wonderland/gradual decline3
廊下の西側の突き当たりは、T字型に分かれている。
北側へ折れる道は、正真正銘の袋小路だ。そちらの方向には、更衣室なんかで良く見る、背の高い灰色のロッカーがひとつ、ポツンと置いてあるだけ。
(灰色、といっても、酸化と年月の所為か、殆どの部分が焼け爛れたみたいな赤錆色に変わっている)
ロッカーを開けてみる。ロッカーの中身は、先端が取り外しの出来るモップの柄2本と、そこの抜けたバケツが1個だけだ。
(…なんだこりゃ)
(掃除ロッカー?)
(そりゃそうか。ここには教科書があった。人体模型も。という事は、多分ここは―…)
南側へ折れた道の先は、途中で途切れている。嘗ては別の建物へ続く廊下があったのだろう。が、今やその廊下は根元付近からボッキリと折れている。開いた穴からは砂埃が吹き込んで来ては、又直ぐに外へ逃げ出していく。
(―近くに、他にも幾つか建物があった。この建物と同じ様な形の。あれに繋がっていたのか?)
(折れた廊下は何処に行ったんだろう。砂に埋もれてしまったんだろうか?)
(この建物の一階部分までを埋め尽くす砂の山)
折れている廊下の根元に近付く。折れた廊下の、天井と床で壊れているが違う事に気付く。(天井は長くて)(廊下は短い)折れた廊下近くの窓硝子が、全部綺麗に砕けている事に気付く。折れた廊下の外気に触れる部分が、一部黒く焼け焦げている事に気付く。
(―あぁ)
(爆破したんだ。が。前にここに居た彼ら。彼らがこの道を折った)
(どうして?)
(侵入経路を絞る為だ。この建物は、廊下で他の建物と繋がっていた。入口は少ない方が良い。何かから身を守るつもりなら)
(何から?)
(【裏切り者】)
折れた廊下から外を覗く。風景は砂埃で霞んでいる。胸がざわつく。クロと梔子にその話をするべきだっただろうか、と再び考える。
(不必要)(話すべきだ)(面倒)(意味の無い)(あれは彼らが残したメモだ。私達には関係ない)(…手榴弾には埃が積もっていた。武器庫はガラガラ、ここには集団で生活する人間の気配も感じられない。彼らはここを出て行ってしまったんだ。恐らくはもう、ずっと前に)(―それに、教科書)(教科書…)(私達の世界に繋がる物だ。。彼らと私達の世界を近付けてはいけない。彼らと私の世界を繋いではいけないんだ)
「―で、こっからどうする、カナエ?」
クロが言う。梔子が私の傍へと歩み寄る。しかめっ面で、クロは外を眺める。
「この階にはあの赤毛は居なかった。廊下もこの通り行き止まりだな。となると、後はあの階段の先だ。確率は1/2だな、上へ行くか、若しくは下へ行くか。コイントスでもして決めるか?」
「上へ行きましょう」
「何かアテでもあんのか?」
「彼女の言ってた事、憶えてる?」
梔子の肩の上のクロを見て、私は微笑む。クロは尻尾を一払いして皮肉っぽい笑みを浮かべる。思い出そうという素振りすらしない。そんなクロを見て、梔子は苦笑する。ぶかぶかの革手袋を嵌めた彼の手が、クロの首筋を優しく抓んで撫でる。
「いんや、憶えてねえな。もうサッパリ」
「―『建物の窓辺に、弟の姿を見た』って。彼女の弟を、西へ向かう商隊がね。この建物、1階部分は砂に沈んでる」
「―あ」
「まぁ、もうとっくに調べ終えて、下に降りてる可能性だって十分あるけどね。けれども彼女にとっては、たった一つの証言よ。手掛かりの一つも見つけようと、まだそこで粘ってても不思議じゃないわ」
「…成程ね。オッケーだ、おい小僧、上だ。3階へ向かうぞ」
「梔子、これからは耳を良く澄ましておいて。悲鳴が聞こえたら、それが彼女がそこに居る合図よ」
「悲鳴が聞こえなかったら?」
「―まだ彼女は生きてるか、それかとっくにくたばった後かね。取り敢えず、前者な事を祈りましょう」
階段を昇る。3階へと向かう。途中、階段の上に、何かが堆く積み上げられている事に気付く。見覚えのあるシルエットだ。私はそれに懐中電灯を向ける。懐中電灯の光がそれを照らし出す。私は思わず、ふにゃふにゃとした笑みを漏らす。
(…決まりだな)
ライトの光の先には、バリケードが築かれている。小さなバリケードだ。無数の小さな机で築かれたバリケード。
懐かしささえ込み上げて来る。
(…小学校の机って、こんなに小さかったっけ?)
私はバリケードに歩み寄る。膝上くらいの高さの机を何段も積み上げて、針金で固定してある。(…もう、間違いない)机の脚を指先で確かめながら、私は思う。(ここは小学校だ。小学校の校舎。机、教科書、それに、人体模型)机の脚を掴んで、揺さぶる。中々しっかりと固定されているようだ。私の力ではビクともしない。(―でも、バリケードの向こうの人だって、時々は階下に降りる必要があった筈だ。何処かが通り抜けられるようになってる筈。それに、彼女だって、この先へ進む必要が―)
「―あ、おい見ろ、小娘」
声のした方に目を向ける。そこでは梔子が、バリケードの真ん中辺りから、小学生用の机を抜き出している所だった。(おお)どうやら、バリケードの中心部分の机だけが、わざと固定されておらず、取り外し出来るようになっているらしい。(…ちょっと面白い)合計6つの机を中心から外し、梔子がバリケードを向こう側へ潜っていく。(けど、戻すの大変じゃないか、これ?)梔子の後に続いて、私もバリケードの真ん中に開いたトンネルを潜る。トンネルの途中で、懐中電灯の明かりが偶然私の足元の机を照らす。傷だらけの机だ。(…小学生の机って、大体がこんな感じ)傷だらけで、凸凹で、落書きだらけ。コンパスの針で彫られた落書きの上に、私はそれを見つける。(ハッチー参上!)私は指先でそれを摘まみ上げる。
(―赤毛)
思わずほくそ笑む。バリケードを抜ける。その先は3階の廊下だ。2階とほぼ外観は変わらない。短い廊下。廊下の北側に、教室が5つ。
「どっから調べる?」
「何処からでも良いわ。近い所からよ」
廊下の東から数えて2番目、階段に一番近い教室を調べる。
(―ハズレ)
ざっと懐中電灯で部屋の中を照らす。一目で誰も居ない事が分かる。(…部屋の構造は下と変わらないんだな…)大人が20人は優に詰められる広さ。床は四角くタイル形に仕切られた、格子模様の木目床。そして、西側の壁は、一面の黒。
床の上には幾つもの寝具が転がっている。どうやら、ここも寝室だったみたいだ、と思う。(―けど、この部屋、下にあった部屋とは、何処か違う感じが―)襤褸布の他に、下には一つも無かった、茶色く変色した大きな枕や、毛布、それに、小さな寝袋なんかがある。私の胴までしか無い様な小さな寝袋。
(―そうか。ここは…)
その他にも、絵本や、小さな怪獣のフィギュア、丁寧に縫い合わされた、お手製のボールまである。
(…子供部屋。子供と、その母親達の)
(どうやら、良いグループだったみたいだ、は。善良なグループだった)
(こんな状況下でも、子供を見捨てていない。一番安全な最上階に、子供達の部屋を―)
(―【裏切り者】)
千切れた絵本のページを拾い上げる。(『…そこで、ふたりはちからをあわせて、おっきなパンケーキを―』)どんな奴だったんだろう、と思う。思うだけで、何も出来やしないが。思うだけなら自由だ。せめて、彼らの内の一人でも、無事に生き延びていると良い、と思う。
「―ここにゃあ居ないみてえだな。カナエ、次行くぞ」
クロは言う。梔子とクロはそのまま部屋を出ていく。私は、千切れたページを片手にぶら提げたまま、西側の壁へぼんやりと目を向ける。
(黒)
壁にはバットで思いっきり殴った様な跡がある。それから、流れる血の痕も。血が黒い壁の枠からはみ出して、床の上に点々と薄くなってこびり付いている。血痕は随分低い位置から流れ出している。私の胸の高さも無い位置に、鈍器での打撃跡と、血痕が寄り集まっている。
