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wonderland/gradual decline  作者: 浅田ぼたん
1/8

♯1







―実を言うと、煙草は苦手だ。

でも、大事な仕事の前には、いつも必ず煙草を吸う。

最初の男から学んだ事だ。

“…そんなに拗ねんなよ。男ってのぁ単純な生物さ。幾らお前の銃の腕前が上でも、お前の腕っ節のが強くても、奴らの見る目が変わる事は無い。ま、諦めるんだな”

腰の愛銃を確認し、安物の紙煙草に火を点ける。これもあいつに教わった事だ。どんなに安物だって構やしねえ、何でも良いから煙を吹かしてりゃ、取り敢えずそれらしく見えるから、と―。

“―変わるのを期待すんなら、ま、悪い事ぁ言わねぇ、周りじゃなくて、手前の方にしとくんだ”

“…どうしてだ?悪いのはあたしじゃない、あいつらの方じゃないか”

“まぁ、そうなんだけどよ。効率の問題だな。周りを全部変えちまうよりも、手前一人が変わる方が早い。ま、それだけの話だ”

胸ポケットから酒瓶を取り出す。蓋を開けて、ひとくち、口に含む。酒は好きだ。肌にあったのか、それとも内蔵が良かったのかは、ま、分からないが。兎に角酒だったら幾らでも飲むことが出来た。それこそ一晩中だって飽き足りないくらいだ。でも、煙草ぁ駄目だ。長時間吸ってると、耳の後ろ辺りがガンガンして来やがる。

“そうだな、先ずは煙草を吸え。それから酒だな、ガブガブ酒を飲み下せ、水を飲み干すみたいにな。男ってのぁ単純な生物さ。女って見るだけで、舐めて掛かったり、排他的になったり、或いは盛りが付いたりする。そりゃ、お前が異物だからだよ。最近は珍しい。若い女も、女のディガーもな”

“昔は珍しく無かったのかよ?”

“昔だって珍しかったさ”

口の中に煙の味が広がる。相変わらず酷い味だ、と思う。少しずつ煙を吹き出していく。煙草の先端の火を眺めながら、もう少し高い銘柄だったら、多少はマシな味になるのかね、とか考える。

“男性的な趣味を身に付けろ。言ったろ、男ってのぁ単純な生物だって。誰よりも多く酒を飲め、誰よりも多く煙草を吹かせ。そうすりゃ、奴らのお前を見る目も少しぁマシになる”

“…ホントかよ?”

“信用しろ。男ってのぁ単純な生物なんだ。なんせ男の俺が言うんだから、間違い無い”

実を言うと煙草は苦手だ。

…でも、大事な仕事の前には、いつも必ず煙草を吸う。







「銃の癖を覚えろ」

11月3日、天使と遣り合ってから2日後。火曜日、祝日。

(…確か、文化の日、だったか?)

12時を過ぎた辺り。“扉”の向こう。クロと梔子の世界。

“海”。

私は、海辺で船長に、銃の稽古を付けて貰っていた。

「…癖、ですか?」

“船長”というのは、まぁ、所謂愛称だ。本名は知らない。50代から60代の間くらいで、たっぷりな髭を顎に蓄えて、いつも船乗り帽を目深に被っている。目は緑掛かった灰色をしていて、暇さえあればパイプを吹かしている。そして、左膝から下が無い。

ここら辺では顔役らしい。いつも仏頂面で無愛想だ。それから、不器用ではあるけれど、クロと梔子の事を気に掛けてくれている。

それが“船長”だ。私が知る船長の全て。

「貸せ」

船長が杖を突いて、私の隣まで歩いて来る。私は彼に、自分の拳銃を差し出す。船長は右腕で銃を構える。5m程離れた所にある看板に狙いを定める。ここから去り際に、私の銃の練習用にと、クロと梔子が立てて行ってくれたものだ。(何処から持って来たのだろうか。“どんな品物も買い上げます!先ずは立ち寄ってみて!ヤオロース質屋”…)船長は豆鉄砲でも扱うみたいに、気軽に引き金を引く。船長の大きな掌の中で、拳銃は玩具みたいに見える。船長の体は、発砲の衝撃を受けても微動だにしない。

(…凄い。片足なのにな。全く体がブレない…)(私なんて、引き金を引く度に右肩が痛むのに)(今日もまだ、ちょっとだけ痛い、気がする)(やっぱり、フィジカルの差なんだろうか。それとも、体の使い方?)

船長は3回引き金を引く。3発とも、全て看板に命中する。

私は胸元で小さく拍手を送る。

「見ろ」

銃口を振って、船長は私に看板の方を指し示す。私は看板を見る。看板には4つの穴が開いている。私が開けた1つと、(3発中の1発だ)船長が開けた3つの穴だ。看板を見て、私は首を傾げる。船長が何を言いたいか、さっぱり分からない。

(…“この距離で外すな、このド下手糞”、って事?)

「弾が全部右に寄ってる」

「あ」

「この銃の癖だ。弾が右上に寄る。次はそれを意識して撃て」

船長は私に拳銃を手渡し、海辺の、座礁した廃船の傍の、自分の安楽椅子へと戻っていく。私は、手の中の拳銃を眺める。弾が未だ残っていたかをぼんやり思い出そうとする。

(…確か、さっきリロードを済ませたばっかだ。8+1発、私が3発撃って、船長が3発)

拳銃を構える。引き金を引く。

銃弾は看板の上辺を掠る。

「銃口を下げろ。脇を絞れ。足を肩幅に広げろ。膝はもう少し、衝撃を逃がす様に―」

「…一辺に言わないで下さいよ」

「だったら、一辺に言われないようにするんだな。駄目な所が多過ぎる」

船長がパイプに火を入れる。私は鼻を鳴らし、引き金を引く。

銃弾は看板の中央左寄り、下部に着弾する。

「…当たったじゃないか」

「どうも」

「さっきよりも、中心に近いぞ」

「そりゃ、さっきのやつと比べたらね」

引き金を引く。銃口がぶれる。弾は看板の右辺ぎりぎりを貫通する。

「…脇を絞れ。さっきも言ったろう?銃口がぶれている。反動を殺せていない証拠だ。銃弾を思い通りの場所に飛ばしたいなら、反動の制御が必要だ。大砲に台座が必要な様にな」

「はい」

「脇を絞れ。足を肩幅に広げろ。ケツ穴をしっかり締めろ。糞が漏れるぎりぎりで我慢する様に―」

「…もう少し、乙女に優しい表現でお願いできます?」


引き金を引く。

看板に着弾する。木片が吹き飛ぶ。

(…よし)

何発使い込んだのかは分からない。私の足元には、5×6cmの9mm弾の空箱が大量に転がっている。が、その甲斐あってか、5m先の看板程度には、かなりの精度で当てる事が出来る様になった。(…ま、それが実戦で役立つかは分かったもんじゃないが)(5m先に、看板サイズの標的がじっと立っててくれてる状況ってのは、どの位の確率で実際に起こる事なんだろう…)(9mm拳銃の有効射程は、確か5~10mだとか。次はもう少し離れて、当てられるようにならないと…)(5m先の看板に、80%くらいの命中率。精度を上げる方が先か?)(肩が痛い)(看板はもう殆ど読めないな。“い”と“ス”と、後は!マークくらいしか残って無い)

安全装置を掛ける。新しい9mm弾の箱をポケットから取り出す。マガジンを取り出し、一発ずつ弾を込めていく。マガジンを銃把の下から差し込む。スライドを引く。新しいコートの袖で、汗の滲む額を拭く。(グレーのダッフルコート。感謝価格。5190円)

