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wonderland/gradual decline  作者: 浅田ぼたん
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wonderland/gradual decline5


「…何やってたんだ、お前ら?」

「別に。窓を調べていたの。開いている窓はありましたか、ケイトさん?」

「―駄目ね。全部閉まってる。こんだけあるんだもの、ひとつぐらい開いててくれても良いと思うんだけど…」

4番目の教室の前に立つ。東から数えて、4番目の教室に。教室の前で、クロと梔子と合流する。クロは、私の母が『春の新色リップ』を三種類買った時の父みたいな顔をして、私達を出迎える。

(“…おい、どうして口紅が3本も居るんだ?”)

(知るか。私に聞くなよ)

(―あの頃の父さんと母さんは、小さな事で喧嘩が絶えなかった…)

梔子は私と赤毛が傍に来たのを見届けてから、ボウガンを足元に置き、直ぐに4番目の教室の、東側の扉に手を掛ける。梔子はクロと違って、私達が窓硝子を調べていた理由には興味無いらしい。

(…全く、相変わらずだな。現実主義というか、合理主義というか…)

(まぁ、ゴチャゴチャ質問されなくて助かるけど。私も何て言えば良いのか、分からないし…)

(扉の隙間は、さっきよりも狭い。梔子の歯がカチカチと噛み合わさる音が聞こえる。いつもは優し気に細められている目が、今は力んで見開いている―)

3度、梔子は大きく息を吸い込んで、5cm程の扉の隙間を、漸く15cmまで広げる。私は、梔子の足元で教室の中の様子を窺うクロの脇腹を、指先でトントンと突く。クロは身を縮め、悲鳴の様な声を上げて、その場を飛び退る。気持ち悪そうに突かれた脇腹を鼻先で擦り、私を睨み上げる。

私は指先で教室の中を指し示す。

クロは私の指先を目で追う。教室の中に視線を向け、喉の奥で小さく呻き声を上げる。

「…分かってんな?俺様が、もしも俺様が危なくなったらだ―」

「分かってる分かってる。大丈夫、早く行って来な」

「―必ず助けるんだぞ。いいな、必ずだぞ!?」

「大丈夫、大丈夫。ね、梔子?」

梔子は扉に寄り掛かり、未だ血の気の引かない頭をふら付かせて、力無く頷く。それを見てクロはより一層、不安な顔をする。私は入り口で足踏みするクロの尻を叩いて、彼を教室の中に押し遣る。

「あ、テメ、この―」

「手早く済ませて。その分だけ、安全になるんだから。他に何が居るか分からないんだし」

「…クソ。カナエ、覚えてろよ。いつか復讐してやる」

「楽しみにしとくわ」

廊下の左右を確認する。動く物は何も見当たらない。壁を這う、虫の影ですら。私は梔子を見る。梔子は足元からボウガンを拾い上げ、私の方に向かって、ぶかぶかの手袋を嵌めた手をひらひらと振って見せる。

「…これ以上開けるのは、無理そう?」

梔子は考える様に小首を傾げ、暫くして、曖昧に頷く。

(…自信は無い、って感じか?)

(まぁ、教室はもう一つある。ここで力尽きられても困る…)

「分かったわ。見張りをお願い」

(つっても、扉の幅は15cmくらい。援護射撃なんて、上等な物は私には出来ない)

(さて、どうするか…)

扉の隙間に張り付く。中を見る。中の様子は、最初に見た教室よりも、かなり荒れている。(…何だこれ。何か暴れたのか、ここ…?)教室は南側半分が砂に埋まっている。教室の北側へ行くほど、砂の堆積は低く、少なくなっていく。まるで海岸みたいだ、と思う。(赤い海岸線。ホラー映画のタイトルみたい…)海岸の様な教室の中に、幾つかの机が置かれている。今までの教室では殆ど見なかった、小学生用の小さな机や、椅子。教室には本来、不可欠な筈の物。(多分、他の校舎棟に保管されているんだろう。そして、この棟にある机は、3階のバリケードを作る為に、殆ど接収された…)部屋の中にある机はそのどれもが、例外無く裂けたり、砕けたり、押し潰されたり、或いは引き千切られたりしている。椅子も同じだ。無事な物は何一つとして無い。

(これは…)

(―どう考えるべき?)

壁や床には、血痕が残っている。所々、でも、見逃しようも無いくらいに。(…東側の壁、罅が入ってる)(床にも所々、斑点模様)(何かがここで暴れた)(暴れたなんてもんじゃないな、これは。何かがここで…)

(何かがここで―戦ったんだ)

「クロ?」

私は教室の中に呼び掛ける。少し遅れて、クロがそれに答える。

「あ―ああ。何だ、カナエ?」

「ただの確認よ。なんにも言わないから、もしかして死んでるんじゃないかと思ってね。どう、何か見つかった?」

「いや、それが―砂が多くて、」

「黒板は?」

「あ?ああ―あの、黒い壁の事か。ここの壁は、まぁ、多分使えねぇぜ。何かがぶつかったみたいな跡が付いてる。クソ、一体、何があったんだ?何があったらこんな跡が付く?大砲の弾でキャッチボールでもしてたのか?ああ、それに、血が付いてる」

「―血?」

「ああ。血だ。赤いし、それに、臭いがする。血の臭いがよ。まぁ間違いねぇな。もう乾いて随分みたいだがよ、え?一体、誰がこんな―」

「砂は?砂の中は?」

「今見てる。ちょっと待ってな。全く、忙しない女はモテねぇぜ?」

「仕事の遅い男もね。良いから早くして」

「………お前はもう少し、優しさってヤツを身に付けても良いんじゃねえか?船長だって言ってたぜ、『優しさってのは、タダで出来る唯一の施しだ』ってな」

「私も知り合いから言われた事あるわ、『無料より怖い物は無い』って。どう、何か見つかった?」

「ああ」

クロが言う。さっきまでしていた、クロの砂を掘る音が止まる。私は拳銃を構える。15cmの扉の隙間に、首を捻じ込めない事が悔やまれる。(…クソ、ここからじゃ、クロの姿が見えない…)一応、安全装置を外す準備はしておく事にする。何かあった時の為に。チラリと梔子の様子を見る。梔子は砂の上に立ちあがって、廊下の左右を抜かり無く見張っている。その表情に変化はない。私は微笑む。教室の中に目を向ける。

「何があったの?」

(…想像は付く)

「砂だ。あの色が違う砂だよ。さっきとおんなじ、白い砂だ。やっぱり砂っていうより、粉みてえだけどな。何だろうな、これ?ここら辺特有の砂か?でも、なんかどっかで、見た事ある様な気も―」

(ここで何かがあった)

(―、)

(ここで戦闘があった)

(この教室で)

(【裏切り者】)

(…ああ、クソ、この教室は、この場所は、この建物は―)

「―クロ、聞いて良い?」

「なんだ?」

「その白い砂の傍に、靴は無かった?」

「靴?」

「彼女の弟の靴よ」

赤毛が息を呑む音が聞こえる。私はそれを無視する。教室の中で、クロが鼻を蠢かせる、ふんふんという微かな音と、土を掘り返す音だけが聞こえる。私は頭を抱える。考えの整理が追いつかない。

(…また、新たな死体)

(何かが起きた。何かが起こっている。何が起こってる?)

