wonderland/gradual decline2
込み上げる欠伸を噛み殺す。
口の中の歯ブラシを、惰性で左右に動かす。
―11月8日、日曜日。朝の7時半。
“扉”のこちら側。私の世界。
「…いってらっふぁい」
自宅の玄関。私は玄関に立って母親を見送る。母はグレーのスーツにタイトスカートという出で立ちで、新品のハイヒールの踵を履き難そうに何度も弄っている。(…赤のハイヒール)スパ公が喜びそうだと考えて、慌てて頭の外へその思考を追いやる。我ながら下らない事を考えているな、と苦笑する。
「口の中に物を入れたまま喋らないの。それじゃ、お母さん行って来るから」
「ふい」
「お金置いていくから、お昼は自分で何とかして。夜までには―帰って来られると思うんだけど。無理になったら連絡するわ。その時の為に、お金は大目に置いていくから」
「ふん」
「全部お昼代に使うんじゃないわよ。それから、無駄遣いもしない事。後でレシート見せて貰うからね」
「ふぁい」
「…ほんとに分かってるんでしょうね?」
歯ブラシを口から出す。口の中から泡が飛び出さない様に、口元を手で覆いながら、喋る。
「―分あってるよ、母さん。お金は使い過ぎない。お昼は自分で何とかする。でしょ?」
「宜しい」
母さんはにいっと歯を見せて笑い、ショルダーバックの肩紐を調節すると、玄関扉の方へと向き直る。私は歯ブラシを手の中でくるくると回す。母さんの後ろ姿を見ながら、その背中に声を掛ける。
「…なんか、母さん」
「ん?」
「ちょっと感じ、変わったね」
「…どんな風に?」
母さんは振り返らずに私に聞く。ショルダーバックの肩紐を調節する。ハイヒールの踵を弄る。腕時計をチラリと見る。
「なんていうかさ…丸くなったというか、棘が取れたというか、優しくなったっていうか。前は、日曜出勤なんて死ぬほど嫌だっつってたじゃない。日曜出勤ある度に、たまの日曜くらい休ませろだの、課長のヤマシタだったかヤマノは死ねだの、ギャーギャー言ってたのに」
「そんなこと言ってたかしら?」
「言ってた言ってた。もうギャンギャン言ってたよ。私の目覚ましよりも煩かったくらい」
「…そうね、言ってたかも」
母さんは首だけをこちらに向け、苦笑いを浮かべて言う。私は手の中の歯ブラシを、右手から左手、左手から右手へと受け渡す。母さんのその顔を見て、笑う。
「―それに、よく笑う様になったかな」
「そう?」
「好きな人でも出来た?だったら私、応援するよ。父さんには悪いけど」
「馬鹿なこと言ってないで、勉強でもしなさい。期末、近いんじゃないの?それに、変わったって言うなら、あなただって変ったわよ」
「私?」
「早起きする様になったわ」
―手を止める。母を見る。母さんは意地悪な笑顔を浮かべて私を見る。
「…前は朝どれだけ声を掛けても、絶対起きてくれなかったものね。フライパンとお玉を耳元でガンガンやっても、先にお玉の方が潰れちゃうくらい。こうやって、日曜出勤の時に見送りに来てくれたのなんて、初めてじゃない?」
「そんなことないでしょ。何度かはあるよ」
手の中の歯ブラシを見る。少しの間考える。
「…その、一回か二回くらいは」
「そうね。雨でも降るんじゃないかしら、今日」
「降水確率は0%だったよ」
「だから心配してるんじゃないの」
「…むかつく」
―母さんは笑いながら、玄関扉のドアノブを捻る。私は母に手を振る。口の中に歯ブラシを突っ込む。
「いってらっふぁい」
「はい、行ってきます」
玄関扉が閉まるまで、私は手を振っている。扉が閉じたのを見届けてから、私は口の中のものを吐き出す為に洗面所へ向かう。
(…たまには寝坊した方が良いかもなぁ…)
(早起きには理由がある)
(それに気付かれちゃいけない。特に母さんには、絶対に…)
「―幾らだ?」
「良く見えねえよ。ちょっと待ってろ―」
「そこ退けよ、ウスノロ」
「おい、今足踏んだぞ、テメエ―!」
―同日。日曜日、8時10分か、15分くらい。
“扉”の向こう側。クロと梔子の世界。“タウン”。
“タワー”の前。
なんだかすごい人だかりだ、と思う。露店通りの方に、何時もより人が居ないと思ったら、こんな所まで流れて来ていたんだな、と考える。30人だか40人だかの男女が、“タワー”の真下に輪を描いて集まっている。“タワー”の周りにこんなに人が集まっているのを見るのは初めてだ。いつもこの辺りは、閑散としているのに。
(…一体、何の集まりだ?)
精一杯首を伸ばして、輪の内側を見ようとする。けれども、人の壁が厚過ぎて、私の身長じゃその内側で何が起こっているのかを窺い知る事が出来ない。辛うじて人混みの中心に、立札の様なものが立っているのを確認する。どうやら皆、あれを見に来ているらしい。
(なんだ?)
人混みに体を割り込ませようとするが、中々上手くいかない。私は諦めて、事情を知っていそうな近場の人間に話を聞いてみる事にする。私は傍らの男の肩を人差し指でツンツンと突く。男は素っ気なく私の指を片手で跳ね退ける。「…ねぇ、ちょっと」「止めろ、触んな」「聞きたいんだけど」「触んな、鬱陶しい」私は男が振り向くまで根気良くその肩を突く。スキンヘッドのその男の肩を。何処か見覚えのある男だ、と思う。その頭部には烏の刺青が刻まれている。
「―だああ!止めろっつってんだろ、いい加減にしやがれ、この―!!!」
男は突然、勢い良く振り返って私を見る。男の隣に立っていた、彼の連れと思しき男も。私は瞬きして彼を見、その連れを見る。男の連れは、男に輪を掛けて奇抜な恰好をしている。左右の耳にそれぞれ三つのピアス、鼻の左右の側面にもピアス三つ、それから左の上瞼と、下唇にも、一つずつ。
(…物を引っ掛けとくのに、便利そうな奴だな)
男は私を見て、言葉を失う。私は男の目を見て、考える。(―何で黙ってるんだろ?)男の連れ、ピアスだらけの方が、男の肘を突いて、弱々しい声で、男に言う。
「ボス」
「―」
「ボス、不味いですって、こいつ、“羽狩り”―」
「あー…」
(ふむ)
どうやらクロの言う様に、この前の件で私の名前は思っていたよりも高く売れたらしい。(“羽狩り”、羽狩り、ね)私はその効果のメリットとデメリットについて、ぼんやりと考える。屈強な男達が、私の名前を恐れてくれる、ってのは割と有難い状況だ。話も通し易いし、無用な争いも避けられる。けど、問題は、その名前のメッキが剥がれる時だ。(私は天使を1ダースも殺しちゃいないし、殺せた1匹だって偶々、運が良かっただけ)今からその時が心配だ。心配事が膨らんでいく。
―心配や不安が、幾つもの風船のように。
(…けど、今は精々、その名を利用させて貰うとしよう)
「あー、その、よう、姉ちゃん。その、なんだ、俺達ぁ知らなかったんだ、あんたが“羽狩り”なんてよぅ」
スキンヘッドの男が、髪の無い頭皮を掻き毟りながら、言い訳がましくそう言う。
「でしょうね。そう呼ばれるようになったのは、つい最近だもの。ところで、これは何?何の集まり?」
頭皮を掻き毟りながら、男は困った様に連れのピアスを見る。それから私、その後、立札の方を。(?)この男は多分ディガーだろう、と思う。男の連れも、立札の周りに居る他の人間も。皆一様に、肩や腰に、銃やら刃物やらをぶら提げているからだ。皆して、新しいゴミ出しのルールやら、生活の為の決まりを見に来たとは思えない。あそこには多分、仕事の依頼が書いてあるのだろう、と思う。それも、“タワー”の人間が出した仕事の依頼だ。
(…商売敵を、増やしたくないのか?)