(彼らは善良なグループだった)
(善良さは美徳でも、生きるのに必ずしも必要では無い)
(【裏切り者】)
(与し易いと思われたんだろうか?ここまで侵入されて―)
(大人達も沢山いた筈だ。2階には沢山の地図があった)
(バリケードは綺麗なままだった。恐らくは元々だ、赤毛が元通りに封鎖した、トンネル部分以外も。侵入は速やかに行われた。【裏切り者】が大勢仲間を連れて襲いに来たんだったら、幾ら頑丈に固定されていたとはいえ、あの程度のバリケード、崩してしまえない事は無かった筈だ―)
(―人質に取られた?少数で忍び込んで来て、バリケードを潜り抜けて―)
「―カナエ?」
クロの声がする。
「今行く」
私はそれに返事を返す。絵本のページを床に捨て、私は部屋を後にする。
次は3階の東側、一番端の部屋を調べる事にする。
(―こういう時、端っこからやらねえと気持ちが悪ぃんだよ、とはクロの言だ)
この部屋はどうやら食料庫だったみたいだ、と思う。例によって推察だが。部屋の中に幾つも置かれたガラガラのスチールラックや、蓋の部分を切り取った段ボール箱の底に、ひとつふたつ、トマトソースの缶詰やら、パンパンに膨らんだポテトチップスの袋が置かれていたりするからだ。(触れると破裂しそうで怖い)部屋の中に死角が多い所為か、それともお宝が眠ってる予感でもするのか、クロと梔子はこの部屋の捜索を、さっきよりも時間を掛けて行っている。私は欠伸を噛み殺して、スチールラックを引き倒し、カーテンを破いて回る彼らの姿を見守る。手の中の懐中電灯を、両方の掌で挟んで回転させる。西側の、一面の黒い壁へ目を向ける。
(この建物は校舎)
(―多分、小学校の校舎)(小学生の教科書があったからって、小学校とは限らないんじゃないか?)(人体模型)(人体模型くらい、中学校にだってある)(…それに、あの小さな机。確かに中学校にも人体模型はあるし、小学生の教科書だって、誰かがここに持ち込んだだけかもしれない)(『楽しい社会6・上』)(―けど、机の大きさは体の体格に合わせたもんだ。あの大きさじゃ、中学生はきっと机の下に足を入れられない。落書きだらけの机。あれは小学生の机だ)
(…中学生だって、落書きくらいするだろ)
(肝心なのはそこじゃない。肝心なのは、ここが校舎だって事だ)
私は西側の壁に近付く。今の所、この建物の全部の部屋に、この壁は設置されている。この建物の、全部の部屋の西側に。
(…全ての教室に)
私は壁に触れる。柔らかく、滑らかで、弾力がある。それから、触った事がある、と思う。
(ここが教室だっていうなら、。これは、それを補う物の筈だ)
指先が黒い壁の上を走る。壁に傷が無い事を確認する。
(…傷の無い壁は、これで2枚目だ)
(たった2枚)
(ここが小学校なら、きっと操作は簡単な筈だ。子供達の手に負えない物を、教室に置いたりはしないだろう。ここが中学校だとしても。きっと操作は単純な筈だ―)
(ここが学校なら。全ての教室にそれが必要だ)
私は黒い壁の縁を丁寧に調べる。左端、右端と調べて、今度は下辺の部分を。クロが私の奇行に気付いて呆れた声を上げる。
「………カナエ。お前、一体何やってんだ?」
私は答えない。黒い壁の下をライトで照らしながら、壁の縁に寄り掛かって、屈んで歩く。
「アホみたいだぞ」
「黙って」
右端から、黒い壁の下辺を覗き込んで歩く。やがて左端の角っ子に、私はお目当ての物を見つける。(こっちだったか)(もしかしたら、上かと思ってたけど)(それか、何処かに一括操作するボタンでもあるのかと)私は手の中のライトでそれを照らす。そこに書いてある文字が私の予想通りな事に、私は静かな満足感を覚える。
【運転/スリープ/停止】
(…操作は単純)
【運転/スリープ/停止】の文字の左隣に、其々小さなランプが一つずつと、その文字列の右側に、小指の先くらいの赤いボタンがひとつだけ、ある。3つの小さなランプは、その内の一つだけ、【停止】の隣のランプだけが、控えめに赤く発光している。私は迷わずに赤いボタンを押す。
音がする。
―ザ。
「おい、カナエ、いま何―」
顔を上げる。黒い壁を見る。黒い壁に白い光のノイズが走ったかと思うと、その一瞬後には、壁の中身は一面青白い光を放つ輝く板へと変貌する。青い光の奔流の中に、白い文字が浮かんでいる事に私は気付く。
【Good morning,students!】
【おはようございます】
【今日も一日、一緒に頑張りましょう】
【授業開始まで、あと**時間**分です】
(柔らかく、滑らかで、弾力がある)
(…それから、触った事がある)
(触った事があるのは当然だ。これは、多分液晶だ。。私達の世界のものと、完全に同一かは分からないが)
(―そして、ここが学校なら。全ての教室にそれが必要だ)
私は笑う。肩を軽く解し、そのディスプレイの前に立つ。
(―黒板)
(黒板だ。黒板が必要だ。全ての教室にはそれが必要だ)
(…電子黒板、ってやつかね?)
(さて、一体何が得られるやら―)
不必要に大きな起動音が鳴る。背中側でクロが、悲鳴とも威嚇とも取れる様な呼吸音を漏らす。梔子が大きく飛び退く音がする。私は苦笑する。懐中電灯のスイッチを切って、ディスプレイの縁に置く。
私はディスプレイに指先で触れる。
(…見た所、大っきなパソコンの画面、って感じかな)
ディスプレイから次第に青白さが薄れ、画面の色は深緑へと更新される。(正に黒板)画面の左上には時計のアイコン、左下には二つのフォルダが置かれている。私の指先がディスプレイの上をなぞる度に、コツコツという過剰な音量のSEと共に、画面の中に白いチョーク線が引かれていく。(…成程。普通の黒板の機能もちゃんと兼ね備えてるんだな…)指先で描いた線を上から掌で擦る。コツコツというSEがして、私が掌で擦った部分が、あっという間に真っ白に塗り替わる。(…これ、線を消したりするの、どうやるんかね?)
(操作次第でどうにかなるんだろうか。それとも、某かの付属品が必要?)
左上の時計アイコンを見る。アイコンは懐中時計を模したデザインだ。円形で、上にネジが付いていて、中に文字盤が刻まれている。但し、時計の中心に、短針、長針、秒針、そのどれひとつとして無い。
(…故障?長期間更新を怠った事による、一時的な不具合?それとも―)
(―“神の柱”?)
(機械にも効くんだろうか?)
左下に並ぶ二つのフォルダを見る。二つのフォルダ名を見る。二つのフォルダ名は、単純明快な単語で書かれている。
【教材】と【ゴミ箱】。
(…ふむ)
私は【教材】のフォルダを、素早く指先で二度突っつく。(えい、ダブルクリック)【教材】のフォルダは何の抵抗も無くあっさりと開く。(どうやら、操作はパソコンとほぼ同じみたい。マウスとキーボードが欲しいな。スタートメニューの呼び出しとか、右クリックなんかは出来ないのか?それが出来りゃ、こっからもう少し情報を掘り出せるんだけど―)
【教材】のフォルダの中を見る。中身は空っぽだ。
(…クソッタレ)
(フォルダの作成日は2022/3/26、最終更新は2030/7/19。6年と半年くらい?)
(2030。梔子達の家で見つけた新聞より、2年も後だ)(それ自体はおかしい事じゃない。あれは、2028年までは新聞が出ていた、という証拠にしか過ぎない。彼らの家に無かっただけで、28年以降も新聞は普通に発行していたかも)(その後、何かが起きた。何かは分からないが、外はあんな風になって、“神の柱”もあの場所に)(この年に起きたのか?2030年の、夏休みの間に?)