安全装置を外す。

「カナエ」

振り向く。船長が、立ち昇る煙を目で追い掛けながら、私の名前を呼ぶ。私は船長の言葉の先を待つ。こういう時、船長を決して急かしてはいけないという事を、私は短い付き合いの間で学んでいた。船長は言葉選びにじっくりと時間を掛ける。特に彼にとって、大事な事を言う時は。船長は指先で、失くした筈の左の脹脛辺りを掻く。

「…小僧と、黒猫が」

「はい。クロと梔子が?」

船長はじろり、と私を一瞥する。私は慌てて彼から目を逸らす。看板の方を向く。緩んだ口元を見られない様に。

(クロと梔子)(彼にとって大事な事)

(…不器用な人だ、ホントに)

(本人達に言ってあげれば良いのに)

拳銃を構える。足を肩幅に開く。(腕だけで反動を受けちゃいけない。体全体で反動を受け止める様に意識して―)引き金を引く。

弾が風を切る音がする。看板に開いた風穴を通り抜け、着弾点で砂煙を上げる。

「…クロと、梔子が」

船長の方を見る。船長は手の中でパイプを揺らしながら安楽椅子に揺られている。思い出した様に船乗り帽を脱ぎ、それを更に深く被り直す。パイプを咥えたかと思うと、また直ぐに口から離す。私は小さく苦笑して彼の行動を眺める。看板に向き直る。両手で拳銃を構える。

引き金を引く。

「見事だ」

船長が言う。

「そうですかね?この距離じゃ―」

「―動かない看板すら外していた小娘が、この短期間でこれほど腕を上げるとは。1時間前の糞みたいな命中率が嘘の様だ。外した弾で新しい船でも造ろうかと思っていたが―」

「…そりゃ、悪い事しましたねェ。船は自分で買って下さい」

「次は、片手で撃って見せろ」

「は?」

「聞こえなかったか?片手で撃て」

「でも、5m先の的で、これですよ?100%当てる自信も無いし。もう少し、遠くから当てられるようにするのが先じゃ―」

「…良い事を教えてやろう、カナエ」

仏頂面の目元を僅かに撓ませ、安楽椅子から身を乗り出して、船長は言う。

(…もしかして、笑ってる?)

「お前が実際に銃を使う時、ああやって5m先で棒立ちしてくれる敵は居ない」

「―そりゃ―」

「看板サイズの敵も滅多に居ない」

「―そうです、分かってますけど―」

「それと同様に、お前がそうやって両手で銃を構えて、のんびり敵を狙うタイミングもな」

「…」

「タイミングが肝要だ」

船長はパイプを咥える。蒸気船の様に、煙を噴き上げる。

「タイミングが肝要なんだ。命の遣り取りは目紛るしい。お前だって分かっているだろう?実際にお前が、そうやってのんびり銃を構えるつもりなら、敵にとってはお前があの5m先の看板になる訳だ。親切な的だ。動かない的。おまけに、看板の平たい面を、勝手に自分の方に向けてくれる的」

「…」

私は自分の胸を撫でる。

(平たい)

(…)

(この件に関しては、あまり考えないでおこう)

「必要なのはタイミングだ。銃弾を撃ち込む適切なタイミング。確かに命中精度は必要だ。だが不可欠という訳じゃない。弾が当たれば敵は傷付く。人間であれば尚更な」

「…はい、キャプテン」

「どんな体勢でも弾を当てられるようになれ。先ずは右腕、出来れば左腕もな。命中率よりも、引き金を引く回数の方が大事だ。引き金を引けば引くだけ、お前の敵の命を奪えるチャンスが増える」

「素敵な考え方ですね」

「妻にも良くそう言われたよ。さぁ、先ずは右腕からだ」


引き金を引く。

「…違う、小娘、看板と向き合ってどうする?反動を殺せと言った筈だ。片腕で反動を押さえられないのなら、胴体も使って反動を押さえるんだ。的に向かって半身に構えろ、右足で体重を支え、左足で反動を制御するんだ」

「…りょーかい」

船長の不機嫌な声を背中に受けながら、私は彼の言う通りに構え直す。(的に向かって半身に)(銃を目標に向けて)(胴体も使って反動を押さえる)(片足は軸にして、もう片方で反動を制御)引き金を引く。風を切る音がする。弾丸は看板を支える軸枝を掠って、砂の中に消える。軸枝にはタイヤ痕みたいな黒い焦げ跡が残る。

「少しはマシになったな。もう一発だ、カナエ」

「…この体勢だと、結構狙い難いんですけど、キャプテン。本当にこの練習、優先した方が―?」

「そのうち慣れる。早く撃て、カナエ」

私は溜息を吐き、再び引き金を引く。次の弾丸は、看板よりも1mも手前に着弾する。私の失敗を示す目印を立てる様に、弾丸がその場に赤い砂塵を巻き上げる。

「下を狙い過ぎだ。反動の制御に自信の無い証拠だな。銃口を下に向け過ぎている」

「…でも、それだと何処に飛ぶか―」

「命中率は必須では無い、と言ったばかりだぞ、カナエ。お前は必中に拘り過ぎだ。片腕よりも両腕の方が命中精度が悪いのは当たり前だ。大事なのは引き金を引く回数だ。片腕で撃つのに必要なのは、敵の方向に飛ばすという、ただだけだ。外すのを恐れて地面を耕すくらいなら、ラッキーパンチに期待した方が良い」

「…そんなものですかね?」

「そんなものだ。言っただろう、弾が当たれば誰でも傷を負う。それが人間であれば―」

「―尚更、ですか」

「その通りだ。さぁ、引き金を引け」


引き金を引く。

弾丸が看板の右下の隅を粉々にする。既に殆ど木枠だけになっていた看板は、四隅の一部を失って、メリメリと音を立てて少しずつ崩れ始める。

私は船長を見る。

船長は安楽椅子を静かに揺らし、目深に被った船乗り帽の奥から、今や一辺が拉げて三角形になった看板をぼんやりと眺めている。

安全装置を掛ける。新しい9mm弾の箱をコートのポケットから取り出す。

「…クロと、梔子が」

と、私は言う。マガジンを取り出し、一発ずつ弾を込めていく。

「うん?」

船長は船乗り帽の奥で、灰色の瞳を不思議そうに瞬かせる。私は苦笑する。自分で始めた話なのに、どうやらもう完全に忘れ去ってしまったらしい。

「クロと梔子ですよ。彼らがどうかしましたか?」

「…どうしてそんな事を聞く?」

「聞きたいのはこっちですよ。あなたが言い出したんじゃないですか。クロと梔子が、どうたらって」

銃にマガジンを差し込む。

安全装置を外す。

船長は考え込む様に髭だらけの顎を指先で梳く。額を掻き、船乗り帽を被り直す。パイプから煙を噴き上げる。

私は拳銃を左手で持って、引き金を引く。弾は全く見当違いの、明後日の方向へ飛んで行く。20mは離れた右手の砂丘で砂煙が上がる。(…今の所、両手での命中率は80%)(右手は60%)(左手は20%、ってところか…)

(…しかも、5mの距離で。ホントに私、ここで生き残っていけるのか?)

