wonderland/gradual decline4
ソファーの近くに転がる、彼女の拳銃を拾い上げる。彼女の小型拳銃。車の後部座席に落ちていた物だ。掌に収まるくらいのサイズ。それに、銃口が二つ。
それを、葡萄酒臭いナップサックの中に入れる。
(―オエ、酷い匂い)
(クソッタレ)
(鞄は未だ少し濡れている。それに、臭いで鼻の内側がヒリヒリする)
(…クソ、銃弾は大丈夫だろうな?もしワインで濡れて、使い物にならなくなってたりしたら―)
(―彼女の旦那に料金を請求してやる)
コートの裾で頭を拭う。幾ら拭いても、前髪から紫色の雫が垂れて来る。(クソッタレ)(今度来る時は、乾いたタオルも鞄に入れて来よう…)彼女の方を見る。彼女はソファーから立ち上がっている。弟の靴を左手の指先に力無くぶら提げ、少し猫背気味に背筋を丸めている。かなり憔悴している様に見える。彼女の隣では梔子が、クロをソファーの上から自分の肩へと移動させている所だ。クロは何時もの定位置に収まると、私の方を見るなり、ワインの臭いが気になるのか、僅かに顔を顰めて見せる。
(…なんだろう。地味に傷付く)
「―では、行きましょうか、ケイトさん」
私は言う。爪先を教室の西側の出口へと向ける。梔子が私に続く足音がする。途中、黒板のスイッチに手を伸ばす。(【運転/スリープ/停止】)赤いボタンが右手の中指に触れるのを感じる。私はそれを2回押し込み、黒板の電源を切ろうとする。
「待って」
―と、彼女が言う。
(?)
黒板のスイッチから手を放す。私は彼女を振り返る。私の直ぐ後ろで梔子も、困惑した様に何度も瞬きを繰り返しながら、彼女の方へと顔を向けるのが見える。クロはムスッとした顔でそっぽを向いている。
彼女はソファーの傍に立っている。
弟の靴を左手の指先に力無くぶら提げ、少し猫背気味に背筋を丸めている。虚ろな表情を浮かべ、目は見るともなく前方の窓硝子を漠然と向いている。感情という感情を人の顔から削ったら、こんな表情が出来上がるのだろうか、とぼんやりと私は思う。今の彼女の顔は石膏で出来た彫刻の様に見える。目や鼻は顔という物を特徴的に示すパーツの一つに過ぎず、頬骨や輪郭は頭部の風景を表す一つの要素に過ぎない。顔に似た岩肌や木の虚の方が未だ感情的だ、と思う。
「―ケイトさん。まだ、何か?」
―と、私は問う。
彼女は私を見る。
彼女は笑う。
(………?)
―全てを諦めた様に、彼女は笑っている。
歩き疲れた様な、脱力した様な笑み。額に眉を寄せて、計りかねる様に、彼女は私を見ている。迷う様に。言っても良いものかどうか、コインは表か裏か、賭けるべきか、賭けざるべきか。何か言いたげな彼女の表情に、私はどうしてだか苛々を募らせる。どうしてかは、自分でも良く分からない。
(…何だ?)
「ケイトさん。言いたい事があるなら、早めにどうぞ。無ければさっさとここを出ましょう。急げば、1時前にはタウンに着ける筈です」
彼女は俯く。
弟の靴を自分の腹に押し当てる。まるでその靴が、自分の本音を腹から蹴り出してくれると思っているみたいに。
「ケイトさん―」
「………亡霊を」
「?」
「亡霊を、追い掛ける趣味は無い、そういったわよね?」
(?)
(言ったっけ?)
(言ったかも)
(…言った様な気もする。確かにそんな類の事を)
「ケイトさん?それが―」
「亡霊じゃないならどう?」
―彼女が顔を上げる。彼女と目が合う。泣き出しそうな目をして、彼女は笑っている。縋りつく様な眼をして。弟の靴を腹に抱いて、歯を食い縛って彼女は笑っている。
「それは―」
「仕事の依頼をするわ、羽狩り。改めて仕事の依頼を。黒猫さんと、それと、そっちの無口な君にも」
「―どういう―」
「4000あるわ。弟を探してちょうだい。弟の、」
―彼女はその言葉を、まるで吐瀉物を吐くかのような苦悶の表情で、吐き出す。
「…弟の死体を」
私は彼女を見る。
目を丸くして見る。
「4000ある。4000払うわ。死体を探して。死体は亡霊じゃないでしょう?弟がここに居て、そして死んだなら、ここに必ず死体がある筈だわ。お願い、死体を見つけて。最後にお別れを言いたいのよ。たった一人の家族なの。そうすれば、後は大人しくあんた達に従うわ」
「ケイ―」
「死体が見つかれば4000。死体が見つからなくても半額払うわ。もし途中で変異体や天使に出くわしたら、その時点で手を引いても良い。その時もあんた達に従う。判断は任せるわ」
彼女は言う。彼女は笑っている。弟の靴を抱いて。
「これは弟の靴なの。6歳か7歳の時にあげた、クリスマスプレゼントよ。代わりにあの子はハイヒールをくれた。お姫様が履く様な素敵なハイヒールをね。それ以来あの子はどれだけ他の靴を買ってあげても、ずっとこの靴を履き続けてた。これは間違いなく弟の靴だ」
彼女は弟の靴を優しく撫でる。
「弟は必ずここに居る。見つかれば4000。見つからなくても半額。悪い話じゃないでしょ?」
「ああ」
―と。
クロが言う。
私は驚いてそちらを見る。
クロは梔子の肩の上で、ゆっくりと彼女の方に旋回する。こちらに背中を向けているので、どんな表情をしているのかは分からない。声は堅く、ぶっきらぼうな感じがする。クロの尻尾が梔子の背中の上を、左右に大きくのんびりと滑る。その度にシュルシュルと、耳にくすぐったい音がする。
「ただし、一つだけ条件がある」
クロは言う。彼女は小さく頷く。
「日没までだ。良いな?日没までは、お前の探しものに付き合ってやっても良い。けどな、日が暮れたら、そうだな、少なくとも6時前にゃ、何が何でもタウンに帰って貰う。それで良いか、え?」
「…ええ。ありがとう、黒猫さん」
「礼なんて言うな。未だ見つかるかも分かんねえのによ。変異体に喰われて跡形も無ぇかも知れねえし、天使に殺されて、バラバラの肉片になってるかも―」
「それでもよ。ありがとう、感謝してる」
「…勝手にしろ。さ、行くぞ、カナエ、梔子。お前もだ赤毛、おら、とっとと準備しねえと、置いてくぞ―?」
「―ねぇ、ひとつ聞いても良い?」
教室を出る。3階の廊下を、階段へ向かって東に歩く。私と梔子が廊下の先を行き、少し遅れて彼女がその後を付いて来る。梔子の肩の上でクロは、未だ呼吸をする度にアルコールの臭いで繰り返し小さく噎せ返す。
(…まだ、そんなに臭うんだろうか?)
