」

「…聞こえてんじゃねぇか。恐ろしい事口走るんじゃねえよ。ちゃんと前は見てるか?ボーっとしてんじゃねえぞ。今はお前が先頭なんだからな」

「…ええ、分かってる」

「こんな狭い階段、素早く逃げるなんて出来そうにねえからよ。おまけに、上の方ァ砂塗れだ。今はお前が先頭だ。お前が気付き損ねたら、俺達全員、あっという間にここが棺桶だぞ―」

「―分かってる、分かってるわ」

「…俺様の名前は?」

「クロ」

「良し。ちゃんと目は覚めてるみてえだな。何か見えるか?変な音は?」

「…残念ながら、何も」

階段を降りる。殆ど音は聞こえない。聞こえる音と言えば、私達が動く度に起てる雑音と、ジィジィという蛍光灯の鳴る微かな音だけだ。白い、坑道の様な階段を私達は降りる。その急な角度に、私は落ちていく様な錯覚に捉われる。白い煙突の中に閉じ込められて、滑り落ちていく様な感覚。階段の下に明りが見える。階下にも電気が点いている、と私は思う。

(…今からでも、彼女を説得するべきだろうか?引き返す様に。ここに居てはいけない、この先には何も無い、と―)

(―クロの言う通りだ。どうして私は先頭を歩いている?梔子に変わるべきだ。梔子の方が、私なんかより遥かに強い。武器の扱いも、身体能力も、経験も、何もかも―)

(言ったら本当になってしまう気がする)

(…どうして私は先頭を歩いている?彼女に話すべきだ。話して説得するべき…)

(…見る―)

(―見る為に)

(見る?見るって何を?)

(幻を)

(彼女の弟を)

(―彼女の幻を、彼女よりも先に)

(どうして)

(どうして?)

(どうして。どうして、どうしてどうして、どうして―)

(ああ、分かっている癖に。何が起きているのか、ちゃんと分かっている癖に。本当に、パスワードだけじゃ足りないの?本当に分からない?この先にあるものを、本当に見なくちゃ駄目?スイッチを入れた時に…)

(―彼女よりも先に見て、先に対処しなくては)

(理由はそれだけ?)

(―彼女がショックを受ける前に。彼女が予測できない行動を取る前に。彼女よりも先に確認して、状況を把握して、それに対処しなければ)

(本当は、見たいだけじゃないのか?自己満足の為だけ。私の考えが正しかったと、納得したいだけ。組み上げた推論が正しかったと、答え合わせをしたいだけじゃないのか?)

(…スイッチを入れた時に、気付くべきだったのに…)

(違う―)

(…スイッチを入れた時に…)

(―そうでなければ良い、と思っているだけだ)

(…スイッチを…)

(そうでなければ)

(幻だ)


階段が終わる。

開けた空間に繋がる。廊下だ。窓の無い廊下。150mにも満たない廊下が、昼白色の蛍光灯に照らされて西向きに続いている。校舎廊下の丁度真下の辺りだ。今や校舎は半分程砂に沈んでいるが、嘗ての階層表記に従うのなら、ここは一応地下一階、という事になるだろう。

(『緊急避難区画』。『一般生徒の立ち入り』…)

窓の無い廊下は、上階までよりも少し幅が広い。ワゴン車くらいまでならギリギリ走行できそうな道幅だ。西向きに伸びる、全長150m未満の廊下。廊下の北側には、10の両開きの扉が並んでいる。10の扉。2つの入り口を持つ、5つの教室。

上階までとは違って、地下一階は廊下の床面までもがコンクリートで構成されている。剥き出しのコンクリートの床には等間隔に、4つのマンホールが並んでいる。そして、廊下の突き当たりには1つの扉がある。1つの観音開きの扉。扉の上部にはプレートがある。そのプレートには、恐らくその部屋の用途を示す文字が書かれているのだろう。

(『電力室』…)

私は目を細める。廊下の東隅からでは、その文字を読み取る事は出来ない。

「…一体ここぁ何だ?上の階までとは、随分勝手が違うな。左手の壁に、部屋があるのは今まで通りだけどよ、ここは正面にも扉、床には蓋、と来たもんだ。この蓋は何なんだ?今までぁ無かったぞ。何の為の場所だ、ここァ?『緊急時』…?取り敢えず、どっから調べたもんか…」

「…弟は?私の、弟は―」

「―落ちつけよ、赤毛。俺が知る訳ねえだろ?ま、部屋はこれだけ余ってるんだ、地道に探していくしかねえだろうな。おら、小僧―!」

梔子はクロが呼ぶよりも早く、私達の側を擦り抜けて、最前線に躍り出る。ボウガンを腰溜めに構えて、壁に並ぶ扉を順番に注視していく。私はその動きをぼんやりと目で追う。教室の扉は全て閉まっている様に見える。廊下奥の扉と、4つのマンホールも同様だ。

「―小僧、梔子。なぁ、こいつ、取っ手がある。持ち上げられるか?」

クロが言う。床のマンホールを爪で軽く引っ掻く。酷く不快な音がする。私は顔を顰める。梔子は頷き、クロの元に歩み寄る。廊下をもう一度ぐるりと一瞥してから、ボウガンを床に置き、マンホールの蓋に手を掛ける。

(マンホールの蓋には、芒野原の模様が残されている。文字は書かれて無いみたいだ…)

(…クソ。文字があれば、それが何かのヒントになったかもしれないのに。せめて、製造年月日でも―)

(―年月日が書かれていたとして、それが今更何かの手掛かりになるか?少なくとも、2030年よりも後じゃないと。少なくとも、2030年の7月19日までは、この学校は機能していた…)

(…2030年の、7月19日。あと一日で、夏休みだ…)

梔子が息を止める。背筋が強張る。一瞬の後、マンホールが宙に浮く。誰も居ない床に向かって、梔子がそれを一息に放り投げる。マンホールは、ぐわんぐわんと音を立てて左右に揺れ動き、やがて滑る様に静止する。私はそれを見て、床に落とした10円玉みたいだな、と思う。

(…大きさは変わっても、同じような形なら、あんまり動きは変わらないんだな…)

(大きさが変わっても―)

(―形が、同じなら)