(けど、ここにはもう30人も40人も居る。そんなもん、今更だと思うけど―)
男は観念した様に溜息を吐く。立札の方を親指で差して、私に言う。
「…探しものだとよ。シケた依頼だな。“タワー”の奴の依頼だっていうから、どんなもんだと飛んで来てみりゃあよ、何の事はねぇ、下らねえ依頼だぜ。報酬も大した事ねぇ額だしな」
「幾ら?」
「3000だと。何かのもののついでにやるのぁ良いかも知れねェがよ、碌な目撃情報も無いのに、3000ぽっちで砂漠を漁る奴ぁ居ねえだろうな。可哀想によ、旦那がケチ臭えばっかりに。あれじゃ店に居た方がまだマシだったかもな―」
(―3000)
(?)
「待って」
「あ?」
「探しものって、人なの?」
「あ、ああ―それが、どうかしたかよ?」
「どんな人?」
スキンヘッドは口をポカンと開けて私を見る。私はその目の奥を強く覗き込む。胸の奥で予感がする。
(気の所為だ。そうに決まってる。気の所為、きっと気の所為。多分気の所為―)
―嫌な予感が。
予感が、予感だけが、強く。
「どんな人―どんなって、あー、そう言われてもよォ。なんて言やいいか…」
スキンヘッドは爪の先で頭の刺青を撫でながら、見るからに面倒臭そうにそう言う。
「―そんな顔すんなよ。人相って、言葉にするのは結構苦労するもんだろ?それにこりゃ、たった3000の依頼だぜ、羽狩り―?」
「赤毛?」
私は言う。
―スキンヘッドの手が止まる。
「あん?」
「赤毛の女?」
「あ…ああ、そうだな、確かにそうだ、まぁ、その通りだよ。看板にもそう書いてあるな、うん。何だ?どうして分かった?もしかして知り合いか?」
―私は目を固く閉じて。
「別に。なんとなくよ」
肺の中のものを全て吐き出す様な、深い溜息をひとつ吐く。
(………あの女)
胸の奥で予感が確信に変わる。腹の底で吐き気と怒りが綯い交ぜになって噴出する。思い切り歯を食い縛る。米神を流れる血液の音がやけに大きく聞こえる。
(弟に、殺されに行きやがった)
「ありがとう、えー…、カラスさん」
スキンヘッドは目をぱちくりとさせている。(意外と大きな目)私は自分の頭を人差し指でコツコツと叩いてみせる。彼の頭部の、刺青の彫ってある辺りを。彼も理解した様だ。途端にムスッとした顔をして私を見る。その顔がまるで拗ねた子供みたいで、思わず私は笑ってしまう。彼の隣で、ピアスが必死に笑いを噛み殺そうとしている。
「そんな顔しないで。今度何か奢ってあげるから」
「体で払ってくれても良いんだぜ?」
「お断りよ。酒はどう?“車屋”のパブで一番高い酒を奢ってあげるわ」
「お、悪く無いっスね。俺ぁスッコチが良いかな、シングルモルト、出来ればマッカランなんかがさ―」と、ピアスの男。
「…んでだよ、テメエは何もしてねえだろうが」
「ボスだって大したことしてないでしょ。女が赤毛だって言ったくらいじゃないスか」
「それじゃ私、用事があるから」
軽く手を振って、その場を離れる。クロと梔子の家がある、東の方面へ向かう。頭の中で、バイクの残り燃料や、残っている予備のマガジン数を考える。
(…ここから西に2km)
(マガジンは10と少し。ガソリンは、多分半分くらい)
(そこに弟が居る)
(リスクとリターン。天秤。クロと梔子は説得できるか?プレゼンが必要かも。一人じゃ変異体は無理だ。天使と違って、。幾ら考えたって、一人じゃあれをなんとかするのは無理だ―)
(クソッタレ。糞喰らえ。ああ畜生、会ったら絶対に、一発ブン殴って―)
「俺ァ行かねえからな」
クロは言う。
銃に新しいマガジンを入れる。安全装置を確認する。ポケットに入れる。
(…いい加減、ホルスターか何か、買わないとな)
ナップサックを背負い直す。またひとつ、金の使い道を思い付く。ナップサックには予備のマガジンが入っている。後は昼食と水筒。懐中電灯。こっちの世界ではあまり役に立つとは言えない、駄菓子のオマケの方位磁石。一応、バラ売りの弾薬も入れておく。
(弾切れで死にたくは無いからなぁ)
コートの上からポケットの中身を確認する。右のポケットには9mm拳銃、左のポケットには、この前拾ったナイフ。厚手のコートの上からでも、中に入っているのがハッキリと分かる。
バイクのエンジンを掛ける。エンジンが、眠っている状態から少しずつ目を覚ますみたいに、回転数を上げていく。軋る様な高音をエンジンが上げる。後輪が砂煙を巻き上げる。私はアクセルをニュートラルに戻す。静かになったバイクに跨るでもなく、私はバイクを押して少しの間、歩く。銃弾で穴だらけの、崩れた看板の隣に立つ。私はクロを振り返る。
潮騒の音がする。
“海”辺。
安楽椅子に横たわって、船長はパイプを吹かしている。その膝の上にクロ、その隣に梔子がしゃがんでいる。梔子は私の方を見上げている。時折、不安そうな眼差しをクロに向ける。私はポケットの中に手を入れてナイフの刃に触れる。刃の鋭さに安心する。
「俺ァ行かねえぞ」
もう一度クロが言う。
「どうして?」
「奴ぁ性悪の糞女だ。おまけに口が悪くて、約束を守らねぇ。ホントに4000払えたのかも怪しいもんさ」
「彼女は“タワー”の住人よ」
「だったら何だ?タワーに住んでるからって、金を持ってるとは限らねぇさ。誰かのコネであそこに住んでたり、昔の栄光にしがみ付いて、あこから出て来ない連中だって居る。若しくは誰かに飼われてるだとかな。それに、奴は嘘を吐いていた」
「嘘?」
「決まってる。変異体だよ、奴ぁそいつがあそこに居るのを知ってて、俺達を送り込もうとしてやがったんだ。俺達がバケモンの腹の足しになろうと奴ぁお構いなしさ。奴の4000は成功報酬だ。俺達が帰って来なくっても、奴のカードにゃ傷は付かねぇ。また別の奴を送りこみゃあいいだけだ」
「…そうじゃないわ、クロ」
「違う?違うだって?何が違うってんだ、カナエ?え?お前いつから、そんなお人好しになった?あん?違う、違う、何も違わないさ。あの野郎は俺達で。元手は0、程良く運動で引き締まった天然物、って訳だ。おまけに、勝手に食卓に並ぶ機能付き―」
「信じたかったのよ、彼女」
クロの目を見る。クロは笑っている。
まるで威嚇する様に、歯茎も牙も剥き出して。
「―弟が生きている、って」