(こういうの、自分じゃわからないからなぁ…)
―あれから簡単な昼食を済ませた後、取り敢えず、私達は1階へ向かう事にする。
『この階の部屋は全て調べたわ』と、彼女が言ったからだ。
『あの子を窓辺で見たって聞いたから。それが私の唯一の手掛かりだったの。窓辺に見えたっていうんなら、遠くからでも見える、一番上のフロアが一番怪しいかと思って。それで、この部屋の隣でこの靴を見つけたの。この、こっち側の隣、一番西っ側の部屋でね』
『どんな部屋だった?』
『別に…特別変わった部屋じゃ無かったわ。ボロ布と枕があって。帽子やボール、プラスチックのバットなんかが転がってて―』
『靴は片方だけか?』
『―ええ、でも、それが―?』
『部屋の中は何かが壊されたり、誰かが暴れたりした様な跡があったか?』
『…ええと、西側の壁に、穴が開いてたわね。多分銃弾の穴よ。それに、部屋の中は散らかってたけど、それは多分元からよ。前の住人は、あんまり綺麗好きじゃ無かったのね』
『血痕は?』
『―ああ。そういう事ね。そういう事を心配しているなら、大丈夫。多分、これは襲われて、逃げた拍子に靴を落としたとか、そういう事じゃ無いと思うから』
『?どういう事だ?』
『…隣の部屋には、靴がいっぱいあったの。多分、前の住人が集めていたんでしょうね。一抱えもある大きなオモチャBOXに、靴が数えるのも面倒なくらい、沢山。あんまりいい趣味とは言えないわね。左右揃ってるのかも分からないくらいごちゃ混ぜだったし、綺麗なのも汚いのも一緒くたにしてあったし。集められるだけ集めた、って感じ。まるで、集める事自体が目的だったみたい』
『…で?』
『その箱の前に、この靴が置いてあったわ』
『…』
『あの子が置いていったのよ』
『…どうしてだ?どうしてだと思う?』
『さぁ?本当は、ずっとピカピカの靴が欲しかったとか?気に入ったデザインの靴を箱の中に見つけたのかも。それとも、私に愛想を尽かしたのかもね。それでこの靴を置いていきたくなったんだ』
『どうして片方だけ?』
『………分からないわ。分からないわよ。気が変わっただけかも。それか、片方だけしか、サイズの合うヤツを見つけられなかったんじゃない?』
クロが梟みたいに首を回してじろりと私を見る。鼻の先が少しヒクつく。
「―ホントにひとつだけだろうな、ええ、カナエ?お前はいっつもそう言って、3つも4つも質問しやがる。初めて会った時からテメエはそうだ。いいぜ、ひとつだけならな、カナエ。ひとつだけなら、質問に答えてやるよ」
「どうして彼女の依頼を受けたの?」
階段前のバリケードが見えて来る。梔子がマフラーを持ち上げ、何度も鼻先を指先で擦る。私は彼女を振り返る。彼女は項垂れて歩いている。弟の靴をお腹に抱いて。真っ赤な前髪が彼女の表情を覆っている。さっきまであれだけ元気に喚いていたのが嘘みたいだ、と思う。生気の無い彼女はまるで亡霊の様に見える。
(…赤毛の亡霊か。随分パンクな亡霊だな…)
(―ん、そんなこと言ったら海外の幽霊は、みんなパンクな感じになっちゃうな。金やら赤やら青やら、日本よりもずっと自由だ…)
(…だから、海外のホラーはゾンビ物ばっかりなんかね?そう言えば、海外の幽霊物って、ハートフル系が多い気がするし―)
「…あいつの依頼を受けたのが、不満か?」
「そうじゃないわ。でも、断ると思ってたから。ここは“神の柱”に近いし、或る程度は調べたと言っても、未だ会ってないだけで、この建物に変異体が潜んでいる可能性も捨てきれないわ。それに、あなたが言う通り、天使がこの辺にも顔を出すんなら―」
「まぁな。そうかもしれねえ。カナエ、お前の言う通り、危険はある。断るべきだったかもな。受けたのに大した理由は無ぇよ。強いて言うなら、そうだな、リスクとリターンだ」
バリケードに辿り着く。
梔子がバリケードを形作る机の縁に、クロを優しく下ろす。バリケードの中心に開いたトンネルを、ボウガンを向こうに滑らせてから、自分も潜り抜けて行く。向こうに通り抜けた梔子が、ボウガンを拾い上げ、暫く息を殺して耳を澄ます。数秒の後、梔子は私達に向かって軽く手招きをする。
「ケイト、先に」
彼女は頷き、バリケードのトンネルの前に立つ。梔子の真似をして、彼女は持っていた靴をトンネルの向こうへと滑らせる。思った以上のスピードで彼女の手から放たれた靴を、向こう側で梔子が、地面に落ちる前に慌てて受け止める。それを見て彼女は小さく笑う。ほんの少し、口元を歪めた程度だけど。
彼女がトンネルに入っていく。私は廊下の左右を見張る。何も居ない。何も見当たらない。彼女の弟も、変異体も、天使も、亡霊も。
「…リスクとリターン?」
「そうだ、リスクとリターンだ。前にも言ったろ?誰だって、リスクとリターンの帳尻を合わせたい。天秤が釣り合わなきゃ、仕事は成立しねえ。大事なのはバランスだ」
「…今回は、それが釣り合った?」
「そういうこったな。死体は物体だ。幽霊じゃない。探せば何処かにある筈だ。ま、全身ペロリと丸飲みされてなきゃ、だがな。それに、見つからなくても、彼女は半分を約束してくれた。もし彼女や俺達の身がヤバくなった場合、尻尾巻いて逃げ帰っても良い、っていう言質も取った。おまけに門限もな。これで、俺達ぁタワーの奥方相手に、死体探しの決死行ツアーのガイドを務めなくても良くなった訳だ―」
「―リターンの方が大きくなった、って事?」
彼女の尻が、バリケードのトンネルの向こうに消える。彼女が向こうで、ドスン、と着地する音がする。梔子が彼女に靴を渡してから、私を手招きする。私はもう一度廊下の左右を確認して、トンネルに頭を突っ込む。
一瞬、クロが妙な顰めっ面をして、私を見る。
(?)
