怪物と物好きな英雄
「あなたを探していた」
青年は彼女の手を握り、熱のこもった声でそう告げた。
青白い肌。蛇の鱗のようにひんやりと冷たく、少しざらついた手。
間違いない。
怪我をした自分を介抱してくれたのは、彼女だ。
「ち、違うわ! 人違いよ!」
青年の手を振り払い、彼女は森へと駆け出した。
彼女の頭でうねる蛇たち。
「あっ……」
彼女は木の根に足を取られて転んだ。
「大丈夫か! 怪我は!?」
青年はすぐさま駆け寄り、片膝をついた。
黒い布で視界を奪われていては、転ぶのも無理はない。
起き上がろうとする彼女の身体を支える。
「だ、大丈――」
言いかけて、彼女は青年を突き飛ばした。
「私に構わないで!」
彼女は立ち上がり、長い裾をたくし上げながら森へと消えていった。
彼女の名前は――メドゥーサ。
かつては美しさの化身と呼ばれるほど、美しい女神だった。
ひと目見た瞬間、男たちは彼女の虜になる。
その美貌ゆえに女神たちの嫉妬を買い、男をたぶらかしたことで神殿を穢したと咎められ、醜い姿に変えられたという。
「あのメドゥーサ様が男をたぶらかしたなんて、あるわけがねぇ。お前さんも会ったならわかるだろう。あの方はとても初心なんだよ」
メドゥーサの森の近くに住む村人は、そう言った。
確かに、自分が彼女の手を掴んだとき、慌てて振りほどかれた。転んだときも、突き飛ばされた。
あれはすべて照れ隠しだったのか。
「それにメドゥーサ様は人見知りなのさ。だから、あたしらは不用意に近寄らないことにしてる」
恰幅のいい女が、温かいスープを出してくれた。
「彼女は好かれているのだな」
木の器に両手を添え、青年は呟いた。
「ああ。メドゥーサ様の薬のおかげで、おらも村の奴らもこうやって元気に過ごせてる」
「そうか」
「それで、あんたはメドゥーサ様とはどういった仲なんだい?」
青年は口に運びかけた木の匙を止めた。
「数年前の遠征の帰り……仲間とはぐれ、あの森に迷い込んだときがあった。そこで傷を負って、そう……私は彼女に救われたんだ」
傷は深く、このまま死ぬと思った。
なんとか戦いから生き延びてこられたのに、こんなところで死ぬなんて、なんという皮肉だろう。
これならば、戦いの場で朽ち果てたほうがよかった。
薄れゆく視界は、やがて闇に塗り替えられた。
覚えているのは、熱に浮かされた自分の額に触れた、冷たくざらついた感触。そして、その奥に感じたわずかな温かみだった。
青年は己の手のひらを見つめた。
――そうだ。
やはり、間違いなく彼女の手だ。
「彼女に感謝を伝えたかったのだが、行き過ぎたようだ」
事情を話すと、村人は笑った。
「メドゥーサ様らしい。まぁ、心配するな。気を悪くしたわけじゃない」
「そうだといいのだが……」
青年は窓越しに、メドゥーサの森を静かに見つめた。
そのまま村人の家に泊まった青年は、外の騒がしさに目を覚ました。
「メドゥーサ様を退治するだと!?」
「メドゥーサ様は何も悪いことなんかしてねぇ!」
「何も知らねぇくせに、帰れ!」
扉に手をかけたところで、女に止められた。
「……裏口から出な。メドゥーサ様を頼むよ」
耳打ちされ、青年は強く頷いた。そのまま足音を忍ばせ、裏口から外へ出た。
湖の畔。
メドゥーサは両足を水に浸し、湖面を揺らしていた。
ぴたりと、脚が止まる。
「また……誰かが私を殺しにきたのね」
かすかに金属の擦れ合う音が聞こえる。
村の方角だ。
武装した兵たちが、やってきたのだ。
「これ以上……村の人たちを巻き込むわけにはいかないわ……」
されど、自分のような化物が行く場所など、もうどこにもない。
何度も、何度も、住処を変えた。
それでも、誰かが自分を殺しにやってくる。
ただ、静かな平穏を望んでいるだけなのに。
それを、許してはくれない。
「疲れた……」
おもむろに、メドゥーサは目隠しの布を取り去り、湖面へと落とした。
見た者を石に変えてしまう、呪いの目。
安寧を手に入れる方法を、メドゥーサはとうに知っていた。
その手段を取る勇気がなかっただけ。
ゆっくりと湖面へ顔を近づける。
波紋は落ち着き、今まさに自分の醜い姿をはっきりと映そうとしていた。
「これで、終われる……」
「やめろ!」
青年はメドゥーサを押し倒す勢いで、地面へ突き飛ばした。
メドゥーサは地面に倒れながらも、慌てて袖で顔を覆う。
「あ、あなた、正気!? 石にされたいの!」
精いっぱい叫んだ。
「それは困る!」
青年はすぐさま返す。
「だ、だったら、なんで……」
目隠しを取った自分に近づくなんて。
「あなたと駆け落ちするために、私はここへ来たんだ」
「か、駆け落ち……?」
「ああ。だから石にされたら困る」
「あなた、おかしいわ」
「よく言われる」
メドゥーサは言葉に詰まった。
「……こんな化け物と駆け落ちですって?」
「物好きなど、この世にごまんといるもんだ」
「……ぷっ」
メドゥーサは思わず吹き出した。
「あなた、変わってるわ」
「なら、お互い様といったところだろう」
青年も笑った。
「だから私たちは気が合うと思う」
青年はそう言って、ハンカチを取り出した。
「私と駆け落ちしてくれないか?」
片膝をつき、ハンカチを差し出す。
しばし迷った末、メドゥーサは目を閉じたまま、静かに受け取った。
森から立ち去るとき、青年はずっと忍ばせていた鏡を湖面へと投げ込んだ。
鏡はゆらゆらと湖面の底へと沈んでいった。