「………だったら何だ?だから、奴の依頼を受けてやるべきだった、ってか?俺はそうは思わねえぜ。ああ、今でもあの判断は正しかったと思ってる。諦めるべきなんだ。あいつがやっているのは亡霊を追い掛ける行為だ。誰も得しねぇ。巻き込まれた奴も、みぃんな、な。蜃気楼を追い掛けるよりも性質が悪い。何せ、奴さんには実体があるからな」
「そうね」
「俺は間違ってねえ。そうだろ?それに、俺は出来る限り紳士的に、彼女に振舞ってやったじゃねえか。もっと酷い言葉を投げつける事も出来た。『ハイ、お譲さん、あんた弟さんを探してるって?死体でいいなら連れ帰って来てやるよ、あんたの弟さんはもうバケモンになっちまってる、ほら良く見て、全身目玉だらけに棘だらけ、これがあんたの弟さんの新しい姿さ!新天地で仲間と宜しくやってるみたいだな、今朝も朝食に、元気に人間の腕を二本ぺろりと―!』」
「クロ」
彼を見る。クロは急に笑顔を引っ込める。船長が彼の背を優しく撫でる。どんな風な顔をすれば良いか、途端に分からなくなる。
「…あんたが色々考えてるんだってこと、私にも分かるよ」
「ああそうだな、俺様は色々考えてる。常に色々と、テメエに及びも付かない様な事をな」
「『もう二度と失敗はしたくない』って言ってたね、クロ。それってこの前の依頼の事?」
「―」
クロの顔が歪む。思い切り、拳で腹を殴られたみたいに。言うべきじゃ無かっただろうか、と思う。言葉を吐き出すべきか、悩む。
「確かに色んな事があったけど、私達は未だ生きてる。そうじゃない?私達はチームだって言ったよね。もう少し私達の事、信じてくれても良いんじゃないかな」
「―俺ぁ―」
「“車屋”には騙されたけど、私達は結局生きてるし、報酬だって捥ぎ取った。そうでしょ?全員居れば何とかなる、そう思わない?」
「…そういうんじゃねぇよ。金を得るのに命を掛ける、そんなのが馬鹿らしくなっただけさ」
「今更何言ってんの、ディガーってそういう職業でしょう?それに、『誰だって、リスクとリターンの帳尻を合わせたい』、そう言ったのはクロじゃない?」
私は笑う。彼の優しい、駄々っ子の様な理論に。
思わず笑う。―笑ってしまう。
(“海”を欲しがっていたクロ。その為に、大金を求めていたクロ)
(ディガーを辞める為に。危険から離れる為に。船長みたいになる為に)
(自分の為に。梔子の為に)
「…ああそうさ、誰だって、リスクとリターンの帳尻を合わせたい。だから、この依頼は却下だ、カナエ。たった4000じゃ、あの女の弟の小指を切り取って来るぐらいが精一杯だ。それか、弟くんの似顔絵でも書いてやるかだな。『はいあと2時間はじっとしといて下さいね、1時間毎に15分の小休止を挟みますから―!』」
「…彼女の夫が、行方不明の彼女の為に、懸賞金を出したわ」
クロが目を上げる。私を見る。
「幾らだ?」
「3000よ」
「なんだぁ、随分ケチ臭い旦那だな。失踪した自分の妻に、3000?昔、脱走した豚を探す依頼を受けた事あるけどよ、そこの農場主でもそれに1匹、300は出したぞ―?」
私は微笑する。バイクのエンジンを切る。スタンドを立て、ハンドルから手を話す。バイクに凭れかかる。それから彼らを見る。
「クロ」
「あ?」
「『船長が持ってくる仕事は、大抵が訳ありだ』、って言ってたよね」
「…」
「依頼人がお尋ね者だったり、嘘を吐いてたり、報酬が少なすぎたり。それから、他のディガーの人達に、軒並み門前払いを喰らってる場合もある、って。彼女、正にそれだったんじゃないのかな。次なんて無かったのかも」
クロは船長を見上げる。船長は何も言わない。帽子を目深に下げ、皮肉気に口元を曲げて、のんびりとパイプを吹かしている。
「…私達が、彼女の最後のディガーだったとしたら?彼女の服装も、虚勢も、嘘も、彼女のこれまでの表れだと思うわ。あなたの言う通りよ、クロ。誰だって、リスクとリターンの帳尻を合わせたい。たった4000の為に、変異体に挑む馬鹿は居ないわ」
「―だろ、だったら―」
「でも、7000なら?」
私は笑う。
口を開けたまま、クロは動きを止める。
「彼女が言っていた建物、心当たりはある?ここから西に2kmの建物。そこに彼女は居ると思うわ」
「―そりゃ―」
「彼女は行方不明になってまだ一日よ。余程発覚が早かったのね。十分生きている可能性はあると思うわ。まぁ、追剥に襲われていたり、砂漠で迷子になったり、もう弟さんと再会して、そして殺されている可能性も0じゃないけれども」
「―そう、だけどよ―」
「彼女を見つけりゃ3000、彼女を弟に会わせられたなら、更に4000よ。ここから西に2km行くだけで。彼女を見つけて逃げても良いし、4000のボーナスを探したって構わない。悪くないリターンじゃない?―この前より、随分距離も近いし」
クロはパクパクと金魚の様に口を開閉しながら、私の事を見つめている。それこそ、亡霊を見る様な目で。私はクロを見、梔子を見る。梔子と目が合う。梔子は金色の目を柔らかく細めると、ゆっくりと立ち上がり、尻の砂埃を払いながら、歩き出す。
「―おい、梔子―?」
梔子は私の傍まで歩いて来る。マフラーの縁を摘まんで鼻の頭まで持ち上げ、梔子は微笑んで見せる。私も笑う。「歓迎するよ」梔子は両手を後ろで組んで、クロの方へと振り返る。
「―これで、2対1ね。どうする、リーダー?」
「―お前ら、正気か―?」
「私は正気よ。多分、梔子もね。私達はチームよ。一緒に居ればきっと何とかなる、そうは思わない?」
「―ふざけんなよ、俺ァ、お前らの事を思ってだな―」
「お願い、リーダー」
「―ああ、クソッタレ、畜生、俺ァ警告はしたぞ?後で後悔しても遅えんだ、畜生、俺ぁ警告はした、したんだからな―!!」
巻き上がる砂埃の向こうに、灰色の建物が一軒、見えて来る。
私はゴーグルを通してそれを視認する。バイク用にと買った、大きめのゴーグルだ。バイクに乗るならあった方が良いかもと思って購入したが、実際付けてみると、こっちの世界では直ぐに汚れて見え難くなるし、縁の部分のゴムが肌に擦れて痒いしで、結局便利だか不便なんだか分からない。
(素直に、クロ達のジープに乗せて貰った方が良かったかな…)
(こんなに道がデコボコだと、初心者の私じゃそんなにスピード出せないし。ゴーグルは痒いし。かと言って、片手運転で目元を拭う余裕も無いんだよなぁ。ゴーグルが無かったら事故りそうで…)
(何か見える。あれか?)
