第51話 黒龍との激闘
今まで制御していた力を解放した瞬間、世界の見え方が変わる。
魔力が皮膚の外に滲み出て、空気と混ざる。
周囲の地脈の流れが、手に取るように見えた。どこに力が集まっていて、どこが薄いかのかや、岩盤の亀裂の深さまで、触れずにわかった。
農作業で言えば、土に手を入れた瞬間の感覚に近い。
土の湿り気、温度、根の張り方。全部が指先に伝わってくる、あの感覚だ。
ヴェルダが動いた。
翼を畳んで急降下してきた。
上から来るとは思っていなかった。
体躯の大きさがそのまま圧力になって、空気が押し潰されるような感覚があった。
横に思いっきり跳んだ。
着地した岩盤が、ヴェルダの翼の風圧だけで砕けた。
(さすがだ、速い)
速さが、さっきまでと違った。
まだ全力ではないと言えこれなら、ヴェルダの全力はどこまで上がるのか。
想像しながら、次の手を考えた。
ヴェルダが着地した場所から、爆発的な魔力が広がった。
あれは‥龍魔法か?
地面から魔力の柱が立ち上がった。
十本、二十本、地面を割りながら連続して噴き出してきた。
逃げ場はない。
俺は足元の地脈に手を入れた。
地脈操作——流れを変える。
柱の根元、地脈の出口を、横にずらした。
柱の向きが変わった。
俺の横を通過した。
岩山に直撃して、頂上が吹き飛んだ。
息をつく間もなかった。
(普段土いじりしててよかった)
ヴェルダがすでに次の動作に入っていた。
口の中に、極大の熱量が収束し始めていた。
ブレスが来る。
今まで見てきた炎とは、規模が違った。
顎の周りの鱗が、熱で赤く変色し始めていた。蓄積に時間がかかっているのは、それだけ出力が大きいということだ。
(これは、かわせないマズいな)
直感的にわかった。範囲が広すぎる。
どこに跳んでも、射程に入る。
ならば——正面から受ける。
俺は両手を前に出した。
「7枚の絶対障壁」
魔力障壁を、七層展開した。
ブレスが来た。
視界が白く染まった。
熱が来た。
一層目が、砕けた。
二層目が、砕けた。
三層目まで砕けたとき、俺は障壁の内側で歯を食いしばっていた。
熱が服の中まで入ってきた。汗が、蒸発した。
四層目が、持った。
五層目が、持った。
六層目、七層目——何とか持った。
ブレスが止んだ。
視界が戻ってきた。
障壁の外側が、黒く焦げていた。
四層分が消し飛んでいた。三層しか残っていない。
(これを、息一つで四十二人に浴びせたのか)
百二十年前の記録が、頭をよぎった。
ヴェルダは本気ではなかったのかもしれない。
冷や汗が、背中を流れた。
「障壁を張ったか」とヴェルダが言った。
「流石にマズいので張りました」
「耐えたか」
ヴェルダが、低く唸った。怒りではなかった。何か別のものだった。
「人間が、私のブレスを正面から受けたのは——初めてだ」
「そうですか」と俺は言った。
喉が渇いていた。声が掠れた。
「余裕はなさそうだな」
「多少はありますよ」
「ハッ、抜かせ」
ヴェルダが——笑った。
戦闘の最中に、笑った。
低く、短く、周囲の岩が震えた。
俺も——おかしくなって、少し笑った。
なぜ笑っているのか、自分でも少しわからなかった。
次は俺から仕掛けた。
地脈に魔力を流し込んだ。
足元の地面に、格子状の魔力線を走らせた。
見えない網だ。
領域展開——地脈同調。
この領域の中では、地脈の動きが全部俺の感覚に繋がる。
ヴェルダがどこに足を置いても、重さと魔力の流れでわかる。
目で見なくても、位置が把握できる。
ヴェルダが動いた。
(右か)
振り返らずに、後方に魔力を圧縮して放った。
ヴェルダが翼で弾いた。
弾いた衝撃で、翼の端の鱗が三枚、剥がれた。
