第54話 豊穣を夢見て
あの激闘から三日が経った。
腕に巻かれていた包帯を解くと、そこには薄く焦げた跡が残っていた。
熱に焼かれた皮膚の感触を確かめるように指を動かす。痛みはもう、引いている。
「……まだ、早いんじゃない?」
宿の窓際、リナが心配そうに眉を寄せた。
彼女の手には、まだ新しい包帯が握られている。
「動かさないと、農家の仕事が滞るので」
「今のこの村に、ガイウスさんが行かなきゃ回らない畑なんてないでしょ。皆で手入れしてるんだから」
正論だった。
だが、指先に土の感触がないことが、どうしようもなく落ち着かない。
「習慣、ですから」
それだけ言って、俺は上着を羽織って外に出た。 朝の冷気が、火照った皮膚に心地よい。
村の入口、朝露に濡れた草むらの傍らに、その少女は立っていた。
藍色の衣を朝風に揺らし、金色の瞳が俺を射抜く。
「遅い。待ちくたびれたぞ」
「……待ち合わせはしていませんが」
「わらわが待っていたのだから、遅いのであろう。屁理屈を言うな」
ヴェルダは少女の姿で不満げに頬を膨らませる。 だが、その視線はどこか期待に満ちていた。
(何で理不尽な‥)
「なんか言ったか?」
「いえ、何も」
「今日、あの『跡地』に行くつもりであろう。ガイウスの顔を見ればわかる。土をいじりたくて仕方のない、農家の顔になっておるからな」
隠したつもりはなかったが、見透かされているらしい。 俺たちは並んで、北へと歩き出した。
森を抜けた瞬間、視界が開けた。
そこには、以前あった岩山の姿はなかった。
俺とヴェルダがぶつかり合った衝撃で、山はその半分を崩落させ、無数の巨石が谷を埋めている。
しかし、その崩落の向こう側に、広大な平地が姿を現していた。
「……広いですね」
思わず独り言が漏れる。
岩山に隠されていたその土地は、南北に長く、緩やかな傾斜を描いていた。
水はけが良く、陽光を遮るものもない。
「百年前、ここは龍たちの休み場だったが、今はただの草原だ」
ヴェルダが、龍のときのような重みのある声で呟いた。
彼女は、崩れた岩場に立ち、かつての縄張りを眺めている。
「草原が戻れば、また良い休み場になりますね」
「……草原より、何かが育っている土地の方が、今のわらわは好きかもしれぬ」
そう言って、彼女は少女らしい足取りで、俺を追い越して平地へ降りていった。
俺は、剥き出しになった大地の中心で膝をついた。 手入れのされていない土は、石のように固い。
指先を突き立て、その深層の質感を確かめる。
冷たく、固く、地脈の流れはまだ細い。
長年、岩山の下で眠っていた土は、外の世界を拒絶しているようにも感じられた。
だが――悪くない。
「……何を考えている」
ヴェルダが覗き込んできた。
土を見つめる俺の顔を、彼女は不思議そうに観察している。
「土の状態を確かめていました。固いですが、素直な土です。手入れをすれば、応えてくれる」
「固い方が良いのか?」
「甘やかされた土より、一度厳しさを知った土の方が、根を深く張ります。……農家の、ただの勘ですが」
そう答えると、ヴェルダは「もう」と呆れたように息をついた。 だが、彼女の口元はわずかに緩んでいる。
「戦場の跡を見て、収穫量を計算する人間など、世界でお前一人であろうな」
俺はこの広大な土地を、二時間かけて歩き回った。 四方を囲む斜面、風の通り道、そして地脈の起点。
「一人では無理ですね」
「わらわがいる。この土地を平らすなど、龍の力にかかれば一瞬だ」
「力技では、土が死にます。地脈を編み直し、丁寧に耕さなければならない」
俺は立ち上がり、北の荒野を見据えた。
「二人でやって、五年。もっと人手があれば、三年でしょうか」
「……人手? この龍の縄張りに、人間を入れるつもりか」
ヴェルダの声が、一瞬だけ鋭くなる。
「そうだ、折角なので魔族の力を借りようと思っています。彼らなら、この環境にも耐えられる」
沈黙が流れた。 ヴェルダの金色の瞳が揺れ、やがて彼女は諦めたように肩を落とした。
「……好きにせよ。ただし、条件がある。ガイウス、お前が責任を持て。わらわの縄張りで起きることは、すべてお前が管理しろ」
「わかりました。農家も、畑の管理が仕事ですから」
「……畑と縄張りを一緒にするな」
そう言いながらも、ヴェルダは前を向いて歩き出した。 その歩幅は広く、どこか軽やかだ。
村への帰り道。 森の入口でヴェルダが立ち止まり、振り返った。
「ガイウス。あの土地、本当に何かが育つと思うか?」
夕闇が迫る中、彼女の瞳だけが鮮やかに光っている。
俺は、さっき触れた土の冷たさと、その奥に眠っていた微かな温もりを思い出した。
「育ちます。俺が、育てるつもりですから」
根拠などない。 だが、そう断言することこそが、土に対する礼儀だと思っている。
「……傲慢な根拠だな。わかった、信じてやろう」
ヴェルダはそう言って、先に立って森の中へ消えていった。 その声は、朝よりもずっと柔らかく、弾んでいた。
村の広場に戻ると、リナが待っていた。
「おかえり。どうだった?」
「広かったです。畑にするには十分すぎるくらいに」
「……やっぱり。ヴェルダもそう言ってたよ。ガイウスさんが土を触って、すごく嬉しそうだったって」
俺がリナを見ると、彼女は楽しそうに笑っている。
その隣で、ヴェルダが「事実であろう?」と言わんばかりに得意げな顔をしていた。
「農家の目になってたって、二人で意見が一致しちゃった」
「農家なので、仕方がありません」
俺の答えに、二人が同時に「知ってる」と笑い声を上げた。
夕景が広がる北の空。
あの崩れた岩山の向こうには、新しい季節が待っている。 一歩ずつ、土を耕していく。
それだけのことが、今の俺にはたまらなく楽しみだった。
スローライフは、今日も――跡地を豊かな緑に変える夢を見ながら――流れていく。