「―い、小娘―!」
風の音の向こう側から、クロのか細い怒鳴り声が聞こえて来る。私も負けじと怒鳴り返す。
「―何―!?」
「―多分あれが、あのボケが言ってた建物だ。ここら辺にゃ、建物はあれしか無ぇ。特に西側は建物が少ねぇからな―!」
「―あれが当たりってこと―!?」
「―中八九な。今から寄るぞ。いいか、逸れんなよ―!」
タイヤの回転数が上がる。ジープが速度を増す。(あ、ちょっと)私も置いていかれない様に、バイクの右ハンドルを軽く手前に回す。途端にバイクの前輪が跳ね上がる。(ヒィ、怖―)慌ててアクセルを元の位置に戻す。両足でバイクの車体をしっかり締め付ける。私はそのままゴロゴロと、凸凹の砂丘の斜面を、バイクが滑り落ちていくに任せる。
(―クソッタレ。バイクなんて買うんじゃ無かった。自転車みたいで乗り易いと思ったのに)
(次は絶対車を買う)
(こんなだだっ広い砂漠の真ん中じゃ、事故ったりしないだろうし。最初からそうしてりゃ良かった。それに、車ならバイクと違って、タイヤが4つ付いてるんだ。バイクと違って、そう簡単に横転したりしない―だろう、まぁ、多分)
砂埃が晴れる。建物が近くに見える。大きな建物だ、と思う。巨大な立方体や長方形を、幾つか適当に組み合わせた様なデザインだ。建物は一階、若しくは二階下辺りまでを砂に呑まれている。付近には他にも建物が立っている。似た様な灰色の長方形や、丸型の屋根をした建物。長方形は砂に押し流されて傾き、丸屋根は天井部分に穴が開いている。
(…住宅地でもあったんだろうか、この辺りに。それとも、団地街?)
巨大な建物の膝元に、ぶつける様にして一台の車が止めてある。(…真っ赤なオープンカー)その隣に、梔子がゆっくりとジープを近付ける。私もその傍にバイクを寄せる。梔子はジープを降りて直ぐ、砂除けのシートを広げて車体の上に被せる。クロもジープの助手席から抜け出して、真っ赤なオープンカーのボンネットに爪を立てて飛び乗る。
(私もああいう砂除けの何か、準備した方が良いかもなぁ…)
(クロの爪がボンネットを引っ掻く音。黒板を爪で掻く音に似てる)
(赤い車。誰かがここに来た証。私達以外の誰か)
「―何かある?」
バイクのエンジンを切り、ナップサックを背負い直して、私はクロに尋ねる。
「何か、何かって?そりゃ何かはあるさ、アホ丸出しの質問は止めろ、カナエ。沢山のもんがここにゃあ並んでる。碌でもないもんのオンパレードだ。クソッタレ、こいつは砂漠に何をしに来たんだ?ピクニックにでも来た積りなのか?ああ、何だこりゃ、見ろ…」
―助手席側から私は車に近寄る。中を覗き込む。色んなものが並んでいる。クロが言う通り、そこには色んなものが。
(めがね)
(カメラ。ポラロイドだ)(羊皮紙みたいなものに書かれた簡単な地図と、殴り書き。“全員地獄に堕ちろ、クソッタレディガー共”)(ハイヒール。赤いヤツだ)(誰かが脱ぎ棄てたストッキング)(ドレスと、その他に、もう少し機能的な服。もしかして、着替え?)(後部座席には小型の拳銃。掌に収まるくらいのサイズ。何か、玩具みたいな見た目だな。それに銃口が二つある)
(アイライン。口紅…)
…頭が痛くなって来る。頭を抱える。
「なぁ、やっぱり帰らねぇか?」
「黙って」
「このアホみたいな車の中身を見ろよ。自殺しに来たとしか思えねぇな。ああ、自殺志願者の方がもう少しマシな頭してるかも。この馬鹿、用意した拳銃を車に忘れてやがる」
「黙ってて、クロ」
頭痛がする。眉間の皺を掌で拭い、深く息を吸って、私は後部座席から小型拳銃を拾い上げ、それをナップサックに入れる。頭痛がする。頭痛と吐き気がする。腹の奥底で、吐き気と怒りが込み上げる。
(…どうして、もう少し慎重になれない?どうして武器を忘れる?どうして、カメラなんか―)
(クソッタレ)
(クロの言う通り、帰りたくなってきた)
(―たったひとり、たったひとり、たったひとりの家族なの、ね)
(もしかして本当に、まだ弟が人間だと信じているのか?)
思わず苦笑を漏らす。ジープに砂除けシートを掛け終えた梔子が、麻色のショルダーバッグを背負って私の傍へと歩いて来る。クロが言う。
「…ま、この車の持ち主は、多分女だな。男はパンストは履かねえし、ドレスも着ねえし、口紅もしねぇ。それにハイヒールもな。そういう特殊な趣味の野郎がこの辺に潜んでる、って可能性だって0じゃねえけどよ」
「…怖い事言わないでよ」
「―まぁ未だ、この車があの赤毛のもんだって決まった訳じゃねえがよ。状況証拠的にクロってヤツだな。特大のでっけえフンだ。女が失踪して、女の弟が居る施設の入り口先に、女性が所有主らしき車が乗り捨てられていた、ってな。さぁ、どうする、カナエ?」
「決まってる、中へ入るわ。梔子、武器の準備をして。変異体といきなり出くわさないとも限らないし」
「へぇへぇ、女王様の言う通り。ドレスと口紅は大丈夫か?さっきの車ん中に落ちてたぜ」
「黙ってて。ドレスや口紅で危険が回避できるなら、幾らでもそうするわ」
(…長い廊下)
建物の二階部分の窓枠から内部に入る。中に入る際、窓枠に僅かに残ったガラス片に、衣類の一部が引っ掛かっているのを見つける。ここは車の停車位置からも近い、恐らくは彼女もここから侵入したのだろう、と思う。
(青)
(また、派手な色だな。少しでも見つかり難い様にとか、考えないのか?)