「…フン、やっぱり何だかんだ言って、お前もまだまだ小娘だな、カナエ」
「は?」
―トンネルを這って進む私の隣を、机の間を悠々と通り抜けて歩きながら、クロは私の方を見、笑って、言う。私はクロを軽く睨む。クロは愉快そうに笑っている。お爺ちゃんが孫を見る様な目で、私を見て。
(…なんか、気に入らない)
「逆だぜ、カナエ」
「逆―?」
「アイツがリスクを背負ったのさ」
クロは私を置き去りにして、バリケードの向こうへ抜けて行く。クロの声だけが傍で聞こえる。私はトンネルの中でその声を聞いている。
「弟が見つからなくても、帰ることを約束した。弟が見つからなくても、半額払う事を約束した。前はピカピカのカードをチラつかせて、貧乏ディガーの足元を見るだけだったのによ」
私は身体を引き摺って前進する。トンネルの向こうに彼女の姿が見える。弟の靴を手に抱いている。弟の靴を両手に抱いて、強張った笑みを浮かべている。
「覚悟を決めたんだ」
「―覚悟?」
「。もしもがやってきたら、すっぱり諦める覚悟をよ」
「…」
「―漸くリスクを受け入れる事にしたって訳だ。血を流さずに、成果を求めるべきじゃねえ。血を流したくねえなら、せめて金払いは良く在るべきだ。そうは思わねえか?」
「…それは、船長の教え?」
「いんや、俺の教訓だ。“タワー”の奴らと“車屋”に騙された、哀れな俺様のな」
「実感が籠ってるわね」
「まぁな。今でも夢に見るくらいだからな。それに、こういうのは個人的に嫌いじゃねえ。リターンの為にリスクを吊り上げる、至極全うな行為じゃねえか?向こうは金を失うリスクを負い、こっちぁその分、身の危険のリスクを負う。リスクのが信頼の度合い、って訳だ。後は俺達の腕次第だな」
「成程ね。腕次第、悪くない響きだわ。それで、クロ。死体探しの経験は?」
「………あー、そりゃ、お前に任す、カナエ。ほら、お前、赤毛の居場所を探り当てたのも、何だかんだ、お前だしな。梔子を存分に扱き使ってやってくれ。あいつぁ耳が良いからよ。それに、目も―」
「―…はぁ、了解。あなたってホント、素敵なリーダーね、クロ…」
階段を降りる。
無言で階段を降りる。
事前に打ち合わせた訳じゃないが、誰も何も喋らない。他の皆の息遣いや、爪先が床に触れる音、鞄の肩紐が擦れる音までが、やけに大きく聞こえる。それに、何処かで虫が這い回る音も。
(…静かだ)
(誰かなにか、喋ってくれないかな)
(また、虫の音。虫は苦手)
(別に見た目はいいんだけど、動きがね。あのピタッと止まって、急に動き始める感じが何とも…)
(―ああ、世界のどっかにひとつだけで良いから、虫の居ない場所は無いもんかね?)
(ていうか、砂漠にも虫、居るんだなぁ。あ、蠍が居るか―)
(蠍は虫?)
2階をそのまま通り過ぎ、1階へと向かう。途中、念の為に、懐中電灯で廊下の左右を照らしてみる。何かが変わった様子は無い。教室の扉は全て閉じている。砕けた窓硝子の破片までそのままに見える。
(―変化は無し)
(本当に?)
(…そりゃ、細かい部分は分からないさ。教室の扉を開けて調べてみなきゃ)
(扉を全て開け放しておくべきだった)
(そうだろうか?パッと見の変化には、意外と気付かないもんだ。仮に侵入者が居た場合、開け放した扉からすべての教室の中身が見える状態よりも、4つの閉まった扉と1つの開いた扉の方が、視覚的には分かり易い)
(―侵入者が扉を閉じていたら?侵入者に、扉を閉める知能があったら?)
(…その場合も、扉を全て閉めていた方が良い様に思う。。向こうが扉を閉めているなら、条件は五分五分だ。向こうがこっちの存在を仮定して動いているなら、話は別だが。私達はこの施設に入ってから、特別自分達の痕跡を消すように努力して来なかったけど、でも、それ程目立つ跡も残して来なかったように思う)
(向こうが扉を閉めているなら、条件は五分五分…)
(…向こうがこちらを襲うには、扉を開ける必要がある)
懐中電灯の明かりを足元に向ける。クロが梔子の肩の上で頷く。梔子がボウガンの先端を持ち上げて、階下に向かって一歩踏み出す。
(死体)
(死体探しの経験は―)
(…当然、無い。私は普通の女子高生だ。死体を見た事があるのは、映画の中か、ドラマの中か、それか、ゲームの中だけ)
(―それと、ひいおばあちゃんの死体だけだ。ひいおばあちゃんは私が5歳か6歳の時に無くなった。ずっと遠くの方の島に、母さんの親戚と一緒に住んでいた。その頃は離婚していなかった両親と共に、船で何日も揺られながら、その葬式に行った事を覚えている)
(私がひいおばあちゃんに会ったのは、その一回だけだった)
(棺桶の中のおばあちゃんはまるで眠っている様だった。綺麗な顔をしていた)
(どうして動かないのか分からなかった)
(―死体を探すには、どうするべき?)
(異臭を辿るべきだろうか?有機物には腐敗がある。死体はいずれ腐る)
(…果たして砂漠で、死体はどれくらいの速度で腐敗を始めるんだろうか?)
(彼女の弟が行方不明になったのが3週間前。3階の食料に手を付けた様子は無い)
(…11歳の男の子は、何も食べずにどれだけ生きられる?)
(元から家出の積りだったのかも。もしかしたら、ちょっとは食料を持参していたかもしれない)
(食料よりも水だ、って聞いた事がある。人間は、飢えには耐えられるけど、咽の乾きには耐えられない…)
(『10日前位に、ここで弟を―』)
(1週間と半分は生きていた。少なくとも、1週間と半分は)
(―証言は何処まで信用出来る?)