「でかした、梔子。どれ、中身は―?」

私はクロの傍に寄る。背中から、マンホールの穴を覗き込む。穴の向こうは開けた四角い空間になっている。穴の縁に梯子が備え付けられていて、そこから中に上り下りする事が出来る様になっている。中の空間にそこまでの深度は無い。精々、2m30cmか40cm、大人に肩車された子供が、ギリギリ天井に頭を打たない程度だろう。中の空間には、幾つもの棚が設置されているのが見える。私は、軽い眩暈と共に、デジャブの様なものを覚える。穴の中の空間には、幾つもの棚が設置されている。幾つもの棚だ。幾つもの、スチールで出来た棚。棚には、沢山の物資が手付かずのまま放置されている。

(これは…)

「―なんだこりゃ。倉庫か?」

「…みたいね」

「置かれてるのは、何だ?もしかして………」

「もしかして?」

「ほら、あの包み紙を見ろよ。ひょっとして、ありゃ、食料か?」

誰かが私の右肩に触れる。私は顔を上げる。赤毛が私の隣に立っている。赤毛が私の右肩を掴んで、マンホールの中を覗き込んでいる。赤毛は落ちそうな程に身を乗り出して、中を覗き込んでいる。(少し怖い。一緒に穴に引き摺りこまれそうで…)(肩が痛い。彼女の、肩を持つ手が)私は彼女が穴の底に落ちない様に、慎重に重心をマンホールの縁から遠ざける。彼女は穴の底を見ている。穴の底に捨てられた、クシャクシャに丸められた包み紙を。

「見て」

「ケイトさん…」

「見て、羽狩り」

包み紙の周りには鼠がいる。3匹の鼠が私達を見上げている。鼠達は特に逃げる様子も無い。ふてぶてしく私達の方向を眺めている。(…昔見た鼠より、遥かに大きい気がする。錯覚だろうか?)(大きい鼠っていうと…。生憎、鼠に対する知識は殆ど持ち合わせちゃいない。種類だって、ハツカネズミかドブネズミくらいしか…)(…もしかしたら、鼠も“神の柱”に何かしらの影響を受けていたりするんだろうか?喋る猫だって居るんだし)鼠はこちらを気にする事無く悠々と、手近に落ちているものを拾い上げ、それに齧りついている。

(…あれ…)

その焦げ茶色の切れ端は、何かの保存食の欠片の様に見える。

―例えば、ビスケットや乾パンの様な。

「見て、羽狩り。食料よ」

彼女は言う。熱っぽい声で。私の肩を掴む手に、更に力が籠る。

「―見て、食料よ!食料だわ、羽狩り!ああ、あなた言ったわよね、3階の食料に手を付けた跡が無いから、弟は死んでるって―」

「ケイト、」

「―でも、他に食料庫があったとしたら?ここは食料庫よ!弟はここに居たんだわ!あぁ、どうして気付かなかったんだろう、パスワードは私だったのに!あの扉のパスワードは、私の誕生日―」

「ケイト」

「羽狩り、あなた、いつから分かってたの?いつ、私の弟が―」

「―ケイト」

赤毛の名前を呼ぶ。熱に浮かされたように喋り続けていた彼女が、その声で私の方を向く。彼女が私の眼を見る。その瞬間、彼女の顔から、ゆっくりと表情が萎んでいく。私は右肩から、彼女の手を外す。

「羽狩り?」

(話すべきだ)

(確証が無い)

(言ったら本当になってしまう気がする)

(スイッチを入れた時に、気付くべきだった)

(そうでなければ良い)

(幻だ)

私は笑う。

「…羽狩り…?」

クロが全身の毛を逆立てて唸り声を上げる。その声で猫の存在に漸く気付いた様に、鼠達は手に抱えていた物をその場に落としてバラバラと思い思いに逃げ去っていく。私は手の甲で背中を撫で、クロを宥める。穴の底にはクシャクシャの包み紙だけが残る。

「カナエ、あー、どうする?この穴ん中、俺がざっと見て回ってこようか?全員でぞろぞろ行く必要も無ぇだろ。穴の中は暗いが、俺ならテメエと違って、一々明かりを付ける必要も無え。万が一、中で何かに出くわしたとしても、俺なら梯子でもたついて、逃げ遅れたりもしねえしな。こんな位の高さなら、どこか一か所足場に出来れば、そのまま飛び上がって来られるだろうぜ。それに、古今東西、今も昔も、鼠の相手は猫だって相場が決まってるんだ―」

「…いや、別に良いわ」

「―あ?いいって―」

クロが私を見上げる。拍子抜けした様に、口をポカンと開ける。

「―いいって…一体、何が良いんだよ?」

「この下を調べる必要はないわ。どうせ多分、中に何もいないしね。それよりも梔子、廊下北の部屋を調べて頂戴。そっちにも誰も居ないとは思うけれど、一応念の為にね。居を移している可能性もあるし。マンホールの蓋を持ち上げるよりも、扉を開ける方が手早く済むだろうから」

「た…多分って、お前…。キョをウツす?マンホール?お前が何言ってんのか、さっぱり―」

「犯人には目的がある」

「はぁ?」

「犯人には目的があるの。変異体殺しの犯人よ。あれだけ上階で丁寧に変異体達を排除していたんだもの、より本拠地の近いこの階に、他の変異体が居るとは考え辛いわ」

「…カナエ、何を言って―」

ボウガンを拾い直し、再び周囲の警戒に当たっていた梔子は、私の言葉に素直に頷いて見せる。途中、地面に転がっているマンホールの蓋の傍で足を止めると、爪先で軽くそれを叩き、私の方に尋ねる様な目を向ける。

私は即答しようとして、ふと思い直す。暫く逡巡して、結論を出す。

「…良いわ、それはそのままにして置いて、梔子。もしかしたら使えるかもしれないわ。それよりも、北の部屋をお願い。ああ、そっちの扉も開け放しておいて」

「―いいのかよ?どっかの間抜けが落っこちるかもしれねえぞ?」

「?何処か一か所足場があれば、梯子を使わなくても登って来れるんでしょう?」

「俺の事じゃねえよ…!」

噛み付く様なクロの反論に、思わず私は笑みを漏らす。振り被ったクロの前足を、足を引いて避ける。梔子が廊下北側の教室を次々と開けていく。私はそれを横目で見る。誰も居ないがらんどうの教室と、幾つもの毛布が重ねて積まれているスチールラックが目に入る。私は梔子の歩みに合わせて、廊下の奥へと向かう。見るともなく、マンホールの絵柄を見る。残りの絵柄は向日葵と海、桜、雪ダルマと雪山、となっている。

(どうやら、北側の部屋の中身は、寝室みたいだ。避難者が一時的に使う為の、雑魚寝部屋)

(…マンホールの柄、春夏秋冬だな。にしては、順番がバラバラなのは、誰かが適当に閉め直したからか…?)