(―まぁ、彼女の場合、髪の色も派手だから、そんなことしてもあまり意味無いかもしれないけど)
(寒色なだけマシか…?)
梔子を先頭に、建物の内部に立つ。廊下は薄暗く、端までは見通せない。建物の内部は、外とはうって変わってシンとしている。廊下の天井に照明器具の様なものが見えるが、当然の様にスイッチは入っていない。見渡す限り、他に光源も見当たらない。(…入り口の所で、彼女が未だモタモタしててくれる、ってのが今回の一番の理想だったけれど。流石にそう上手くは行かないか。彼女の行方不明が発覚して、捜索の依頼が出されたのが、今朝。てことは、彼女が実際に居なくなったのは、昨日の夜か、今朝の早くか。どっちにしろ、彼女はその分私達より先を歩いてる、って事だ)
梔子とクロが、代わる代わるに東西に延びる廊下の先を見渡す。二対の金色の目玉が、人魂の様に廊下の間を旋回する。やがて梔子が、小さく息を吐き出して、構えていたボウガンの先端を僅かに下に傾ける。
(…当座の危険は無い、ってことかな?)
私はナップサックから懐中電灯を取り出す。右のポケットから拳銃を抜く。安全装置は外さないまま、左手で懐中電灯のスイッチを入れる。
「―わ、点けるなら言えよ、目が痛ぇじゃねぇか」
「あ、ゴメン」
懐中電灯の明かりを左右に向ける。眩い光が廊下の影を追い払う。(―眩しい。目が眩む)(動くものは無い)(木目の無い床。つるつるとしている。病院の廊下みたい)(…意外と短い廊下だ。シェルターのに比べりゃ、どんな廊下だって、そりゃ短いけど)(向こう側が見える。東側に30m、西側に60m~80m、って所だろうか。多分全長で、150mも無い)(廊下の南側には、窓が並んでる。スモークガラス。私達が入ってきた方角だ。北側には部屋、かなりの大部屋だ。人間が20人は優に入れるだろう。それが幾つも、そのサイズの部屋が、隣合って並んでいる)(私達の西側、直ぐ左手には階段がある。上下に続く階段だ。どうやら下の階も、未だ砂に埋もれては居ないらしい―)
(―さて、何処から行くべきか?)
「…取り敢えず、動くもんは無ぇな」
「ええ」
「怪しい野郎も見当たらねえ。ついでに、あの赤毛のアホもな」
「そうみたいね」
「ここに居てくれたら楽だったのによ。入口でアホみたいに焚火たいてるあの女を、引き摺って“タウン”まで連れ帰れたら最高だったんだがな。拳銃は忘れてる癖に、奥へ進む糞度胸は抱えたまま、と来たもんだ。さてカナエ、こっからどうするよ?」
「そうね、先ずは手掛かりを―…」
―からから、と。
音がする。
音がした方に目を向ける。そこでは梔子が、扉の隙間からボウガンの先端を滑り込ませ、廊下の北側に面する、一番手近の大部屋の中身を窺っている所だった。(…そうだった、割とこういうのに、躊躇の無い奴だったっけ、こいつ。合理主義というか、現実主義というか…)銃の安全装置に掛けていた右手の親指を外す。手の中が、じっとりと嫌な汗を掻いている。私の足元で、クロが驚きとも恐怖とも判別が付かない、しゃっくりの様な音を喉奥で鳴らす。
梔子は私達の方を振り返り、マフラーの裾を持ち上げて静かに首を振る。私は苦笑いを浮かべて彼の金色を見る。
「―先ずは、梔子を手伝うとしましょう。この階の部屋を、片っ端から調べるの」
「は?お前、正気かよ!?」
「どうかしらね。でも、確かにそれが一番手っ取り早いと思う。部屋は廊下の北側にしか無いし、大きいから部屋数だって限られてる。それに、そうした方が後々楽にもなるし。彼女の死体を見つけたら、その時点で帰りの車に乗っても良い訳だしね」
「…生きてるあいつを見つけたら?」
「さあね。面倒な事になるのは確実だろうけど。彼女、絶対素直に『帰る』とは言わないでしょうね。説得するにしろ無理矢理連れ帰るにしろ、必ず遣り合う事になると思うわ」
「―ハァ。もういっそ、死んでてくれねぇかな…」
「死体じゃ金は貰えないわよ、多分」
「分あってるよ。言ってみただけだ」
東側の、一番端から順に部屋を見ていく事にする。梔子を先頭に、扉の左右に陣取る。梔子がドアの取っ手に指先を掛ける。部屋のドアは、二枚の扉が左右にスライドするタイプの、所謂障子扉だ。それが大部屋の、東端と西端に、其々出入り口として付いている。梔子の指先がドアを押し開け始める。私は懐中電灯のスイッチを切って置くべきだっただろうかと少しの間逡巡する。
(…明かりで気付かれたら?変異体に。彼女の弟に)
(でも、前会った変異体は、音に過剰に反応する奴だった。ライトのスイッチを切る音に反応したら?)
(そもそも、明りに反応するんだったら、もう何かしらの動きがあっても良い筈。北面に並んでる大部屋にも、廊下側に接する窓がある。もし部屋の中に居るんだとしたら、もう最初に明かりを付けた時点で気付かれてしまってる筈だ)
(―動く者に反応する場合は?ライトの光輪に反応するかも)
(だとしたら好都合じゃないか?ライトで相手の動きをある程度誘導できる―)
梔子がドアを僅かに押し広げる。微かなからからという音が、無音の廊下に山彦の様に響く。梔子は扉の隙間からクロスボウの先端を突っ込む。一拍、二拍と経過してから、梔子は安全を確信した様に、クロスボウの腹で扉を押し、私達が余裕で出入りできるサイズに抉じ開ける。
(―なんか、今回の安全確認、雑じゃないか?)
(ナイフの反射で室内を確認したり、しないんだ)
(…あ、暗いからか?)