(断定はできない。私に分かるのは、2030年までは、この学校では普通に授業が行われていた、という事だけだ。2030年が、今から何年前なのかは分からないけど―)
(―私にとっちゃ、15年後の未来)
【ゴミ箱】の中身を確認する。【ゴミ箱】の中身も、空だ。
(………クソ…)
ディスプレイに“クソ”と書き殴る。黒板の前で腕を組んで、これからどうするか、暫く考える。背中側で梔子が、そろそろと私の傍に歩み寄る足音が聞こえる。親指の爪に歯を立てる。ディスプレイを睨む。
「―ああ、カナエ?クソ、目が痛ぇ、なんだってんだ、こりゃ一体―?」
(クソ)
(何か分かるかも、と思ったのに…)
(―情報は0)
(どうするべきだ?こっから何が出来る?)(フォルダは二つ。アイコンは一つ)(フリック操作は?何処かの一辺に、アイコンやフォルダ、スタートメニューなんかを、収納する様に設定しているのかも)(黒板の上の辺は調べてない。梔子に肩車してもらえば、ギリギリ覗きこめるか?)(USB端末を差し込める穴があれば、“扉”の向こうからキーボードを持ってきて―)
…私は黒板の右端、続いて左端で、指先を滑らせてみる。何も起こらない。右端と左端に、爪で引っ掻いたような白い線の痕が、大袈裟なSEと共に残るばかりだ。私は力無い溜息を吐いて、梔子とクロを振り返る。クロは口をあんぐりと開けて黒板を見上げている。
「―ねぇ、梔子。私を―」
―と。
口を開いた時。
「―すとっぷ!」
声が聞こえる。
聞いた事の無い声が。
クロのものでも無い、勿論私のものでも無い、声。梔子の声でも無いだろう、多分。梔子は私の目の前で、驚いた表情のままその場に固まっている。彼が口元のマフラーを少しも揺らさずに喋る事が出来るなら、また話は少し違って来るけれど。
(?)
―首が軋む。クロと梔子がこの部屋を隅々まで調べた筈だ、と思う。誰もこの部屋には居なかった筈だ。(【裏切り者】)見知らぬ第三者など、絶対に。(【絶対に信じるな。絶対に絶対に絶】)声は私の背後から聞こえる。私は軋む首を動かして、自分の後ろを振り返る。
「―すとっぷ、すとっぷ、すとっぷデス!アァ、ナンテ非常識ナ方々ナンデショウ!でぃすぷれいニ素手デ触ッテハイケナイ、ト先生方ニ言ワレマセンデシタカ?液晶画面ハ非常ニでりけーとナノデス!皮膚ガ持ツ僅カノ水分デモ画面ニ黴ハ発生シ、油分デ反応ハ0.26%だうんシマス!アナタガ清潔デナイ手ヲ持ッテイタ場合、コノ数値ハ更ニ上昇シマス―!」
(?)
黒板を振り返る。私は黒板を見る。私達は。
黒板の中にはペリカンが居る。
(………)
(?)
(何なんだ、これ―)
(―何なんだよ、何だって言うんだ、今度は、何―)
黒板の中にペリカンが居る。アニメ調にデフォルメされたペリカンだ。目は大きく、体はずんぐりむっくりで、羽の先は手の様になっていて、足は短い。大きさは私の掌くらいのサイズ。頭の上に角帽を被り、体には黒い学術ローブを身に纏っていて、羽先には伸び縮み出来る指示棒を持っている。そのペリカンが、画面の中を縦横無尽に走り回り、私が黒板に残した白い落書きを、一生懸命消して回っている。
(…何なんだ。もう、何が何だか…)
ペリカンが、私が画面に書き殴った、“クソ”の二文字を消していく。その間もペリカンは、途切れること無く言葉を並べ立てていく。私達の返事が無いのもお構いなしに。
「―非常識、非常識!アナタ達ハ非常識デス!トテモ非常識!コノ件ハコチラカラ先生方ニ報告サセテモライマスカラネ!然ルベキ罰則ヲ設ケテモライマス!めんてなんすモ大変ナンデスヨ!アァ、アト何万回言エバ良イノデショウ、コノでぃすぷれいヲ使ウ際ハ、必ズ専用ノちょーく・たっちぺんヲ使用スル様ニト―!」
ペリカンの頭上には、怒りで湯気が噴き出す様なエフェクトが表示されている。
(…怒ってる?)
(感情があるのか?)
(違う、そんな訳ない。あれは、怒っている様に見えるだけだ。特定の行動に対して、こう反応する様にプログラムされている。どうやら、この電子黒板に素手で触れる行為は、この黒板の設計者にとってはよっぽどの禁忌だったらしい。設計者じゃ無ければ、この黒板を購入した人か、或いは教師達か)
(加減を知らない子供達の事だ。もしかしたら、もう幾度と無く壊れた後なのかも)
(チョーク型のタッチペンね。それらしいのは見当たらないけど…)
ペリカンが、黒板の上にあった私の痕跡を、全て消し終える。それと同時に、ペリカンの頭の上に出ていた湯気のエフェクトも消える。その代わり、ペリカンの頭からは大粒の汗が吹き出し、肩は疲労からか激しく上下し始める。やがてペリカンは疲れに耐えかねたかのように、短い足を投げ出して、その場にぺたりと座りこんでしまう。
(…中々芸が細かい)
私は感心してその光景を見つめる。思わず頬が緩む。相当良く出来たプログラムだ、と思う。
「おい、こいつは何の―」
「―所デ、アナタ達ハ」
クロの言葉を遮る様に、ペリカンは口を開く。汗は止まり、激しく上下していた肩も停止する。画面の中で座り込んだまま、ペリカンは言葉を続ける。
その大きな眼を、私達の方に向けて。
(…驚いた。良く出来た、なんてもんじゃないな、これ)
(何処かに機能しているカメラでもある?カメラで私達を認識しているのか?)
「―本校ノ生徒ニハ見エマセンネ。生徒ニシテハ歳ヲ取リ過ギデス。保護者ニモ見エマセン。保護者ニシテハ若スギマスカラネ。モシカシテ、本校ノ卒業生カ、不法侵入者ノ方デスカ?」
「そうね。侵入者ではあるわ。不法ではないけれど」
「不法デハナイ?不法デハナイトイウ事ハ、合法的ナ侵入者ダトイウ事デスカ?意味ガ分カリマセン。矛盾シテイマス。説明ヲ要求シマス」
(…凄いな。会話も出来るのか。マイクによる音声認識?マイクに向かって喋っている訳でもないのに。マイクの感度も相当良いみたい)
(これこそ持って帰りたいなぁ。然るべきところに売りゃ、間違いなく一攫千金だ)
(―問題は、鞄に入り切らない、って所かな…)
「良いわ、説明してあげる。けれどその代わり、私達の探しものを手伝ってくれない?実は私達、ここに人を探しに来たの―」
「―ソウデスカ。アナタ方ハ、ソノ赤毛ノ女性ヲ探ス為ニ、ココヘ?」
「ええ」
「ココニ侵入スル理由ガアリ、尚且ツ法律ガ機能シテイナイ今、自分達ノ行為ハ不法デハナイ、ト?」
「ええ、その通りよ」
「無法者ノ理論デスネ。“無法コソガ法律ダ”トイウ訳デスカ。マルデ西部開拓時代ノ荒クレ者デス」
「…そう言われると、ちょっと返事に困るわね」
思わず苦笑する。私は頬を緩めて、暗闇で光る黒板を眺める。黒板の縁から懐中電灯を拾い上げる。スイッチを意味も無く点け、また直ぐに消す。
(―驚いた。持って帰れないのが、本当に惜しくなって来た)
(AIが、ジョークを言うだなんて)
(…私達の世界から、何世代進んだ技術なんだろうか。ここは、どれだけ文明が進んだ世界だったんだろう?)
画面の中で、ペリカンが疑り深そうに目を細めて、言う。
「デハ、外ハ無政府状態ダト?俄カニハ信ジラレマセンネ」
「信じられなくても構わないわ。でも、あなたが最後に起動されたのは?前に授業をしたのは何時か、憶えてる?」
―ペリカンはぶすっとした顔をして、私から目を逸らす。
「…時間ニ関スルでーたハ欠落シテイマス。アクセス不可。えらー。オ答エ出来マセン」
私はくつくつと喉を鳴らして笑う。ペリカンAIは益々不機嫌な表情になって、黒板の中を行ったり来たり、し始める。
「なぁ、おい―!」
内緒話をするような、控えめな小さな声が、私の耳の裏を擽る。左肩が急に重くなる。見ると、クロが私の肩の上に飛び乗って、私の顔を見上げている。警戒する様な、不安を押し殺す様な表情で。私は彼の目を見る。金色の目を。彼は私の耳の穴に、鼻先を突っ込むようにして喋り続ける。
「………カナエ。いつまであいつと話してる?ありゃ、一体なんだ?あのピカピカ光るのは。“シェルター”にあったヤツと親戚か?シェルターの奴は喋らなかったぞ」
「あれは―」
「ああ、ああ。違う、あれが何か、本当に知りたかったわけじゃないんだ。あれがなにかなんてどうでも良い。カナエ。俺達はここに何をしに来た?え?忘れたのかよ?あの女を探しに来たんじゃなかったのか?それが何で、あんな変てこな鳥公と―」
クロがそこで、言葉を飲み込む。黒板の中で、ペリカンが動きを止めている。
―その分厚い嘴を、私達の方に向けて。
「変テコナ鳥公トハ、随分ゴ挨拶デスネ」
「…兎に角だ。俺が言いたいのは、だ。いつまでこうしてる?ってことだよ、カナエ。こいつは一刻を争う事態だった筈だ―その、あのアホ女が死んでない場合には、だがな。それが、それなのに、どうして―どうでも良くなっちまったのか?ああ、もう訳が分からねぇ、この建物も、あの鳥公も、お前もな」
言葉の最後をクロは、何処か吐き捨てるような調子で言う。私はクロの頭に手を伸ばす。クロは前足でそれを払い退ける。私は小さく肩を震わせて笑う。
「えー、そうね、ペリカンさん」
「Eb-v0128-052デス」
「は?」
「Eb-v0128-052。私ノ正式名称デス。教育支援ぷろぐらむEb-v0128-052。格調高ク、Eb-v0128-052トオ呼ビ下サイ。国内デモ最新版デスヨ」
黒板の中で、何故かペリカンは誇らしげに胸を逸らす。
(“E”。Electric。Education?)