(他のマンホールも、どれにも文字は無い)

(―本当に、マンホールの下を調べなくても良いのか?もし、この下に、変異体殺しの犯人がいたら…)

(大丈夫。多分。北の部屋から出て来るよりも、マンホールの下から出てくる方が、速度は遅い筈。それに、その為に、梔子には北側の部屋の扉を開けっ放しにして貰ってる。幾らでも迂回は出来るし、逃げ道も作れる)

(それに、犯人はそこには居ない。犯人が居るのは、この部屋だ)

(どうしてそう思う?根拠なんて無い。殆ど勘みたいなものじゃないか)

(―勘じゃない。“シェルター”で、あの映像を見ただろう?)

(…でも、あの変異体は、廊下をうろついていたじゃないか?あの、私達が最初に会った、目玉だらけの変異体は…)

(―全然別の場所をうろついていた)

(それはあの施設が広過ぎたからだ。ここは“シェルター”みたいに、長過ぎる廊下も、地下10階も無い。150mに満たない廊下と、地上3階部分と、地下が1階層あるだけ)

(は犯人にとって特別な筈だ。は犯人にとって…)

(犯人には目的がある。目的を以って、変異体を殺している)

(“今でも彼女を駅で待っている”)

(変異体にも意識がある。断言はできないけれど、変異体にも、意志…の様なものが。例えそれがどれだけ下らなく単純な事でも、例えそれらがどれだけ道理に則していなくとも、彼らはそれに従って生きている様に思える)

(…人間だった頃の、に従って)

(そうでなければ良い)

(幻だ)

(スイッチを入れた時に、気付くべきだった…)

私は廊下の突き当たりの、扉の前に立つ。観音開きの扉だ。扉の上部にはプレートがある。

扉にはこう書かれている。

【電力室】。

(…スイッチを入れた時に、気付くべきだったんだ)

私は彼女を振り返る。彼女は、未だ最初のマンホールの穴の縁に立っている。全ての扉を開け終え、梔子が小走りで私の傍に歩み寄って来る。私は微笑んで彼を出迎える。梔子はブカブカの手袋を嵌めた手で頬を掻き、恥ずかしそうに俯いて含羞む。クロはマンホールの縁に居る彼女の側で、どうするか態度を決めかねる様に、オロオロと私と彼女を見比べている。

彼女は笑っている。

―歯を食い縛って、彼女は笑っている。

歯を食い縛り、歯茎を剥き出し、目を限界まで見開いて。彼女は笑っている。震える肩を抱き、彼女はまるで笑っている様に見える。

私は彼女を見る。

(…嘘を)

(嘘を、吐くべきだった)

―嘘を吐くべきだったと、そう思う、今更ながら。

(それが正解だった)

(それが正解だったのか?)

(それが正解だったのかも…)

1階で、白い粉末になった、変異体の死体を見せて。これがあなたの弟だと。靴に関して何らかの尤もな理由をでっち上げ(もう片方の靴も捨てたか、一緒に粉末になったんだ、と説得するのが早いだろう。変異体は肉体以外は粉末にはならないが、彼女がそれを知っているとは思えない)、納得させるべきだった。彼女はここに死を受け入れに来ていた。私はそれを、邪魔するべきでは無かった。

(“死体を見なけりゃ、幻を見るのよ、いつまでも…”)

(“幾ら私にだって。最初から分かってたわ。ずっと知らないふりしていたの…”)

(“…あの子を弔ってあげたい。あの子の死を、ちゃんと…”)

(“…ちゃんと悼んであげたいのよ”)

―邪魔するべきでは無かった、とそう思う。

(話すべきだ)

(話すべきじゃない)

(確証が無い)

(邪魔するべきじゃ無かった。進むべきじゃ無かった。あの扉を、開けるべきじゃ無かった)

(考えるべきじゃ無かった。パスワードを考えるべきじゃ無かった。扉を開けるべきじゃ無かった)

(話すべきだ)

(…言いたくない)

(言ったら本当になってしまう気がする)

(そうでなければ良い)

(そうでなければ良い)

(そうでなければ―!)

(幻だ)

「ケイトさん」

私は言う。

廊下の突き当たりの、【電力室】を指差して。

(スイッチを入れた時に、気付くべきだった)

「行きましょう。あなたの弟が、この先で待っています」

(幻だ)

(都合の良い幻だ)

(幻だと良い)


廊下突き当たりの、扉の前に立つ。柔らかなクリーム色に塗られている、観音開きの扉だ。扉の上部にはプレートがある。扉にはこう書かれている。

(…【電力室】)

扉の取っ手に触れ、軽く押してみる。扉はビクともしない。溜息を吐いて、今度は手前に強く引っ張ってみる。扉はガチャガチャという金属音と共に、頑なな抵抗感を私の手元に残す。それでも尚も何度か、扉を引いてみる。やがてビッ、ビッ、ビッ、という鋭い警告音と共に、聞き覚えのある声が私の頭上から降って来る。

『警告。コノ扉ハろっくサレテイマス。無理矢理開ケヨウトシテハイケマセン。正規ノ方法デ解錠シテクダサイ―』

『コノ先ハ電力室デス。用ノ無イ方ノ立チ入リハ御遠慮願イマス―』

『警告。コノ扉ハろっくサレテイマス。無理矢理開ケヨウトシテハイケマセン。正規ノ方法デ解錠シテクダサイ―』

『コノ先ハ電力室デス。用ノ無イ方ノ立チ入リハ―』

「―何ヲシテイルンデス、アナタ方?」

私は上を見上げる。頭上には、スピーカーフォンやマイクといった様なものは何も見当たらない。無骨な剥き出しのコンクリートの天井があるだけだ。私は灰色のコンクリートの天井を見上げて考える。