(まぁ、耳も良いもんな、梔子。私は夜目も聞かないし、耳だって平均の範疇だ。その点は、彼らを信頼するしかない)
梔子が部屋の中に入る。私はその背中を追う。クロが私の足の間を潜って、梔子のマントの裾に飛びつく。(わ)危うく蹴り付けそうになる。
部屋の中を見る。
部屋の中は奇妙な造りになっている。部屋の東端の壁は白くくすんだ色をしており、そこには画鋲やら杭やら刃物やら、色んなものが突き刺してある。それにそれぞれ、好き勝手なものが吊るされている。(ハンガーに掛けられた、ボロボロのTシャツ)(寝袋。袋だけ)(エプロン)(油の切れたランプ)(お守り。交通安全)北側には窓、南側には、廊下に面した窓と、東端と西端の、4枚の障子扉。(…窓は全部スモークガラス)天井には照明、廊下と同じでスイッチは入っては居ない。床は四角くタイル形に仕切られた、格子模様の木目床。木目床の上には、薄い布や丸めたタオル、汚れた縫い包みが転がっている。そして、西側の壁は―。
(…なんだ、これ)
―一面真っ黒だ。正確には胴より上から、天井付近まで。(なんだ?)見た事の無い壁だ。インテリアにしては趣味が悪い、と思う。壁は黒く、僅かに光沢を伴っていて、何故か意味有り気に縁取られている。(?)黒の光沢がゴキブリの外殻を思い起こさせる。私は慌ててその妄想を振り払う。
「―まぁなんだ、ここにゃあ確かに、誰かが居たみてえだな。誰かがここに住んでたんだ。それが奴の弟か、それとも他の大昔の誰かか、そりゃ分かんねえがよ」
「ええ、そうね…」
私は上の空で、クロにそう応える。西側の壁に手を伸ばす。一面真っ黒の壁面に。指先が触れる瞬間、ゴキブリの背中の光沢を思い出す。私は首を振ってその脳裏の映像を頭の中から追い払う。意を決して、壁面に触れる。
(―これ―)
―柔らかい。
というのが、最初の感想だった。それに、弾力がある。(?)表面に埃が積もってはいるが、それを差し引けば、その黒色の触り心地は滑らかだ。(これ…)柔らかく、滑らかで、弾力がある。それから。それから、それから―。
―触った事がある、と思う。
(…これを私、触った事がある気がする。何処かで。何時だったか、何かで)
足元が少しふらつく。黒色の壁から、数歩離れる。音に気付いたクロが、梔子の肩の上から、私に声を掛ける。
「おい、聞いてんのか、カナエ?俺が大事な話をしてる時によ」
「え?あ、ごめん。もう一回言って」
「―ったく、勘弁してくれよな、お前が行こうって言い出したんだぜ、ここによ。寝呆けんのはベッドの上だけにしてくれ。いいか?クソッタレ、もう一回言うぞ、俺ァこりゃあちっと、急いだ方が良いかもな、っつったんだよ、分かるか?」
「どうして?」
「おいおい、マジでどうしたんだよ、脳味噌を誰かに盗まれちまったか?良く見ろ馬鹿、この部屋には誰かの寝床がある。最近か大昔かは分からねえが、ここには確実に、前に誰かが居たんだ」
「そうみたいね。それで?」
「…つまり、あの火事頭の弟以外にも、ここには誰かしら人間が、ってこった。どうだ、俺の言ってる事の意味、理解したか?いいか、100%じゃねえぞ。0%でも無ぇがな。ここには誰かしらが居た、ってことは、つまり―」
「―ここには変異体が沢山いるかも、って事?一匹だけじゃなくて。彼女の弟以外にも」
「ま、簡単に言や、そういうこったな」
「嬉しく無い知らせね。もっと心躍るニュースは無いの?」
「知らずに死ぬよかマシだろ。さ、次行くぞ―」
(…ハズレ、ハズレ、またハズレ)
東端から部屋を調べていく。
2部屋目は、最初に梔子が覗いた部屋だ。安全確認も粗雑に部屋内に首を突っ込む。中には、一部屋目で見たのと同じ様な風景が転がっている。寝袋、薄い布、枕代わりの丸めたタオル。部屋の西側の壁は、一つ目のと同じ様に真っ黒。但し、一つ目の部屋と違って、黒い壁の中心から、何か固いものをぶつけた様な罅が放射状に広がっている。
(中心の亀裂は案外小さい。拳か、野球ボール大のサイズ。結構脆いのか?)
柱を挟んで、3つ目の部屋。柱の対面には、上下に続く階段がある。
「階段はどうする?先に1階と3階、ちらっと覗いとくか?」
「…いや、この階の部屋を調べるのを優先しましょう。現状、私達は、この階からしかこの建物に出入りできないんだし。この階の安全確認を怠って退路を断たれるのが、私達の一番の最悪よ」
「そうかぁ?化物だって置き物じゃねえんだ、どんなに安全か調べたとこでよ、どっかから2階に湧いて出て来るかも知れねぇぜ?それよりも早く、ヤツを―」
「―大丈夫。彼女だって置き物じゃない、死に掛けたら悲鳴くらい上げると思うわ。それに、、安全かどうかを知ることが大事なのよ。後々変異体がこの階に移動してきても、向こうが何匹なのか、どの部屋に逃げ込めばいいのか、把握し易い様にね」
「…成程ねぇ」
「それと、今回は彼女を見つければその時点で、“タウン”に戻っても構わないんだし。忘れた?」
「忘れてねぇよ。記憶力は良い方なんだ。爺扱いするんじゃねぇ」
「してないわよ。ああヤダヤダ、歳を取ると、ちょっとの事で直ぐカリカリするんだから」
「…してんじゃねえか、オイ」
3つ目の部屋は、他の二つと少し内装が違った。他の二つが生活用とすれば、この部屋の用途は話し合い用、といった所だろうか。コの字型に置かれた会議室なんかで良く見る長机、乱雑に積み上げられたパイプ椅子、そして、机の上や壁に貼り付けられて並んでいる、夥しい量の地図、地図、地図。
(これは…)
地図は縮尺や向き、手書きで添えられたメモの字等、そのどれもがバラバラだ。(―どうやら、相当の規模の集団が一時期、ここには居たらしい。少なくとも10人以上)見る限り、複数人が勝手バラバラに、地図を作っていたみたいだ。周辺をうろつく際のハンドマップ以上の価値を、誰も地図に見出して居なかったのだろう。“神の柱”を北に据えているものが3枚、南に据えているものが8枚。後は、この施設を中心にして、向かった方角を地図の北側に記載しているものが殆どだ。どうやら、この建物内では、この記入方法が最もポピュラーなものだったのだろう。
(手書きのメモも細部が伝わり辛いものばかりだ。“危険!”、“お宝”、“水”。“×”マーク、中には“?”なんてものもある。×は何らかの跡地だろうか。“?”はなんだろう…?)
「ここもハズレみてえだな。おい、次行くぞ、カナエ―?」
私は机の上の地図を素早く掻き集めて、それを片っ端からナップサックに詰めていく。地図はゴワゴワしていて、昔、小学校の授業で作った手作りの和紙よりも堅くて、折り畳むのに苦労する。
(…もしかしたら、何かの役に立つかもしれない)
「………何してんだ、一体?」
「何でも無いわ。直ぐ終わる」
机の上の地図を詰め、壁に張られている地図も、出来る限り剥ぎ取る。(意外に嵩張るな…)砂漠には目印になる物も、縮尺を判断する材料になる物も少ない為、一枚一枚がどれだけ信頼出来るかも分からない。(…これなんて、この建物以外、殆ど真っ白だ。この建物から真っ直ぐ進んだ所に、後は×印が4つ)
(―どっちに真直ぐ?)