(その頃には、もうとっくに死んでいたとしたら?もう死体じゃないのかも)
(ペリカンさんは、生体反応は3つだと言っていた。私と、梔子と、赤毛。生体反応は、熱や音の感知、音波の反射に拠って得る、検索システムの総称だとも―)
(死体じゃないなら、何?)
(変異体にだって、血は流れてる。少なくとも、前の変異体はそうだった。血が流れているなら、熱感知に引っ掛かる筈だ。他の検知機能にだって反応する筈。生きていると言っても良いかは分からないが、生体反応には―)
梔子が立ち止まり、左手を上げて後続に制止するよう促す。
―私はそれに反応しきれずに、鼻っ柱をぶつけてしまう。
「むぐ」
「…おい。何してんだ、馬鹿」
「ごめん。でも、何―?」
私は顔を上げる。
梔子の困った顔越しに、前を見る。
(………こりゃ、また…)
砂だ。
―赤い砂。
赤い砂が、階下を埋め尽くしている。1階の廊下、1m弱の高さまでが砂に埋没している。砂が何処から来ているのかは分からないが、何処からか未だにさらさらと流れて来る音がする。廊下を埋める大量の赤い砂を見て、なんだか川みたいだな、と私は思う。
(赤い川。汚い色だな。土石流混じりの川が、丁度こんな風な色だ)
(…まぁ、ちょっとは予想してたけど…)
(そもそもこの建物、半分くらい砂に埋まってたし)
(やっぱり階下に行ったとは考え難いかな。自ら動きを制限する事になる。天井と砂の間隔は、多分2mもないんじゃないだろうか。子供だって、11歳くらいなら、屈んで歩く事になると思う)
(見た感じ、砂で開かない扉も幾つかある。それに、この閉塞感…)
(―緊急事態だったとしたら?)
(生命反応は3つ)
(…大人よりも子供の方が、ここでは素早く動ける。大人よりも大きな奴が相手なら、尚更…)
半歩前に出る。梔子が私に道を譲る。私は砂に手を付いて屈み込む。砂に左手を手首まで突っ込む。懐中電灯で廊下の左右を照らす。
(…上の方は柔らかいが、下の方に行くほど、砂が固く、掘り進み難くなっている。かなり昔から、ここが砂に埋もれていた証拠だ。昨日今日埋まった訳じゃない…)
(行方不明になったのは3週間前…)
(―死体が砂の奥深くに埋まってしまってる、って事も無さそうだ。死体があるなら表層付近だろう。少なくとも、掘り出すのに苦労はしない位置だ、と思う…)
(廊下の奥には、特別変わった所も見えない。間取りは上階と同じか?廊下は全長で150mも無い。階段の左手側は開けた空間になっている。多分、昇降口があった所だろう。木造りのロッカーが幾つか、倒れずに残っているのが見える。廊下の南側には、窓―)
(?)
(なんだ?窓がある筈の所に―シャッターみたいなものが降りてる。窓硝子が全て塞がっている)
(なんだろう、これ?これが砂を塞き止めているのか?だから、ここは完全に砂に埋まっていない…?)
(何の為の設備だ?何の為にこんな物を?ここは小学校じゃ…・?)
(…東から2番目、3番目の教室は、扉が砂の重みで撓んでしまっている。あれはちょっと、空きそうにない。4番目の西側の扉と、5番目の東の扉も同様だ)
「―カナエ、何か見えるか?」
背中から声がする。程無くして、背中に何かが圧し掛かる重みを感じる。(ぐ)私の背中の稜線を辿って肩口に現れたクロが、足元の赤い砂を覗き込んで尋ねる。
「…いいえ。見た所、おかしなものは何も。右手から2つ目と3つ目の部屋は、開きそうにないわね。私に分かるのは、それくらいよ」
「ふむ。どうする、爆破するか?」
「止めた方が良いでしょうね。ここは地面より下よ。しかも、今でも少しずつ、砂に埋もれていってる。音が聞こえるでしょう?爆破なんてしたら、弟くんを探す所じゃ無くなるわ」
「…そうか、なら、こっからどうする?」
「そうね、取り敢えず、覗ける部屋を調べましょう。あの扉が開かなくなったのは、別に最近じゃないわ。ここが砂に埋もれ始めたのもね。多分あの部屋の中に弟くんは居ないわ、断言はできないけど。今はあの部屋は無視しても良いと思う」
「…成程な。じゃ、一番端から見て行くとするか。おら、行くぞ、梔子、赤毛―」
「―ねぇ、いい加減その『赤毛』っての止めてくれる、猫さん?私の名前は、キャサリン―」
「―どっちの端から見て行く?俺ぁ右が良いな。上の階でも、その上の階でも、右端から調べたし。梔子はそれで良いよな?カナエはどっちが良い?あぁ、お前はどう思う、赤毛?」
「―…ハァ。好きにして。もう良いわ。もうなんでも…」
砂の上を屈んで、天井に頭を何度も擦りながら、歩く。クロの要望通り、一番東側の教室から攻める事にする。私達は廊下を埋め尽くす砂の上を、一列になって進む。私が最後尾、赤毛を挟んで、梔子が前。先頭はクロだ。梔子の前を行くクロは、何処と無く楽しそうに見える。廊下の東隅まで走って行き、自分の尻尾を戯れに追い回したかと思えば、壁を這う虫に飛び掛かって、また梔子の傍へ駆け戻って来る。
「おい、遅えぞ、カナエ、赤毛。瀕死のナメクジだってもうちょい早く動くぞ、何とかなんねえのかよ?」
「な、なんとか?なんとかって言ったって―」
「こっちはあなたと違って身長が高いの。こんな窮屈な所でスピードなんて出せないわ。足場も悪いしね。分かったら黙って向こうで蹲ってじっとしてて頂戴。目の前をうろちょろしないで。目障りよ」
「………そこまで言わなくても良いじゃねえか。俺ぁ、ただ…」
「だったら、瀕死の蛞蝓を見守る優しさを見に付ける事ね。梔子、何か異変は?気付いた事はある?」
梔子はこちらを振り返り、一瞬、考える素振りを見せた後、首を振る。
「…そう。何か気付いたら、直ぐに教えて。こっちでも注意はするけど、目も耳も、私達の中じゃ、あなたが一番なんだから。頼り切りで悪いけど―」
梔子は頷き、目尻を下げて、耳の先をほんのりと赤く染める。(―ん?)(もしかして、照れてる?)(何かそんな、照れる様なこと言ったかな…?)マフラーを鼻先に持ち上げ、右足のブーツを苦労して砂の中から引き抜く。
(…随分動き辛そうだ)
(足跡が、私達よりも深い。私と赤毛は精々踵が沈む程度だけれど、梔子は踝より上まで砂に浸かっている。荷物の重さの差だろうか?それとも、体重の問題?小さく見えても、やっぱり男の子、ということだろうか?)
