第53話 黒龍、村に来る
翌朝、腕に包帯を巻いて北に向かった。
リナが「無理しないで」と言った。
「無理はしないですが、行きます」
「なんで今日も行くの」
「約束はしていないですが——行ったほうがいい気がするので」
リナが少し考えて「わかった」と言った。それ以上は聞かなかった。
「帰りにエール飲もうね、昨日できなかったから」
「そうしましょう」
「絶対ね」
「絶対です」
岩場を越えた。
地形が変わっていた。
昨日まであった岩山の半分が、なくなっていた。
崩れた岩が広い範囲に散らばって、地面に無数の亀裂が走っていた。昨日の戦いの痕跡だ。
ただ——ヴェルダがいなかった。
いつも座っている場所が、空だった。
気配もなかった。
魔力の感知を広げる。北に向けて、東に向けて。
‥いない。
珍しかった。
最近は一度も来なかった日はなかったし、いなかった日もなかった。
(どこかに行ったか)
そう思いながら、岩の上に座って待つことにした。
ふと声をかけられる。
「なんで座ってるの」
後ろから声がした。
振り返ると少女が立っていた。
十代の半ばほどに見えた。髪は黒く、肩より少し長かった。瞳が——金色だった。肌が白く、光を少し透かすような質感があった。着ているものは深い藍色の衣で、裾が風に揺れていた。
俺を見て、口の端が上がっていた。
何か面白いものを見つけた顔だった。
「……ヴェルダですか」と俺は言った。
少女が目を細めた。
「なんですぐにわかったの」
「目が同じです」
「目だけでわかるの?」
「声も同じです」
少女が——ヴェルダが、口をへの字に曲げた。
「もっと驚いてよ。わらわ、ちゃんと隠れて待ってたのに」
「驚いていますが」
「全然顔に出てないじゃない」
俺は少し考えた。
「内側では驚いています」
ヴェルダが「もう」と言った。
低めの声のはずなのに、少女の声で言うと、拗ねているようにしか聞こえなかった。
「なぜ姿を変えていたんですか」と俺は聞いた。
「ガイウスのいる村に行ってみたくてわらわ、待ってる間にやってみたの」
「練習ですか」
「そう! 数百年以上使ってなかったから、うまくできるか不安で‥」
俺は少し止まった。
「昨日の戦いで、かなり消耗していたはずですが」
「だから試したかったの。消耗した状態でもできるかどうか」
「それは——無茶では」
「農家に無茶って言われたくない」とヴェルダが言った。
言い返せなかった。
ヴェルダが岩の上に乗った。
ひょい、と軽く跳んだ。
二足歩行に慣れていないはずなのに、龍だった頃の身体感覚が残っているのか、動きに無駄がなかった。
岩の上に立って、俺を見下ろした。
「どう? おかしくない?」
「おかしくないですが——指先に、鱗の名残が少し残っています」
ヴェルダが自分の手を見た。
「……ほんとだ。消せる? これ」
「俺にはわからないですが、リナさんに聞けばわかるかもしれないです」
「あの娘に聞くの」
「詳しいかもしれないので」
「……まあいい。わらわ、このままで行くね」
「そうしましょう」
岩場まで戻るとき、ヴェルダが先を歩いた。
俺より先に、さっさと進んだ。
「道を知っているんですか」と俺は聞いた。
「知ってるよ。毎日ガイウスが通ってるの、ずっと見てたから」
「見ていたんですか」
「当然でしょ。わらわの縄張りなんだから」
「遅いとよく言っていましたが」
「遅かったから言ったの」
ヴェルダが振り返った。
金色の目が、俺を見た。
龍の姿のときと同じ目だった。ただ、少女の顔に収まっていると、迫力の代わりに、別の何かがあった。
「ガイウスって、毎日来たじゃない」とヴェルダが言った。
「来ました」
「雨の日も来た、なんでそこまでしたの?」
「様子を見る必要があったので」