取り敢えず、ありったけを持っていく事にする。(地図か。考えた事はあったけど―)(結構な量だ。精査するには時間が掛かるぞ―)(幾つかメモに写して、向こうに持って帰って)(大雑把で良いんだ。別に出版する訳じゃない。正確じゃなくても良い)
(メモ書きの中で、直ぐに役立ちそうなのは“水”だけだな。何せここは砂漠だ。きっと、それなりの値段で売れる筈)
「おいカナエ、お前、いい加減に―!」
―手が。
止まる。
乱暴に壁から地図を千切っていた、私の手が止まる。西側の壁を見てしまったからだ。そこには紙片が貼り付けられている。西側の壁の一面を覆う、あの黒い縁取りの内側に、ナイフで小さな紙片が付き立てられている。私はそれに歩み寄り、手に取ってそれを見る。
【裏切り者。絶対に信じるな。絶対に絶対に絶】
(?)
私はメモを裏っ返す。そこには何も書かれては居ない。
ただ、血に濡れた指先の指紋が二つ、あるだけだ。
「―なんだそりゃ、カナエ。何て書いてあるんだ?」
私は一呼吸の間に決断をする。手の中のメモを握り潰す。クロと梔子に笑い掛ける。
「大した事は書いてないわ。待たせて悪かったわね、次行きましょうか」
(このメモが何時残された物かは分からない)
(なんて説明する?)
(面倒臭い)(無用な不安を煽るだけだ)
(結構な規模の集団だった筈)(でも、この施設には人の気配がしない)(人っ子一人見当たらない)(前はどうであれ、彼らはここを去ってしまった)(生きているにしろ、死んでるにしろ)
(これは彼らが残したメモだ)
(前の彼らのいざこざは、前の彼らのものだ。私達には関係ない)
「―ホントかよ?それを見た時、なんか変な顔だったぞ、お前」
クロが懐疑的な様子で私にそう尋ねる。私は笑顔を崩さずに彼に返事をする。心の奥底で、彼らをもっと信じるべきだと、小さな私が叫んでいるのが聞こえる。
私はその声に蓋をする。
「本当よ。ちょっとだけ待って、地図を畳んで、鞄に詰めるから」
「何て書いてたんだ?」
「良く分からないわ。【最近、娘が早起きする様になった。雨でも降るんじゃないか】って」
「?確かに良く分かんねぇな。雨が降ったら、普通嬉しいもんじゃねぇか?」
「…そうね。ここは砂漠だもの。雨が降るに越した事は無いわ―」
廊下の北側に並ぶ、残り2つの部屋に付いて調べる。
廊下の北側にある部屋は全部で5つ。その内、西側の部屋二つは倉庫に使われていたらしい。東から数えて4番目の部屋は、多分武器庫。5番目の部屋は、正直良く分からない。
(強いてカテゴリを分けるなら、“その他”?雑貨倉庫、とでも言えば良いんだろうか)
(食料庫って訳でも無さそう。食品の包みやら、空の缶詰やら、そういった類の物は一切ナシ。ただ喰い尽しただけ?)
(別の所に保管していたのかも。もしかしたら3階かも。この建物の最上階。最も攻め込まれ難い場所)
(【裏切り者】…)
武器庫からは大したものは見つからずに終わる。まぁ、幾ら一目で武器庫と分かったとはいえ、それは壁に立てかけられた、物干し竿の先端に、包丁をガムテで巻き付けてある数本の『槍もどき』や、床に転がるアサルトライフルの少し曲がった弾倉、それに、部屋の隅に身を寄せ合う様にして置かれている、4つ程の手榴弾を見ての判断に過ぎない。だから、“多分武器庫”。
(…在庫一斉処分セール後の、店内のバックヤード、って感じ)
目ぼしいものは見当たらない。が、梔子は貪欲に、4つの手榴弾、アサルトライフルの弾倉1つ、それから、壁に並ぶ『槍もどき』の先の刃の部分を、丁寧に解体して、全てショルダーバッグに収めていく。
(…逞しいなぁ)
(確かに、マガジンは金になる。それに、新しい刃物も、欲しがる人は多いだろう。“タウン”の商店通りには、今も磨いた石で野菜を切ってる人を、数多く見掛ける)
(―あの手榴弾、埃が積もってる。あんなんで使い物になるんかね?)
(爆弾って、使用期限とかあるんだろうか)
“その他”の倉庫内には、取り留めの無いものがたくさん置かれている。スコップ、肥料用の腐葉土、手押しの三角車といったものから、(電池の切れた)ボールペンと一体型のペンライト、フリスビー、果ては人体模型まで。
(…要らない物置きかな?)
流石に梔子達も、ここからは何も取らないみたいだ。今取ったら荷物になる、と考えただけかもしれないが。
(…スコップなんかは、あればちょっとは便利かもしれない。雪掻きならぬ、砂掻きなんかにさ)
(―ただ、需要は弱いだろうなぁ。スコップなんて、別に木を削って作っても何も問題ない訳だし)
(フリスビー。街の子供達―に、玩具を買う金があるか?)
(人体模型。不気味。どうやらこれを見る限り、こっちの世界の人間が、実は私達とは体の造りが違う、といった事は無いらしい。心臓は1つ。肺は2つ、腸は大小繋がって1本、胃も1つ、だ)
(人体模型の髪形って、どうしてみんな坊ちゃん刈りなんだろう?規約か何か、あるんだろうか?)
人体模型を大回りで避け、“要らない物置き”を大まかに捜索する。部屋の東から西へ。人の隠れられそうな場所は見当たらない。誰かの息遣いが聞こえないか、耳を澄ます。
西の壁に近付く。あの例の、一面黒い壁だ。(武器庫の部屋も、西側はこうなってたっけ)どうやらこの階は、全ての部屋の西側の壁がこうなっているようだ。或いは、この建物内の部屋の全てが。
(…変なデザイン…)
この部屋の黒い壁は、何か重い物でも押し付けたみたいに、波打って撓んでいる。結構傷付きやすい素材で出来ているんだろうか、と考える。
(ん?)
黒い壁の縁取りの内側に、一冊の本が立て掛けてあるのを見つける。A4ノートくらいのサイズの本だ。(厚みもノートくらい)表紙はラミネート加工でもしてあるのだろうか、ライトの光を微かに反射している。私はそれに歩み寄り、手に取って表紙を眺める。
表紙には日本語でこう書いてある。
『楽しい社会6・上』
(―………)
(?)
思わず裏表紙を見る。そこには、白地に緑の帯線が引かれ、その上で丁髷の男とその家族が、額に汗を掻きつつも、笑顔で田植えを行っている絵が描かれている。(?)左上には出版コードが記載されている。(?)それを指の腹で撫でる。ラミネート加工は傷付き、所々破けている。指先にチクチクと刺激を感じる。
目の前の光景を理解出来ない。
(?)
(何、何だろう、これ。訳が分からない)
(何て書いてある?何て書いてあった?楽―楽しい…?)
表紙を見る。書かれている文章は変わらない。余りにも簡単な文字で、そこには書かれている。(たのしいしゃかい)自分の目がおかしくなったのだろうかと、錯覚する程に。
(たのしいしゃかい。たのしいしゃかい)
(何だこれ)
(たのしいしゃかい。じょう)
―それとも、おかしくなったのは私の中身だろうか。
(たのしいしゃかい。たのしいしゃかいろく、じょう)
(何だこれ、何なんだ、これ。夢でも見てるのか?)
