第55話 皇太子、農家やろうぜ
翌朝、作業場の空気はひんやりと澄んでいた。 机の上には白紙が一枚。
ガイウスは筆を握ったまま、数分間、動かなかった。
相手は魔族の皇太子カインだ。
本来なら、国家間の儀礼に則った装飾過剰な文体が必要な相手である。
だが、今更カインにそんな借り物の言葉を並べても、却って不自然な壁を作るだけだろう。
「……筆が進んでいないようだな」
扉から差し込んだ朝光を背負って、ヴェルダが立っていた。
藍色の衣を揺らし、少女の姿で机を覗き込む。
彼女の瞳には、ガイウスの沈黙を楽しんでいるような悪戯っぽい光が宿っていた。
ヴェルダはガイウスの隣に腰を下ろすと、白紙の上に細い指を滑らせる。
ヴェルダは「きっと作法など求めていない」と、断言した。
あの皇太子は、ガイウスが「農家」であるからこそ言葉を交わしている。
今更、余所行きの顔をする必要などないのだと。
その言葉に背中を押され、ガイウスは一気に筆を走らせた。
『カイン殿。 北の跡地を共同で開拓しませんか。 跡地には広い平地があり、土の質も悪くありません。地脈を修復しながら耕せば、三年から五年で実りある土地へと変わるはずです。 これは、魔族の食糧問題の解決、そして何より――魔族の子達が、来年も同じ場所で笑っていられるための場所になればと考えています。 検討をお願いします。 ――ガイウス・ノア(農家)』
添えられた(農家)の一言に、ヴェルダがくすりと笑った。
皇太子への親書に、自らの職業をわざわざ添える傲慢なまでの謙虚さ。
それがガイウス・ノアという男の「芯」であることを、彼女は理解していた。
三日後。昼下がりの陽光を遮るように、レオが息を切らして戻ってきた。
その手に握られた封筒は、一目で普通ではないとわかった。
重厚な紙質、そして三箇所に施された鮮烈な赤の封蝋。
そのうちの一つが、急いで押されたのか、わずかに歪んでいた。
冷静沈着な魔族の皇太子が、どれほどの動揺と熱量を持ってこの手紙を綴ったかが、その歪みに現れていた。
作業場で封を切ると、作業を止めたリナとヴェルダが左右から顔を寄せた。
手紙の筆致は鋭く、それでいて深い敬意に満ちていた。
カインは「本気か」と自問しながらも、ガイウスが冗談を言う男ではないことを確信していた。
魔族の子供の未来について触れた一節では、インクの跡がわずかに滲み、彼の心の揺れを物語っている。
彼は「行く、手伝う」と明記していた。
皇太子としての決断ではなく、一人の「農夫」として参加する覚悟。
同時に、彼は「黒龍ヴェルダとの関係」を冷静に問うてきた。
龍の縄張りに足を踏み入れることへの、正当な危惧だ。
「……カインさん、本当にいい人ですね」
リナが小さく呟いた。 魔族の皇太子が、一人の農夫として泥にまみれることを厭わないと言っている。
その覚悟の重さが、作業場の空気を静かに震わせた。
ヴェルダは、カインが父である魔王ヴァルドを差し置いて動こうとしていることに、僅かな不安を覚えたようだった。
彼女は、四大魔獣同士が引き寄せ合う「予感」を口にした。
それは戦いへの渇望ではなく、新しい風が吹き始めることへの、かすかな期待のように聞こえた。
ガイウスは、カインへの返信を綴り始めた。
『カイン殿。 本気です。 ヴェルダについては、縄張りの管理者として俺が責任を持ちます。話は通してありますので、心配無用です。 ヴァルド殿については、近いうちに我が村へ来ると踏んでいます。その際に直接話をつけましょう。 農夫として来てください。農具はこちらで用意します。
追伸:農夫として来てくれるなら、農家として迎えます。』
「……また書いてる。しかも返事が『農具は用意する』って」
リナが呆れたように笑ったが、その瞳には信頼が宿っていた。
ガイウスにとって、農具を用意するということは、その人物の生命を預かるということに他ならない。
ふと横を見ると、ヴェルダが少し俯いていた。 「ガイウスの言葉は、短い方が刺さるからな……。わらわは、お前をよく観察しているからわかるのだ」
少女の姿のまま、彼女は強がるように言い切った。
「仲がいいですね、お二人とも」 リナの笑い声に、ヴェルダが「うるさい」と顔を背ける。
三日後。エリアは再び旅立った。
今度はアルトが、彼女が道に迷わぬよう、静かにその背を追って村を出た。
魔王がいつ来るのか、それは誰にもわからない。
だが、ガイウスの心には確信があった。
ヴェルダがそう予感し、彼が土を信じている限り、この計画は動き出す。
スローライフは、今日も順調だ。