(―兎に角、ここで襲われるのは、絶対に不味い。ここじゃ、梔子は普段の半分も素早く動けなさそうだ。ここでの探索はさっさと終わらせないと。何かと出くわさないとも限らないし。いつも以上に注意して…)
(砂の音がする)
(砂が何処からか侵入して来る音だ。砂が何処かから少しずつ、サラサラと―)
(―嫌な音だ)
東端の教室の前に着く。扉は僅かに開いている。その開いた隙間から砂が少しずつ教室に滑り込んでいったのだろう、扉の内側には、廊下と同じ位の高さの砂の小山が出来ている。砂の侵入口は他には無いのか、2つの入り口傍の砂溜まりを除いて、教室の中は意外に砂に埋もれていない。床の見える部分すらあるくらいだ。
(…廊下の砂の重みを、同じ位の高さの砂が押し返していたのか?)
(だから、この扉は壊れてない。隙間は10cm程。身体を捻じ込むには少し狭いな。抉じ開けられるか?)
(クロなら入れるんじゃないか?クロに見て来て貰う?)
(見た所、大した物は無い…)
(―やれやれ、躾の悪い奴に感謝だな。“開けたら閉める”奴ばっかだったら、ここは全部、開かずの間だ…)
(…それとも、躾の良い奴?大きな地震の時なんかは、扉が歪んで閉じ込められない様に、先ずは扉を開けるのが肝心、とも言うし…)
扉の隙間に腕を突っ込む。力任せに引いてみる。全体重を掛けて。扉の枠に肩を固定して、無理矢理押してみる。歯を食い縛って。
(無理)
(―あ。こりゃ、駄目だな。肩を固定しても、足元が勝手に滑っちまう。踵が地面を掘り返すのが分かる…)
(肩が痛い)
(汗、掻いてきた。何だか暑い気がする。ここが地下だから?空気が淀んでるから?)
「―あー。その、なんだ、カナエ。俺が中、見て来てやろうか?」
「お願い」
息も絶え絶えに、即答する。クロは同情と小馬鹿にする様な表情の中間の笑みを浮かべて、私の足首を前足でポンポン、と叩く。(…このヤロ)私は指先でクロを追い払う。クロは私の手をひらりとかわし、笑いながら教室の中に転がり込む。
(…クソ、無駄な体力使ったな。扉はちっとも動かないし…)
(砂って案外重たいのな―)
(…もう少し、体力付けないとな。走り込みだけじゃ無く、筋トレとかもするべき?)
(クロを一人で行かせて良かったのか?それは本当に正しい判断だったか?)
(おかしなものは見えなかった)
(忘れたのか、カナエ?前の変異体は、砂に埋まっていたんだ)
(…クロはすばしっこい。一匹だけなら、避わして逃げかえって来られるかもしれない。でも、いざという時、援護出来る様に…)
「梔子」
廊下の西側を見張っている、梔子に声を掛ける。梔子は私の方を振り返らずに、苦労して砂の中から足を引き抜きながら、こちらに歩み寄って来る。
「見張りを代わるわ。この扉、開けられる?試してみてくれない?ちょっと隙間を作るだけでいいの」
ボウガンを腰溜めに構えたまま、梔子は困った様に眉を寄せて、私を見る。マフラーを摘まんで、鼻先に擦り上げる。私は有無を言わさぬ笑顔を浮かべ、梔子の手の中からボウガンを奪い取るように捥ぎ取って、それを構えて、廊下の西側を向く。西側の壁を向く。
「…ねぇ、羽狩り。それ、何の意味があるの?もう、あの猫が部屋に入ってるのに。見たところ、変な物は無いし。誰も居ない様に見えるわ。天使や変異体みたいな化け物も、それに、私の…弟も、ね」
「そうだぜ、カナエ。お前、俺様を信用してねぇのか?」
「別に、中に入れなくても良いわ。言ったでしょ、ちょっと隙間を作れればいいのよ。私達が援護したり、クロが逃げるのを助けられる程度に」
「逃げる?逃げるって、何から―」
廊下の西側を向く。西側の壁を向く。梔子のボウガンは、片手で構えるにはかなり重たい。(…こいつ、良くこんな物ぶら提げて、飛んだり跳ねたり出来るよな…)右の手首が、もう既にダルくなって来ている。私は苦笑と共に、懐中電灯を持つ左手をボウガンの銃身に沿える。
(何だか部活辞めてから、疲れやすくなった気がする。持久走は得意だと思ってたんだけどな…)
(年齢の問題?そういや父さんも言ってたな、歳を取って来ると、先ずは疲労が抜けなくなるんだ、って。昨日の疲労が今日に残って、今日の疲労が明日に残る。まるで終わらないローンの返済作業―)
(身体は、使わない所から衰えるっていうし―)
(…冗談だろ?私、まだ16だぞ―?)