(血痕。壁には罅。誰かが戦ったんだ)

(大砲の弾でキャッチボールを)

(何が起こってる?何が起きた?何でこんな事に?)

(【裏切り者】―)

(…起こった事を冷静に見極めるんだ。事実だけを見て、冷静に、何があったのか―)

(事実?事実ね。どれが嘘でどれが事実か、どうやって量れば良いっていうんだ?)

「あー、カナエ?」

「どうだった?」

「靴は無い。靴は見当たらねえな、この辺りには。残念ながら」

赤毛が溜息を漏らすのが聞こえる。私は小さく笑う。一旦、考えるのは後回しにする事にする。(…これ以上考えても、得られる物は何も無さそうだ)(頭が痛くなってきた)(何かが起こってるのは確かだ。気を引き締めろ。警戒するんだ。石橋は、叩き壊すくらいが丁度良い―)

「…なぁ。あー、その、カナエ?」

「クロ。もうひとつ、聞いても良い?」

「…。まあ、構わねえがよ。手短に頼むぜ」

「教室の中に、机があるでしょう?壊れた机の破片が。破片はどれくらい深く、砂に埋もれてる?」

「破片?破片ねぇ。そうだな、机の脚なら、半分くらい埋まってるのもあるが―破片の方は、大体が砂の上に転がってるぜ。埋まってる方が少ねぇんじゃねえか?あ、突き刺さってるのならあるぜ、砂山に槍みたいに、グッサリとよ―」

「そう。ありがとう、クロ。戻って来て」

(戦闘が起こったのは、つい最近だ)

(机の破片が、砂に埋もれる間も無いくらいの、つい最近)

(ここで誰かが戦った。誰かが、変異体と)

(誰が?)

(分からない。それは分からない。でも、今度の変異体も、赤毛の弟くんじゃない)

(…死体の傍に、靴が無い)

(根拠はそれだけ?彼は校舎の3階で、右足側の靴を捨てた。左足の靴も、同じ様に何処かに捨てただけじゃないのか?)

(…起こった事を冷静に見極めるんだ。靴を捨てたかどうかは、まだ分からない。何処かで捨てた靴を拾うまでは)

「その、うー、ああ、そのよ、カナエ」

「?」

「俺からもひとつ、質問があるんだが」

「何?」

「この白い…白い粉、な。これ、もしかして―もしかすると、よ」

「ああ。あなたも気付いた?」

「………………お前に、靴を探せって言われてな。お前、一体いつから気付いてた?」

「最初から」

「………お前はもう少し、優しさってヤツを身に付けても良いんじゃねえか?船長も言ってたぜ、『優しさってのは―』」

「さっきも聞いたわ、それ。残念ながら私、他人に施すタイプじゃないみたいね」

「お前、絶対ロクな死に方しねえぞ」

「自分でもそう思うわ。お疲れ様、クロ」


「お」

クロが声を漏らす。私は砂の上から、クロの胴体を抱え上げる。クロは腕の中から私を見上げ、束の間嬉しそうな顔をして、言う。

「見ろよ、カナエ。開いてるぜ」

私はその言葉に答える代りに、クロの頭を左手で撫でる。

顔を上げる。

5番目の教室。東から数えて5番目の教室の前に、私達は立っている。2つある扉の内、東側の入り口は、今まで開かなかった扉と同じ様に内側に拉げている。西側の扉は、今までと違い、最初から目一杯開いている。

「やったなぁ。ここだけ全開だ」

誰も返事をしない。梔子が一歩踏み出して、教室の中を覗き込もうとするのを、私は片手で制する。私は足元を指差す。扉の足元を。

教室へと繋がる西の扉の足元へ、砂の斜面が続いている。斜面の表面には、綺麗に砂が無い部分が広がっている。

―スコップで掘ったみたいに、綺麗に砂の無い部分が。

(…さっき階段から見た時は、ここまで見えなかった)

(廊下の端の方だったし、薄暗かったし、それにほら、砂の色が赤いから。赤は膨張色だ。膨らんで見えるし、影の陰影が見分け難い。表面の凹凸を見逃し易い―)

(…全く、一体誰に言い訳してるんだ?クソ、自分で自分に腹が立つ。今まで何も起こらなくて良かった―)

(『…あの扉が開かなくなったのは、別に最近の事じゃありません。ここに砂が溜まり始めたのも。だとしたら、部屋に入ったのなら、そこには跡が残る筈―』)

(誰かがここを開けた。誰かがここに入った。誰かがこの教室に―)

(『―部屋の内側に砂が滑り落ちた跡。恐らく、スコップで掘ったみたいに、綺麗に砂の無い部分が』)

(―この教室の中に、が居るだろうか?この階にある死体を作った何か。変異体を殺したが)

(音は聞こえない。さらさらと、砂が流れる音がする。さらさらと、砂が流れる音だけが―)

(…今でも、教室に砂が流れ込んでいるんだ)

「羽狩り、」

か細い声で、赤毛が私を呼ぶ。私は唇の前に人差し指を立てて、その先を遮る。考える。(暑い)(この扉が開いたのはつい最近)(クロの毛が肌に吸い付いて気持ち悪い)(どうするのがベストだ?考えろ)瞼の上から眼球を擦る。右手の指先が、ナイフや拳銃の冷たさを探して、彷徨う。

(この扉が開いたのはつい最近)

(生命反応は3つだけ。ここに居るのは私達だけ)

(どうするのがベスト?)

―バスッ。

と。

梔子が、私の鼻先で、ぶかぶかの手袋を嵌めたまま、指パッチンの真似事をする。

私は驚いて彼を見る。梔子は緩やかに目を細めて私を見ている。短くなったマフラーを鼻先に持ち上げ、自分の耳の下辺りを人差し指でコツ、コツと叩く。次に、教室の中を指差し、人差し指と中指で、×印を作る。

(…この中には、何もいない?)

(信じて良いの?)

(最初に変異体に出会った時、梔子は気付かなかった。最初の変異体は砂の中に潜んでいた。動いているなら良い、でも、もし隠れているのなら、待ち構えているのなら―)

(梔子には―気付けないんじゃないか?分からないんじゃないのか?)

私は腕の中のクロを見る。クロは5番目の教室の入り口を眺めている。再び上げたクロの顔は、今更ながらその状況の意味に気付いたみたいに、次第に強張り始める。

私は笑う。

(…だったとしても、今更疑ったって、しょうがないか)

(目も耳も、私達の中じゃ、梔子が一番なんだし―)

(―それに、梔子がこういう風に、向こうから自分の考えを示唆するのって、初めてな気がする。思えば、いつも私が聞いて、梔子はそれに応えてばかりだった。聞けば教えてくれるんだけど、でも、基本的に梔子は受け身で、自分の考えを言う―)

(―示す―)

(―事はなくて)

(…ああ。いい加減、覚悟を決めろ、叶。疑い深いのは生来の性分だとしても、だ。お前はもう少し、彼らを信じるべきだ。信じる事を覚えるべきだ)

(信じる事が、例えどれだけ怖くても)

(…あのメモの事も、言うべきだった)

(【裏切り者】)

(信じるべきだ)

(今までどれだけ、命を助けられたと思ってる?一体今までどれだけ、命を賭けさせて来たと思ってるんだ?)