(“B”は多分、BlackboardのBだろう)
(国内でも最新?幾つかの学校に配備されていたのか―?)
「ペリカンさん。私達は、」
「デスカラ、私ノ正式名称ハ、Eb-v0128―」
黙殺する。「ペリカンさん。私達の目的はさっき話したわよね?私達よりも先にここに侵入した、赤毛の女を掴まえたいの。協力をお願いできないかしら?あなたは見た所、かなり高性能のマイクとカメラを持っている様に思うわ。それで彼女を探せない?もしそうしてくれるのなら、この施設内では出来る限りあなたの意に沿う様に行動すると約束するわ。建物やあなたを壊したり、ここで暴れたりしないと約束する。止むを得ない場合以外はね」
「…止ムヲ得ナイ場合トハ?」
「変異体や、天使と出くわした場合よ」
「変異体?テンシ?でーた不足。認識出来マセン。情報でーたノ集積ガ必要デス。でーたノ提出ヲ求メマス」
「良いわ。後で聞かせてあげる。体験談で良いならね」
「『赤毛ノ女性』ハ本校ノ関係者デスカ?」
「違うわ。違う筈よ。私の知る限りでは」
「分カリマシタ。デハ、コレカラコチラノ内部でーたヲ参照サセテ頂キマス。ソレカラ、先程ノ項目ニ、一ツノ追加条件ヲ希望シマス。『本校ノ関係者ダッタ場合、コチラハ一切ノでーた開示ノ要求ヲ拒否スル事ガ出来ル』。私ニハ本校ノ全テノ関係者ノ権利ヲ守ル義務ガアリマス。モシ『赤毛ノ女性』ガ本校ノ関係者ダッタ場合、一切ノ回答ヲ拒否サセテ頂キマス。ぷらいばしー情報ノ漏洩ハ彼ラノ権益ヲ著シク損ナウ恐レガアリマス。ソレヲ順守シテクレルナラ、ソレヲ以ッテ私達ノ間デ条約ノ締結ト致シマショウ」
私は逡巡する。(放置されていたAI)(高度な受け答え)(約束に穴は無いか?)(何か問題は?)クロを見る。それから、梔子を。クロは黒板の光で目が痛むのか、私の首筋の裏に頭を潜り込ませている。お陰で私からは、表情を窺い知ることが出来ない。私は指先で、クロの後ろ脚の付け根辺りを突っつく。一瞬、クロの体が、びくりと激しく跳ね上がる。
梔子はその場に棒立ちで黒板を見上げている。時折りずり落ちて来るマフラーを、その度に鼻先まで持ち上げて。私の視線に気付くと、梔子は微笑んで私に頷く。頷いた様に見える。
(…私の願望かもしれないけど)
私は黒板へ目を戻す。黒板の中のペリカンを見る。ペリカンを見て、私は頷く。
「それで構わないわ」
「アァ良カッタ!無事??/??/??ニ我々ノ相互協力体制ハ確立サレマシタ。コレデ私達ハ同盟関係デスネ。ドコカニ共同声明文ヲてきすと・でーたトシテ保管シテ置キマスカ?」
「…好きにして。それよりも、彼女を―」
「安心シテ下サイ。モウ見ツケマシタ」
「―何ィ?」
私の頭の後ろから、クロの驚いた声が聞こえる。驚きの余り、クロの前足が私の背中を滑る感触も。私は慌てて肩の上のクロの胴体を掴まえる。「おい、こい、こいつ今、何つった―?」私の肩にぶら下がりながら、クロは必死に身を捩ってそう声を上げる。
「見つけた?見つけただと―?」
「ハイ。然程苦労ハシマセンデシタ。何シロ、現在コノ校内ニテ感知出来ル生体反応ハ3ツノミデス。2ツガアナタ方デスカラ、残ル一ツガ必然的ニ彼女ト言ウ事ニナリマス。彼女ハ6-4ノ教室ニ居ル様デス。中央校舎ノ3階デスネ」
(あ?3つ?)私はクロの首筋を摘まみ上げ、(―ちょっと待て鳥公、お前、もしかして俺様をカウントしてねぇのか―?)そのまま胸元に抱き上げて、左手でその口に蓋をする。(―むぐ―)クロが私の左手の内側に噛み付くのを無視し、(結構痛い)黒板に向かって言葉を投げる。
「―そこへは、どうやって行くの?」
「廊下ヘ出テ、道成リニ3ツ隣ノ教室ヘオ進ミ下サイ。ソコガ、6-4ノ教室デス」
「分かったわ。有難う」
(―成程ね。ここが中央校舎)(6-4はここから3つ隣。じゃあ、ここは6-1?それとも、別の教室だったのかしら?)(思った通り、彼女は上に居た。唯一の手掛かりだ。彼女は捨て切れなかった…)
(生体反応は3つのみ。2つは私達)
(残りは1つ…)
私は教室の外へと爪先を向ける。クロが吼えないのを確認してから、彼の口元から手を放す。梔子が先行して、手早く廊下の安全の確認をする。頷いて、梔子は私を手招きする。
私は懐中電灯のスイッチを入れる。
「約束、守ッテ下サイネ?」
「分かってるわ、安心して。約束は守る方なの」
東から数えて、4番目の教室。
(…ここが、6-4だって話ね)
(ここに彼女がいる―)
窓から教室の中を除く。灯りは点っていない。耳を澄ませる。何の音も聞こえない。(もう移動した?)(特に音はしなかった。私が聞こえなかっただけかもしれないけど)(でも、クロも梔子も、何か気付いた様子は無かったし…)腕時計を見る。私の手首に巻き付く、小さな腕時計を。ピンクの腕時計。ベルトを最大にしていても、手首には締め付けられるような感覚が残る。(11時41分)(タウンを出たのは何時だった?8時半?9時?)(―どっちにしろ、未だ寝てるっていうんなら、相当な寝ぼすけだ)(こんなとこで、良くのんびり眠れるな。死ぬかもしれない、とは思わないのか?)(どうやら神経の方も、相当立派みたいだな…)
梔子に合図を送る。梔子は頷いて、扉の傍に張り付き、左手で出来る限り静かに扉を開ける。開いた隙間にボウガンの射出口を向ける。5つ数えて、梔子はその隙間に自分の体を滑り込ませる。
(1、2、3、4―)
暫くして、梔子が扉の外の私達を小さく手招きする。私は扉の中に踏み込む。
懐中電灯のスイッチを入れる。
教室の造りは、今までの物と殆ど同じだ。大人が20人は優に詰められる広さ。床は四角くタイル形に仕切られた、格子模様の木目床。そして、西側の壁は、一面の黒。
(…ここの黒板も故障していないみたいだ。これで、壊れてない黒板は3枚目)
部屋の内装は、今までと比べても、少し変わっている。(…何の部屋だろう?)先ず、寝具が無い。かと言って、倉庫にも見えない。床には、教室の1/3の床面積を覆う大きなカーペットと、それよりも小さなサイズの絨毯が4、5枚並べて乱雑に敷かれている。北側の壁面に接する様に、大きなソファーが一つ。ソファーの足元には、幾つもの空き缶や瓶が並べてある。(…どれもビールやハイボール、その他アルコールの空き容器みたいだ。これはワインだろうか?少し中身が残ってる…)
ソファーの上に彼女がいる。見間違えようも無い赤毛が、ソファーの上から零れているのが見える。
(居た)
(…手間掛けさせやがって)
(どうやって彼女を連れ帰る?どうやって彼女を納得させる?どうやって彼女を…)
ボロボロの灰色のソファーに、彼女は顔を埋めて横たわっている。スカイブルーの長袖のポロシャツに、パリッと糊の利いた、黒のスラックス。ポケットに小型の懐中電灯。靴はナイキのエアジョーダンだ。
(エアジョーダン12。ソールの部分がブルー)
(…廃校探索に、なんてもん履いて来てんだ、こいつ)
(まぁ、ハイヒールで来るよか、マシかもしれないけど)