(―持久力って、どうやって鍛えるんだろ…)
「憶えてないの?前に会った変異体は、砂の中に居たわ。砂の中に埋まっていたの」
…誰かが強く、地面を蹴る音がする。(クロかな?足が砂を蹴る音。爪が床を引っ掻く音)ギ、ギ、と何か、重い物が、少しずつ移動する音がする。私は西側の壁を向いている。廊下の奥にある壁を。懐中電灯が奥の壁を照らす。そこには黒い染みがある。
赤黒い染みが。
「…クロ。部屋の中には何かあった?」
「あ?何かあるも無いもねえよ。砂、砂、砂ばっかだ。鼻がむず痒いったらありゃしねえ。目ぼしいもんは何も見当たらねえな、金になりそうな物も、武器になりそうなもんも、それから、赤毛の弟もな。カナエ、俺ぁもうここを出るぞ、今そっちに行くから―」
「黒板は?」
「は?コクバン?」
「西側の黒い壁の事よ。ペリカンさんや、ゴリラが中に居たあの壁。どう?使えそう?」
「…うう、あー、いや、分かんねえ。けど、壁にゃあ傷があるぜ。刀傷みたいな痕が―」
「そう。砂は?」
間。
少しの沈黙の後、クロは短く答える。短い返事の中に、色々な感情を織り込んで。
「んん?」
「砂よ。砂の中は調べた?」
「…いやいやいやいやいやいやいやいや、カナエ、カナエ。お前が言ったんだろ?砂の中に―」
「梔子、扉は開いた?」
廊下の向こうから目を放して、私は梔子の方を向く。梔子はこの短時間の間に、10cmの幅を2倍以上に押し広げている。(…さすが)梔子の傍で、赤毛がへたり込んで私を見上げている。困惑した様な眼で。
「―変異体が埋まってたって。前の変異体がよ―」
「大丈夫、梔子が扉を開けたわ。もう援護出来る」
私は梔子の胸にボウガンを預ける。梔子は迷う様に何度も目を瞬かせながら、おずおずとボウガンを構える。私はコートのポケットから拳銃を取り出す。廊下の西を向く。
「―何でそんな、危険があるって分かってて、わざわざ―!」
「砂の表面は柔らかかったわ。弟くんが死んでいたとしたら、」
―息を呑む音がする。私は無視する。話を続ける。
「―こんな場所だ。砂に埋まってる可能性もある。いつ死んだかにもよるけどね。そんなに深い場所には居ないと思うけど、死体の自重で沈んでるかもしれないし。浅い部分だけでいいの。軽く掘り起こしてみて頂戴」
「―お前、そんな簡単になぁ。変異体、居るかもしれねえんだぞ―?」
「その為に、扉を開けて貰ったんでしょう?それに、依頼を受けたのはあんただ」
―クロの言葉が途切れる。暫くして切れ切れにザクッ、ザクッ、と砂を掘り返す音が聞こえて来る。本当に切れ切れに、嫌々やってるのが丸わかりな音が。私は、声を殺して苦笑する。(いい歳して、拗ねた子供みたいだな…)(…実際、何歳くらいなんだろ?自分ではおっさんだって言ってたけど。猫の年齢に詳しい訳じゃないし…)(結構おっきいけどな。肩に乗せるのが、時々辛いくらい…)扉の方を見る。部屋の中の様子を窺う梔子の、視線とボウガンの向きが時々移動する。それに合わせて、部屋の中の音も移動する。赤毛も、梔子のボウガンの下から、部屋の中を覗いている。部屋の中の音を追い掛ける様に、彼らの視点が移動する。その様子が少し可笑しくて、私はまた声を忍ばせて笑う。
「―あ」
「どうしたの、クロ?」
左手で口元を撫でる。笑顔を拭う。(今は仕事中。仕事中。仕事中―)(―油断するな。緊張感を持て。ここは未だ安全じゃない。安全な場所じゃ…)梔子達を見る。梔子達も、中で何があったのか、把握していないようだ。困惑した顔で、互いを見合わせている。
「何かあったの?」
「ああ、いや、何があった、って訳じゃねえんだがよ。何て言うかさ―」
「―良いから答えて。あったの?」
要領を得ないクロの答えに、苛々して私はそう尋ねる。クロは暫くの沈黙の後、溜息と共に、小さな声でこう答える。
「…大したもんじゃねえさ。ただ、途中で、砂が―」
「砂が、何?」
「―砂が、砂の色がよ。なんか、色が変わってるんだ」
(…色?)
私は扉の方に歩み寄る。扉の傍の、梔子と赤毛を押し退け、教室の中に首を突っ込む。クロが教室の扉の内側の、砂の小山の麓に居るのが見える。クロがこちらを見上げている。クロの足元の色が変わっているのが見える。掘り返してあるクロの足元の砂が、白っぽく。
私は懐中電灯の明かりをそちらに向ける。
(…これ…)
クロの足元を照らす。掘り返された砂の下に、白い粉が露出しているのが見える。塩みたいにも見えるが、塩よりも汚く、のっぺりとした白色をしている。何処かで見た事がある、と思う。これと同じ物をつい最近、直ぐ近く、目の前で。
「?これ…砂じゃねえな。砂よりもなんていうか、キメ細かいっていうか、粒が小さいっていうかよ―」
(見た事ある)
「―なんだろうな。臭いもねえし。味…はちょっと、見てみる気にはならねえが」
(見覚えがある)
(これは―)
「クロ」
「…カナエ?どうした?腹でも痛くなったか?そんな、今にも死にそうな面してよ―」
「クロ、もう良いわ、早くその部屋から出て。次の部屋を調べましょう」
(死体だ)
(―)
(誰の死体だ?彼女の弟のか?誰がやった?もしかして、天使?未だ、この近くに居るのか?)
(落ち着け。死体は埋まっていた。掘り返せるくらいには、浅い位置だったけど―)
(梔子もクロも、何も見ていない。勿論私も。赤毛だって、そうだ。私達は兎も角、赤毛だって無事にこの施設に着いているんだ。大した武装の無い赤毛が、無傷でこの施設に。天使の今回の狩りの目的は、人間じゃないのかもしれない)
(この近くに、狩場を作っていたら?前の時みたいに)
(余計な心配ごとを増やすな。天使がやったって決まった訳じゃない。天使じゃ無くても変異体は殺せる。天使じゃ無くても―)
「…カナエ、お前、ホントに大丈夫か?酷ぇ面してんぞ。ウンコでも我慢してんのか?」
「黙ってて、クロ。…ケイトさん、一つ聞いても良いですか?」
「?ええ、私に答えられることなら―?」
「あなたの弟さん、どんな子でした?失礼ですが、何を生業に?武器の扱いは心得ていましたか?」
「??いえ、武器は―使った事、無いと思うわ。人を殴ったりするの、苦手な子だったから。いつも喧嘩は、ボコボコに負けて帰って来て。ふふ、でも、どんなに傷だらけでも、絶対に『負けてない』っていうの、あの子」
赤毛は遠い目をして微笑んで、言う。私はパズルのピースを最も手頃な物で埋められなかったことを、内心呻く。
(…誰がやった?何が、変異体を?本当に、天使なのか?)
