前篇 逃げる男
ちょっと字数が多くなったので前後篇にしました。
金が底をついていた。とにかく金が必要だった。ガソリンを入れるにしろ、空腹を満たすおにぎり一つにしろ、金は要るのだ。財布の中身を確認すれば、172円。ポケットをまさぐっても、逆立ちしたところでこれ以上の金は望めなかった。
口座には幾ばくかの預金が残されてはいたが、今は人の目から極力遠ざかる必要があった。が、この二日の間にまともに口にしたものといえば、スーパーのフードコーナーにある冷水と、店内を歩いていて偶然にも差し出された試食品だけだった。
限界か?
自分で見切りをつけるのは容易い。一先ず冷静になってみるべきだ。
トイレの個室の便座に蓋をし、簡易の椅子としていた秋津雅臣は、長大息と共にトイレを後にした。両手を念入りに洗い、一面ガラスに映る己の姿を検めた。伸びていた鬚は丁寧にあたったので少なくとも怪しさは半減したが、寝不足からくる眦に潜む剣だけは拭えない。何日も前から着ているシャツに至っては、洗濯が必要だった。適当に車を流して目に入った公園で水洗いでもするか。
などと詮無いことに思考を費やしながら、車に戻った秋津はイグニッションキーに鍵を挿し、エンジンを始動した。
「すっきりしたね」
ルームミラーの位置を調整する振りをしながら、鏡越しの自分を検分していた秋津は口元を弛めた。
明日の身の置き場も定かではない秋津の、唯一の帯同者であるアユだった。
「久しぶりに鏡見てギョッとしたよ。さすがに人相が怪しすぎる」
短い会話はそこで途切れ、秋津は運転に専念することにした。
たとえば旅行中であったなら車窓を流れる国道のただの風景も、勝景として望めただろうか。景色を愛でる余裕すらなく、ただひたすらに先へと続く道を進むしかないのだった。
秋津はガソリンの残量を確かめた。現実を直視するのは苦痛を伴うばかりか、先行きをも暗示しているようだった。
ちらりと首をもたげた不安に戦きを隠せない秋津は、無意識のうちにアユに助けを求めようとする弱気を叱咤した。この生活を始めて、どれほどの歳月が過ぎていったのだろうか。住み慣れた地元から逃れ、人とのつながりも捨てて、ただ流れにまかせてこんなところまで来てしまった。
今になって後悔しているのではない。なんとかしなければと焦りだけが、底のない洞に積み重なっていく。だがどうやって? この生活を脱するとは、アユとの別れも意味する。何度となく自問しては出口のない袋小路に突き当たる。煩悶と悩乱を繰り返し、そして棚上げする。
アユを見るまでもなく、静かに笑みを湛えているはずだ。その笑顔を感じるだけでも、秋津には救いだった。出かかった不安を飲み込んだ秋津は、いっそのこと話の内容を変えた。
「スーパーの入り口にポスターが貼ってあったんだけど、明日の八時から他県と合同で花火大会があるって。きっと盛大な花火だ」
明日になればこの地は離れているだろう。留まれないことを互いに知りながらも、夢想するのは楽しかった。
奇麗だろうね……。
秋津は首肯した。一時の現実逃避と知りつつ、たとえば二人が着の身着のままで地方を転々とすることを余儀なくされていようとも至福に満たされる瞬間だった。
「金がないんだ」
艱難に満ちた秋津の掠れた声音は「銀行のカードがあるじゃない」と、ことさら陽気な一言に飲み込まれた。
座席に深く沈んだ秋津は額に浮かぶ汗を拭い、ありがとうと言った。
アユの申し出は正直有難い。確かにアユのカードは秋津が預かっている。何度となく切り出そうとして、そして何度となく思い留まった。踏み切れない理由はある。秋津と共にするアユも逃亡者であることには変わりなく、カードを使用するとは二人の居場所を不用意に教える愚行に他ならないからだ。
「大丈夫、なの?」
アユの不安ももっともだが、それは秋津とて同じだった。
捕まるかもしれない。捕まってはお終いだ、なにもかも。だから逃げるんだ。逃げるためには金が要る。
「とにかく、なんとかするから」
金もなく、当て所もない先へ逃れようにもガソリンが尽きようとしていた。エンプティーランプが点灯するや、秋津は度がし難い焦燥感に襲われた。
そんな時は決まってアユが秋津の名を呼び、ほらと指標を与えてくれる。
今まさに通り過ぎようとしたのは、閉店して久しいパチンコ店だった。ウインカーも減ったくれもなくハンドルを左に切ると、店舗の奥に車を停めた。すぐ隣は民家が立ち並んでいたが、店の敷地は三メートルほどのコンクリート塀に囲まれていた。通りからは明かりの落ちたパチンコ店が秋津の車を遮っているので、一先ずは不審に見咎められることもないだろう。
喉が渇いて目を覚ました。季節は梅雨も明け切らない初夏であったが、夜であっても車内は随分と蒸した。窓を開けるに越したことはなかったが、無防備に寝ようものなら、明くる日体中に虫刺されの跡をつくる羽目になる。
ペットボトルの生温い水を口に含み、できるだけ音を立てないよう助手席を窺った。アユは静かなものだった。車のシートで毎日寝るのはいかにも窮屈だが、アユは不平もなく、実に辛抱強く付き合ってくれている。
秋津は慎重にドアを開けると冷涼な風が汗ばむ体を通り抜け、心に蟠っていた澱を少しだけ軽くしてくれた。長時間狭いシートに押し付けられていた四肢は否応なく強張っていた。秋津はゆっくりと体を解しながらも、予断なく辺りに目を向けていた。
東の空は仄かに明るかった。天上を見上げれば群青の敷布にばら撒かれた星が瞬いている。秋津も平時であれば自然に心を震わせることもある、ごく普通の感覚を持ち合わせていたはずだが、今となってはそれも無意味な感情でしかなかった。単に一日が終わり、旭光に照らし出されるままに逃げるだけの一日が始まるだけだった。
どこからかバイクのエンジン音が響いてきた。時間的にも朝刊の配達か。バイクのエンジン音が徐々に近づいてくると、秋津は思わず息を潜め塀を見上げた。朝刊を載せたバイクは配達ルートを逸脱することなく通り過ぎて行った。
強固な防壁かと見紛うコンクリート塀に隔てられているにも拘らず、安堵に胸を撫で下ろした秋津の脳裏に突如として閃くものがあった。
高い塀の向こうに見え隠れする民家に目を凝らした秋津の思考が猛烈に回転を始めた。冬場ならまだしも、この時期ならば窓を開けている可能性は高い。家人が留守にする場合は戸締りはしっかり確認するはずだが、注意のほとんどは一階部分に向けられる。二階にある窓のどれか一つでも、閉め忘れたことすら忘れているのではないか。この塀を伝えばあるいは……。
忽焉と湧き起こった考えは、ある意味で秋津に変化をもたらした。
車に戻った秋津は後部座席に置いてあるバックパックから軍手と洗い替えの靴下を取り出した。手持ちは他になかったが、ないよりはましだ。気休めでも構わない。
ガス欠寸前の車を抱え、まさに立ち往生を余儀なくされている今を打破するためならば、なんだってしてやる。