(…私達はチームだ。そして私は、このチームの一員だ。そうだろ?)

私は腕の中のクロを持ち上げ、自分の肩に乗せる。梔子の肩を叩き、頷いて見せる。梔子は小さく頷き返し、砂の中から足を引き抜いて、教室への斜面をゆっくり滑り降りて行く。

私は拳銃を構える。

「羽狩り、私は―」

「ケイトさんは、ここで待っていて下さい」

「―え?ここで?でも―」

「大丈夫です。5つある部屋の内、2つは無人を確認してますし、もう2つは密室なのを確認済みです。廊下の方がよっぽど安全ですよ」

「…だけど、私―」

「あの密室が内側から開いたり、他の某かの危険に襲われたら、私達に構わず、直ぐに階段上に避難して下さい。上階の安全は確認済みです。新たな変異体や、天使が迷い込んでいる可能性もありますがね」

「…それは、また、心強い発言ね…」

「そりゃどうも。弟さんを見つけたら、お呼びします」

彼女に手を振る。斜面に足を掛ける。滑ってる最中に放り出してしまわない様に、クロの背中を手の平で押さえる。クロが不服そうに、低い声を漏らす。

「あ―」

彼女が言う。

私は振り返る。

「―その。キ―気を。気を付けて」

「ええ。あなたも」

砂の斜面を滑り降りる。心地良い浮遊感を臍の辺りに感じる。スノボーで緩やかな斜面を滑る感覚に似ている、と思う。

(…まぁ、似た様なもんか。あれだって、坂を滑り降りるもんだし)

(ボードがありゃ、砂の上で真似事が出来るかもな…)

(―何かの金儲けのネタになりそうだな。サンドボード。略してサンボ?サンボー?何か、間抜けな響き…)

斜面の底に着く。私達は教室に足を踏み入れる。


懐中電灯を目の高さに構える。

教室の中をざっと照らし出す。部屋の中に、私達以外には動くものは無い様に思える。(…けど、油断は禁物)教室の中心に立っている梔子が、私の方を見て眩しそうに目を瞬かせる。私はそれに構わず、教室の中で懐中電灯の光を往復させる。暗闇を部屋から掃き出そうとするように。

(…前の変異体は、砂に埋まっていた…)

教室の中を一通り確認する。暫くして私は、この部屋に変異体が潜むのは、極めて困難である、という結論を出さざるを得なくなる。自身を透明化したり、或いは壁や天井に擬態出来る程、体積を薄っぺらく出来ない限りは。

(最初に会った変異体は、砂の中に隠れていた…)

(―砂…)

(その、砂が―ここには無い)

教室の中は綺麗だった。勿論、今までの教室と比べて、幾らか綺麗だ、というだけだ。埃一つ無いとか、自分の姿が映る位床が磨き上げられているとか、そういう意味じゃない。

(…けど、なんというか…教室に持つ印象としてはちょっと変わってる気もするが、何だか、清潔な感じがする)

机と椅子は、教室の隅―開かない扉の側、東端へ寄せて、一塊に並べられている。教室の北側、窓がある筈の場所には、廊下の窓硝子を塞いでいたのと同じシャッターが、一様に並んでいる。(…何なんだろうな、これ)(前にここに居たグループが、ここに施した改修か?それとも、ここの施設の、元からの設備?)(元からのだとしたら、これ、何の為の設備なんだろう?)(変質者の侵入を防ぐ為―にしては、大袈裟すぎると思うけど。防火用?)

(何にせよ、このシャッターのお陰で、ここは未だ砂に沈んでいない…)

西側の壁―黒板は、一目で機能していないのが分かる。ナイフで大きくバッテンに傷が付けられていて、その中心に、果物ナイフが突き刺さっている。その真下の、黒板の縁。本来は、チョークや黒板消しが置いてある場所に。

―剥き出しの、頭蓋骨が置いてある。

(…まるで祭壇だな、こりゃ)

(気味が悪い)

頭蓋骨は、多分そのままじゃ黒板の縁に乗らなかったからだろう、丁寧に四分割されている。額から上下に分けて二等分、鼻から左右に分けて縦に二分割。互いの目が向かい合う様に中心に顔の部分が置かれ、その隣に、食べ残しの西瓜の皮みたいになった頭頂部が置かれている。四分割された頭蓋骨を左右から挟む様に6本の骨が並んでいる。多分腕の骨だろう。(手首から肘に掛けてと、肘から肩に掛けて)(何て言うんだっけ?上腕骨と―確か、手首から肘に掛けて、二本の骨があるんだよ。内側の骨が、確か尺骨で―)

(…外側だったっけ?)

その6本の骨を囲う様に、また外側に別の6本の骨が置かれている。内側にある6本よりも幾らか長く、太さも一回り上だ。(…多分、足の骨)(足の骨には詳しくない。大腿骨くらいしか―)

足の骨の外側には、バラバラにされた足や指の骨のパーツが細々と並べられている。黒板の縁の下には、背骨や骨盤、肋骨等が、可能な限り分解されて飾られている。どうやら、この悪趣味な展覧会を開いたものは、相当な熱意を以ってこの作業を行っていたらしい。(背骨が、こんなにバラバラになって…)(幾つあるんだろう、これ)(肋骨は24本。肩の骨も、下に置いてある。選考基準は、何?)

教室の中に、砂は無い。ある砂と言えば、つい最近、誰かが西側の扉を開けてこの部屋に侵入した際に、一緒に外から入ってきた砂の山だけだ。教室の中に、他に砂は無い。私は梔子の方を見る。声を出さずに、梔子に尋ねる。梔子は静かに二度、首を横に振る。私は少しの間考えて、念の為、砂の小山を蹴っ飛ばす。

「―おい、カナエ、何を―?」

赤い砂が部屋の中に巻き上がる。私の肩の上で、クロが我慢できずにくしゃみする。私は砂の小山の中身を見る。砂の中には何も無い。私は舌打ちする。

「―テメエ、急に何しやがる、やるならやるで、先に言いやがれ、先に―!」

梔子の傍に寄る。梔子は教室の中心に立っている。私は梔子の隣に立ち、足元に懐中電灯の明かりを向ける。

梔子の足元には、絨毯が広がっている。オリエンタルな絵柄の絨毯だ。茶色や黒や紫を中心にした、空飛ぶ絨毯イメージする時に、思い浮かべる様な柄の絨毯。

その上に、二つの亡骸が横たわっている。

「………あ?なんだ、こりゃ。こいつぁ―」

ひとつは、人間の死体だ。人間の白骨死体。黒板に飾られているのとは全く違う、普通の白骨死体。(…そもそも、白骨死体が普通じゃないんだけど)(不味いな、私。ちょっと麻痺して来てる…)普通の、一揃いの、白骨死体だ。ここで横たわって死んだのだろう。足を窓側、頭を廊下の方に向け、首を黒板側に傾け、左手をそちらに伸ばして仰向けに死んでいる。

―その、隣に。

その左腕に、抱かれる様にして。

(?)