(次こそ死ぬ気がする)

「…クロと、梔子が」

拳銃を右手に持ち替える。船長を振り返る。船長は安楽椅子から少し身を起こし、私の方を向く。私は手の中の拳銃を眺める。安全装置を掛け、また直ぐに外す。

「お前に文句を言っていた」

「はぁ。私に?」

「そうだ。報酬の扱いが粗雑だとな」

私は船長を見る。右手で拳銃を構え、殆ど原形を留めていない、看板の方に狙いを定める。(…クロと、梔子、ね)(多分、文句を言ってるのはクロだけだろう)引き金を引く。弾丸が三角形になった看板の斜線上を微かに削る。

2日前、“車屋”の依頼の報酬は、経費を含めて5830となっていた。(本当はもう少し引っ張りたかったが―報酬を受け取りに行く直前、“Safety”に出入りする車屋の部下をクロが見たらしい。『信用を失う訳にはいかねぇ。これからも、この街でディガーをやっていくんならな―』とは、クロの言だ。それから、『また“車屋”の依頼を受ける事もあるかもしれねぇ―』とも。やれやれ、あんだけ痛い目あったってのに、まだあいつの依頼を受ける積りなのかね?)それを3人で割って、私の取り分は1830になった。(『綺麗に三等分じゃねえ』とクロは文句を言っていたが、端数を割るのは面倒臭かったし、それに何より、一つ前の依頼では、彼らはタダ働きだったんだ)

私はその報酬で、早速バイクを買った。(―中古のオートバイだ。状態やや悪し。シートのクッションは破れている。価格は140)(…徒歩や自転車で、“タウン”に来るのはもう限界だった)(来る度に遭難しかけるし。方位磁石は効かない、視界は悪いで―)それから、予備のマガジンと、練習用にありったけの弾薬。(今なら、あの時マガジンを勧めた梔子の気持ちが分かる。実戦じゃ、バラ売りの弾は何の役にも立たない。まだ投擲用のナイフでも持ってる方がマシだ)そして、その残りの金を、私はクロと梔子に預けていた、が―。

「―いけなかったですかね?」

「さぁな。だが奴らは不満に思っているらしい。少なくとも、奴らの内の片方はな」

「クロですね?」

「…どっちだって良いだろう。重要なのは、お前が―」

「クロでしょう?」

私は笑う。船長も煙の隙間から、観念した様に苦笑する。

「………言うなと言われた」

「私が内緒にしておきますよ。それで?」

「お前が金を乱暴に扱っていると言っていた。あれだけ苦労をして得た金を、他人の家に置きっ放しにしていると。命を賭けて得た金を、役に立たない荷物を預ける様に、他人の家に―」

「―それだけ信頼してるんですよ」

私を見て、船長は目元を細める。

(?)

―少し、寂し気に。

「カナエ」

「なんです?」

「これだけは覚えておけ。奴らは信頼を受けて来なかった。長い間な。私だって、完全に信じているとは言い難い。奴らに悪意が無いのは分かっている。だが―」

船長は西を見る。遥か西を。私もその視線を追う。

―“タウン”から離れて、遥か西の彼方。そこに新緑に発光する“神の柱”が立っている。

まるで世界の最初から、そこにあるかの様な顔をして。

「…ここは、場所が悪過ぎる」

緑の光が目の奥を擽る。また少し、何かを思い出しそうになる。私は目を逸らす。

「何せ喋る猫とその子分だ。変異体の手先だという流言が、どうして嘘でないと言い切れる?誰にとっても確証はない。確証が無い内は真実なんだ、別の誰かにとってはな。寝込みを襲われる事もあった。奴らが家を手に入れてからは、そこに火を放たれる事もあった」

「…」

「信頼を苦痛に感じる者も居るという事だ、カナエ。もしまた家を焼かれたら?家に盗みに入られたら?お前から預かった金を失ったら?もし自分達の懐がキツくなって、お前の金に手を着けてしまったら?奴らが心配しているのはそう言う事だ。まぁ、奴はそんな風には言わなかったがな、お前が金の価値を冒涜しているとかなんとか、ゴチャゴチャ言っていたよ。だが、人は何かを手に入れた瞬間、それを失う恐怖をも得るものだ。猫もまた然り、という訳だな」

「…分かりました、何か、考えてみます」

「そうするべきだ。貸し金庫屋でも紹介してやろうか?お前が良ければだが」

「良いんですか?」

「ああ。2週間前に金庫を破られたばかりでな。大勢顧客が離れて困ってると言っていた」

「………ああ、いや、やっぱり自分で、なんとかしてみます…」







「サクちゃん」

欠伸をする。

手の中のスマホを覗き込む。ページをスクロールして、上から下まで嘗める様に精査する。懐の具合を計算に入れる。勿論、“扉”のこちら側の世界の懐の話だ。

(…貯金は残り僅か)

(今月のお小遣い)(あと二月で正月)(バイトでもするか?)(―許可が出るか?一応、校則じゃ認可制だけどバイトはOK、って話だ)(でも、どんな理由なら?許可を貰ったって奴の話を聞いた事が無い。無許可でやって停学になった、ってのなら、腐るほど聞いた事があるけど)

(ああ金、金、金。困ったもんだな。“扉”の向こうでもこっちでも、金の心配だ―…)

「サクちゃんてば」

―顔を上げる。

3限終わりの休憩時間。教室には人が犇いている。今年は暖冬気味とはいえ、11月ともなるとやっぱりそれなりに冷えて来る。「…まぁだ暖房入んねぇのかよぉ―」「―ユッキーに聞いたらさ、今年はけっこうあったかいし、12月まで付けないんだって―」「―馬鹿、俺の上着返せ―」「激辛タコスチップ、喰う?」私の席の前に立つ真菜加も、学校指定のカーディガンの中にベスト、スカートの中に体操着の長ズボンという出で立ちだ。

「…凄い恰好ね、あんた」

「別に良いじゃない、冷え症なんだから、あたし。それよりサクちゃん、スマホ没収されちゃうよ?そんな堂々と弄ってたらさ」

「未だ休み時間でしょ?」

「あと5分で終わりだよ。何見てるの?」

「カタログ」

「へぇ、何のカタログ?ファッション?アクセサリ?小物?そういえばね、この前駅の近くで、かわいー靴屋さんがさ―」

「金庫」

(テンキー式耐火金庫。色はブラックとクリームホワイト。229800円?)

(駄目だ。高過ぎる)

―真菜加の声が途絶える。

彼女の方を見る。彼女は、私が今この瞬間目の前で、全く別の生物に変わってしまった様な、或いは突然全く未知の言語を喋り出したみたいな顔でこちらを見ている。私は彼女の目を見返す。私は彼女の方にスマホの画面を向け、聞こえていなかった可能性を考慮して、もう一度先程の言葉を繰り返す。

「金庫」

「…聞こえた」

「金庫のカタログを見てたの」

「…え、え、ちょっと待って。ここ最近のサクちゃんは結構ワケが分からない事言うけど、今回のは正真正銘にぶっちぎりで意味不明の一等賞だよ。え、どういうこと?サクちゃん、金庫買うの?」

「まぁ、出来れば欲しいかな。でも、高いんだよね」

「因みに、何の為?」

「…そりゃ、何かを入れる為でしょ。金庫はその為にあるんだからさ」

「………そうだけど。色々あるでしょ、大事なものを入れる為ー、だとか、プレゼントを入れる為ー、だとか、誰かに見られたくない物を仕舞っておく為ー、だとかさ…」

「強いて言うなら、金かな」

「金かぁ…」

真菜加が目の前で力無く脱力する。(?)私はスマホをポケットに仕舞い、自分の机の上を軽く払う。頬杖を突いて真菜加を見る。

「もうひとつ、聞いてもいい?」

「どうぞ」

「どうして、お金を金庫に入れる必要があるの?」

「あー、今、知り合いにお金を預けててさ」

明かせない部分を省いて、必要な部分のみを伝える。

「知り合いさんにおか、お金を…預けてるの?」

「そう。それでそいつが、その金を自分で管理しろって私に言うんだけど」

「そりゃ尤もだよサクちゃん。そのひとの言う通りだよ。10-0でサクちゃんが悪いよ。大体良く分かんないんだけど、どうしてその知り合いにお金を預けてるの?銀行に預けようよ」