(…ペリカンさんの声だ)

ペリカンさんの声が聞こえる。一階で、地下への階段を解錠した時に聞こえた、定型文を繰り返すシステムボイスと違って、今度のはちゃんとこちらを認識して話しかけて来ているみたいだ。つまり彼の自慢の生体反応の検知システムとやらは、この地下階層までを網羅しているのだろう。

(…当然か。検知システムは学校の敷地内を完全にカバーしている、とか言っていたし…)

(―それに、元々は不審者や不審物対策のものらしいから。教職員なんかが侵入者に捕まって、地下への扉を無理に開けさせられた場合、地下に逃げられたので感知できません、じゃ困るもんなぁ…)

(…でも、一階部分じゃ特に接触無かったよな。未だ校外に出てないのは、分かっていただろうに。もしかして、一階部分の検知システムは一部壊れているんだろうか?そう言えば、変異体が派手に暴れた跡だらけだった…)

「ココデ何ヲシテイルンデスカ、アナタ方ハ?」

「久しぶりね、ペリカンさん」

「アナタ方ハ目的ヲ達シタ筈デス。私ハソノ為ニ最大限ノ助力ヲ致シマシタ。速ヤカニ校外ニ退去シテ下サイ」

「ねぇ、私達、この先に進みたいの。扉を開けてくれる?」

「拒否シマス。私達ハ互イノ利益ノ為ニ相互協力体制ヲ築キマシタ。私ハアナタ方ノ目的ノ為ニ最大限ノ献力ヲ果タシタ筈デス。今度ハアナタ方ガ、約束ヲ履行スルベキデショウ」

「私達の依頼人が、この中に用があるの」

「拒否シマス」

「この中に何があるの?」

「質問ヲ拒否シマス」

「どうして入ってはいけないの?」

「質問ヲ拒否シマス」

「…この中に、誰が居るの?」

「質問ヲ拒否シマス」

私は苦笑いと共に、肩を竦める。最初から当てにしていた訳ではないが、ここまで取り付く島が無いとは思わなかった。私は天井から視線を降ろし、【電力室】の扉の周りを仔細に観察する。もしかしたら、私は自分で思っていたよりもずっと、この感情豊かなAIに、多くの期待をしていたのかもしれない。

(…でも、所詮はシステムだ。どれだけ人間的に見えても。予め決められた尺度に従って、周囲の出来事に対応しているに過ぎない)

(どれだけ人間的に見えたって)

(―大昔の、何処かの誰かが決めた尺度に従って)

探していた物は直ぐに見つかる。上の階にもあったものだ。一階で、地下への階段を施錠していたもの。タッチ式のテンキーパネルだ。0~9までの数字が器具下部のパネルに並んでいる。テンキーの上部に細い差し込み口があり、そこに一枚のカードが斜めに差し込まれている。

(…ここにもカードが差しっ放しだ)

(呆れるくらい、大らかな防犯意識だな…)

(念の為、一応カードは上から持って来てたけど、【某 淳一郎】、必要無かったな…)

(―さて、肝心の、パスワードの方は…)

私はタッチ式のテンキーパネルを覗き込む。テンキーパネルは上階のものと同様、幾つかの数字に血が滲んでいる。全く、本当に、呆れるくらい大らかだ。呆れるくらい愚かで大らかだと、私は微笑う。

―血の付いている数字は、1、2、8、0、だ。

「ケイトさん」

「あ―う」

「そうですね―弟さんの誕生日は、何時でしょうか?」

「………お、弟の、誕生日?」

「そうです、弟さんの誕生日です」

「私の弟の?」

「ええ、私に弟は居ませんし」

テンキーパネルから顔を上げる。廊下の後ろを振り返る。私の隣で梔子が、声の出所を特定しようと、躍起になって首を伸ばしている。私は彼の肘を突き、廊下の前と後ろを警戒する様、手で示して注意を促す。梔子は素直に頷き、ボウガンを胸の高さに構え直す。

―廊下の中程に、彼女は居る。

地下一階の廊下の中程で、前にも後ろにも行けずに、赤毛は立ち止って自分の足元を見ている。肩は力無く垂れ下がり、掌は軽く握り込まれている。嗚咽ともしゃっくりとも判別の付かない音を、彼女の喉が鳴らしている。彼女の足元に寄り添う様にクロが立っている。クロは不安そうな顔で彼女を見上げている。クロが彼女の足元を周る度、彼女の喉がひっく、ひっくり、と不思議な音を立てる。

「…ケイトさん?」

「わ―私の、弟?」

「ええ」

「わた、私の弟の誕生日?」

「ええ」

(スイッチを入れた時に、気付くべきだった…)

(幻)

(【裏切り者】)

(犯人には目的が―)(3階には子供部屋)(そうでなければ良い)(言ったら本当に―)

(―人間だった頃の、何か)

(…ここには電力がある)

(こんなに施設がボロボロの状態で、無人になって久しい建物で、未だ稼働し続ける動力源がある)

(『電力室』。あの黒板を使うには、電気が要る。問題なのは、その電力が未だに供給されている事だ。、)

(―この世界が、こんな風になってどれくらい?この“扉”の、こちら側の世界が、こんな風になってから)

(…2030年の、7月よりも後。夏休みの、一歩前…)

「…弟の、誕生日を知ってどうするの?誕生日はまだ先よ」

「分かっています。私が知りたいのは日付だけですよ。それさえ分かれば、無駄な労力を省く事が出来ますから」

「―無駄な、労力…?」

「考えられるパスワードは三通りです。別に総当たりで試したって良いですけど、出来ればあなたの口から聞きたいんですよ」

(―ここはシェルターと同じだ。ここは、シェルターにそっくりなんだ…)

「警告シマス!相互協力体制時ニ結ンダ、約束ノ履行ヲ求メマス。速ヤカニ校舎外ニ退去シテ下サイ。アナタ方ニ15分ノ猶予ヲ与エマス。速ヤカニ校舎外ニ退去シテ下サイ。モシ時間ヲ過ギタ場合、管理者権限ニ従ッテ、各ぱすわーどヲ変更シ、アナタ方ニ適切ナ措置ヲ―!」