(あれは誰の死体?彼女の、弟の死体なのか?)
(でも、靴は無い。彼は靴を持っている筈だ。もう片方の靴を)
(―【裏切り者】)
(…クソ、ああ、この場所は何だ?ここで何が起きた?何が起こっている?)
「仕事は―ええと、私が養っていたから。あ、でも、時々靴磨きのバイトをしていたわね。その、なんの質問だったのかしら、これ?何かの助けになった?」
「…ええ。ありがとうございます、ケイトさん。十分参考になりましたよ…」
「痛」
―赤毛が天井に頭をぶつける。もう三度目だ。私は溜息を吐いて、彼女の肩に手を乗せる。四度目が起きるのを未然に防ぐ。彼女は振り返って、申し訳無さそうに小さく笑う。
私は肩を竦める。
私達は砂で鮨詰になった廊下の上を、次の教室を目指して歩く。先程と同じ様に、一列になって。順序もさっきと同じだ。先頭を行くクロの足取りは、やっぱり何処か、楽しそうに見える。
(―野生帰り、ってヤツかね?)
(汚い所を歩くのは嫌だ、とかなんとか、散々言ってた癖に…)
壁を手の平で探りながら、廊下を東から西へと進む。東から2番目と3番目の教室は、扉が砂の重みで内側に撓んでしまっていて、正常には開きそうにない。
(…疲れた。砂の上を歩くのって、結構大変なんだな…)
(普段から砂の上を歩いている癖に。外に一杯あるのは、何?)
(―訂正しよう。、だ。足場の硬さが、こんなに歩き易さに影響するとは思わなかった…)
(暑い。私の汗、何だか葡萄の臭いがする…)
(―階段から見た時、東から数えて2つ目と3つ目は開かなさそうだった。となると、残りの教室はあと二つだ。そこで弟くんが見つからなかったら―)
(見つからなかったら―どうする?)
(死体。変異体の死体。さっきの死体は、誰の死体?やっぱり、彼女の弟の死体なのか?)
(―でも、靴を持っていなかった)
(彼女の弟は靴を持っている筈だ。片方だけの靴を。踵を履き潰した、年の割には小さな、左足の靴―)
「…ねぇ、羽狩り。私、ちょっと考えたんだけどさ」
「何です?」
赤毛の言葉に、私は短く返答する。素っ気なくなり過ぎない様に、注意する。(考えた、考えた、ね)(何を考えたって?)(お前が最初っからちゃんと考えてりゃ、こんな事には―)(―違う、これじゃあただの八つ当たりだ。つまり、私が言いたいのは…)
(考えた、考えた、考えて考えて―)
(…弟くんは、どうして家出を?)
(―考えて考えて、考えるんだ)
(…小さな頃に送ったプレゼントを、今でも履き続けている様な子が。どうして、こんな真似を?どうしてあなたの元を去って、“タウン”の外へ?)
(………これは、軽々しく聞いちゃ駄目な気がする。他人の家の問題だ。デリケートな質問になる。適切なタイミングを考えるんだ。タイミングを考えて―)
「―窓ガラスを割っちゃ駄目?」
「?」
「ほら、あの開かない部屋の事よ。扉は確かに開きそうにないけど、窓は別じゃない?砕いて入る事は出来ると思うの。防弾ガラスにも見えないし。防弾ガラス、見た事無いけど」
(…確かに)
(小学校の教室の窓に、防弾硝子が採用されていたとは考え難い。黒板は高性能だけれど、それ以外は普通の学校とは変わらない。見た目も普通のスモークガラスに見える―)
(―けれど)
「…その必要はないと思います」
「どうして?」
少しムッ、とした顔をして、彼女は言う。私は彼女を見る。意外と食い下がるな、と思う。(…理由を言う必要が?)(面倒臭い)(―でも、言わないと納得しそうにないし…)ちらりと、彼女の肩越しにクロと梔子を見る。砂の上を苦労して進む梔子の足元に、クロがしつこく纏わり付いている。「どうした小僧?普段あんなにすばしっこい癖によ、え―?」彼らの表情を見るに、今の所差し迫った危険は無い様に思える。(…寧ろ、リラックスし過ぎな様な)(ちゃんと警戒してくれてるんだろうな?)(ホント頼むぞ、私の目と耳じゃ、あんた達には敵いっこないんだから…)「―お前の早さも、砂の上じゃ形無しだな。今度かけっこでもするか、んん?」
(…大人気ないなぁ)
「あの硝子を割るメリットが少ないからです」
「?メリットが…?」
「そうですね。あの硝子を割ると」
「ええ」
「大きな音が出ます」
「…馬鹿にしてるの?」
「してませんよ。大きな音が鳴ると、当然、周囲の生物に、私達の存在を感付かれます。その中に天使や変異体が居ないとは言い切れません。それに、一時的にですが、私達の聴覚も麻痺します。生物の耳というのは、大きい音と小さい音を同時に聞く事は出来ません。私達が硝子を砕く為に起てる音が、他の微かな音を掻き消す事もあるでしょう」
「…」
「それに、砂の高さもあります」
「…高さ?」
「はい」
(…1m弱。多分。床が見えないし、巻き尺も持ってないんで、正確には分からないけど)
「窓枠の下辺よりも高い位置に、砂の表層部分が来ています。あの扉が開かなくなったのは、別に最近の事じゃありません。ここに砂が溜まり始めたのも。だとしたら、窓硝子を開けて部屋に入ったのなら、そこには跡が残る筈です」
「…跡…?」
「はい。窓を開けた跡です。開いた窓から、部屋の内側に砂が滑り落ちた跡。恐らく、スコップで掘ったみたいに、綺麗に砂の無い部分が出来上がる筈です。砂の表層部分は、結構柔らかかったですし」
「―じゃあ、その…窓を、その、素早く開いて、入った後、直ぐに閉めたとしたら?砂が全部、入って来る前に」
「難しいと思いますよ。動いてない砂に梔子でもあれだけ苦労したんだ、滑り落ちる砂に、子供の力なら、尚更です。砂は意外と重たいですし、それに、細部にも挟まりますしね。完全に窓が閉じなくなることも在り得ます。それに、何の為に?」
「何の為って―…」
「何の為に、態々そんな事を?」
―赤毛が足を止める。私は眉を上げて彼女を見る。彼女は真ん丸に目を見開いて私を見ている。彼女の唇が何か言いたげに薄く開いては、閉じる。彼女の指先が、彼女の弟の靴の内側を引っ掻く。私は困惑する。
(…何だ?)