「最初からそのつもりだったの?」
「最初は——ただ来てみようと思っただけですが」
「来てみて、どう思った?」
「面白い相手だと思いました」
ヴェルダが止まった。
少しの間があった。
「……面白い、か。変な人間だね、ガイウスって」
「よく言われますが」
「わらわにも言われたでしょ、何度も」
「言われました」
ヴェルダがまた歩き出した。
「変な人間だけど——悪くない」と前を向いたまま言った。
小さな声だった。
龍の姿のときとは違う、少し照れを含んだような声だった。
俺は何も言わなかった。
村が見えてきた頃、ヴェルダが立ち止まった。
「緊張しているか」と俺は聞いた。
「してない」
「本当ですか?」
「し、してないの」
していた。
俺は何も言わなかった。
「リナさんを先に呼んできましょうか」
「いらない。不意打ちのほうがいい」
「なぜですか」
「驚く顔が見たいから。わらわ、そういうの好きなの」
「ヴェルダ」
「何?」
「それがお転婆というやつです」
「そんな事ないと思うけどな」
「細かいね、ガイウスって、ささ、早く行こう」
それだけ言って、村の入口に向かってさっさと歩き出した。
最初に気づいたのはマルクだった。
「あ、ガイウスさん——って誰?」
「ヴェルダです」と俺は言った。
マルクが固まった。
「ねえ」とヴェルダがマルクに言った。
「は、はい」
「この村って、いい村なの?」
マルクが少し考えた。
「いい村だよ。食べ物は美味しいし、何よりガイウスさんがいるから」
ヴェルダが俺を見た。
金色の目が、細くなった。
「そっか」と低く言った。
どこか、満足そうだった。
リナが食堂から出てきた。
俺とヴェルダを見た。
「……え、誰‥?」
「見た目はアレだけどヴェルダです」
「ガイウス酷くない?!?‥そう、わらわ! 驚いた?」
リナが止まった。
「驚いたよ、全然イメージと違う‥」
「よかった、よかった」とヴェルダが喜んでいた。
「かわいい」とリナが言った。
ふとヴェルダが止まった。
「……え?」
「か——わらわが?」
「うん。かわいいよ、ヴェルダ!」
ヴェルダが俺を見た。
どう反応すればいいか、わからない顔だった。
龍の姿のときには見たことのない顔だった。
「ありがとうと言えばいいのでは」と俺は言った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」とリナが笑った。
「お腹が空いていないかしら」
リナの母が窓から顔を出した。
「空いてる!」とヴェルダが間髪入れずに言った。
リナの母が「そうでしょ、たくさん食べていってね」と嬉しそうに言った。
ヴェルダが「食べる」と言って、周囲をゆっくり見渡した。
食堂の煙突を見た。
井戸を見た。薬草畑を見た。
縁側のゴードンを見た。
ゴードンがヴェルダを見た。
「……黒龍か」
「そう、わらわ、ヴェルダっていうのよろしくね!」
「人の姿になれるのか」
「うん、なれる」
「そうか。まあ、ゆっくりしていけ」
「うん」とヴェルダが言った。
それ以上の言葉は、どちらからも出なかった。長く生きてきた者同士の、静かな了解があったのだろう。
夕方の空が、橙色に染まっていた。
千年以上一人でいた龍が、村の空気の中に、静かに立っていた。
「あ、そうだエール飲む約束、してたんだった」とリナが言った。
「そうでしたね」
「ヴェルダも飲む?」
「飲む! わらわ、やってみないとわからないけど」とヴェルダが言った。
俺は少し止まった。
「それ——ヴェルダ年齢的に大丈夫?」
「わらわは千年以上生きてるから大丈夫!」
「そ、そっか、じゃあ大丈夫ですね」
リナが「仲いいじゃん」と笑った。
スローライフは、今日も——黒龍が村に来たけど——順調だった。