(確かに悪夢みたいだ。“扉”の向こうに来て、行方不明になった赤毛の噂を聞いて、彼女を探しに―)
(…―この建物に来て。彼女の弟がいる筈の、この建物に)
(そこで私は教科書を握り締めている)
深く息を吸う。歯を食い縛る。何度も瞬きする。頭を抱える。
(小学校の教科書を)
肌の感覚が曖昧になる。頭の中が空洞になってしまった気がする。
(何だろう。何が起こってる?こんな所まで来て、こんな遠くまで来て。命を危険に晒して。私は何を持ってる?これは何?『楽しい社会6・上』?何なんだこれ、一体何が―)
(巫山戯てる)
(…正気を失いそうだ)
(いや、もしかしたらとっくに正気じゃないのかもしれない。私の体はとっくに病院のベッドの上で、“扉”もその向こうも、私の空想の産物なのかもしれない。“シェルター”も、“タウン”も。クロも梔子も)
(“扉”の向こうなんて無かったのかも。私はただのドア枠を潜り抜けて、冒険の夢を見てるだけなのかもしれない)
(何でこんなものがここにある?一体、これは何?)
(たのしいしゃかい。楽しい社会。ああ…)
誰かが肩を叩く。
思わず悲鳴を上げそうになる。手に持っていた物を取り落とす。教科書が地面の上でガサガサと派手な音を立てる。懐中電灯が持ち手から垂直に地面に落下する。私はそれを見る。その様子が、やけにクリアに見える。鮮明に、静かに。懐中電灯がゆっくりと滑り落ちていく。ドン、と腹の奥に響く重低音を鳴らす。
私は反射的に拳銃を抜く。
「おい―」
彼らの方を振り向く。暗闇の中に黒い影法師と、金色の目玉が四つ、宙に浮いているのが見える。4つの目玉が連なって化け物の様に見える。影法師が私の腕を掴む。私はそれを振り払おうとく。私は引き金に指を掛ける。恐怖が引き金を引けと叫んでいる。
(止せ)
「―落ち着け、おい!俺だよ、俺、俺。俺達だ。カナエ。大丈夫か?俺の声が聞こえるか?」
瞬きをする。瞬きを繰り返す。目の前には梔子と、その左肩に乗るクロが居る。4つの金色の目が私を心配そうに眺めている。私は曖昧に笑って彼らの方を見る。(苦しい)呼吸が儘ならない。まるで水中に居るみたいだ、と思う。必死に息を吸い込む。梔子の右手が、私の左腕を痛い程に握り締めている。
(…痛い)
(夢じゃない。夢じゃない、夢じゃない、夢じゃ…)
(夢じゃない。クロと梔子は妄想じゃない。ちゃんとここに居る。形がある…)
(しっかりしろ、叶。目を覚ませ。何の為にここに来たのか、忘れたのか―?)
ギュッ、と目を閉じる。目を開ける。彼らの顔を見る。音を立てて息を吸う。そのまま口を開き掛けて、彼らに拳銃を向けている事に漸く気付く。
(バカ)
銃口をゆっくりと足元に向ける。梔子の肩を左から右へと移動し、クロがあからさまにホッとした表情を浮かべる。
「―大丈夫かよ?」
「…ええ。ごめんなさい…」
「ホントにな。大いに反省しろ。全く、こっちは何事かと思ったぜ。お前があの本を拾った瞬間から、ずっと馬鹿みたいに突っ立ってるからよォ―」
「…」
「おかしくなったのかと思っちまったよ。それか、変異体にでもなっちまったのかとな。もう少しでナゾナゾも出すとこだった。なぁ、梔子?」
「…ごめんなさい」
「まぁいいさ。反省してんならな。それに実際の所、危険は無かったしよ」
私の腕を掴む梔子の右腕の上を、足を伸ばしてクロが歩いて来る。クロが前足を伸ばし、私の拳銃の銃身に触れる。私は彼を見る。クロはニイッ、と笑う。
「―安全装置が掛かってる。俺様の教育の賜物だな。“良いディガーかどうかは、そいつの…”」
「―“脹脛を見れば分かる”」
「上出来だ」
上機嫌にクロは言う。私は脱力した笑みを漏らす。拳銃をコートの右ポケットに戻す。梔子が申し訳無さそうに、私の腕を掴んでいた手を引っ込める。
「―けどよ。お前、さっきからおかしいぜ。さっきの部屋からな。何て書いてあるんだ、あれ?何をそんなに驚いてた?」
クロが梔子の肩の上へと戻る。肩の上から、クロは鼻先で床に落ちた教科書を指し示す。私はそれを見る。梔子が少し身構えるのを感じる。教科書はページの内側を下にして地面に突っ伏している。何の変哲もない教科書だ、と思う。突然空を飛んで、襲いかかって来る訳でもない。
(…何があんなに怖かったんだろうか)
私はしゃがみ込み、教科書を拾い上げる。表紙を見る。表紙に書かれている文章は先程と変わらない。(『楽しい社会6・上』)先程よりも少し、心なしか文字が小さくなった様な気がする。
(何か恐ろしい予言や、この世界の秘密が書かれている訳でも無かったのに。何がそんなに怖かったのか)
(…分かってる。最初から分かってる。分かり切ってた事だ)
(近いからだ)
落としたライトを左手で掴む。左手のライトで教科書の表紙を照らす。そこには、人類の進化図の様に、縄文時代から現代までの人が並んだイラストが描かれている。私は唇を歪める。教科書をナップサックに乱暴に入れる。
(この世界は、遠い。砂漠も、“シェルター”も。一部を除いて、“タウン”も。“海”も。私の知ってる海は、もっと大きくて、深い)
(ナイフも、拳銃も。バイクも。クロも、梔子も)
(―何もかも現実からんだ)
(でも、この本は違う。この本は、。文字も、絵も、製本技術も。)
「…『楽しい社会6・上』」
「ハァ?」
「本当よ。本当に、そう書いてあるの。…ねぇ止めて、その顔。嘘じゃないわ」
(私達の世界に近過ぎる。私はそれが…怖い)
(知りたくない気がする。見たくない気がする。あの“扉”を、永遠に塞いでしまった方が良い様な気さえする)
(けれどもその一方で、知りたい、と思う自分も居る。好奇心が濁流の様に私を押し流す。私はそれを、未だに止められないでいる)
(怖い)
(私がこっちの世界で何かを見つける度、“扉”の向こう側との共通点を見つける度、“扉”の向こう側とこちら側が近付いていってる気がする。距離が狭まっている気がする。境界線があやふやになっていく気がする)
(私はそれが―…)
「…嘘じゃないの」
(―あの“扉”は、何?)
(ここはただの異世界じゃない)
(…ここは一体、どういう場所なんだろう。ここは、この場所は、この世界は―)