「―どうしてこんなことになってる?どうしたら、こんな風に―?」

もう一つの亡骸が横たわっている。白骨死体の隣に。白い粉の亡骸だ。骨よりも一回り小さい、白い粉の残骸。塩みたいにも見えるが、塩よりも汚く、のっぺりとした白色をしている。

(変異体)

(…変異体の、死体)

「…ああ、クソ、訳が分かんねぇ。どうしたらこうなる?習性を利用した罠か?それとも、寝込みでも襲われたってのか―?」

私はその場にしゃがみ込む。二つの死体に当てているライトを動かす。人骨の頭部を照らす。眼窩の窪みにライトの光を入れようと少しの間、試みる。頭蓋骨からその隣へ、恐らく変異体の頭部があっただろう場所へと、ライトの向きを僅かに変える。

そこには血痕がある。一応乾いてはいるみたいだが、ペンキを引っ繰り返した様な、ドロリと生臭い血の痕だ。変異体の頭があっただろう場所に、白骨死体の左手を飲み込む様に、血溜まりが出来ている。(…臭いが)臭いがする。鼻の奥を突く様な、錆びた鉄の様な臭い。私は指を伸ばして、血痕に触れる。「ゲ、おい―」血痕は半固形化している。触れると、押し返す様な弾力がある。その弾力に、腐った卵を連想して、思わず吐きそうになる。血痕から指を放す。指先に、何かが付いている様な感覚が拭えない。コートで拭く気にはなれなくて、私は彼らが横たわっている絨毯の裾で、指先を拭く事にする。指の先がヒリヒリと痛むまで、私は絨毯の裾で血痕に触れた部分を拭き続ける。

(…何が)

(何が起こった。何が起こってる?)

(どう考えたら良い?どうしたらこうなる?変異体が、然したる抵抗の痕も無く―)

(クロの言う通りだ。訳が分からない。習性でも利用された?骨を与えられたら、大人しくなる変異体だったとか?まるで犬みたいな―)

(―動物も変異するんだろうか?)

(…可能性は無い訳じゃない。変異の条件が分からないんだ、“神の柱”という以外には。そう考えると、犬の変異体という線も、有り得ない話じゃない気がする。だとすると、死体の粉の量も、前に見た時より少ないのも納得できる。前に見た時は、もうちょっと―)

(…大人の人間大くらいの、量があったと思う)

(靴が無い)

(―死体の傍に、靴が無い)

(これは弟くんの死体じゃない、という事だ。今までの推論に従うなら。この変異体は彼女の弟くんじゃない。犬かどうかはさて置いて)

(…起こった事を冷静に見極めるんだ。骨の祭壇は放って置け。この変異体の死因も、一先ず置いておくんだ。起こった事を冷静に見極めろ。事実だけを冷静に―)

(変異体が殺されている。ごく最近の事だ。この建物内で、この一階で、変異体が、立て続けに)

(…犯人は、天使?)

(未だ分からない)

(犯人は、人間?)

(未だ分からない。でも、多分違うと思う。ペリカンさんは言っていた、『この建物にある生命反応は3つ』だって)

(…『他には無い』、とも)

(高性能な検知システムだとしても、所詮は機械、効果は絶対という訳じゃないだろう。抜け穴も誤作動もあるかもしれない。が、果たして人間にそれが出来るだろうか?)

(熱探知は、熱の放出を抑える物を着て誤魔化すとか、体温の下がる物を摂取したり、身体に泥を塗ったりと、色々あるかもしれないけれど…)

(雑音検知と、音波の反射から人間が逃げ果せるのは不可能だ。特に、雑音の検知。人間は生きてる限り、音を出し続ける生き物だ。どれだけ息を顰めて隠れた積りでも、呼吸や脈拍、意識の埒外の、体の微細な動きまでは止める事が出来ない。他に校内に沢山生徒が居るなら未だしも、今ここにいるのは、たったの三人と、猫の1匹だけ―)

(…そういった意味じゃ、一番天使が犯人像に近いのかもしれない。変異体には血が流れているけど、天使は死体に寄生しているだけだ。熱探知と雑音検知からは、既に外れてる―)

(…けど、天使がそんな、こそこそと隠れる様な事をするだろうか?イメージにそぐわない気がする)

(事実だけを見ろ。私が知る天使は、この前会った一個体だけだ。もしかしたら、あれだけ好戦的な方が特殊だったのかも―)

(聖狩)

(…狩りだと言っていた。この前会った奴は、人間を殺すのが、神聖な狩りだと。私たちを、神に捧げる供物だとか何とか―)

(―一体、どんな神様だか知らないが)

(どうなんだろう。未だ分からない。でも、『聖なる狩り』という言葉のイメージと、目の前の状況は合っていない気がする。この目の前の死体なんか、寝込みを一撃―)

(…本当に寝てたかどうかは、分からないけど。でも、致命傷を喰らって、殆ど微動だにしていないのは確かだ)

(こいつは一撃で死んだ)

(…じゃなかったら、こいつは抵抗して、もっと暴れている筈だ。周囲にはもっと跡が残るだろうし、隣の白骨死体だって、こんなに完全にパーツが揃っていない。この白骨死体は、どっちが頭でどっちが足か分かる位、綺麗に一揃いに、形を残して死んでいる…)

(…形を)

(形…)

見る。ぼんやりと、変異体の死体を見る。そのまま見ていると、気付きたくない事に気付いてしまいそうな気がして、私は目を逸らす。懐中電灯の光を持ち上げる。梔子が驚いた顔をして私を見る。

「行こうか」

「あ?行こうかって―俺達ぁお前待ちだったんだよ、なぁ、梔子?それに…お前、何か分かったのかよ、この部屋の事?なんか変だぜ、この部屋。薄気味悪ィというか」

「さあね。それをこれから考えるの」

私は立ち上がる。教室の外へと歩を向ける。背中に梔子の付いて来る音がする。

(小さな死体。白骨死体よりも一回り小さい、変異体の死体)

(…前に見た変異体の死体は、大人の人間くらい、粉の量があった)

(“今でも彼女を駅で待っている”)

(黒板の前の、人骨を分解したのは何の為?絨毯の上の、白骨死体がそのままなのは、何の為?)

(白骨死体は黒板の方を向いていた。黒板の方に腕を伸ばしていた)

(変異体は、白骨に抱かれる様にして死んでいた)

(―3階。3階には子供部屋があった。子供と、その母親達の部屋だ)

(彼らは善良なグループだった。嘗てずっと前に、ここにいた彼らは)

(こんな状況下でも、子供を見捨てていない。一番安全な最上階に、子供達の部屋を―)

(【裏切り者】)

(善良さは美徳でも、生きるのに必ずしも、必要では―)

(“だから私は待ってるんだ。今でも彼女を駅で待っている”)

(小さな死体。白骨死体よりも一回り小さい、変異体の…)

私は目を閉じる。吐き気にも似た怒りが咽を焼く。それ以上、考えないようにする。

(【裏切り者】)

(小さな死体。白骨死体よりも一回り小さい、変異体の死体)

(彼らは善良なグループだった。3階には子供部屋があった。子供と、その母親達の)

(絨毯の上の白骨死体がそのままなのは、何の為?)