(『電力室』。あの黒板を使うには、電気が居る…)

(ここの動力は、きっと、多分…)

「―お、おい、カナエ、どうすんだ?なんかペリカンの野郎、物騒な事言い始めたぜ!?15分だとか、パスワード変更とか、措置だとかよ。え、どうすんだ、どうしたらいい?パスワードが変わっちまったら、俺ら、ここから出れなくなっちまうんじゃねえのか?い、一旦出直すか―?」

「…気にしないで、クロ。どうせ彼に大した事は出来はしないわ」

「―あ?なんでそんな事が―?」

「彼が何かを出来たなら、そもそもこんな事にはならなかったからよ」

(…どれだけ技術が進歩しても、人間は根本的には変わらない、という事だろうか)

(所詮はシステムだ。どれだけ感情豊かに見えても、ユーモアたっぷりのジョークを言う事が出来ても、どれだけ親しみ易くても。予め決められた尺度に従って、周囲の出来事に対応しているに過ぎない)

(どれだけ人間的に見えても)

(彼に出来るのは、パスワードの変更と、校内の異物の検知と、それと、喋る事だけ)

(それだけだ。多分、本当はたったそれだけ)

(信じる事は出来なかった)

(全てを預ける事は出来なかった。不具合を恐れたんだ。予想外の事態が起こるのを恐れた。手綱を放す事を恐れたんだ)

(…パスワードの変更にも、条件があるみたいだ。『電力室』のパスを、今直ぐに変更して仕舞わない所を見ると。多分、中に誰かいる時には、管理者権限とやらでもパスワードを好き勝手に出来ないのかもしれない。安全面を考えれば、それも当然かもしれないが)

(…若しくは、パスワード変更なんて、最初から出来ないのかもしれない)

(―大昔の、何処かの誰かが決めた尺度に、今も…)

(だから彼には何も出来なかった。今回も、それから、前回も…)

「―警告シマス!ソノ扉ヲ開ケルノヲ止メ、速ヤカニ校舎外ニ退去シテ下サイ―!」

「ケイトさん」

「あ―」

「ケイトさん、誕生日を」

「い―言いたくない。言いたくないわ」

彼女は言う。

私は彼女を見る。

彼女は顔を上げている。咽の音も止んでいる。眼を真っ赤にして、疲れた様な顔で、彼女は笑っている。指先の関節の色が白く変わる位、彼女は強く拳を握り込んでいる。私は首を傾げて彼女を見る。

「ケイトさん、」

「言いたくない」

「…この先に行きたいといったのはあなたでしょう?」

「言いたくないのよ」

私は瞬きをして彼女を見る。彼女は真直ぐに私の眼を見つめている。赤い前髪が彼女の片目を隠す。クロが彼女の足元で何かを言いあぐねる様に背伸びをする。胸の中で何かが燻る様な感覚がする。私は振り返り、『電力室』の扉に左手の指先で触れる。

(…どうして私は、この先に行きたいんだろう?)

(彼女は望んでない)

(―もう、彼女は望んではいないのに)

(幻だ。都合の良い幻)

(言ったら、本当に―)

(―幻なら良い、と思っている)

(胸の奥がムカムカする。腹の底で得体の知れない獣が吼え声を上げている。この扉を引き千切ってやりたい。扉を紙細工みたいにクシャクシャに丸めて、この部屋の中を覗いてみたい―)

(…腹が立つ。私は何に対して、こんなに怒っているんだろう?漠然とした怒りがある。何かを思い切り叩き壊したい。彼女にありったけの銃弾をブチ込みたい)

(咽の奥に、怒りがある。マグマの様に、煮え滾る怒りが)

(―感情を上手くコントロール出来ない。もしかして、“神の柱”の影響だろうか?変異しかかっているんだろうか、私は…?)

(…違う。上手くは言えないけど、これは多分、昔から私の内に在ったものだ。それが今、表面化してるだけ。思えば私は、昔からずっとこうだった気がする。小学校の肝試しの時も、両親が離婚する時も、それから、陸上部を辞めた時だって…)

(幻)

(私は―)

(…何を望んでいるんだろう、私は)

「―警告シマス!ソノ扉ヲ開ケルノヲ止メ、速ヤカニ校舎外ニ―!」

「…その扉の先には、何があるの?」

彼女は言う。

私は『電力室』の方を向いたまま、彼女の声を聞く。

「―私、怖いわ、羽狩り。何が怖いのか、自分でも良く分からないけれど」

「…」

「さっき言った事は本当よ。本心…だと思う。弟に会いたいわ。例え、死んでたとしても。ちゃんと弔ってあげたい。もうこれ以上、都合のいい夢を見ていたく無いの」

(…幻を)

(幻を見ている)

(幻を、本物だと思いこもうとしている。都合の良い幻を。私にとって、都合の良い幻)

「―オ仲間ノ言ウ事ヲ聞クベキデス!アナタ達ハ部外者デス!アナタ達ニ、コノ先ニ進ム権利ハアリマセン!回レ右シテ、速ヤカニ校舎外ニ―!」

「良いお姉ちゃんじゃなかったけど、最後くらい、せめて身内らしい事を―」

「…」

「―羽狩り、あなたには何が見えているの?この先には、何があるの…?」

彼女の声が止む。私は扉から手を放す。コートのポケットから拳銃を抜く。安全装置を外して、銃口を下に向ける。

「…羽狩り?」

「分かりませんよ。私はエスパーじゃないんだ。私にだって、分からない事くらい、ある」

「嘘よ。あなた、ここに降りて来てから、ずっとピリピリしてる。検討ぐらい付いてるんでしょ?どうして上の扉、私の誕生日がパスワードだったの?どうして…」

「…」

「どうして…私の弟の―誕生日を聞くの?」

「あなたが決めて下さい」

扉の方を向いたまま、私は彼女に言う。胸の奥で、何かが沸き立つような感覚を覚える。大人だったらこういう気分の時、酒を飲んだりするんだろうかと、ぼんやりと考える。

「行くか、戻るか。引き返しても、誰もあなたを責めたりしない。依頼人はあなたです。私達は、その決定に従うだけ。この先に進んでも、望む物があるとは限りませんが。それでも、一つの決着を用意する事は出来ます」