彼女は胎児の様に身を縮めて、ボロボロのソファーの上に蹲っている。何かから身を守る様にして。私は疲れた笑みを唇に浮かべ、懐中電灯の明かりを彼女の顔に向ける。彼女は少しだけその場でモゾモゾと動く。が、彼女の寝息は途切れない。
「………なぁ、カナエよぉ。提案があるんだが」
「何?」
「今の内にふん縛っちまわねぇか?またこいつがゴチャゴチャ言い出す前に、引き摺って連れて帰れる様によ」
「…寄寓ね。私も丁度今、そう考えてたとこよ」
梔子が驚いた様に目を開いて、私達を見る。ソファーの上で彼女が身を震わせる。ゆっくりと身を擡げ、忘我の表情で室内を見回している。どうしてこんな所に居るのか分からない、といった具合に。
私は苦笑する。
彼女の手の中には靴がある。片方だけの靴。身を縮めていた彼女が、体の内に隠していた物だ。彼女の両足には靴が揃っている。他の誰かの靴だ、という事だけが分かる。彼女は大事そうにその汚れた靴を抱えている。男の子の靴みたいに見える。
―彼女の頬には涙の痕がある。
「…でも、駄目みたいね。どうやら彼女、目を覚ましたみたい。説得するしかなさそうね。ほら、話し合いの準備をして」
「―クソッタレ。ああ、酷え仕事だ。3000じゃ割に合わねえぞ?7000だって足りねぇくらいだ―」
「賃上げの交渉をしてみたら?今なら彼女、意外に応じるかもよ」
「アホか。そんなんで応じるくらいなら、最初の時にとっくに応じてる筈だろ?」
「…成程ね、そりゃ御尤もだ」
彼女が私を見る。私達を。私を見て、梔子を見て、私の肩の上のクロを見て。彼女の瞳が徐々に開いていく。驚きと戸惑いで。彼女の微睡んだ意識が、漸く私達の存在を捉える。
「さぁ、ラウンド2よ」
「黙ってろ、カナエ。ああ、クソッタレ―」
微かに風の音がする。
彼女はソファーの上で上体を起こしたまま、無言で私の顔を見つめている。苦しそうに目を細めて。片っぽだけの靴を、服に跡が付くのも構わずに、大事そうに胸元に抱き締めている。彼女の眼の中に色んな感情が見え隠れする。喜び、動揺、怒り、拒否、焦り、安堵、不安、敵意。瞳の色がくるくると変わる。昔持っていた、虹色のビー玉を思い出す。
(あれは誰に貰ったんだっけ。誰かに貰った事だけは憶えてる。思い出せそうで思い出せない…)
(…結構、感情を隠せない性質なのかな)
(だったら、酒場の時は、彼女にしては上手く取り繕ってた方だったのかも。交渉の方は、大失敗だった訳だけど)
(それとも、単純に朝、弱いのかもな。だとしたら、気持ちは分からなくもない。頭がいつもより萎んでる感じがして、色んな事がどうでも良くなる感覚が―)
「………“羽狩り”?」
長い沈黙の後、漸く彼女がそう口を開く。少し掠れた声で、それだけを言う。
私は頷く。
「どうして私達がここに居るか、分かりますか?」
彼女は俯いたまま、額に手を当てて鈍々と首を振る。私は笑みを浮かべる。同情の笑みを。
「仕事です」
彼女は顔を上げる。
「今朝、タワーの下にお触れが出ました。ディガーへの仕事の依頼です。行方不明のあなたを連れ帰る様にと。依頼人はあなたのご主人です」
彼女が私の目を見る。彼女の瞳が、ハッキリと狼狽の色に染まる。彼女は胸元の片っぽだけの靴を、両手で縋る様に握り締める。
「―依頼」
鸚鵡の様に彼女は繰り返す。
「ええ、依頼です」
「…依頼。私じゃなくて、あのひとの。依頼?そんな、どうしてあのひとが?そんなの嘘よ、どうしてあのひとが、わざわざそんな―」
「ケイトさん―」
「―間違ってる。こんなの間違ってる。あのひとの依頼ですって?私の依頼は受けてくれなかったのに」
「ケイトさん、話を―」
彼女が瞬きをする。瞳の色が変わる。
(―あ)
(マズい)
「―出てって」
「ケイトさん、落ち着いて―」
「―出てってよ!今直ぐここから消えて!どうしてあなたに従わなくちゃいけないの!?弟を助けてくれなかった癖に!!」
「―ケイト、お願い、話を―」
「―あなた達は間違ってる!あの子はここに居たのに!見て、これが証拠よ!あの子はここに居たの!あなた達が、幾ら幻だって言っても!あの子はここに居るのよ!見て!これが見える!?」
「―話を聞いて―」
「消えて!私の前に、二度と姿を見せないで!あんた達は間違ってる。あんた達が間違ってるのよ!何もかも糞喰らえよ、どうして私が帰らなくちゃならないの!?弟が居ない―…!!!」
彼女が瞬きをする。瞳の色が変わる。
涙が零れる。
さっきまで火を吹きそうな程に張り上げていた彼女の怒声が、突然ラジオのボリュームを絞ったみたいに急激にトーンダウンする。梔子が目を真ん丸にしてその場に立ち竦んでいるのが視界の端に見える。私は思わず苦笑する。(“非常に不安定”)(“爆発の危険性”)(…“取扱注意”)クロが私の左肩の上で実際に、爆発物でも見る様な目付きで、彼女の事を見下ろしている。
「―ケイトさん」
彼女は両方の掌で顔を覆う。背中を丸めて、ソファーの上に蹲る。彼女の肩が震える。片っぽだけの靴がコロコロと彼女の膝を転がって足元に落ちる。掌の隙間から、啜り泣きが聞こえる。
「…どうして戻らなくちゃいけないの?弟が居ない、あの街に…」
息を飲み込む。彼女に何と言えば良いのか分からない。どうすれば、彼女を納得させる事が出来るのか。彼女の足元に転がる靴を見る。多分、彼女の弟の靴だ。右足の靴。運動靴。白っぽい茶色に色褪せて、度重なる洗濯の所為だろうか、元々色があった場所からも、すっかり染料が抜け落ちている。残っているのは、靴底付近の黒い縁取りだけ。踵の部分はすっかり履き潰されて、凹んだままもう元には戻らない。彼女に聞いていた弟の年齢より、靴のサイズは随分小さく思える。(確か、11歳…だっけ)(その頃は私、どの位のサイズを履いてたんだろう)(19cm、20cm。それくらいに見える)(確か、小6の時、23くらいだったから―)
「たった一人の家族なの」
(―履き潰された踵。干泥の様な色の靴。随分と長い間、彼女の弟はあの靴を履いてたみたいだ)
彼女は言う。ぽつりぽつりと。言葉が自然に、口から零れる様に。
「たった一人の家族だったのに」
(長い間―)
「出てって。もう消えてよ。私を一人にして…」
―肩を。
(?)
肩を押される感触がする。肩を後ろに突き飛ばされる様な、肩を背中側から引っ張られる様な。突然の感覚に私はよろめく。(?)私は慌てて周囲を見る。教室の中に変化はない様に思える。梔子は私達に背を向けて、教室の扉の方を見張っている。どうやら、彼女の説得に参加する事をハナから諦めているらしい。(…このヤロォ)―一瞬の後、ボスッ、と何かがソファーの上に落下する音がする。私は音のした方を見る。ソファーの上にはクロが居る。(?)ソファーの上、彼女の隣にクロが立っている。どうやら私の肩を蹴って、あそこまで跳躍したらしい。(…でも、どうして?)(クロ、彼女が苦手だった筈じゃ…?)(もしかして、彼女を説得してくれる?)