(“今でも彼女を駅で待っている”)

(然したる抵抗の痕も無く)

(変異体は、白骨に抱かれる様にして死んでいた)

(“だから私は待ってるんだ。今でも彼女を駅で待っている”)


教室から出る。5番目の教室から。坂の上に彼女が居るのが見える。スコップで無造作に削って作った様な坂の上で、赤毛がその場にしゃがんで私達を待っている。

私達を見るなり、彼女が勢い良く立ち上がる。彼女の表情が、目紛るしく変化するのが見える。安堵、微笑、不安、葛藤。恐怖と諦め。後悔と、逃避。色々な表情が一辺に彼女の顔に同居する。それを見て、小さな頃、父に買って貰ったスノードームの事を私はぼんやりと思い出す。硝子玉の中に広がる風景は、何度振っても違う景色に見えて、どれだけだって眺めていられた。

―一日中だって、眺めていても飽きなかったくらいだ。

(…あれ、何処に仕舞ったんだったっけ…)

彼女が固く目を閉じる。唾を呑む音がする。

「………居たの?あったの?」

「いえ」

私は砂の坂に足を掛ける。予想通りというか想像通りというか、当然の様に、靴の裏で砂がずるずると滑る感触がする。(…ま、そりゃそうだよな。“扉”のこっち側の砂は、向こうの砂と違って、粒が荒い…)(…前にもこんな事あったな。滑る砂の山を登る羽目に。自然のロードランナー…)(…蟻地獄の獲物になった気分)私の気持ちを知ってか知らずか、クロが私の傍らを抜けて、坂の上に駆け上がっていく。(…このヤロ)(―そういや、梔子は大丈夫かね?ここの砂、表面はかなり柔らかい。梔子は踝辺りまで沈んでいた。物体を上から下へ運ぶ場合、体積が重い物を運ぶ時程、固い足場が必要な筈…)ちらりと梔子を振り返る。梔子は私の気持ちを知ってか知らずか、私の傍らを擦り抜けて砂の坂の上に駆け上がっていく。

(…この野郎…)

坂を登り切った梔子は振り返って、私の方にぶかぶかの手袋を嵌めた右手を差し出す。私はどうしてだか、その手を振り払いたい衝動に囚われる。(…どんだけガキなんだ、私は?)(年寄り扱いされてる気がする)(私はおばあちゃんかっての)(私だって、走って登ろうと思えば、登れるんだ。そうしたくないだけで)(諦めろよ。他意はない。好意だけだ)私は苦笑いを浮かべてその手を握る。梔子が私を坂の上へ引っ張り上げる。

「え?」

「部屋の中は無人でした。あの中に、弟さんの遺体はありませんでしたよ」

部屋にあった亡骸の事は伏せておく事にする。3つの亡骸。2つの白骨死体と、変異体の死体。梔子が驚いた顔をして私を見る。私は視線を向けて、その表情を黙らせる。クロは素知らぬ顔で、私の発言を聞き流している。

(話したって、彼女を混乱させるだけだ…)

(…私だって、混乱してる)

(起こった事を冷静に見極めるんだ。起こった事を冷静に見極めろ。事実だけを冷静に…)

(…黒板の白骨死体を殺ったのは、多分、あの変異体だろう。それか、もう1つの白骨死体か。殺して、分解して、黒板の前に飾り付けた。どっちにしろ、昔の話だ。前のグループがここにいた時か、彼らが去ってしまった後かは、分からないが)

(骨に肉が付いていない)

(骨に肉が付いてない。だったんだ。彼らが死んだのはかなり昔だ。今回の件には関係ない。白骨死体達は、かなりの大昔に死んだんだ)

(―変異体と違って)

(血に弾力があった。。あの変異体はつい最近、あの部屋で殺された)

(他の部屋にも死体があった。変異体の死体が。どの部屋も、殺されたのはつい最近だ。つい最近に見えた)

(犯人には目的がある)

(犯人は天使?)

(犯人には目的がある。目的を以って、変異体を殺している)

(―あの部屋の変異体、5番目の教室の変異体は、あの部屋で暮らしていたんだ。白骨死体と同時期に入居したか、後から棲み付いたのかは分からないが。その時既に、黒板前のバラバラ死体があったのかも)

(小さな死体。白骨死体よりも一回り小さい、変異体の死体。3階には子供部屋が…)

(…これを深く考えるのは止めよう。この件を深く考えると、吐き気がする)

赤毛が少し、起こった様に唇を尖らせる。私は彼女を見る。彼女の瞳が、疑り深く私の眼の奥を探る。

「私に、気を遣ってるんだったら―」

「―あなたに気を遣って、私に何の得が?今更取り繕うものもありませんし。信じられないなら、部屋の中を見て来て貰っても結構ですよ。部屋の中は安全ですから」

―むう、と益々唇を尖らせ、彼女は黙ってしまう。ベルトに挟んだ弟の靴の、踵の部分を爪で引っ掻く。だったら、と口を開いて、彼女は言う。どこか投げ遣りな調子で。目だけが泣き出しそうに揺れている。

「―だったら、弟は何処なの?」

(…分からない―)

(―とは、流石に言えないか。仕方ない…)

「…少し戻って、あの、さっきの開かなかった部屋を調べましょう」

「でも、あの部屋に居る確率は低いんでしょう?限りなく0だって。それに、窓ガラスは全部閉まってたし」

「―それでも、調べていない部屋は、もうあそこしかありませんから。窓硝子は…まぁ、割るしかないでしょうね。クロ、梔子、戻るわよ。2番と3番の部屋の窓硝子を割るわ。周囲を警戒して―」

「―それに、窓を開けたら、跡が残るって。あなたが言ったのよ、そう言ったのに。この部屋の扉の前みたいに、砂が高い所から、低い所に流れるんでしょう?窓の前に、跡は無かったわ。跡はここだけ。ねぇ、羽狩り、私達、きっと何かを見落としているんだわ―」

「―梔子。クロ?」

名前を呼ぶ。

梔子はちょっと困った顔をして私を見る。ぶかぶかの手袋を嵌めた手を持ち上げて、指差す。廊下の奥を。

廊下の奥にはクロが居る。

廊下の奥の壁には、染みが広がっている。赤黒い染みが。その染みに重なる様に、クロが立っているのが見える。色に同化する様に、色に反発する様に。クロは廊下の奥に立って、右手側を覗き込んでいる。廊下の突き当たりの角を、北側に折れた先。

(廊下の奥には、特別変わった所も見えない。間取りは上階と同じか?廊下は全長で150mも…)

(間取りは、上階と同じ…)

―廊下の西側の突き当たりは、T字型に分かれている。

(?)