「…」

「お、おい、カナエ、俺にゃあ何が何だか―」

「―アナタ方ハ引クベキデス!アナタ方ハ本校ノ関係者デハアリマセン!アナタ方ニ、コノ扉ニあくせすスル権利ハ―!」

「…あなたに任せるわ、ケイト。あなたの判断に」

「―警告シマス!ソノ扉ヲ開ケルノヲ止メ、速ヤカニ校舎外ニ退去―!」

喚き立てるペリカンさんの声の合間を縫って、彼女の声が私の耳に届く。とても小さくか細い声だったが、その声は不思議と耳の中ではっきりと響く。

「8月。8月の、12日」

「―警告シマス!ソノ扉ヲ開ケテハイケマセン!漸ク落チ着イタ所ナンデス!彼ハ本当ハ、トテモ大人シクテ、良イ生徒デ―!」

私は彼女の言った数字を、パスワードパネルに入れていく。0812。ガチャコ、と噛み合った金属が解ける様な音がして、天井からペリカンさんと全く同じ声で、システムメッセージが聞こえて来る。

『ぱすわーどヲ受理シマシタ。扉ヲ開キマス。少シ下ガッテ、オ待チクダサイ―』

「―扉ヲ開ケナイデ、オ願イデス!彼ハ病気ナンデス、キットモウ少シデ回復スル筈デス!彼ヲ、ソットシテ置イテ下サイ、彼ハ私ノ、最後ノ―!」

私は拳銃を構え直す。隣で梔子が、『電力室』の扉の先に向けてボウガンを構えるのを、私は目の端で確認する。私は『電力室』の、扉の取っ手に手を掛ける。

『少シ下ガッテ、扉カラ離レテ、オ待チクダサイ―』


扉を押し開く。

扉は音も無く開いていく。

扉の奥に光が見える。

扉の向こうには円形の空間が広がっている。剥き出しのコンクリートに囲まれた、円形の空間だ。天井は廊下部分よりも、1m半は高く造られている。床は扉と同じクリーム色をしている。円形の部屋の中央に、ドーナツみたいに小さな穴がぽっかりと開いている。穴からは光が立ち昇っている。五月の新緑の様に濃い緑色の光だ。その光の根元に向かって、大人の腕程もある太いケーブルが数本、穴の中に無造作に垂らされている。

(…やっぱり―)

(スイッチを入れた時に、気付くべきだった…)

(―あれは、“炉”だ)

緑色の光の揺らめきに、頭の底の方を擽られる様な感覚を覚える。何かを忘れている様な気がする。とても大事な、それ無しでは人生の意味が180度変わってしまう様な、何かを。

(―眼を閉じろ。光を直接見るな…)

(ここで意識を持っていかれる訳にはいかない。この中に奴がいる筈だ。変異体殺しの犯人が)

(…スイッチを入れた時に、気付くべきだった。ここには電力がある。こんなに施設がボロボロの状態で、無人になって久しい建物で、未だ稼働し続ける動力源がある。あの黒板を使うには、電気が要る。問題なのは、その電力が未だに供給されている事だ。、。この世界が、こんな風になってからどれくらいが経つ?この“扉”の、こちら側の世界が、こんな風になってから、どれくらい?)

(ここはシェルターに似ている。ここは、シェルターにそっくりなんだ…)

(世界がこんな風になっても、稼働し続ける動力が必要だ。あの黒板が動き続けるには。世界がこんな風になってから、どれくらい経つ?2030年の7月から、この世界はどれくらいの時が経ったんだ?)

(あと一日で、夏休み―)

(…ここの動力は、“炉”だ。あれが、この学校の電力を保っていた)

「―おい、ありゃ一体―クソッタレ、全員、目を伏せろ!あれを直接見るんじゃねえ!梔子、ゴーグルを付けろ!カナエ、赤毛、お前らはこっちに―!!」

眼の奥に映像が閃く。目の前に老人が立っている。白髪で、顎にはたっぷりと髭を蓄え、小さな背中を丸めた老人だ。いつか見た人だ、と思う。前にシェルターで“炉”を目にした時にも、同じ幻を見た。幻の中でしか、見た事の無い人。会った事も無い、名前も知らない。なのにその姿だけで、締め付けられるように胸が痛む。

(…クソ、今は、こんなもん見てる場合じゃ―)

(―あなたは、誰?)

(目が痛い。目の奥が熱い)

(―しっかりしろ!目を覚ませ!思い出せ、私はここに―!)

(懐かしい、懐かしい。あの人は、私の―)

(………クソッタレ…!!!)

老人は、前に見た時とは違う姿をしている。よれよれのワイシャツと、灰色のスラックス。地味なベルト。

―それに、銀色の手錠をその枯れ枝の様な手首にしている。

老人は悲しそうな顔でこちらを見ている。私は右手に拳銃を握っている。刑事ドラマで見た事ある様な、小型の回転式拳銃だ。確か、ニューナンブとかいう名前だったような気がする。拳銃の銃把に、途中で千切れた撥条状のストラップの様なものがぶら下がっている。銃口からは、煙が立ち昇っている。

私の足元には死体がある。死体の背中には、小さな穴があいている。

『どうして来たんだい?』

老人は言う。

『…来てはいけないとあれ程言ったじゃないか。決して、来てはいけないと…』

私は。

―引き金を引く。

瞼の中の老人が、悲しそうに微笑んで、霞んでいく。今あった事が、現実の事か、幻の中の出来事か、判断に迷う。何処までが現実で、何処までが幻か。指先が少し痺れている。平衡感覚が急激に戻って来る。火薬の臭いがする。私は歯を食い縛って、その場に踏み止まる。

(…クソッタレ)

(目を覚ませ。頭は大丈夫か?変異してないか?)