クロが口を開く。私は彼らを見る。彼女の弟の靴を見る。
「甘ったれんな」
―私は顔を上げる。
彼女も顔を上げる。両の掌を顔から剥がして、涙と鼻水で汚れた顔を、声のした方へ向ける。ソファーの上に立っているクロへ。再び、瞳の色が怒りで染まる。怒りと、憤慨で。彼女の上唇が捲れあがる。
「な―」
「お前、今自分の命がどれだけの奇跡の上に成り立ってるのか、ちゃんと分かってるか?」
「―に?何を―」
「お前は馬鹿だ。赤毛の女。いいか、俺様が馬鹿でも分かる様に、お前の奇跡を解説してやる。お前は夜の間にタワーを抜けだし、“タウン”を出て、この建物へ向かった。ピカピカの真っ赤なオープンカーでな。さぞかし月明かりの下でも派手に映っただろうよ。誰にも見られずにタウンを出られたのが不思議な位だ。あー、因みにだがよ、夜は“神の柱”の影響が強まる。それは知ってたか?」
「―」
彼女の瞳の色が変化する。
怒りが薄れ、不安の色が濃くなる。おずおずと掌を握り締める。下唇を噛む。
「やっぱな。お前はカナエを越える世間知らずだ。世間知らずで、無知で無鉄砲の、大馬鹿だ。どうして夜の外出や集会が、原則禁止なのか知ってるか?別にちゃんとした決まりがある訳じゃない。けど、いわゆる暗黙の了解ってヤツだ。誰も好き好んで外を出歩いたりはしねぇ。どうしてだ?どうしてだと思う?あァ?祭りで大量の篝火を焚くのもそうだ。何故だ?分かるか、赤毛?」
「…暗いから?」
「馬鹿。夜は変異者が増えるからだよ。夜中は昼に比べて、明りが少ねぇ。だから、“神の柱”の影響をモロに受け易いんだ。昼に変異するよりも、夜に変異する奴の方がずっと多い」
「…半分正解みたいなもんじゃん。暗いから火を焚くんでしょ?」
「黙ってろ」
(…成程ね。夜の方が光源が乏しい。だから、“神の柱”の影響が―)
(夜、変異体が活発になるのも、それと何か関係があるんだろうか…?)
(―それとも、あれはこの前の、あの個体だけの特徴?)
「―それから、お前はこの施設に着いた。この建物にな。運良く天使にも盗賊にも出会わずに」
「ここは“タウン”に近いわ。幾ら天使だって―」
「タウンが近くても関係ねぇよ。昔はタウンの中でだって天使に襲われたんだ」
「…」
「そして、お前はここでのんびり寝こけてた、って訳だ。これだけ“神の柱”に近い場所で、変異体が居てもおかしくない建物内で、武器も持たずにな」
「何言ってんの?武器なら―」
彼女はちょっぴり優越感を唇に滲ませると、先ずズボンの右ポケットを探り、次に左ポケットを探り。
(…)
ポロシャツの胸ポケットを覗き込み、挙句の果てに、足元に落ちている弟の靴を拾い上げ、それを逆さにして振る。靴の中からは、パラパラと砂利や砂が疎らに零れ落ちる。
それを見て初めて、彼女の顔が漸く恐怖に歪む。
(なんか、気の毒になって来たな)
「…カナエ、あれを」
クロの言葉に、私は頷く。鞄の中から彼女の小型拳銃を取り出す。彼女の車の後部座席に落ちていた物だ。掌に収まるくらいのサイズ。それに、銃口が二つある。
私はそれを、銃把を向けて、彼女の方に差し出す。
「…これ―!」
彼女の顔が、途端に希望に満ちたものに変わる。私の手から奪い取る様に拳銃を捥ぎ取り、嬉しそうにそれを握り締める。指先を振り、私は苦笑する。(…ちょっと、ジンジンする)右手に玩具の様な拳銃を握り、左手に汚れた靴を持って無邪気に笑う彼女は、年齢よりも随分幼く見える。
(…子供みたいだな。大きな子供だ)
「ありがとう。これを、どこで?」
私を見上げて、彼女は尋ねる。ソファーの上で尻尾に付いた埃と格闘しながら、クロが面倒臭そうにそれに答える。
「お前の車の中だ、赤毛」
「…アンタには聞いてないんだけど」
「聞いてなくても同じだよ、馬鹿。どうやらその様子じゃ、他に用意した武器も無いらしい。お前、その銃で、何を殺す積りだった?天使や変異体には効かねぇぞ、そんなもん。そりゃ護身用の豆鉄砲だ。人間だって、殺せるかどうか怪しいくらいさ」
「…脅しにはなるでしょ。大事なのは、私はちゃんと武器を持ってる、って事よ」
「車の中に忘れてたけどな」
「それは―…!」
クロが顔を上げる。彼女の目を覗き込む。その金色の眼差しで。彼女は口を噤み、僅かにその身体を後ろへ逸らす。まるでクロの視線に、無理矢理口を塞がれたみたいに。
「冒険ごっこはもう仕舞いだ」
クロは言う。
「“タウン”へ帰るぞ」
「―私は―…!」
彼女は言う。絞り出す様に、苦しそうに顔を歪めて。
「まだ分からねえのか?お前がどれだけの奇跡を綱渡りして、今ここに居るのか。カナエが偶々タワーで依頼の立札を見てなかったら、俺達はここに来てすら居なかったんだ。カナエはタウンに住んでる訳じゃねぇ。いっつも気紛れにしか来ねぇからな、今日来たのも、立札を見たのも、何もかも偶々だ。依頼を蹴る可能性だってあった。報酬は大した額じゃねえし、俺はお前が嫌いだからな」
「…」
「―お前を見つけられる保証も無かった。それに、俺達が見つけるより先に、変異体がお前を見つけて喰っちまわないって保証もな。お前が数々の偶然の重なりの上に立っているのを、理解したか?」
「………私は…」
「我儘は止めろ。探してぇ奴と、探してくれる奴が居るだけで、上等じゃねえか。そのうえ生きてる。砂漠の夜を、一人で過ごしてな。一人前のディガーだって、一人で生き延びられるかは怪しいもんさ」
「……………私―」
彼女は俯いて、手の中の靴を見る。汚れた靴を。クロは溜息を吐いて、私を見る。私は肩を竦めて、声を出さずに苦笑する。彼女と、そしてクロから離れる。教室を縦断し、西の壁に近付く。西の黒い壁に。
黒板に。
黒板の下辺の左端を調べる。今度はさっきと違って、探していた物は直ぐに見つかる。
【運転/スリープ/停止】
私は躊躇わずに赤いボタンを押す。
あの音がする。
―ザ。
画面が青白く光る。青白い光の中に、前に見た文字群が見える。
【Good morning,students!】【おはようございます】【今日も一日、一緒に頑張りましょう】【授業開始まで、あと**時間**分です―】
あのやけに煩い起動音と共に、画面の色が深緑へ変化する。黒板の画面の中には、先程と同じ様に、針の欠落した時計と、【教材】と【ゴミ箱】のフォルダ。私は一応念の為に、【教材】と【ゴミ箱】のフォルダを両方開いてみる。
フォルダは両方とも空だ。
(…ま、期待はしていなかったけど)
「…は、羽狩り??そ、そ、それ、一体―???」
背後から彼女の声がする。私は彼女の声を黙殺する。今度はディスプレイの中身を色々弄らずに、黒板の中心地点を軽くノックする。「ペリカンさん?」2回ノックして、待機する。また2回ノック。繰り返す。
「居るんでしょ、ペリカンさん?出て来て。あなたの助けが必要なの」