クロと梔子が、漸く私達の異変に気付いて、足を止める。クロが、私達の傍に駆け寄ろうか迷う様に、足元の砂を蹴る。梔子が砂の中から足を引き抜いて、一歩、私達の方へ踏み出す。私は片手を小さく上げてそれを制する。
(…何なんだ、これは。どうしたら良い?)
私は途方に暮れて、彼女の表情を見る。怒っている様な、今にも泣き出しそうな、張り詰めた表情。何がどうなっているのか分からない。(…説明書が欲しい)感情の降り幅が大きい奴はこれだから、と思う。苦手意識が強まっていくのを感じる。
(―駄目だ。彼女は依頼人だぞ?彼女は依頼人―)
(…宇宙人を相手にしているみたいだ)
(何が駄目だった?窓硝子を、片っ端から割ってやれば良かったか?今からやってしまおうか、銃弾を残らずブッ放して―)
(―ああ、駄目、駄目、駄目だ。死体を見た。思い出せ。死体があったんだ。変異体の死体が―)
(―クロが掘り返せるくらいの浅い位置に。落ち着け。この辺りに必ず居る。何かは分からないが、あの変異体を殺した何者かが―)
「何の為、」
「ええ。何の為に?他に部屋は幾らでも開いているのに。砂に埋もれた窓ガラスを開けて、どうして扉の開かない、逃げ道の塞がれた部屋に?」
瞬きして彼女が私を見る。ゆっくりと瞬きをして、目の前から私がどうして消え失せないのかと、不思議がる様な表情で。私は内心、頭を抱える。危険に構わず、叫び出したくなる。彼女が口を開く。彼女が息を吸い込む音が聞こえる。彼女の唇が、何か言いたげに動くのが見える。
彼女の表情が変わる。
(…あ)
(そうか―…)
表情が変わった訳ではないのかもしれない。もしかしたら、ずっとそんな顔だったのかもしれない。私が気付かなかっただけで。
彼女の親指が、彼女の弟の靴の裏側を擦る。その度にキュイ、キュイと、ツルツルのソールが鶯の様な鳴き声を上げる。彼女の目元が赤く滲んでいる。
彼女は怯えた顔をして私を見ている。
(…そりゃ、そうか。居なくなったのは、彼女の―)
私は溜息を吐く。
(―『お前もまだまだ小娘だ』、か。否定できないな、こりゃ…)
「窓硝子を」
「?」
「窓硝子を調べて下さい、ケイトさん」
私は指先を持ち上げる。手近の硝子を指先でノックする。取り繕う間も無く疲れた笑みが浮かぶ。(…別に良いか)彼女が驚いた顔で私を見る。赤くなった目元を何度も掌で擦る。何度も瞬きをして、何処か疑う様な眼をして、私を見る。
「…弟さんが、この部屋に居る確率は低いでしょう。でも、全くの0って訳じゃない。追い詰められた人間は、どんな不合理な事でもやらずには居られない。もしかしたら、パニックになった弟さんが、この部屋に飛び込んでしまった可能性もあるかもしれない」
彼女は目元を擦るのを止める。弟の靴の裏側を擦るのを止める。彼女は私を見る。私は苦笑いを浮かべて彼女を見る。
(…そりゃ、そうだよな。私はもう少し、考えるべきだった。もう少し配慮するべきだった。もう少し、彼女の…)
「―窓硝子を調べて、ケイト。開いている窓硝子を。出口の無い部屋に、弟さんが逃げ込んでしまった可能性は0じゃない。けど、窓を開けて、出口の無い部屋に入って、元通りに窓硝子を閉められる確率は、限りなく0に近いと思うわ。火事場の馬鹿力なんかを考慮してもね。もし弟さんが部屋に入ったんだとしたら、ロックされていない窓硝子がある筈よ」
彼女は頷く。勢い良く頷く。
「窓を調べて、ケイト。このふたつの部屋の中は、この階に、他に調べる場所が無くなってから調べるわ。あなたは窓を。開いているかどうか、見るだけで良いから」
彼女は頷き、そして駆け出す。赤い砂の上を、天井に頭をぶつけながら、勢い良く。(…4回目だ)私は苦笑を浮かべたまま、彼女の傍を離れ過ぎない様に、のんびりと歩く。廊下の向こうでクロと梔子が、何が起こっているのか分からないといった様に、首を傾げてこちらを眺めている。
(…そりゃ、そうだ。居なくなったのは、彼女の弟だ)
(私はもう少し、考えるべきだったんだ。もう少し配慮するべきだった。もう少し、彼女の…)
(…彼女の気持ちを)
(彼女はここに居る。安全な“タワー”を出て、弟の為に、タウンの外、この場所に。その事実について、もう少し考えるべきだった。彼女は窓硝子を本当に割りたい訳じゃない。その是非を私と議論したい訳でもない。それどころかあの部屋に、本当に弟が居る可能性があるとすら、思ってはいないだろう)
(彼女は何かしていたいだけなんだ)
(…居なくなった弟の為に)
彼女は慌ただしく駆け戻る。東から数えて、2番目の教室の窓に手を掛ける。頬を汗が流れる。指先が何度も、窓硝子のフレームをガタガタと音を立てて引っ張る。作業の邪魔になったのだろうか、彼女は弟の靴を、ズボンのベルトの隙間に挟み込む。唇を緩めて、私は微かに笑う。拳銃を構えて、廊下の左右を見張る。東側には何も見当たらない。西側では、クロと梔子が、手持無沙汰な様子で私達を待っている。私は汗を拭い、小さく欠伸をする。彼らに手を振って見せる。耳を澄ませる。赤毛の乱暴に窓を調べる音で、周囲の音は全く聞こえない。
(…果たしてこの判断、正しかったのかね?)
拳銃の銃身を、指先で撫でる。鉄の冷たさに安心する。窓硝子を乱暴に引っ張る彼女を見る。彼女は気力に満ちた目をして、窓硝子に移る自分の影を睨みつけている。
(…ま、取り敢えず、元気は出たみたいだし…)
私は次の教室の事を考える。次の次の教室の事を考える。
次の次の教室に、彼女の弟が居なかった時の事を考える。