「……領域を張ったか、いつからだ?」
「今です」
ヴェルダが「人間が風情が」と低く言った。
怒りでも呆れでもなかった。ただ、驚いていた。
「この領域の中では——ヴェルダの動きが大体は分かります」
「大体、か」
「完璧ではないですが」
「正直だな」
「嘘をついても、すぐにバレるので」
ヴェルダがまた唸った。今度は長かった。
何かを決めているような間だった。
「ならば——我も答えよう‥龍の領域だ」
空気が、変わった。
ヴェルダの鱗が全部逆立った。
藍色が、深い紫に変色した。地脈が——逆流した。
俺の領域が、内側から押し返された。
(まずい)
展開した魔力線が、一本ずつ引き千切られていく感覚がした。
俺は魔力を引いた。領域を畳む。
引かなければ、地脈ごと存在を持っていかれた。
ヴェルダの領域が、広がった。
この空間全体が、ヴェルダのものになった。
空気の重さが変わった。
重力の感覚が変わった。足の裏に伝わる地面の感触が変わった。
少しずつ、ヴェルダに有利な方向に傾いていた。
(なるほど——これが龍の本気か)
俺は足を踏み直した。
押し返されている感覚があった。
空気が壁になっているようだった。
一歩動くたびに、余計な力がいった。
ただ——動けなくはなかった。
ヴェルダの領域は、完全な支配ではなかった。俺の中にまだ、動く余地があった。
(こちらも余力を残しておいたら足りない)
俺は制限に手をかけた。
八割。
周囲の地脈が、揺れた。
九割。
ヴェルダの領域が、わずかに押し返された。
ヴェルダの目が、細くなった。金色の中に、今まで見たことのない色が混じった。
驚愕だ。
「……まだあったか」
「ありますよ」とだけ言った。
「全力ではないのか」
「全力ではないですが——ここまでで、十分だと思っています」
「なぜ」
「ヴェルダの隙が、見えてきたので」
ヴェルダが、一瞬止まった。
その一瞬を、俺は見逃さなかった。
領域が広がっている間、ヴェルダの魔力の中心は一箇所に集まっていた。
胸の中央——心臓の近くだ。
領域を維持するために、そこに力を集中させている。
隙だ。
広大な力の、たった一点の隙だ。
農作業で言えば、どれだけ頑固な土壌でも、楔を打ち込める場所が必ずある。
そこさえ見つければ、あとは力ではなく角度の問題になる。
俺は走る。
地面を蹴った。
ヴェルダの領域の圧力を感じながら、それでも走った。
魔力を足裏に集中させて、領域の抵抗を押しのけながら、真っ直ぐ向かった。
ヴェルダがすかさず爪を振るった。
その攻撃をかわす。
髪がまた揺れた。
翼が来た、今度は腕で受けた。
骨が軋む。それでも止まらなかった。
ヴェルダの胸の前まで来た。
手のひらに、全魔力を集め一点に絞る。
(ここだ)
魔力の楔を、打ち込んだ。
ヴェルダの領域が——揺れた。
中心から、亀裂が広がるように、領域が崩れ始めた。
ヴェルダが後退した。一歩。二歩。
巨体が、地面を削りながら退いた。
崩れかけた領域を、ヴェルダが力で押さえた。
持ちこたえた。
だが、完全には崩れなかった。
ただ——一歩、退いた。
二人とも、動きを止めた。
息が荒かった。俺も、ヴェルダも。
山が静かになった。
崩れた岩が、ゆっくりと沈んでいく音だけがした。
ヴェルダが、俺を見ていた。
今まで見たことのない目だった。
敵意でも怒りでもなかった。
長い年月の中で、一度も見たことのない何かを、目の前の人間に見ている目だった。
「……面白い」とヴェルダが言った。
低く、静かに。
「俺もそう思います」と俺は言った。
「まだ続けるか?」
俺は息を整えながら、答えた。
「続けます」
夜明けの空が、白から蒼に変わり始めていた。