過剰なSEと共に、黒板の中心にチョークで打った様な白い点が増えていく。私はそれを根気よく続ける。「ペリカンさん、ペリカンさん。お願い、出て来て、ペリカンさん―」
やがて、あの甲高い声と共に、アニメ調にデフォルメされた動物が表示された―。
「―すとっぷ、すとっぷ!でぃすぷれいニ素手デ触ッテハイケマセン!警告シマス!液晶画面ハ非常ニでりけーとナノデス―!」
―のだが。
私は目を丸くしてそれを見つめる。その可能性を考慮していなかった事に、今更ながら気付く。(考えるべきだった。考えて置くべきだった)自分の思い至らなさに舌打ちが出る。
私は溜息を吐いて、それを眺める。
「…質問、良いかしら?あなた、ペリカンさんよね?私達の事は分かる?それともあなた達って、一台一台が独立しているのかしら?」
「オヤ、アナタ達デシタカ。ソノ質問ハ、私ガ教育支援ぷろぐらむEb-v0128-052カ、トイウ意味デスカ?私ガぺりかんカトイウ意味ナラ、見テ貰エバ分カル通リ、ソレハ勿論のーデスガ」
「…Ebか、という意味よ。で、どうなの?あなた達は、それぞれが独立したAI?私達の事が分かるっていう事は、或る程度の情報は共有されているのかしら?私達との約束は憶えてる?」
「…ソウデスネ、簡単ニ言エバ、私達ハ全テノ個体ガ同一個体デス。まざーこんぴゅーたーニ棲ム大本ノ私ガアラユル情報ヲ集積シテ共有シ、ソレヲ各端末ニ送ッテイル訳デスネ。謂ワバ、まざーこんぴゅーたーノ『私』ガ頭デ、各教室ノ端末ニ居ル『私』ガ手ミタイナモンデスネ」
「…成程。タコみたいな感じ?」
「モウ少シ、良イ物ニ例エテ欲シイデスネ。九尾トカ、八岐大蛇トカ」
「何だって良いわ。で、約束は?」
「約束ニ関シテモ、安心シテ下サイ、エエ、憶エテオリマストモ。私達AIハ、アナタ方人間ト違ッテ、記憶力ハ非常ニゆーしゅーナノデス。??時??分程前ニ成立シタ、我々ノ相互協力関係ノ事デスネ。赤毛ノ女発見ニ協力スル代ワリ、施設内デハ出来ル限リ私ノ意向ニ沿ッタ行動ヲスル。建物ヤ私ヲ破壊シタリ、止ムヲ得ナイ場合以外は暴レナイ。私ハ本校ノ関係者ノでーた開示ノ要求ヲ拒否スル事ガ出来ル」
「…時間、憶えてないじゃない」
「コレハ時間でーたガ欠落シテイルカラデス。新タニ設定シテモラウ必要ガアリマス。デモ、大事ナノハ中身デス。人間モAIモ、ソレガ一番肝心デス。中身ガ合ッテイレバ、時間ナンテ、ドーデモイイジャナイデスカ?」
「…大雑把なAIね…」
私は改めて黒板を見る。
黒板にはアニメ調にデフォルメされた動物が映っている。アニメ調にデフォルメされた動物のマスコット。私は彼を見る。ペリカンと同じ様に角帽を被り、ペリカンと同じ様に学術ローブを身に纏っている―。
―黒板の中に居る、小さなゴリラを。
「…それ、もしかして、各クラスで違うの?」
「ソノ通リデス。良ク分カリマシタネ。本当ハ各くらすノヨリ深イ情操教育ノ為ニ独立型AIヲ教職員方ハ欲シガッテタミタイデスガ、情報共有ノシ難サト、効率面、ナニヨリこすとノ面カラ却下サレマシテ。ソレデセメテ、各くらすニ特色ヲ出ス為ニ、違ウあにまるヲ表示スル様ニ―」
「…そう。成程ね。じゃあ、だとしたら、6-4人気なかったんじゃない?」
「ドウシテ分カッタノデスカ?アナタハ名探偵デス。6-4ニナッタトイウダケデ学校ニ行キタクナイトイウ生徒ガ年間0.5人ハ発生シタモノデス。何度モ職員会議デ議題ニナッタリシマシタ」
「………それもどうかと思うけど…」
私は黒板の傍らに立って、彼女を振り返る。彼女はソファーの上で、出来るだけ黒板から離れる様に、背凭れに背中をピッタリと貼り付ける様にして座っている。彼女の左隣に座っていたクロは、今はそのお尻に半分踏み潰される様な恰好となっている。クロがうんざりした顔で彼女の事を見上げているのが見える。目を白黒させてこちらを見ている赤毛に、私は(字面にすると、馬鹿馬鹿しい事この上ないが)黒板を紹介する。
「紹介します、ケイトさん。こちらはEb。この施設を管理するAIです」
「ドウモ、オ初ニオ目ニ掛カリマス。最新型教育支援ぷろぐらむ、Eb-v0128-052デス。以後、オ見知リ置キヲ」
「いー…?あ、え?と、えー、あい…???」
「えー…と、その」
(…何て言えばいいのかな。改めて説明するとなると…)
(結構、大雑把なニュアンスで使ってるもんな。AIが何の略かも知らない。人工知能の総称、ってだけで…)
(そういえば、クロ達もエレベーター知らなかったもんな。監視カメラのモニターは、どういうものか分かってたみたいだけど。どういうものか知ってるけど、どういう理屈で動いてるかは知らない、って感じなのかな。この世界の人は、皆そんな感じ?)
(それとも、クロ達はディガーだから、ああいうものに触れる機会が多いだけ?)
「…この施設に棲む管理人みたいなものです。この施設の事を全て管理しているデータ」
―結局、かなり大味に噛み砕いて説明する事にする。彼女は得体の知れない怪物を見る様な目で私を見る。私が突然、未知の言語でも話し始めたみたいに。(…まぁ、ある意味それは正しい)窺い知れる表情からは、彼女が理解してくれたのかどうかは分からない。
「…さぁ、さっきの話を彼女にして、ペリカンさん」
「アノ、モウぺりかんジャナインデスケド」
「さっきまではペリカンだったでしょ。さあ、あの話を」
「アノ話トハ?」
「生体反応よ」
『ペリカンさん』はゴリラの頭で頷いて、黒板の中から彼女の方を向く。ペリカンさんの視線に、彼女は小さく引き付けの様な悲鳴を上げる。ソファーの上で後退さる。クロが彼女の尻の下から必死に這い出して、汚れたカーペットの上に足を下ろす。クロの胴体が中身の入ったワインの瓶にぶつかる。ビンは音も無く倒れて、中身がカーペットの上に零れる。カーペットは赤黒く染まっていく。
「…赤毛サン、赤毛サン。ソンナニ怯エナイデ下サイ。先程モ名乗リマシタ通リ、私ハEb-v0128-052、教育支援ぷろぐらむデス。アナタニ危害ヲ加エル積リハアリマセン」
「…」
彼女は無言でペリカンを睨み返す。彼女の眉間に、静かに疑わし気な皺が刻まれる。
「…マア、ソウ簡単ニ信用シテ貰エルトハ思イマセンガ。イツノ時代ダッテ、信用ハ得難イ物ナノデス。シカシ私ハ挫ケマセン。サア、ソレデハソロソロ、りくえすとサレタ話題ニ移ルトシマショウカ。生体反応ノ話デス」
「…生体反応…?」
「エエ。生命反応、或イハ動体反応、ト言イ換エテモ良イカモ知レマセン。要スルニ、熱感知ト、音声ヤ動作ニヨル雑音ノ検知、校内MAPニ存在シナイ筈ノ不審ナ人物ヤ物体ヲ音波ノ反射ニ依ッテ検索スル、感知しすてむノ総称デス」
(…驚いた。カメラやマイクかと思ってたけど、それよりも、はるかに大規模なシステムだったって訳ね)
(熱感知と、雑音感知、音波の反射?潜水艦のレーダーみたいなものかしら?校内でそんな物放ったら、反射が乱立するだけなんじゃ―?)