(1+1=2。7×3=21。3.14159265。食べられないパンは、フライパン)

薄らと目を開く。クリーム色の床が見える。もう老人の幻は見えない。火薬の臭いがする。足元に空の薬莢が一つ転がっている。私は覚束無い足取りで、部屋の中央へ向かって、一歩踏み出す。

「―カナエ!?おい馬鹿、何をトチ狂ってやがる!こっちに戻って来い!今直ぐに―!!」

(…引き金を引いたのは、現実?)

(足元に死体があった)

(落ちてる薬莢は一つ。二発撃ったわけじゃない)

(あのお爺さんは誰?どうしてこんなに、懐かしいの…?)

(…これを考えるのは今じゃない。考えるべきは―)

(―無意識に引き金を引いたんだ。そのお陰で、現実に帰って来れた。運良く銃口が足元に向いていて良かった。もし、誰かを撃っていたら―)

(…足元に死体があった。死体の背中には、穴があった。丁度、銃口くらいの、小さな穴が。あの人は、手錠をしていた…)

(―これを考えるのは今じゃない、叶。目を覚ませ。頭は正常か?身体の方も、ちゃんと動くか?)

―穴の縁が見えた所で、足を止める。光を出来るだけ目に入れない様に、俯き加減に顔を上げる。額の内側で、何かがチカチカと瞬く様な感覚がする。私は奥歯で舌を噛み潰して、その感覚を忘れようとする。拳銃を腰溜めに構える。咽の奥で、何かが煮え滾る様な感じがする。

“炉”の縁に人影が見える。“炉”の縁に、誰かが座っている。

(…犯人には目的がある)

(生体反応は3つ)

拳銃を握り直す。銃口を更に持ち上げる。“炉”の縁に座る人影の、胴体辺りを狙う。銃を握り直す微かな音で、向こうは私に気付いたのか、ゆっくりと人影は私の方へ振り返る。

(犯人には目的がある。目的を以って、変異体を殺している)

(“今でも彼女を駅で待っている”)

(変異体にも意識がある)

人影は小さくて痩せっぽちで、殆ど裸同然の恰好をしている。左右別々の靴を履いて、下半身にカーテンを引き裂いた様なものを巻いているだけ。胴体は肋骨が浮き出ていて、手首から下は2本の腕の骨が見て取れるくらいだ。肌は所々擦り剥けて、赤くなっている。右足に赤と白のピカピカの運動靴を、左足には彼の足と比べて随分と小さな、踵部分が潰れた、干泥の様な色の靴を履いている。

(生体反応は3つ)

(検知システムは、学校の敷地内を完全にカバーしている)

少年は私を見る。私は銃口を逸らさずに、彼の動きを見据える。年の割には貧相な体躯をしている、と思う。浮き出た腰骨が痛々しい。身長だって、140も無いかもしれない。少年は膝を抱えて床に座り込んだまま、動く風景を見る様に私の事を眺めている。少年は左足に小さな洗い晒しの靴を履いている。少年は真っ赤なぼさぼさの頭髪をしている。彼女と同じ、燃えるような真っ赤な髪の毛を。

(変異体にも意識がある。断言はできないけれど、変異体にも、意志…の様なものが。例えそれがどれだけ下らなく単純な事でも、例えそれらがどれだけ道理に則していなくとも…)

(彼らはそれに従って生きている様に思える)

「―入って来ないで」

「?」

「入って来ないでよ。ここは僕とお姉ちゃんの街なんだ。勝手に入って来ないで」

「街…?部屋じゃなくて?」

「そうだよ。街だ」

(生体反応は3つ)

(検知システムは学校の敷地内を完全にカバーしている)

(彼の自慢の、生体反応の検知システムとやらは、この地下階層までを網羅している…)

(彼に出来るのは、パスワードの変更と、校内の異物の検知と…)

(―それと、喋る事だけ)

「邪魔するなよ。入って来ないで。僕はお姉ちゃんにこの街をプレゼントするんだ。その為に、頑張って綺麗にしたんだから。だから勝手に入って来ないでよ。また掃除するの、大変なんだから」

そう言って、少年は拗ねたように下唇を突き出して、私を睨む。その様子が、あんまりに赤毛にそっくりだったもんで、私は思わず笑ってしまう。

(変異体にも意識がある。断言はできないけれど、変異体にも、意志…の様な―)

(例えそれがどれだけ下らなく単純な事でも、例えそれらがどれだけ道理に則していなくとも…)

(彼らはそれに従って生きている様に思える)

(…人間だった頃の、に従って)

「笑うな。僕にとっては、大事な事なんだ」

「…御免なさい。あなたのその顔が、あんまりにお姉さんにそっくりだったから」

「―お姉ちゃんを知ってるの?」

「ええ」

「お姉ちゃん、この街喜ぶかな?お姉ちゃん、ずっと僕の為に、頑張ってくれてたから。僕が居なかったらどんなに楽だろうって、いつも言ってたんだ。僕が死んでくれたら、もっと楽に生きられるって」

「…そんな、そんな事言ってない、私は、私はただ―!」

私は首だけを赤毛の方に向ける。口元に人差し指を立てて、彼女を黙らせる。彼女の傍らで、ゴーグルで目元を覆った梔子が、私の傍に来るか、赤毛の傍に付いたままでいるか、迷う様に視線を泳がせる。私は掌を広げて、梔子をその場に押し留めるジェスチャーをする。梔子は短く頷いて、ショルダーバッグから予備の矢束を取り出す。クロが何か言いたそうに口元を震わせる。私は微笑んで、少年に視線を戻す。

「良いお姉ちゃんなんだ。大好きなお姉ちゃんだよ。誕生日には、いつも僕の大嫌いなカボチャのパイを焼いてくれるんだ。とっても良い臭いがするんだよ。それから、お姉ちゃんはクリスマスプレゼントに靴を買ってくれたんだ。ずっと僕が欲しがってたの、しっててくれたんだよ。ピカピカのカッコいいヤツさ。僕の足にぴったりだよ」

「…」

少年は満足そうに、右足の靴の爪先を撫でる。満足そうな笑顔で、右足の、赤と白のピカピカの運動靴を。

「お返しに、僕もお姉ちゃんに靴を買ったんだ。盗んだんじゃないよ。靴磨きの仕事で、頑張ってお金を貯めてね。宝石みたいなピカピカのハイヒールさ。お姉ちゃんはとっても喜んでくれてね。一度もその靴を履かなかった」