「銀行には預けらんないんだよ」

「危ないお金なの!?」

「違うよ、あー…」

私は苦笑する。説明に困る。どういったもんか。(向こうの世界の金だから。貨幣形式が違うから)(違うな。もう少しオブラートに包んで)(外国のお金だから)(…馬鹿。もっと話がややこしくなるだけだろ。どうしてお前が外国の金を持ってるんだ、って)(FXをやって)(違う。考えがズレてる)(大体、外国の金なら銀行で両替してもらえば終わりだろ?話が終わっちまう)(つまり、私が言いたいのは…)

「………バイトで稼いだ金なんだ」

真菜加が目を真ん丸に見開く。

「バレたら困るしね。預かって貰ってるんだ。口座にも入れられない。母さんにバレちゃうし」

「そ―う、だったの、ああ―ええ、そうなんだ。え、バイトって、いつから?」

「先月」

「へぇ―あ、新しい口座を作るのは?ほら、お母さんが駄目でも、お父さんの方に頼んで」

「駄目だよ。父さんは嘘が下手だし」

「ううん…」

―真菜加は腕組みをして顔を顰める。「…バレたら、停学になっちゃうもんね」私は苦笑いを浮かべて彼女を見る。(ごめん、真菜加)(いつか本当の事を話す)(確信が持てるまで。あの世界が安全だと分かるまで。あの“扉”が危険なものじゃないと思えるようになるまで。私が向こうの世界の危険を手に負える様になるまで)

(いつか本当の事を話すよ。ごめん。でも、それまでは)

「良い隠し場所、知らない?真菜加は大事なものを隠す時、一体何処に隠す?」

「…ううん、ベッドの下とか、机の引き出しの裏っ側とかかな。後は本棚の、並べてある本の奥に窪みを作って、そこに仕舞うとか。でも、そんなんじゃ駄目なんだよね?だから、金庫のカタログとか見てた訳なんだし」

「ええ。でも金庫って高いのね。金庫が欲しいんだけど、その金庫を買う金が無いわ」

「その知り合いのとこで、もうちょっと預かって貰う事は出来ないの?」

「駄目みたい。直接は言われてないんだけど。人伝てに聞いた話によると、私は『金の価値を冒涜している』らしいわ」

「…中々手厳しいご友人だね」

「まぁね。もう少し甘やかしてくれても良いんだけれど。こっちは初心者なんだから」

「―初心者?」

「なんでもないよ。こっちの話」







「―おや、カナエじゃないか。久しぶりだね」

11月7日。

土曜日。

“扉”の向こう。クロと梔子の世界。11時30分と少し。

「…ああ、お久しぶりです、ええと…」

“タウン”の南西部。私は“車屋”に向かっている最中だった。正確には、“車屋”に併設されたに向かって。途中、ピンクのネオンで着飾った建物の前で呼び止められる。日中なので電気は通っていないが、ピンク色のネオンは消灯していてもそれなりの自己主張を放っている様に見える。建物の上部には店名のネオンサインが飾られている。

(…“Honey trap”、だ)

「―カイさん」

「随分と御無沙汰だね。調子はどうだい?噂は聞いてるよ。あの子らと、元気に暴れ回っているみたいじゃないか」

「いや、暴れ回ってるだなんて、そんな―」

「1ダースもの天使共をあの世に送り返したんだって?いや、あんたもなかなかやるもんだね」

「―…そんな噂が出回ってるんですか…?」

カイさんは店の前に打水していた手を止め、(儲かってる証拠だ、この水の貴重な世界で)咥え煙草に火を点し、朗らかに笑う。カイさんは、この娼館“ハニートラップ”の女店主だ。40代前半、恰幅の良い背格好。見た目からはそうは見えないが、かなり辣腕の経営者らしい。

(…どう見ても、近所の人の良いおばちゃん、て感じなんだよな…)

「あの子たちは?今日は一緒じゃないのか?」

「あぁ、クロと梔子は、先に仕事の打ち合わせに向かってるんです。えーと、私もこれからそこに向かうとこでして」

「仕事?」

「ディガーの仕事ですよ。船長の紹介で。私の初仕事です。あー、私、これまでは、ディガーを名乗って無かったので。がある仕事って訳でも無いですが、まぁ、気分は大事ですし」

「…そうかい。ま、頑張んな。気負い過ぎて怪我しない様にね。打ち合わせ場所はどこだい?」

「“車屋”です」

「へぇ、“車屋”とは少々遣り合った、って聞いたけど?」

「…まぁ、多少揉めはしましたけどね。大丈夫です、軒先を借りるだけですし。それに、場所を指定して来たのは依頼人ですしね」

「はは、そりゃま、こっちの都合なんて、は知ったこっちゃないか。気を付けるんだよ。死なない様にね。生きて帰ってきたら、ウチからも何か依頼をしようかねぇ」

「あー、楽しみにしておきます。その、クロと梔子も…えぇ、喜んで依頼を―喜んで依頼を。えー、喜んで依頼を受けるよう、説得しておきますので」

カイさんは笑う。

その、まあるい肩を震わせて。

「…人を慰めるのが下手糞だね、カナエ。今度、ピロートークでも伝授してやろうかい?」

「銃の練習が一段落したら、お願いしますよ」

「引き留めて悪かったね。待ち合わせ時間は大丈夫そうかい?」

私は左手首の、ピンクの腕時計を見る。(…時計も買い替えたいな)(多分、小学校の頃の時計。ベルトを最大にしても、手首が痛い)(そんなお金は無い。なんせコートを買ったばっかりだ。UFOキャッチャーの腕が良けりゃ、景品で狙うんだけど…)(11時38分。待ち合わせは11時45分。良かった、十分間に合いそうだ…)(“車屋”はこの近く)(…というか、船長も船長だよな。11時45分の待ち合わせを、11時半に言うんだからさ)

(お陰で私が、どんなに走ったか…)

「ええ、なんとか」

「良かった。初仕事から遅刻なんて、信用に関わるからね。何事も信用が第一さ。ディガーに限らず、男か女かに関わらず、ね」

「良い言葉です。今度、それを“Safety”のロブに教えてあげて下さいよ」

「そりゃ無茶な注文さね。あいつの窃盗癖はもう病気さ」

私は笑う。手を振ってその場から離れる。別れ際に、カイさんはもう一度言う。

「気を付けるんだよ」

私は彼女の目を見る。彼女の目の奥には、どうしようもなく不安が溢れている。

「気を付けて、気を付け過ぎたって、悪い事ぁ無いんだ。気を付けておくれ、カナエ。お前の分も、あの子たちの分も。何せ砂漠には、それこそ片手に余る程の危険が、そこらを泳いでいるんだからさ―」


「遅ぇ」

―開口一番、クロは言う。

11時46分、“車屋”の。ガレージの隣に建っているこのパブは、元々はこっちが本業だったのだろう、中々年季の入った店構えだ。天井や壁は、後から接ぎ足された2階部分や車庫とで色が違うし、床にはあらゆる液体が染み付いていて(勿論酒や吐瀉物だけでは無い)、店内は狭苦しい。裏に1人、ホールに3人も居れば、人手はもう十分なくらいだ。大店の傘下の店としては、何というか、期待外れと言うか、しょっぱい感じがする。

(…“車屋”にも、色々事情はあるみたいだけれど)

(ま、大店の店事情なんざ、私らは知ったこっちゃないがね)

店内には6つの丸テーブルと、幾つかのカウンター席がある。クロと梔子はその丸テーブルの内の1つ、入口から見て左手奥の、突き当たりの席に腰を掛けている。(…入り口側からは、見えない席)私は首を振る。必要のない邪推だ、と思う。