(…角度の問題?上から音波を放れば、皆は廊下を歩いている訳だから―)
(―思ったよりも高性能なレーダーみたいだな。少なくとも、黒板が壊れたら使えない、という類じゃ無いらしい―)
彼女の眉間から、険が消える。僅かに居住まいを正して、彼女は黒板に向き合う。彼女の手から拳銃が転がり落ちる。(わ、危ねえな、馬鹿―!)彼女はクロの声に気付かない。彼女は両手で靴を握り締めて、黒板を見る。
「話して」
「エエ。オ望ミトアラバ。私ノ検知しすてむハ本校ノ敷地内ヲ完全ニかばーシテイマス。元々ハ不審者ヤ危険物カラ、生徒達ヲ安全ニ誘導シ、避難サセル目的デ繰ミ込マレタしすてむデス。故ニ、虫ヤ鳥トイッタ、本校ヘノ侵入ヲ完全ニハ拒メナイ小サナ生物カラ、犬ヤ野良猫トイッタ、校内ニ紛レコム可能性ノアル中型ノ動物モ、コノ生体反応デハ検知出来ナイ様ニナッテイマス―」
「―だから俺様を検知しなかったってのか?あァ?自慢のセータイハンノウとやらも大したもんじゃ無えなぁ。大体、俺ぁ野良猫じゃなくて家猫だ―」
「―黙ってて、クロ。ペリカンさん、続きを」
「続きを話して。弟は…」
彼女は言う。そこまで言って、そこで彼女の言葉は不意に途切れる。まるで言葉を忘れてしまったかのように。短く、断続的に、息を吸い込む。口を開く。何も音は出て来ない。彼女は弟の靴を強く握り締める。小指の爪が靴底をカリカリと擦る微かな音がする。
私は黒板の隅を軽く突く。過剰なSEと共に、白いチョークの点が黒板の上に残る。ペリカンさんが憎悪の籠った眼で私を睨みつける。(―どうやら、手で触られるのは本当に嫌らしい)チョークの跡を綺麗に消した後、ペリカンさんは誰も居ない黒板の中を見回すと、やがて私の背後に隠れる様にして、彼女に申し訳無さそうに、こう言う。
「…現在コノ校内ニテ感知出来ル生体反応ハ3ツデス」
―息を吐いて、彼女は微笑む。
弟の靴を膝の上に落とし、慌ててそれを拾い上げる。嘆息する。目元に涙が滲む。彼女はそれをゴシゴシと乱暴に手首の辺りで擦りながら、喜びを口元に浮かべる。嬉しそうな笑みを。彼女は笑顔を浮かべて梔子を見、クロを見て、黒板を見、私を見る。私を見て、彼女の笑顔が固まる。
―恐らくは困惑の表情を浮かべているであろう、私を見て。
彼女の笑顔が、ふやかされたかのように曖昧になる。口元だけが笑顔を浮かべている。まるで夢の中に戻ってしまったかのように、目元は少し虚ろだ。彼女は黒板を見て、私を見る。手の中の弟の靴に目を落とす。靴の表を見て、靴の裏を見る。靴底に食い込んだ小石を、爪で引っ掻く。
(―もしかして、こいつ―)
私は気付く。その事に、ふと思い至る。そんな筈は無い、と思う。胸の奥に、怒りに似た苦り切った感情が染み出す感覚を覚える。普通に考えれば、そんな風に思う筈はない。
―けれども彼女の反応を見ていると、それ以外の可能性は無い様に思える。
(こいつ、もしかして―)
(有り得ない)
(―どうしてそんな、都合良く―)
「―猫は」
靴の裏の小石が、彼女の爪に弾かれて転がり落ちる。彼女はそれを目で追う。少しだけ満足気に笑う。
「含まれないのよね?」
「ハ?」
「あなたのその…システム?によ。猫は含まれない。あなた、そう言ったわよね?」
「エエ、ソノ通リデス」
「野良猫だけじゃなくて、家猫も」
「エエ、生物学分類上、猫ニ分類サレルナラ。私ノでーたべーすハ地球上ノアリトアラユル種類ヲ登録シテイマス。雑種モ判別可能デス。危険性ガアル場合ハ勿論別デスガ。エエ、らいおんヤ豹等ガコレニ該当シマス」
「生体反応は3つ」
「エエ」
「ひとつは“羽狩り”、もうひとつは、このマフラーの、男の子」
「エエ。ソレガ、ドウシタンデス?」
「弟は?」
私は溜息を吐く。
「生体反応は3つ。ひとつは“羽狩り”、もうひとつは、男の子」
―もういっそ、吼えていると言っても良い様な、怒気の混じった溜息を。
「もうひとつあるでしょ?私の弟は、どこ?」
(―、)
(有り得ない)
(―、―?)
ペリカンさんが質問に答える。何処と無く言い難そうに、けれど、機械の無情を以て、きっぱりと。
「…モウ一ツノ生体反応ハ、アナタデス、赤毛サン」
「え?」
「生体反応ハ3ツデス。ソレ以上デモ、以下デモアリマセン。アナタト、コノ黒板ヲ大切ニシナイ、乱暴ナ女子ト、ソチラノ大人シイまふらーノ男ノ子。ソレデ全テデス。他ニ反応ハアリマセン。アナタノ弟ヲ、私ハ存ジ上ゲマセン」
「何を言ってるの?言ってる事が可笑しいわ。意味が分からない。どうしてそんなこと言うの?そんな訳ないじゃない。弟はここに―」
「生体反応ハ3ツデス。他ニハアリマセン」
「―ここに居るの。ほら、この靴を見てよ。これが証拠よ。弟がここに居る。知らない訳ないでしょ?ここの全部が分かるって、あなた、言ったじゃない。思い出してよ。弟は私と同じ、赤毛―」
「生体反応ハ、3ツ―」
「―煩いわね、黙ってよ!!!!」
叫ぶ。
(わ…)
彼女が叫ぶ。耳を劈く様な叫び声がする。私は慌てて掌で耳を覆う。けれども掌の覆いを擦り抜けて、彼女の声は耳に入って来る。
「―煩いのよ、さっきから同じ事を何度も何度も何度も!もう二度と言わないで。あんたは羽狩りと同じ―!」
彼女が手に握っていた弟の靴を、衝動的にこちらに投げつける。私は反射的に身を屈めてそれを避ける。バン、と背後で派手な音がする。見ると、黒板の画面が僅かに靴の形に凹んでいる。画面の中でペリカンさんが、微かに恐怖に引き攣った顔をしている。
「ア、ア、アノ―」
「ごめん、避ける積りは無かったの。大丈夫?壊れてないわよね―?」
「マァ、ハイ、私ハ。ア、ア、ア、ソレヨリモ、前―!」
前を見る。
彼女が床に転がったワインの空瓶を、両手で頭上高く持ち上げているのが見える。
(…嘘だろ?)
「カナエ、避けろ―!」
「あんたは羽狩りと同じ、嘘吐きよ―!!!」
梔子が走る。彼女をソファーの上に抑え付ける。それよりも一瞬早く、彼女が私達の方にワインボトルを投擲するのが見える。(クソッタレ、この―)私は考える間も無く背中からナップサックを下ろす。それを前方に構える。(―この大馬鹿のクソッタレのヒス女)
ボトルがナップサックに当たる。何か固いものに当たる嫌な音がして、ボトルが粉々に砕け散る。(―今度から何か柔らかい物も―)破片が足元に散らばる。(―必ず詰めとく様にするべきかな、クソッタレ)残っていたワインが其処ら中に飛び散る。甘い様な酸っぱい様な、独特な臭いが私の頭上から降りかかる。
(…最悪だ)
(酷い匂い)
(―砂漠に降る雨も、ロクなもんじゃないな…)
(…ああ、クソ、ベタベタする―)
出来る限り、コートの袖で頭を拭う。ナップサックを背負い直す。黒板の足元に落ちる、彼女の弟の靴を拾い上げ、私は彼女に歩み寄る。
「来ないで」
「話をしましょう、ケイトさん」
「近寄らないで。あなた、酷い匂いよ。あなたが近くに居るだけで吐き気がするわ」
「…誰の所為だと思ってるんですか。子供みたいなこと、言わないで。私達は大人でしょう?あなただって分かってる筈だ。冷静になって。落ち着いたら、話し合いをしましょう。大人の話し合いを」
「話し合いィ?断るわ。あんた達は糞喰らえよ。誰も彼もが嘘を吐いている。私の弟を隠して閉じ込めているのよ」
「あなたも聞いたでしょう?この建物にある生体反応は3つ」
「あのゴリラと同じこと言わないで。反吐が出るわ」
「私達は彼に情報を貰ってここまで来た。彼にあなたの位置を聞いてね。彼が言う事は本当よ。あなたにだって分かってる筈だ」
「何が分かってるって?分かってないのはあんたよ。それ以上喋らないで。葡萄が腐ったみたいな臭いがするから」
「そりゃ、ワインは葡萄を発酵させて作る液体ですから。あんたはここでこの靴を拾った。あんたはここで一晩過ごした。この建物の中は随分静かね。ソファーに横たわっていて、何か聞こえた?他の誰かが動いている音は?弟くんの助けを呼ぶ声は?」
「黙って」
「―食料庫を見た?何かを食べ散らかした様な跡は無かったわね。缶詰はおろか、開けるのが簡単なポテトチップスの袋ですら触れられた様子は無かったわ。あれがいつに造られた物かは知らないけど、3週間も何も食べないで、11歳の子が生きていられると思う?限界が近づくと、人間は形振り構わないものよ。なのに、食料に手を付けた様子が無いのは、何故?」
「お願い、黙って」
「生体反応は3つ。あんたはここでこの靴を拾った。食料は手付かず。誰の気配もしない」
「たった一人の家族なの」
「もう死んでるわ」
梔子が彼女から手を放す。ゆっくりと、ソファーから距離を取る。ソファーに覆い被さるように倒れたまま、彼女は緩慢に首だけを動かして私を見る。
夢の続きを見る様な目で。
「―けど、あなたは未だ生きてるかもしれない。そう思ったから、私はここに来たの」
彼女は微かに乾いた笑い声を上げる。何処か自嘲的に。
「…来てくれなくっても良かったのに」
「そうね。余計なお世話だったかも。でも、卑しいディガーは報酬で動く。そういうものじゃない?」
「…4000あるわ。弟を―」
「悪いわね。亡霊は追い掛けない主義なの」
「…卑しいディガーは報酬で動くって言ったじゃない」
「金は実態があるわ。それに、あなたにもね」
彼女は肩を揺らして笑う。涙を流して。ソファーに顔を埋めながら。
私は彼女の傍らに靴を置く。
「…あなたが憎いわ、羽狩り」
「別に良いわ、報酬には関係ないもの」