私はクロに歩み寄る。クロの背中の上から、曲がり角の先を覗き込む。懐中電灯の光を向ける。

そこには跡がある。

(開けたら、跡が残るって。あなたが言ったのよ、そう言ったのに。この部屋の扉の前みたいに、砂が高い所から、低い所に―)

(私達、きっと、何かを見落として―)

(内側に砂が滑り落ちた跡。恐らく、スコップで掘ったみたいに―)

(スコップで掘ったみたいに―綺麗に砂の無い部分が)

曲がり角の先には扉がある。廊下の外枠一杯に広がる、大きくて無骨な鉄扉だ。扉は所々塗装が剥げ、所々がムラになって、下手糞に塗り重ねられたペンキが棘の様に飛び出している。扉には文字が書かれている。扉へと続く道は、途中から斜面になっている。鉄扉の足元へ、なだらかな砂の斜面が続いている。斜面の表面には、綺麗に砂が無い部分が広がっている。

―スコップで掘ったみたいに、綺麗に砂の無い部分が。

「…なぁ、よう、カナエ」

私はクロを見る。足元のクロを。クロは鼻先を不安そうにヒクつかせながら、私に尋ねる。

「―あの扉の模様、前にも見た事ある気がするんだが。なぁ、何て書いてあるんだ、アレ?」

私は扉を見る。黄色と黒の、斑模様に塗り分けられた、その扉を。少しだけ分かり掛けてきた、と思う。朧気に、この場所で何が起きたのか。この場所で昔、何が起こったのか。

私は扉の文字を読み上げる。

「『緊急避難区画/電力室。コノ先緊急時以外、一般生徒ノ立チ入リヲ固ク禁ズ』」

「なんだそりゃ。セイト…?そういや、ペリカンの奴もそんな事言ってたっけな―」

「…少なくとも、私達の事じゃないわ。安心して」


(…教科書)

(この建物の中には、教科書があった)

(学校だから、当然かもしれない。もしかしたら、元からあったのかもしれない。彼らはそれがあった事に気付いてすらいなかったかもしれない。だから、目の前の事とそれを結び付けるのは、早計かもしれない)

(―でも、3階の。3階の、あの部屋に―)

(3階には子供部屋があった。子供と、その母親達の部屋…)

(―絵本が―)

(子供部屋には絵本があった。絵本の切れ端が。教科書が教室にあるのは当然かもしれない。でも、絵本が教室にあるのは、どうしてだろうか?)

(…黒板…)

(誰かが持ってきたからだ。図書室か何処かから、誰かが子供部屋に。どうして?そりゃ、絵を眺めて楽しむことだって出来るだろう。でも、大概の場合、本は読む為に、読まれる為にある―)

(…【裏切り者】…)

(―。少なくとも、文字が読める者が居る集団だった。2階で拾った地図には走り書き程度しか無かったから、読解能力がどの位あったかは正確には分からないけれど。短い文章を読む事は出来た、と思っても良いだろう。有り得ない話じゃ無い、あの烏頭のディガーだって、文字を読む事は出来る訳だし)

(―この世界の識字率は、どの位なんだろう。江戸時代の識字率が、確か、8割くらい―)

(…黒板。あの黒板は電子黒板だった。私はその事について、もっと深く考えるべきだった…)

(『電力室』。あの黒板を使うには、電気が要る。問題なのは、その電力が未だに供給されている事だ。、)

(…“シェルター”…)

(…スイッチを入れた時に、気付くべきだった…)

(もし、文字が読めなかったなら。何も迷う事は無いだろう。でも、もしもあの文字が読めたのなら。あの先に、何があるのかを知らなければ)

(―もし、知っていたとしても―)

(…扉を開けてしまうんじゃないだろうか?電気で何が出来るのかを知っていたとしたら。スイッチ一つで灯りの点る生活を、取り戻したい、と願ってしまうものじゃないだろうか?)


扉に触れる。

黄色と黒の、斑模様の扉に触れる。扉は所々ペンキが剥がれている。剥がれた部分を手塗りで何度も塗り直したのだろう、触ってみると、黄色と黒の部分で、プリント2、3枚分位も厚みが違うのが分かる。私は膨らんだ黒の塗装に爪を立てる。ペンキの表面は堅く、爪跡も残らないが、爪の内側に黒い塗料が粉末となってくっ付いているのが見える。

(崩れかかってるんだ…。勝手に、崩れ始めている)

(塗り直されてから、大分経っているみたいだ。前に塗り直されたのは、いつ?)

(生憎、ペンキの使用期限には詳しく無い…)

扉には文字が書かれている。

扉の上部には文字が書かれている。天井に接するくらいのギリギリの場所に、ペンキの塗られてない場所があって、そこに3枚の白いプレートが埋め込まれている。それに文字が書かれている。画一的な黒いゴシック文字だ。個性を感じさせない字体で書かれた文章のプレートが、縦に3枚並んでいる。

『緊急避難区画』

『電力室』

『コノ先緊急時以外、一般生徒ノ立チ入リヲ固ク禁ズ』

(…手書きじゃ無い)

(プレートに手が加えられた様子は無い。。この学校はあれを何処かから購入して、この扉の上部に取り付けた…)

(―『緊急避難区画』、『電力室』…)

(…つまり、この学校は、当初からあの扉の向こうを、プレートに書かれている通りの目的で使う積りだった、って訳だ…)

(プレートは既製品―)

(『緊急避難区画』)

(…それは、この学校は設立当初から、そういった目的を兼ね備えて造られていた、ってことか?)

(この学校の歴史は6年と半年程度。少なくとも私の知り得る限り、データに残っている限りでは―)

(黒板に残っていた【教材】フォルダの作成日は、2022/3/26、最終更新は2030/7/19…)

(途中で改装されたのかも。最初からそういった目的で造られていたにしては、この校舎は脆過ぎる気がする。この扉や、扉の先は別にして、この校舎自体。廊下は爆破されていたし、他の教室棟とも全て寸断されている。校舎自体はまともに建っているにしても、お世辞にも無事とは言い難い。1階部分は砂に埋没している訳だし。あの窓のシャッターのお陰で、完全に沈んではいないが…)

(…シャッター…)

(?)

(目的。そういった目的)

(『緊急避難』…)

(…どうして、そんな改装をする必要がある?近くに、あんなに大規模な“シェルター”があるのに。どうしてここに『緊急避難区画』を?どうして小学校に、『電力室』を?)

(…シャッターのお陰で、完全に沈んでは…)

(シャッター。“シェルター”。備え。目的)

(…目的を以って…)

(―どうしてそんなものがある?まるで分かっていたみたいに。もしかしてここだけじゃないんだろうか?他にも沢山あるんだろうか?他にも“シェルター”が、『緊急避難区画』が)

(…目的を以って、変異体を…)

(…この扉がここにあるのは、多分偶然じゃない。ここは昇降口から随分近い場所だ。正門から入って、直ぐにここに来れる様に造られているのだろう。最初からそう設計されていたか、後から改装されたかは知らないが)

(―もしかして、何が起こるのか、予め分かっていたんだろうか?その時の為に、彼らは備えていた?“扉”の、こちら側の住人は。外で何が起きるか、分かっていた?ここがこうなる前の彼らは。そこら中が赤い砂塗れになる前の。天使や変異体が生まれる前の。“神の柱”が、この世界に現れる前の彼らは…)

(―ここの設備は、“神の柱”を予見して、造られた?)