「…悪かったよ。でも、船長に約束の事を聞いたの、ついさっきでさ。これでも私、急いでここまで―」

「煩ぇ、そんな事が客に関係あるか?『待ち合わせ時間をついさっき聞いたばかりだったので遅刻しました』っつって、はいそうですかと客が納得するとでも?遅刻は遅刻だ。いいかカナエ、。誰にも取り戻す事は出来ない。お前がこの先も、この仕事を続ける覚悟があるのならよ―」

「―来た―んだ、けど。その」

クロのあまりの剣幕に、私は口を噤んでしまう。クロは丸テーブルの上で、自分の皿の周りを行ったり来たりしながら、私を睨みつけている。(皿にはエールビールの様なものが注がれている)梔子はその様子を、我関せずといった風に眺めている。

「―時間を守れ。いいな?時間は絶対だし、約束を破るのは信頼に関わる。カナエ、(ビールを一口舐めながら)信頼ほど簡単に得難く、失い易いものぁ無えんだ。良いディガーは時間を守るもんだ。時間と約束をな。え、分かったかよ、小娘?」

私はクロの言葉に、素直に頷いて見せる。「そうかよ。分かったなら―」梔子の隣の席を引き、クロに気付かれない様に小さな声で、彼に耳打ちをする。

「ねぇ」

梔子が私を見上げる。ビールよりも濃い黄金色の瞳が、私の方を向く。

「…クロ、なんか機嫌悪く無い?梔子、理由分かる?」

彼は困った様に目尻を下げて肩を竦め、左手の指を四本立てて私の方に向ける。ぶかぶかの革手袋を嵌めた四本の指だ。右手の人差し指でその内の一本に触れ、自分を指す。もう一本に触れ、クロを指差す。三本目に触れ、私の方を示す。最後の一本に触れ―。

「…ああ、成程」

「なんだ?なにがなるほどだ、小娘?」

「何でも無いわ。時間は絶対ね。ところで、依頼人は何処?クロ」

「………俺様が知るかよ。クソッタレ、どっかの田舎のおのぼりさんじゃあるまいしよ―」

「それって私の事?」


「…今何時だ?」

唸る様な声でクロは繰り返す。もう何度目になるか分からない質問だ。

「煩いわね」

「いいから言えよ。ああクソッタレのアホの依頼人め、一体今何時だと思ってやがる?おい、今何時だ、小娘?」

「12時8分。もう9分になる所ね」

「―のやろう、約束の時間はとうに過ぎてんだぞ、一体何してやがる?敬意ってもんが無ぇのか、最近の若いもんには?さては俺達を舐めてやがるな?クソッタレ、後1分でも約束の時間を過ぎたら―」

「9分になったわ」

「…あと5分だ。畜生、あと5分だけ待つぞ、小僧、小娘。あと5分待っても依頼人の馬鹿野郎がここに現われなかったら、この依頼は無しだ。俺ぁ帰って寝る」

皿の底の気の抜けたビールを舐めながら、脱力した様子でクロはそう言い捨てる。膝の上で両手を組んで、梔子はその言葉に小さく頷く。時折、膝の上で組んでいる手の指先が、ナイフの柄を触りたそうにうずうずと動く。私は苦笑いを浮かべてクロを眺める。

「…なんだよ、何がおかしい?」

「いや、私の初仕事の依頼だったのに、まさかこんな事になるとは、と思ってね」

「仕方ねぇだろ?依頼人の方が来ねぇんだから。客が来なけりゃ、仕事は始まんねぇ」

「そうだけどさ。本当に帰る気?」

「ああ帰るね、本当に帰る。なんだったら今直ぐにだって帰ってやりたいね、今こうして約束を破った糞野郎をボーっと待ってる理由は単純だ、船長の紹介だっていうと、一重に俺様のによるもんだ。俺ぁこう見えて、懐が広ぇ男だからな」

「背は小さいのにね」

「煩ぇよ、縊り殺すぞ、小娘」

「―あ、あのォ…」

背中側から声が聞こえる。死に掛けの虫の羽音並みに、弱々しい声だ。私は振り返る。雀斑に癖っ毛の黒髪の、やたらオドオドとした女の子がそこに立っている。左手でその癖毛を強く引っ張りながら、右手の中のメモ帳を、真っ赤な顔でじっと見下ろしている。右手の指先は、クロッキーに使う黒炭の煤の様なもので真っ黒に汚れている。

(依頼人…じゃないよな。ウェイトレス?)

女の子はエプロンを付けている。所々繕い跡のある、夕日の様なオレンジ色のエプロンだ。(でも、ここって酒場だよな。酒場のウェイトレスってのは、もう少し過激な恰好をしてるもんじゃ…)(真昼間だからか?)(真昼間だからって、酒出す様な店にこんな小さな女の子置いとくもんかなぁ)(“車屋”の所縁の女?)(血縁?)(何か事情が―)

「…ご、ご、ゴ、ゴ、ゴ」

(?)

「ゴチュウモン、を」

(ああ)

「ゴチュウモンを、その。ゴチュウモンを聞きに。その、ご注文は、なにかありますでしょうか?」

「無いわ」

私は掌を振ってそれを断る。女の子は顔を上げて私を見、直ぐに目を逸らす。口元には曖昧な笑み。額に浮かんだ大量の汗をエプロンの裾で拭いて、彼女は尚もテーブルから去ろうとしない。

「あ、そ、その、でも、あの、ゴ…チュモンが、注文がないと、その」

「良いから」

(…クロと梔子の家に、金を忘れて来た)

(ちょっとくらい持ち歩いた方が良いのかな。自分の側の世界だって、財布も無しに外を歩くことは滅多に無いんだし…)

(―というか、金も無しに酒場に入ったんだな、私。酒は飲めないにしても、それって結構非常識な気も…)

(…チャージ料とかないよな、ここ?)

「店主の方には私から言っておくわ。ああそれと、暫くこの席には近付かないでくれる?これから少しの間、ここでビジネスの話をするの」

女の子は私の言葉を、分かったのか分からないのか、半端に首を震わせて、笑う。会話が途切れる。けれども彼女は、そこを動こうとしない。

(…良い根性だ、畜生)

(クロと梔子に立て替えてもらうしかないな。やれやれ、また文句言われそう…)

(メニュー表が欲しいね。さて、酒場の品揃えん中で、未成年にも飲めるものの定番と言えば―)

「水を貰える?」

「ひゃい!?」

メモ帳を取り落とし、彼女は驚愕の表情を浮かべて私を見上げる。その様子を見て私も驚く。(な…?)彼女は慌ててメモ帳を拾い上げ、その場でバッサバッサと埃を叩き落とし、(露骨にクロが嫌な表情を浮かべる)逃げる様にそこから去っていく。

(…注文、通ってんのかね?)

私は苦笑いを浮かべて(苦味90%)彼女の背中を見送る。彼女は店内に並ぶ6つの丸テーブルの間を駆け抜けていく。彼女の姿を目で追い掛けている途中、その6つの丸テーブルの内の、私達とは別のテーブルを占有している一組の客と、目が合う。二人組の男性だ。男達は私と目が合うと、ゆっくりと私達から視線を外す。

(なんだ?)

気付かなかったふりをして、私はテーブルの内側に視線を戻す。梔子は困った様に微笑んで私を見ている。背中側から、こちらに聞こえていないと思ってでもいるのだろうか、二人の遠慮のない内緒話が聞こえてくる。

「…んだよ、まだ毛も生え揃って無さそうな小娘じゃねぇか。本当にあれが?人違いじゃねェのか?」

「馬鹿言うなよ、この“タウン”に、喋る化け猫と声無しの糞餓鬼が他に居るってのか?もうちょい考えてものを言って欲しいね」

「んだと―?」

「間違いねぇ、あの女が“羽狩り”だ」

(…“羽狩り”?)

