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後篇 顔のない女

 心が定まった秋津の行動は迅速だった。パチンコ店の裏手の壁は出入り口用としてのトリップゲートが設置されていたが、長らく放置されて錆つき、入口を覆い尽くす雑草は秋津の背丈を越していた。雑草の陰に隠れて民家の住人が出ていくのを確認した秋津は、パチンコ店の事務所で使用していたらしい事務机を足場になんの迷いもなく塀をよじ登った。一階部分の屋根を伝い、パチンコ店に向かい合わせた窓に手をかける。

 開いた。

 第一関門はいささかあっさりと突破した。いくら家人が不在でも、道を隔てて隣家が並んでいる。隣近所の家の数だけ、耳目もまたある。

 躊躇する暇はない。秋津はおよそ身軽に窓枠を跨ぎ越した。部屋に侵入すると、身を屈めたまま耳に神経を注ぐ。他に人の気配はない。

 ジーンズの尻ポケットから靴下を取り出し、靴の上から靴下を履いた。こうすれば靴跡が残らない。こんな知識をどこで得ていたのか、当の秋津ですら困惑に小首を傾げたほどだったが、それほどまでに追い詰められている己を自覚した。

 侵入した部屋は嫁入り道具らしい大きな箪笥が三棹連なっていた。そして道路に面した窓に向って書斎机が鎮座していた。本棚に並ぶ百科事典の一式から察するに、子供の独り立ちを機に、衣装部屋兼、書斎にしたといったところか。

 部屋を後にした秋津は、廊下の奥にあるドアを開けた。ビンゴ。夫婦の寝室だ。化粧鏡の引き出しから書棚、ベッドマットの裏をひっぺ返しても金目のものはなかった。

 ヘソクリを隠す定番はどこだ。絨毯の裏か、それとも仏壇の奥に箪笥……秋津は最初に侵入した部屋にとって返した。

 ためしに着物箪笥の一番上を開いた。奇麗に重なる着物の一番底に手を突っ込んだ。なにかが手に触れた。取り出してみれば茶封筒だった。

 秋津は中身を検めることなくジーンズのポケットに突っ込もうとして、その手が激しく震えていることに驚いた。

 我に返った途端、消え失せていた雑音が唐突に耳朶を打った。閑静な住宅街であったとしても、それなりの生活音はあり、すぐ傍にある国道から響く車の走行音も、思いの外近くにあった。

 盗みに集中するあまり、いや、違う。恐慌を来たした神経が、知覚を麻痺させていたのだ。罪を犯すとは、つい最近まで秋津が身を浸してきた日常の終極に位置する。

 秋津は場違いに笑うと、もう片方の手で震える手を押さえ、しわだらけになった茶封筒をなんとかポケットにねじ込んだ。

「早くここを出よう」

 秋津はあえて声を出すことで、冷静であろうとした。窓越しに外を窺い、速やかに元来た道を逆に辿った。

 急いで車に飛び乗った秋津は焦って鍵を足元に落とし、鋭い舌打ちをしながら急発進させた。通りのどちらに向かっているかは分からない。猛然と通り過ぎていく景色は、秋津の手垢や呼気の残った民家をも同時に後ろへと押しやった。深い安堵の溜め息の間を縫って競り上がる高揚感に震え、知らずこみ上げてきた笑いに堪えるのも一苦労だった。アユの無言の抗議はあえて意識の外に置いた。

 道中で目に入ったコンビニで当面の食料と、生活雑貨を買い込んだ秋津はしばらく味わうことのなかった満腹感に浸っていた。

 アユの前には買ったばかりの菓子パンとペットボトルが封を切られることなく置かれたまま、金がないと頭を抱えていたはずの秋津が、翌日には金の詰まった財布を手にしている不可解さにも、アユは咎めるどころか、なにも語らなかった。


 その日から生活は一転した、はずだった。

 まとまった金を得た今、自分たちを脅かすものはなにもないと思っていた秋津の心に新たな不安が押し寄せていた。金を失うことが怖かった。日一日と目減りしていくのかと想像するだけで気が狂れそうだった。

 方法がある、一つだけ。

 一度手に入れたものを取りこぼさない方法、それは手の平の中を常に満たしてやればいい。

 面輪を上げた秋津の両目は凄絶な光を宿していた。

 逃げた先々で空き巣を繰り返す秋津は、結果として盗みの手腕が洗練されていった。そもそもの発端は、逃走資金を得るための苦渋の決断だったはずが、金を手にする度に新たに作った罪からも逃げる不毛に陥っていた。そこにいつしか加わった盗みの愉悦が、本来の目的を見失わせていた。

「まだ続けるの?」

 諦観と沈黙に沈んでいたアユが重い口を開いたが、次に忍び込む民家を物色していた秋津は聞こえない振りをした。

「いつまで続けるの?」

「余計な口を挟むな!」

 逃げるために、これは必要悪だと言い聞かせるしか術はなかった。

 車から飛び出した秋津は、目を付けていた民家を目指した。

 盛暑に任せて枝葉を縦横に伸ばした植樹は公園の一角に影を落としていた。昼なお薄暗く、鬱蒼とした木々に阻まれたような民家に難なく侵入した秋津は、我ながら手慣れたものだと自讃した。予想される場所を一通り探り、金を手に入れた。

 ちょろいもんだ。早々に仕事を終えた秋津は、余裕からか慢心からか、人様のリビングのソファに傾いでいた。

 秋津が世間一般的な生活を営むことは、恐らくはないだろう、永遠に。だが今の生活も悪くはなかった。何者にも縛られることなく、アユと一緒に気ままに暮らしていける、それこそが秋津の望む人生ではないか。

 まるで悠然と身を起こした秋津が、リビングから臨む玄関を振り返った。いっそのこと、堂々と玄関から出てやろう。こそこそと人目を憚るから、かえって注意を引いてしまうのだ。

 鼻歌交じりの秋津が一歩を踏み出したその時、ガラス入りの玄関ドアに人影が差した。

 それがなにを意味するのか、理解しようにも思考は止まり、心臓が跳ねた。どうどうと乱脈する鼓動は破滅の足音か。

「まだ続けるの? いつまで続けるの?」

 冷汗に塗れた秋津は喘鳴を縫って呟いていた。まるでその言葉が冷静をもたらす呪いであるかのように、何度も何度も繰り返した。

 木偶と化した秋津はリビングに鎮座するテレビの暗い画面を見つめた。そこには呆然と立ち尽くす秋津の姿しか映し出されてはおらず、望むままに与えられていた笑顔はなかった。

 いったい誰が、どんな顔をして静かなる諫言を与えてくれたのだろうか。まるで思い出せなかった。


(――続報です。

 昨日、窃盗容疑で逮捕された秋津雅臣容疑者が所有する車を詳しく調べたところ、助手席に置かれていたクーラーボックス内から白骨遺体が発見されました。

 検視の結果、女性の人骨と確認されましたが損傷が著しく原型を留めていないことから、年齢や死因については不明とのことです。

 なお、男は調べに対し、容疑を否認。県警は遺体の身元の確認を急ぐと共に、秋津容疑者を死体遺棄の容疑で再逮捕する方針です。

  さて、続いては県内のお天気情報です……)


 了

 

蛇足ですが、秋津と終始共にしていたアユは「阿諛あゆ」からとっています。

人の機嫌を見て阿る意として、秋津の心に則しながらも、一種の良心としての名としました。


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