(…駄目だ、話が飛躍し過ぎてる。事実だけを見ろ。事実だけを見て、起こった事を冷静に―)

(―この小学校は『緊急避難区画』。ここは昇降口から近い場所にある。ここはその為に造られた。或いは改装工事を受けた…)

(…この小学校には、『電力室』がある…)

(…この学校には、未だに電気が供給されている…)

(…スイッチを入れた時に、気付くべきだった…)

扉の周辺部を調べる。やがて扉の右手側の廊下壁に、見慣れた機器が設置されているのを私は見つける。思わず私は、笑みを浮かべる。脱力した笑みを。私は歩み寄り、器具を見る。0~9までの数字が器具下部のパネルに並んでいる。タッチ式のテンキーパネルだ。

「カナエ?そいつぁ…」

「静かに」

私はタッチパネルを見る。テンキーの上部に細い差し込み口があり、そこに一枚のカードが斜めに差し込まれている。私は屈み込み、カードを軽く捲って、表側を見る。免許証に載っている様な胸部から上の男の写真と一緒に、印刷された名前の一部が見える。

【…川 淳一郎】

私はカードから手を放す。(2ロック方式。カードとパスワードを揃えて、開けるタイプ)(カードがあったのはラッキーだった。カードを探す手間が省ける…)(…というより、このカードの持ち主に感謝すべきか。このカードの、の持ち主に。どうやらカードの持ち主はかなりズボラで、防犯意識に欠けているらしい。過疎地区の住人みたいなもんだな。町から出るくらいの遠出じゃないなら、家に鍵は掛けない。寝る時も鍵は開けっぱなし…)続いて、カード下のテンキーを見る。0~9までの数字が行儀良く並んでいる。その内の幾つかに血が付いているのを、私は見る。

私は目を閉じる。

(犯人には目的がある)

(…犯人は目的を以って、変異体を―)

(変異体が殺されている。ごく最近の事だ。この建物内で、この一階で、変異体が、立て続けに…)

(…スイッチを入れた時に、気付くべきだった)

私は目を開ける。数字パネルを見る。血の付いているパネルを見る。血が付いている数字は、1、7、0。私は血の付いた数字を眺めながら、振り返らずに彼女に尋ねる。

「ケイトさん」

「は―はい?」

「誕生日を教えてくれます?」

「は?」

「ハァ?」

赤毛の戸惑う声と、クロの素っ頓狂な呆れ声が、同時に聞こえて来る。私は振り返らずに数字を眺めている。少しだけ分かり掛けてきた、と思う。朧気ながら、少しだけ。

この場所で何が起きたのか。この場所で昔、何が起こったのか。

(…話すべきだろうか?)

(スイッチを入れた時に、気付くべきだった)

(少なくとも、クロと梔子には。彼らを信じるべきだ。信じないなら、命を賭けさせるべきじゃない)

(―でも、確証が無い。証拠も確信も、何も無いんだ。話したって説得出来る自信も無いし、だったら言わない方がずっとマシだ。第一彼女の依頼は、弟に会う事で―)

(…違う、全部言い訳だ。私が彼女に言いたくないだけだ。そうでなければ良い、と思っているから)

(言ったら本当になってしまう気がする)

(言ったら本当に…)

「た―誕生日?誕生日って…」

「あなたの誕生日ですよ。何時です?」

「あ―7月11日だけど。それが―」

私は血の付いたパネルに触れる。パスワードを入力する。(0711)扉の方から、空気の抜ける音がする。何処からともなく、メッセージ音が聞こえる。

『ぱすわーどヲ受理シマシタ。扉ヲ開キマス。少シ下ガッテ、オ待チクダサイ―』

私は扉を見る。扉が開いていくのを見る。

『少シ下ガッテ、扉カラ離レテ、オ待チクダサイ―』

ペリカンさんの声だ、と思う。


扉が開く。分厚い鉄扉が、上方向に開いていく。黄色と黒の斑模様が廊下の天井部に収納される。扉の奥に階段が現れる。

砂塗れの階段が現れる。

「…カ、カ、カナエ、こりゃ一体?どうして扉が?お前、何した?いや、それよりも、この先にゃ何が―」

階段は大人2人が辛うじて擦れ違えそうな位の窮屈な造りをしている。エスカレーターの幅を10cm程削った様な具合だ。天井には鉄格子に囲われた蛍光灯、階段上には多量の砂が積もっている。階段の左右に手摺は無い。くすんだコンクリートに囲まれて、只管急勾配な階段が続いている。天井に等間隔に続く蛍光灯は、その幾つかが砕け散っている。砂の中から、階段の足段が僅かに飛び出しているのが見て取れる。階段を5mか、もう少し降りた先が折り返しになっていて、そこから階段がさらに下へと向かっている。その折り返し付近に、赤い砂が塊になって道を塞いでいる。天井付近まである大きなブロック状の砂だ。

私はパスワードパネルのカードスロットに差し込まれたままになっている、男のカードを引き抜く。(…某、淳一郎)階段上に一歩、足を踏み出す。足元を確かめる様に、何度も踵で砂を削る。

「―お、おい、カナエ!先々行くんじゃねえよ、何があるのかも分からねえのによ?梔子、前行け、前。カナエ、お前ぁ後ろだ。全く、頼むぜ畜生、いつもの慎重さはどうしたよ?何か考えでもあんのか?この階の惨状、忘れた訳じゃねえだろ?変異体が後何匹居るかも分からねえってのに―」

「大丈夫よ、クロ。この先に居るのは一体だけ」

「あ?」

「変異体殺しの犯人だけよ」

私は足元を見る。足の裏を。砂の中から、階段の白い段差が顔を出す。段の外側の縁には、滑り止め用の黒いゴムが付いている。

(…スイッチを入れた時に、気付くべきだった…)

私は顔を上げ、振り返る。梔子は私達に背を向けている。どうやら廊下の奥、背後を見張っている様だ。相変わらず、考えても分からない事には興味が無いらしい。私は笑う。その背中を見て、少し安心する。(…現実主義者)クロへ目を向ける。クロは私を見ている。得体の知れないものを見るような目付きだ。まるで急に私に焦点が合わなくなってしまった様な、私の中身が別の誰かと入れ替わってしまった様な。言葉を失って、クロは私を見つめている。(…そんな目で見るなよ、クロ)

(言ったら本当になってしまう)

「ケイトさん」

(言ったら本当になってしまう気がするんだ)

赤毛は顔を上げる。ゆっくりと、錆付いた音のしそうな首を動かして、私を見る。彼女は私を見る。彼女は不思議な顔をしている。

(言ったら本当に…)

―彼女は笑っている。

私は彼女に向かって左手を伸ばす。彼女は悲鳴とも吐瀉音とも思える様な奇妙なくぐもった声を喉の奥で鳴らす。一歩、後退さる。両方の手で自分の肩を強く抱き締める。笑顔を浮かべる彼女の唇の、左端で歯がカチカチとなる音が聞こえる。目が、彼女の瞳が、大きく見開いて私を見つめている。目玉が飛び出して零れ落ちそうな程に。

(…スイッチを入れた時に、気付くべきだった)

(言ったら本当になってしまう気がする)

(…この小学校には、『電力室』がある。この学校には、未だに電気が供給されている…)

(犯人には目的がある。目的を以って、変異体を殺している)

(【裏切り者】)

(“今でも彼女を駅で待っている”)

(変異体にも意識がある。断言はできないけれど、変異体にも、意志…の様なものが。例えそれがどれだけ下らなく単純な事でも、例えそれらがどれだけ道理に則していなくとも、彼らはそれに従って生きている様に思える)

(…人間だった頃の、に従って)

(変異体が殺されている。ごく最近の事だ。この建物内で、この一階で、変異体が、立て続けに)

(一階の、最後に調べた部屋。変異体は、白骨に抱かれる様にして死んでいた)

(3階には子供部屋があった)

(犯人には目的がある)