梔子を見、クロを見る。梔子は悲しそうな、困った様な、でも、何処か嬉しそうな、誇らしそうな顔をして、私の方を見ている。(気のせいだろうか?)テーブルの上に乗せた両手が、ゆっくりと力強い拳を握る。

そして、クロは。

―チン、と爪が皿を打つ音が聞こえる。見ると、クロが空になった皿の上に爪を伸ばした右手を乗せて、私の方を向いている。

牙を剥きだし、にやにやとした笑みを顔に張り付かせて。

(…嫌な予感がする)

「どうやら噂になっているみてえだな、え?」

「噂?噂って、一体、何の―」

クロは笑う。

心底嬉しそうに。

「―そりゃ何って、決まってるじゃねえか。この前の件だよ。この前の、“車屋”の依頼の件。お前は天使を殺した。滅多に出来る事じゃねえ。変異体を殺すのと同じ様にな。お前はそれを両方やってのけたんだ」

「待って、変異体を殺したのは私じゃないし、天使だって、私ひとりの力じゃ、何も―」

「謙遜すんなって。あの変異体を殺るのは小僧ひとりじゃ難しかったし、天使をブッ殺せたのは、お前の策と判断あってのものだ。自信持っていいぜ」

「―いや、自信が無いとかじゃ―」

(嫌な予感がする)

「お前はそれだけの事をした。滅多に出来ねえ事だ。どんなベテランで腕利きのディガーだってな。お前は大した奴だ、カナエ。え?俺は、お前ぁ最初に会った時から、出来る奴だと思ってたんだ」

(…『殺しとくべきだった』、とか言ってたのは、何処の誰でしたっけ?)

「ま、大事なのは、俺達はあの件で、誰一人欠ける事無く生き残った、って事だ。んで、お前はあの件で名前が売れた。あのムカつく羽付き野郎をブッ殺してな」

「はぁ」

(嫌な予感が)

「羽付き野郎を狩ったんだ。喜べよ、カナエ。巷じゃその話題で持ち切りだぜ。ありゃお前の名前だよ、カナエ。“羽狩り”のカナエ、いい響きじゃねぇか、えぇ?」

「まぁ…」

「―あー、そして、俺達はチームだ。な、そういったろ、小娘?俺達は良いチームだって。だったら、お前の手柄は何らかの形でチームの利益に還元されるべき、そうは思わねぇか?」

深い。

―溜息が出る。

(…5m先の看板にも、満足に弾を当てられないのに)

(名前が売れた?“羽狩り”?勘弁してくれ…)

(いつか死ぬかもな。このままじゃいつか、本当に…)

「―カナエ?どうした?」

「余りの嬉しさに頭痛がしただけよ。他の話をしましょう」

「あ―ああ、そうだな―じゃあ、今後のチームの経営方針についてだ。俺ぁ考えたんだが、お前の名前がこんだけ盛大に売れたんだ、それを使わねえ手は無いと思ってな―ま、元手の無い広告ってやつだ。こんなのはどうだ?『どんな怪物が来ても返り討ち!“羽狩り”のカナエが、あなたの積み荷と命を保証します』―!」

「他の話を」

「あ?―ああ、だったら、俺達のチーム、これからチームで仕事をしていくのに、チームに名前が無いと不便だと思ってよ。こういうのはどうだ?『ブラック・ディガーズ』―」

「他の話」


―結局依頼人が来たのは、それから20分も後の事だった。

「あなた達が、私の依頼を受けてくれるディガー?」

背後を振り返る。私と梔子の後ろに、赤毛の女性が立っている。ふんわりと毛先を優しくカールさせた赤毛を、肩の辺りまでたっぷり蓄えた女だ。肌は白く、傷も少ない。温室育ちのお嬢様みたいに見える。それか、室内で出来る仕事を生業にしているか。目はパッチリとした猫目、身形も悪くない。少なくとも、“ハニートラップ”の店主よりかは金を持っていそうに見える。(ファーコート。この世界では、初めて見るかも。てか、毛皮のある生き物なんて居るのかな、ここ)(…あ、猫が居るか)(ロングスカートのドレス。上等な生地に見える。絹だろうか?)(“車屋”に着て来る服としては、間違いも良いとこだ。帰りに追剥に会わなきゃ良いけど)(やっぱり、世間知らず?それとも、ただの成金趣味?)

(…砂漠にハイヒール、か。歩き難くないのかね?)

(キツそうな顔付き。スパ公が好きそうな子だ)

(取り敢えず、報酬を払う能力はありそう―)

「―ああそうだよ、俺達が、あんたがお探しのディガーだ、お譲さん」

テーブルの上でゆっくりと鎌首を持ち上げ、睨めつける様な視線を依頼人に突き刺し、クロは言う。(あ、おい、馬鹿―)口元は微笑みを浮かべてはいるが、目は笑っていない。言葉の端々からは、滴る毒が見える様な気さえする。

「ここであんたを待ってた、もう1時間も前からな、え?何か言う事は?」

「驚いた。ホントに猫が喋るのね」

「………俺が喋れる事と、あんたが言うべき言葉は別だと思うがね。なぁ、今何時か知ってるか?時計は読める?」

「キャサリンよ、宜しく。ケイトって呼んでくれる?で、こっちの無口な少年が、あなたの飼主?ということは、こっちのあなたが“羽狩り”かしら?」

彼女はにこやかに微笑んで、私の前に右手を差し出す。(事務的な笑み)申し訳程度の笑みを浮かべ、私もその手を握り返す。視界の端で、クロの機嫌がどんどん悪化して言ってるのが見える。(…楽しい時間になりそうだ。暫く酒場に来たくなくなるくらい)(頼むよ、クロ。これは仕事だ。こういう手合いには何を言っても無駄だ、あんたが堪えてくれなきゃ―)嫌な予感がする。嫌な予感だけが静かに膨らんでいく、風船が膨らむみたいに。

「座っても?」

「ええ。どうぞ」

「ありがとう。それじゃ、仕事の話を始めましょうか」


「それにしても驚いたわ。ホントに女のディガーなのね、“羽狩り”って。それに思ってたより、ずっと若いわ」

遅れて来た依頼人―ケイトは私に向かってそう言う。ファーコートを脱ぎ、木椅子の背にそれを無造作に掛ける。丸テーブルの一角に着き、机の柱にハイヒールの踵をコツコツとぶつけて、靴の裏に付いた砂を地面に払い落そうとする。私は鼻の頭に皺を寄せて彼女を見る。彼女の様子を不思議に思う。

(…どういう人なんだろう、この人)

(最初はただの金持ちかと思ってたけど。でも、それにしては、何と言えば良いんだろうか―)

(―そう、物に頓着が無さ過ぎる、気が)

(パブの薄汚れた椅子に、あんな風に、ここらじゃ珍しい毛皮のコートを掛けたりするだろうか?普通、ハンガーを探したりしないか?それに、この砂塗れの酒場の床の上を、ドレスの裾を引き摺って歩いて、この人は平気そうな顔をしている)

「…それはどうも。女性のディガーは珍しいですか?」

(靴の裏の砂を落とす動き)(上手く言えないが、ちょっと貧乏臭い気がする)(でも、物に頓着が無い、ってのは、位置付けるんだったら、それとは逆の気質な訳で)(ちょっと自分でも訳が分かんなくなってきた)(あんな、コートやドレスは消耗品みたいに粗雑に扱って、靴だけを丁寧に扱う理由が―)(コートは借り物?靴は自前?)(何の為に?どう見ても、靴よりコートやドレスの方が高く付きそうだ)

(自分の資産を偽装する為?)

「ええ。珍しいわね。凄く珍しいわ」

「どれくらい?」

(―金持ちに見せる為。支払い能力の有無を誤魔化す為。それとも、単純に見栄?)

