第50話 黒龍との対峙、そして
夜明け前に、目が覚めた。
眠れなくなったわけではない。ただ、目が覚めた。
畑の追肥をしなければならない日の朝と、感覚が同じでやることがある。
だから起きた。それだけのことだった。
村を出たのは、空が白む前だった。
誰も見送りに来なかった。
昨夜、そう頼んでおいた。
リナ達が「行ってらっしゃい」と言った。
俺は「いってきます」と言った。
それで終わりにした。
森に入ると、空気の質が変わった。
重さが違った。
一歩ごとに、肺に入るものが濃くなっていく感覚があった。
魔力が飽和しているのを感じた。
そこに力を解放したヴェルダがいるのが分かる。
歩きながら、頭の中でアルトの地形データを展開した。
中腹の岩場は入り組んでいる。
風の死角が三箇所。脆い岩盤が二列。
頂上付近は開けていて遮蔽物がないが、魔力を広げやすい。
どちらで戦うことになるかは、まだわからなかった。
ヴェルダが決める。俺はそれに合わせる。
農家は土壌に合わせて道具を選ぶ。
相手が龍でも、原則は変わらない。
岩場を越えた瞬間、息が止まった。
ヴェルダが翼を広げていた。
初めて見る姿だった。
山の稜線より、翼のほうが高かった。
左右の岩山に翼の端がかかって、空の半分が覆われていた。
陽光を撥ね返す藍色の鱗が、朝の空気の中でわずかに震えている。
地脈を吸い上げているのだ。
呼吸のように、自然に。
言葉は必要なかった。
ヴェルダの金色の目が、俺を見た。それだけで、始まりだとわかった。
俺が一歩踏み出した。それが、開戦の合図だった。
最初の一撃は、尾だった。
音が来るより先に、衝撃が来た。
俺はすでに動いていた。
砕けた岩の一つを足場にして上に跳び、空中で魔力を展開して足場を作り、そこに立った。
土煙が視界を覆った。
その中で、俺は動かず監察する。
土煙の向こうで、ヴェルダが次の動作に入っていた。重心が右に移っていた。
尾が来る。跳ぶ。
元々居た場所に尾が通過する。
岩が砕けて破片が弾丸のように飛んできたので、腕で顔を庇いながら着地した。
攻撃せずただ見ていた。
尾の振り方。翼の角度。炎を吐く前の、顎の動き。
左の鱗が一枚だけ逆立つのが、炎の前兆だとわかった。
重心が右に移るのが、尾の前兆だとわかった。呼吸が変わるのが、翼の前兆だとわかった。
畑に出た虫の動きを読むのと、原則は同じだ。
相手を知ってから、手を打つ。
次の炎のブレスが来た。
縦に広い壁のような炎、右に跳んでかわした。
熱が来て、服の端が焦げた。続けて横に広い炎が来た。上に跳んでかわした。
熱が足の裏から来て、靴が焦げた。
(靴を買い直す必要があるかもしれないとな)
ふとヴェルダが動きを止めた。
金色の目が俺を見ていた。
攻撃してこない人間を、初めて見る目だった。
「攻撃してこないのか?」
低い声が来た。
「観察してました」と俺は言った。
「何を」
「あなたの癖を」
一瞬、ヴェルダの動きが止まった。
金色の目が、細くなった。
「……では、次から本気で行く」
「そうしてください」
それだけ言って、ヴェルダの魔力が上がり始めた。
俺も制限を緩めた。四割。五割。六割。
空気が変わった。
ヴェルダの鱗が、一斉に逆立った。
六割で、この反応だ。
互いに、相手の格がわかっていなかったのだと理解した。
ヴェルダが動いた。
今までとは違う速さだった。
百メートル以上の体躯が、信じられない速度で迫ってきた。
俺は重力圧縮を展開した。
ヴェルダの足元の空間を圧縮すると、巨体の速度が落ちた。
その隙に横に跳んだ。ヴェルダが通過した後ろで、岩山が半分崩れた。
土煙が広がって、砂塵が舞う。
息をこらえながら、次を考えた。
土煙が晴れた。
崩れた岩の向こうに、夜明けの空が見えた。
稜線が、薄いオレンジに染まり始めていた。
ヴェルダが俺を見ていた。
鱗の逆立ちが、まだ収まっていなかった。
重力圧縮の感触が残っているのだろう。
百年以上、誰にも押し返されたことがなかった巨体が、初めて一歩退いた。
その目に怒りはなかった。あるのは——静かな熱だった。
俺の中にも、同じものがあった。
怒りではない。恐れでもない。名前のつけにくい、静かな熱だ。
「……重力圧縮か」とヴェルダが言った。声が、少し違った。
「そうです」
「止められるとは思わなかった」
「完全には止めていないですが」
「それでも——初めてだ」
俺は何も言わなかった。
ヴェルダが再び魔力を上げ始めた。
七割、八割と出力を上げているのだろう。
呼吸が少し苦しくなった。
空気が全部ヴェルダのものになっていく感覚がした。
俺も七割まで制限を緩めた。
空気が、爆ぜた。
ヴェルダの巨体が、今度はもう一歩、後退した。
その瞬間、俺は初めてわかった。
格下ではない。格上でもない。
初めて、対等な相手と戦っていた。
ヴェルダが「来い」と言った。
「行きます」と俺は言った。
夜明けの空に、二つの魔力が広がっていった。
スローライフは、だいぶ先になりそうだ。