(スイッチを入れた時に気付くべきだった)

(言ったら、本当になってしまう気が…)

私は彼女の方に踏み出す。私は彼女の手を取る。「あ、」彼女が声を漏らす。顔を背ける。目を伏せる。「あぁ…」彼女の手が、束の間、私の手を振り払おうと藻掻く。もう片方の手がベルトの辺りで弟の靴を探して彷徨う。彼女の眼から、訳も無く涙が零れる。眼から涙が零れるのを、私は見る。

「ケイトさん」

「羽狩り…」

「ケイトさん、行きましょう」

「あ、あ、羽狩り、私、私―」

「この先で弟さんが待っています」

(―言ったら、本当に)

(本当になってしまう気が)

彼女の体が動きを止める。彼女は顔を上げる。彼女の表情は涙と鼻水でくしゃくしゃに汚れている。私は苦笑いを浮かべてその顔を見る。(…酷い顔)(せっかくの美人が、台無しだ…)私はシャツの裾で、彼女の顔を丁寧に拭いていく。(コートの裾は、腐ったワインや機械油でドロドロだから―)彼女は私にされるがままに身を任せている。私は彼女の顔を拭く。もしかしたら、妹がいたらこんな感じなのだろうか、とぼんやりとそんな風に考える。

彼女の顔から袖口を離す。彼女は私を見て、感謝する様に弱々しく笑みを浮かべる。彼女の左目から、また新しい涙が零れ落ちる。私は微笑んで彼女を見る。出来るだけ、優し気な笑みを浮かべる様に、努力する。

「あ、は、羽狩り」

「ええ」

「羽狩り、私、怖いの」

「…」

「馬鹿みたいでしょ?自分で依頼したのに。自分であなた達に、依頼したのに。分かってる。でも怖いの。怖くて堪らない。失いたくない。わ、あ、たった一人の家族なの、私の。たった一人の、血を分けた…」

「落ち着いて、ケイト。大きく息を吸うの」

「あ、あ。息を―」

「そう。息を吸って。大きく、ゆっくりと息を。そして、良く考えてみて」

「…考える―?」

「ここで帰っても良いわ。誰もあなたを責めたりしない。依頼人はあなたよ。私たちは、その決定に従うだけ」

「―おい、カナエ―?」

慌てた様子で、クロが私の足元に纏わり付き、即座に口を挟む。

「―何考えてんだ、お前?こいつの弟を見つけりゃ4000、見つからなけりゃ、2000だぞ?差額は2000だ、急に何言い出しやがる?こいつの弟ぁ、この先に居るって、お前も―…?」

―足元で喚くクロを、私は目線で黙らせる。彼女へ向かって、言葉を続ける。

「…この先に進んでも、苦しいだけ。大体弟に会って、どうする積り?もう終わった事よ。もう何もかも、終わってしまった事なの。誰にだって、どうしようもないわ。ここから先は無い。誰も得しないわ」

「俺達にゃあるぞ。差額は2000だ」

「…黙って、クロ。ケイト、ここから先に進むのはお勧めしない。ここから先には―」

「―死体を」

と。

私の言葉を遮って、彼女は言う。

「…死体を、見なけりゃ…」

彼女の目元から、涙が涙が溢れる。涙が次から次へと、真っ赤になった目元から、湧き出る様に零れ落ちる。泣きながら、また彼女は笑う。さっきまでの笑みとは違って、ひん曲がった口元は強情さを感じさせる。強情さと偏屈さを。(…全く…)私は呆れた溜息を吐いて、彼女を見る。(…厄介な人だな。厄介な性格だ…)

「幻を見るの」

「…?」

「死体を見なけりゃ、幻を見るの。馬鹿だって分かってる。笑ってくれても良いわ。自分でも馬鹿だって思うもの。でも、死体を見なけりゃ、幻を見るのよ、いつまでも」

「…ケイト」

「私にだって分かってる。ええ、幾ら私にだって。最初から分かってたわ。生きてる筈無いって。あの子はたった11歳で、私たちは“タウン”から出た事も無いし、おまけにあの子は腕っ節も」

「…」

「私にだって分かってたわ。最初から分かってた。ずっと知らないふりしていたの」

「…」

「信じたくなかった。失いたくないの。あの子を失ったらと思ったら、怖くて怖くて堪らなかったわ。なにもしなかった自分を呪った。なにも気付かなかった自分を恨んだ。きっと予兆はあった筈なのに。あの子は“タウン”も“タワー”の事も嫌ってた。憎んでいたと言っても良いくらいに。だけど私は何もせずに…」

彼女の眼から、止め処なく涙が流れる。

私は、彼女の繋いだ左手を引いて。

―ぎこちなく、彼女の肩を抱き寄せる。

「………ありがとう、羽狩り」

「…いいのよ。誰にだって、泣きたい時くらいあるわ」

彼女が私の左肩に頬を寄せる。首筋にひやりとしたものを感じて、思わず悲鳴を上げそうになる。足元で、クロが私を見上げて口笛を拭く真似をする。私は右足の爪先でそれを追い払う。

「…ふふ。これってサービス?それとも、別料金を請求されるのかしら?」

「必要経費に入れといてあげるわ。それで?」

「…ずっと信じていたの。あの子がいなくなってから。あの子が何処か別の場所で、私の知らない場所で、元気に幸せに生きているって…」

「…」

「―そんな時、あの噂を聞いて。何軒も何軒も酒場を回って、商隊の人を探したわ。噂を聞く度に、私の幻が本物になった気がした。あの子は別の場所で、私の知らない場所で、元気に、幸せに…」

抱擁を解く。繋いだ手を離す。涙に濡れた顔で、彼女は気恥ずかしそうに微笑む。

「…心配してくれてるのは分かるわ。あなた達を、私の勝手な理屈で危険に巻き込んでるのも分かる。馬鹿だ、ってのも分かってる。でも、あの子の死体を見なきゃ、私はまた幻を見るの」

彼女の涙が止まっている。私は目を細めてそれを眺める。

(…話すべきだろうか?)

(話すべきだ。話すべきだ。話すべきだ)

(話すべきだ。絶対に)

(これだけ彼女が真摯に胸の内を打ち明けてくれたんだ。私だって話すべきだ。私が考えている事を。この先にあるものを)

(―でも、確証が無い。証拠も確信も、何も無いんだ。話したって説得出来る自信も無い…)

(証拠が無い。確信が無い。確信が無いんだ…!)

(パスワードを忘れたのか?この扉のパスワードを。あれは推測通りだった。私の推論が当たっている、何よりの証拠じゃないか。これでも充分じゃないのか?これ以上、他に何が必要だ?)

「…あの子を弔ってあげたい。あの子の死を、ちゃんと悼んであげたいのよ」

(…違う、全部言い訳だ。私が彼女に言いたくないだけだ。そうでなければ良い、と思っているから)

(そうでなければ良い)

(言ったら本当になってしまう気がする)

(スイッチを入れた時に、気付くべきだった)

私は頷く。階段に向き直る。階段の先へ向かって、足を踏み入れる。足元を確かめる様に、何度も踵で砂を削る。

―私もまた、幻を見ている、と思う。

自分の考えが全部間違っていると良い、という都合の良い幻だ。


(【裏切り者】…)


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