(馬鹿。このひとは船長の紹介だぞ?)

「そうね、あなた以外に見た事無いくらい」

「…そうですか。そりゃ、確かに珍しい―」

―ダン、と突然、クロが机を思い切り叩く。

何度も何度も。ケイトがクロの方に目を向けるまで。

「…あー、お譲さん、もしもし、聞こえるか?聞こえてたら片手を上げてくれ、どっちの手だっていいぞ、ああ勿論両手を上げてくれたって構わない。聞こえてるんだったら、とっとと仕事の話を始めよう。お嬢さんもさっきそう言ったよな?俺達ぁもうここで1時間も待った。その小娘はちょっぴり遅刻してきたから、40分と少しって所だがな。俺ァもう後1秒だってお前さんに時間を喰われるのはご免だ。それで、参考までに聞かせてくれねぇか、なぁそのクソッタレなお喋りはあとどのくらいの間続くんだ、え?」

(あ)

ケイトを取り巻く空気が、即座に変化する。表情が大きく変わった訳ではない、眉が少し持ち上がった程度だ。社交的な笑み。相手の目を見て、僅かに身を乗り出す。相手に興味があると示す、最低限の態度。

ただ、空気が。

(不味い。これは、どうしたもんかな―)

クロの方も口元に微かな笑みを浮かべてはいるが、口元がかなり引き攣っている。金色の目をケイトのアーモンド形の目に突き立てる様に向けている。彼らの間の空気が膨れ上がった様に感じる。(…一触即発、って感じだな。爆発まで秒読みと言うか…)(…火薬の臭いすら嗅ぎ取れる気がする)

「クロ」

「―煩い猫ね。躾がなっちゃいないみたい。ボク、この駄目猫を外に出して来てくれる?」

「んだと―?」

「ちょっと、クロ」

「化け猫に依頼を頼みに来た積りは無いわ。船長の紹介だったから、お情けでここに来てあげただけ。それだけでも、跪いて感謝して欲しいわね。もう消えてくれて結構よ。私は“羽狩り”に頼むから」

「…こいつは俺のチームの一員だ。そして、俺がこのチームのリーダーだ。依頼を受けて欲しけりゃ、俺様と話をするんだな。あー、言葉は分かるか?それとも、金に脳味噌まで吸われちまったか?」

「クロ、」

「分かるに決まってるじゃない、さっきから会話してるでしょう?会話してる事も分からないの?脳味噌がちっちゃいからかしらね。これだから猫は。今直ぐここを出て、外ででも追いかけてきたら?あなたにはその方がお似合いよ」

「もっぺん言ってみやがれ、テメエコラ―!」

…私は彼らの仲裁を諦め、溜息と共に、深く椅子に沈み込む。梔子を見る。梔子はおろおろと、1人と1匹の間で視線を往復させている。私は苦笑を浮かべてそれを眺める。途中、あの雀斑の子が私の所に、中ジョッキに入った水を持ってきてくれる。私は礼を言ってそれを受け取る。(…これ、幾らくらいだろうか)(お冷は無料、って事は無いよなぁ…)(ここは砂漠だぜ?水がタダって、どんな砂漠だよ)雨音の様に、彼らの言い争う音が耳の中で響く。過ぎ去るのを待つしかない、と思う。

「―対等な口利かないでくれる?私は依頼人、あんたは雇われ。人の不幸にたかって飯を喰う、卑しいディガーの癖して―」

「―なぁ、おい、聞いたか、小僧、小娘!え、こいつ、とうとう本性を現しやがったぞ!俺達の事、卑しいディガーだとよ―!」

「…はいはい、聞いてるわよ。で、そのクソッタレなお喋りは、後どのくらい続くの?」


「―ここから2km程離れた場所に、ひとつ建物があるわ」

言葉の端々に未だ怒りを燻らせながらも、渋々といった調子でケイトは話し始める。

「あなたたちには、そこからあるものを持ち帰って来て欲しいの」

「あるもの?へぇ、あるもの、あるものと来たかい」

「クロ、」

「そいつはホントに実在するんだろうな、え、お譲さん?確かか?写真ある?俺ぁ蜃気楼を追い掛ける羽目になるのは御免だぜ」

「―クロ、止めて」

クロを言葉で制しながら、私はケイトの方へ目を向ける。彼女の笑顔の仮面はとうの昔に崩壊している。唇はへの字に結び、毛は逆立たんばかり。目は突き刺す事が出来そうな位鋭く細められ、テーブルの上を徘徊するクロへ向けられている。

(馬鹿)

私は溜息を吐く。彼女はクロを無視して話を続ける。

「…報酬は4000。成功報酬よ」

「一人4000?」

「んな訳ないでしょ、馬鹿猫。全員で4000よ」

「―ふぅん、2km先の建物で、探しものねぇ。経費は別?」

「込みよ。込みで4000。一応言っとくけど、値段の交渉はしないわ。良い?」

(ふむ)

私は顎を撫でる。頭の中で、算盤を弾く。(…算盤なんて、小学校以来、触ってないけど)前回の報酬が5830だ、一人1300と少し、悪く無い額に思える。(…経費は込みだけど)前よりも距離は近い。2kmの距離にある建物。2kmだったら、“シェルター”とそう変わらないくらいだ。(そう聞くと、かなり安全な様に思える)あとは、探しものの内容だろうか。(クロと梔子は前に、その手の依頼で痛い目に会ってるから…)実在のものか。本人が見た事あるものかどうか。出来れば、写真も。(―それを見て判断、って感じかな。あと、2人と1匹で持ち帰れるサイズかどうか。これも大事な部分だ)

「そうだな―」

私はケイトを見る。それからクロを。

クロは笑っている。

「―丁重にお断りするぜ、お譲さん」

クロを見る。視線をケイトへ移す。ケイトの目がゆっくりと開かれ、再び静かに細められていくのを見る。彼女は一度だけ私を見る。直ぐにその目をクロの方へ戻す。

「どうして?」

「理由は単純さ、お譲さん」

「私の事が気に入らないから?」

「あー、それもあるな。確かにそれもある。それも大いにあるが、勿論理由はそれだけじゃねぇさ」

「報酬かしら?報酬が足りないの?」

「違うね」

クロは笑う。

金色の目を、冷たく光らせて。

「『良いディガーは、時間を守るもんだ』」

「?」

「ディガーの心得さ。良いディガーは時間を守る。時間と、約束をな」

「…私はディガーじゃないわ」

「知ってるよ。見りゃわかる。そんな白い肌で、砂漠に繰り出すのはこのアホくらいのもんさ。(と、クロは私の方を見ずに、尻尾を振る)が、あんたは約束を破った。自分で決めた約束の時間をな」

「だから、依頼を受けないって言う気?随分気侭なのね、ディガーって職業は―」

「…それも違うな。言ったろ?理由は単純だって。いいか?この仕事には信頼が大事だ。互いの信頼関係って奴がな。契約ってのは信頼関係の元に成り立っている。分かるか?金が払われるって信頼がなきゃ、命を賭ける馬鹿は居ねぇだろ?」

「…」

「が、あんたは約束を破った。テメエで決めた約束の時間をな。つまり、信頼を損なった訳だ」

「だからって―」

「―と、なると、途端に他の部分も怪しく見えて来る。それが人情ってやつだ。なぁ、そう思わねえか?痛んだ信頼関係じゃ、色んな事が不安になって来るもんだ。ホントにこいつぁ金を払ってくれるのか、金に見合わねぇ無理な働きを要求されやしないか、はたまた依頼の品を手にしてあんたの前に現れた時に、そんな依頼をした覚えは無いとあんたが言い出すんじゃないかとな―」