「違う、私、違うの、ピート。私、本当に嬉しかったの、本当よ。だから、あの靴、汚したくなくて―!」

「お姉ちゃん、ずっとあの街を嫌いだって言ってた。この街は、私達から奪うばかりだって。だから僕が新しい街を作ってあげるんだ。僕とお姉ちゃんだけの街さ。他にはもう誰も居ない」

「…」

「綺麗に掃除したんだ。僕達だけの街だ」

(生体反応は3つ)

(検知システムは学校の敷地内を完全にカバーしている)

(彼の自慢の、生体反応の検知システムとやらは、この地下階層までを網羅している…)

(彼に出来るのは、パスワードの変更と、校内の異物の検知と…)

(―それと、喋る事だけ)

(それだけだ。多分、たったそれだけ)

(それだけが問題なんだ。問題だったんだ)

少年が立ち上がる。少年の右手が、沸騰する様な音を立てて静かに膨らんでいく。小さな痩せぎすの子供の腕が、一回り大きく膨らんで、やがて電柱程の太さになる。劈く様な赤毛の悲鳴が聞こえる。私は苦笑を浮かべ、彼女の弟の生身の部分を狙って、二度、引き金を引く。

「お姉ちゃん、生きていくのが苦しいって。僕に食べさせてくのが苦しいって。お金を稼ぐのが苦しいって。だからここに、僕が特別な街を作ったんだよ。イービーが手伝ってくれたんだ。特別な街さ。もうお金はいらない、あの綺麗な緑の光の中で、僕とお姉ちゃんは永遠に暮らすんだよ」

―金属音がする。火花が散る。少年は少しだけふら付くが、尚も無事にそこに立っている。少年の肌が変異しているのに、私は気付く。銃弾の当たった部分の肌が、オレンジと黄色の混ざった斑模様の鱗で覆われている。

(…銃弾が効かない、と来たか。さて、どうしたもんかね…)

私は小さく溜息を吐き、諦め悪く、今度は三発の銃弾を放つ。またも弾かれる様な音がして、少年の肌の上で火花が散る。少年は私の銃弾など意も解さずに喋り続ける。銃弾の当たった部分が、再び鱗で覆われていく。

「羽狩り、もうやめて、ピート、私が…」

「トウゴウテキシュウマツがくるまでね。僕とお姉ちゃん、死ぬまで永遠に暮らすんだ」

「私が悪かったわ。もうお金も要らない、あなたが―」

「もう辛い目に会う事も無いよ。あの緑の光で、お姉ちゃんも僕と同じに生まれ変わるんだ」

(…スイッチを入れた時に、気付くべきだった)

(所詮はシステムだ。どれだけ感情豊かに見えても、ユーモアたっぷりのジョークを言う事が出来ても。どれだけ親しみ易くても。予め決められた尺度に従って、周囲の出来事に対応しているに過ぎない)

(どれだけ人間的に見えても)

(―ジョークというのは、相反する事実や、現実には起こり得ない事柄、それに、時には比喩なんかも用いなければいけない会話様式だ。人間が意識もせずにやっている事を、機械にやらせるにはどれ程の苦労があるだろうか。その為に、一体どんな尺度を与えられたのだろうか)

(…子供達の会話に、AIを不自然無く混ぜる為だろうか。最初の目的は分からない。でも、その為に、このAIは思わぬ副産物を手に入れた)

(相反する事実や、現実には起こり得ない事柄を口にする為に)

(生体反応は3つ)

(喋る事だけ)

(それだけだ。多分、たったそれだけ)

(それだけが問題なんだ。問題だったんだ)

(予め決められた尺度に従って)

(『私ニハ本校ノ全テノ関係者ノ権利ヲ守ル義務ガアリマス―』)

(『漸ク落チ着イタ所ナンデス!彼ハ本当ハ、トテモ大人シクテ、良イ生徒デ―!』)

(ペリカンは彼女の弟を生徒として認識していた。どういう経緯があったのかは分からないが、彼はペリカンに生徒だと思われていた…)

(2030年の7月19日―)

(―その時に、変異体はもうこちらの世界の何処かに居たんだろうか?シェルターや一時避難施設を造るくらいだ、“神の柱”の脅威はある程度認識されていたのかもしれない。でも、変異体は?何処かに生まれていた?居たとしても、世間にその存在を認知されていただろうか?もし知られていたとしても、それと人間との違いを、AIに正しく認識される事が出来ていたのだろうか?)

(予め決められた尺度に従って、周囲の出来事に…)

(『変異体?テンシ?でーた不足。認識出来マセン…』)

(…ペリカンは、変異体と天使の存在を知らなかった。。だからペリカンは自分の尺度に従って、生徒である赤毛の弟の情報を守る為に、意図的に情報を隠蔽した…)

(生体反応は3つ)

(喋る事だけ)

(【裏切り者】)

(―嘘を吐けるAIだ。ペリカンは、嘘を吐く事が出来るAIなんだ)

「あなたが―居れば。居れば、それだけで…」

「僕もだよ。良かったね、僕達、これから幸せになれるんだ」


(予め、決められた尺度に従って…)

(【裏切り者】)

(…ペリカンは、変異体と天使の存在を知らなかった。両者と人間との違いを認識できないんだ…)

(殆どの教室の黒板が壊れていた。無事だった黒板はたった2枚だけ。殆どの教室の黒板が壊されていた。多分それが彼らの、ささやかな…)

(3階には子供部屋があった)

(子供部屋の黒板に、私の胸の高さも無い位置に、鈍器での打撃跡と、血痕が…)

(彼らは善良なグループだった。嘗てずっと前に、ここにいた彼らは)

(こんな状況下でも、子供を見捨てていない。一番安全な最上階に、子供達の部屋を―)

(善良さは美徳でも、生きるのに必ずしも、必要では―)

(小さな死体。白骨死体よりも一回り小さい、変異体の…)

(ペリカンは自分の尺度に従って、生徒を守る為に…)

(大人達はさぞ混乱しただろう。変異したのは、多分、彼らの―)

(クソ喰らえだ)

(幻…)

(形―)


「…パンはパンでも、食べられないパンは?」


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