「…依頼の半額を先払いにするわ。それで―」

―丸テーブルの上を、クロが歩く。

依頼人、ケイトへと向かって。一歩一歩、優美とも言える足取りで。クロは笑っている。静かで、悲しげで、何処か酷薄な笑みだ。

「どっちの方角に、2km離れてるんだ?」

「………なんですって?」

「言ったろ?痛んだ信頼関係じゃ、色んな事が不安になって来るんだ。俺を安心させてくれよ。俺ぁ二人の…あー、二人の、大事な部下の命を預かってんだ。もう二度と失敗はしたくねぇ」

(―クロ)

「あんたは約束を破った。信頼を損なった訳だ。信頼ほど簡単に得難く、失い易いものぁ無ぇ。あんたもそう思わねえか?で、だ。俺にはあんたが、」

「………私は、」

ケイトを見る。ケイトの顔を。ケイトの顔は歪んでいる。苦痛と、不安に。彼女の額に薄らと汗が浮かぶ。彼女は助けを求める様に私を見る。私はテーブルの上に頬杖を突いて、クロと彼女の会話の様子を見守る事にする。

「教えてくれよ。あんたの言ってた建物、どっちの方角に2km離れてんだ?」

―彼女は歯を食い縛り、溺れる人間の様な苦悶の表情を浮かべる。私はそれを眺める。彼女の目の前にリラックスした様子で座って、楽しそうな響きすら感じさせる調子で、クロは依頼人に、言葉を投げ掛け続ける。

「―あんたの依頼の報酬、ただの探し物にしちゃ随分額が多いな。たった2km離れた所から、あんたのを見つけて来るだけで、4000だって?物の値段が分からねえ訳じゃねぇだろ、お譲さん?130ありゃ、1週間じゃ飲み干せねえくらいの水が買える。250もありゃ、新品のバイクだってあんたのもんだ。それが4000も出して、あんた一体、何が欲しいんだ?」

「何が言いたいのか―」

「俺達で何人目だ?」

―彼女の表情が固まる。

まるでその瞬間、誰かが彼女の周囲ごと、シャッターで切り取ってしまったかのように。

「…何が言いたいの?」

震える声で、彼女は言う。何事も無かったかの様に、クロは話を続ける。彼女の目の前に寝そべって、耳の後ろを掻きながら。

「俺達が初めてじゃねぇんだろ、え?あんたが依頼を持ち掛けるのはよ。俺達は何人目だ?あんたがどうやって船長と知り合ったか知らねえがよ、多分俺達の方が付き合いは上だと思うぜ。船長が俺達に持ってくる仕事はよ、どれも大抵がだ」

「…」

「まぁ、たまにゃあ例外も居るがよ。世間知らずの坊ちゃんが、船長の名前や噂に惹かれて、下らねえ依頼を持ってくるって事もある。けれども大抵が、依頼人がお尋ねもんだったり、嘘を吐いてたり、報酬が少なすぎたりだ。あぁ、それから他のディガー共に、軒並み門前払いを喰らってる、って場合もあるわな。依頼の内容に問題がある場合だ。誰も依頼を受けちゃくんねぇ。誰だって、リスクとリターンの帳尻を合わせたいからな。報酬に見合わないリスクは冒せねぇ。分かり易い世界だろ、お譲さん?」

テーブルの上に、ケイトの汗が零れる。クロはごろりと寝返りを打ってそれを避ける。

「船長ぁ俺達に、仕事を紹介してくれる。俺達はそれを更に篩に掛けて、そこから自分に見合った仕事を選ぶ、って訳だ。自分達に見合ったリスクの仕事をな」

―クロは胴体を捩子って体を起こし、皮肉っぽく口の端を持ち上げ、彼女の方へ視線を戻す。

「ガッカリしたか、お譲さん?」

「…」

「世の中ってなぁそんなもんだ。ガッカリする事で溢れてる。確かに船長はその筋じゃあ伝説的な人だ。でも、だからって、船長に言やぁ、なんでもかんでも解決すると思っていたかい?船長が魔法のタクトを振って、お前の問題を、全て平らげてくれる魔人を呼んでくれるとでも?残念ながら、答えはノーだ」

「煩ぇ」

「建物はどっちの方角に2km離れてる?お前さんの探しもんの正体は?」

「私は―………!」

彼女が歯を食い縛る。赤色の毛がゆらゆらと揺れる。彼女の目が怒りで染まっていくのを、私は見る。

―息を呑む。

「…西よ」

と。

次の瞬間、彼女は言う。

観念した様に。

「成程ね。西。“神の柱”がある方角だな。さて、それじゃもうひとつだ。あんたの探しもんは?」

「弟よ」

彼女は椅子の上で項垂れ、弱々しくそう呟く。さっきまでの尊大な態度は何処にも見当たらない。

「…三週間前、急に姿が見えなくなって。でも、10日前くらいに、その場所で見たって人が現れたの」

「嘘だな。あんたから金を騙し取ろうとしてんのさ」

「嘘じゃないわ。見たっていうのは、一人だけじゃない。何人も何人も、あの辺りを通る商隊が目撃しているの。何人も何人も、建物の窓辺に、弟の姿を―」

「―だったら、新手の詐欺グループか、集団幻覚だな。それか、クスリをヤってラリってたか。西を通る奴らん中じゃ、ヤってる奴はそんなに珍しく無ぇ。因みに、その弟ってのは何歳だ?」

「…11よ」

「決まりだな。そいつは幻だ、お譲さん。忘れなよ、悪い事ぁ言わねぇから―」

「―違う!幻なんかじゃない、特徴だって一致してる―!」

「…それで?なぁ、お譲さん、考えてみなよ。11?たった11の餓鬼が、この砂漠の中を、“タウン”の外で三週間も生きていけると思うかい?それも、“神の柱”の傍で?」

クロは言う。

もう笑ってはいない。

「幻だ。誰にとってもその方がいいのさ、あんたにとっても、他の皆にとってもな。そいつに会いに行こうと思うなよ。そいつは悪い幻だ」

「…依頼を受けてくれないの?私は、船長の―」

「悪いが、幾ら船長の頼みでも、俺ぁ命を賭けるのは御免だね。俺が賭けるのは金だけさ。死ぬのは御免だ。命は一つしか無ぇからな。皆そうだろ?それに、これは船長の教えでもある」

「―何―」

「『良いディガーは、時間を守るもんだ』。船長が俺達に言ったのさ。時間は約束、約束は信頼だ、ってな。『信頼を欠く取引は行うべきじゃない』。船長が教えてくれた、ここで生き残る道だ。俺達はお断りだ。他の奴に頼むんだね」

―ケイトが顔を上げて、私を見る。項垂れた首を持ち上げて。目は飛び出さんばかりに真ん丸に見開かれ、口は言葉を探す様に中途半端に開かれている。私は何も言う事が出来ずにいる。

「…おら、帰るぞ、小僧、小娘。とんだ時間の無駄だった」

クロに促されて、梔子が席を立つ。クロを肩に乗せて。彼らは振り返らずに酒場の出口に向かって歩いていく。私は水の入ったビールジョッキを見る。未だ一口分も減っていない事に気付く。

―ジョッキの向こう側から、彼女が私を見ている。

「“羽狩り”…」

(諦めて。あんたの弟さんは、とっくに変異している)

口を噤む。クロがどれだけやんわりと、彼女の依頼を断ったかという事に気付く。クロ達の後を追って席を立つ。彼女の縋る様な視線を振り切って、丸テーブルに背を向ける。

「待って、」

「御免なさい。リーダーの決定なの。それに、私も彼の言う通りだと思うわ」

「たった一人の家族なの」

「悪い幻よ」

酒場の出口に向かう。途中、背後で思い切り、ジョッキの砕ける音がする。







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