第48話 黒龍との決闘に向けて
八日目。
岩場を越えた先に待っていたのは、これまでとは明らかに違う「山」の気配だった。
黒龍ヴェルダは、立っていた。
これまでは座しているか、伏せているかのどちらかだった。
ただ四肢で大地を掴み、頭を高く上げている。
その体勢の変化だけで、大気の密度が数倍に跳ね上がった。
「……今日は立っていますね」
「お前に用があるのでな」
ヴェルダの声が、物理的な圧力となって俺の頬を叩く。
「昨日——あの娘が来たな、追いかけてきたのであろう。……心配だったか?」
「かなり。何かあればすぐに出るつもりでした」
ヴェルダの鼻から熱風が漏れた。
「何かとは……あぁ、私が威嚇しようとした時か?」
「ええ。ですが、貴方はしませんでしたね」
「当然だ。あのような羽虫、威嚇する価値もない」
嘘だ、と俺は思った。 無視するには、ヴェルダはあまりにもリナの言葉を「受け入れすぎて」いた。
「あの娘は……変わっているな。龍に挨拶を求め、あまつさえ温かいなどと宣う。お前は嬉しかったか、あの娘がいて」
「そうですね、嬉しかったです」
ヴェルダは「そうか」と短く応じた。
その金色の瞳が、品定めするように俺を射抜く。
「実は昨日の娘の話をしたいわけではない。……昨日、考えたのだ。お前のことをな」
「俺のことを?」
「お前はここ最近毎日ここに来る。言葉を交わし、不気味なほど淡々と帰っていく。その目的は何だ。私を討つ機を伺っているのか?」
「ヴェルダのことを知りたかっただけです。……ですが大体、わかりました」
「大体、だと?」
「ええ。だから、今度は俺が聞く番です。ヴェルダ、あなたは——俺に、何を求めていますか?」
静かな、だが逃げ場のない問いだった。
山の稜線を風が吹き抜け、ヴェルダの藍色の鱗がチリチリと音を立てる。
「……力を見せろ」
ヴェルダが、低く宣告した。
「今すぐですか」
「今だ。本気でなくていい。ただ、その殻を一枚、脱いで見せろ。……隠すな、農家。私に見せるべきは、そのクワの振るい方ではないはずだ」
俺は、少しだけ考えた。
ヴェルダが求めているのは、言葉による説得ではない。
己との「格」の差だ。
対等であると、魂のレベルで納得しなければ、彼は何も受け入れない。
「……わかりました」
俺は、魔力の制限を緩めた。
普段、俺は魔力を可能な限り「無」に近づけている。
そうしなければ、歩くだけで周囲の地脈をかき乱し、丹精込めて育てた薬草を枯らしてしまうからだ。
三割。
その程度を、意識の表層に引き上げる。
瞬間、世界が沈んだ。
「…………っ!!」
ヴェルダの全身の鱗が、爆発するように逆立った。
足元の岩盤がミシリと音を立てて数センチ沈み込み、大気が「重力」そのものに化けて岩場を押し潰す。
周囲が一斉に沈黙し、風さえも流れることを拒否した。
三秒だけ、それ以上は村に影響が出る。
俺は一気に、魔力を「農家」のそれへと戻した。
「…………三割、か」
ヴェルダは一歩も動いていなかった。
だが、その金色の瞳には、明らかな戦慄と、そして狂おしいほどの歓喜が混じり合っていた。
「そのくらいです。残りの七割は抑えています。……薬草が枯れますし、リナさんに怒られるので」
「……くっ、くふふ……ははははは!!」
ヴェルダが、今日一番の、いや、この数百年で一番の笑い声を上げた。
岩が砕け、山全体が歓喜に震えるような、凄まじい笑声。
「薬草! 娘の小言! そのために、神の領域に等しいその力を封じているというのか! 面白い……あまりにも面白い人間だ!!」
「……光栄です」
「私が会った中で、お前が一番だ。格、力、そしてその救いようのない『日常』への執着……。
本物だ。お前は、この世に数人しかおらぬであろう強者の頂そのものだ」
ヴェルダは笑い終えると、その瞳を北の荒野へと向けた。
そこに宿るのは、戦士としての真剣な熱だった。
「農家。……一騎打ちをしたい」
その言葉を待っていた気がする。
「今すぐですか」
「……いや、こちらも準備が必要だ。私の内側にある、この百年で鈍った身体の準備がな。お前も、準備があるだろう」
「ええ。七日程ください」
「なぜ七日だ。……いや、聞くまでもないか。また『農家』の都合か?」
「リナさん達に話す準備です。黙って戦えば、後が怖いので」
ヴェルダは、また笑った。 今度は呆れの中に、確かな「親愛」を込めて。
「行け。七日後、この岩場で待っている。……逃げるなよ、農家」
「逃げません。あなたこそ、逃げないでくださいよ、ヴェルダ」
「……もちろんだ、ガイウスよ」
龍はそう言って、満足げに目を閉じた。
数日間、この巨大な隣人と過ごした時間は、確かに何かを変えていた。
村に戻ると、広場でリナが不安そうに空を見上げていた。
「おかえり。……山が少し揺れた気がしたけど、大丈夫だった?」
「一騎打ちの約束をしました。七日後です」
リナの動きが、凍りついた。
彼女は、俺が何を言ったのかを反芻するように、じっと俺を見つめた。
「えっ!?無理よっ!厄災って言われてるヴェルダに、勝てるわけ無いじゃない!?」
「そこは、なんとかします」
「何とかなるわけないじゃないもう、‥でも行くんでしょ?」
真剣な目をリナに向け告げる。
「えぇ、約束したので」
リナは頷く。
「‥分かったわ。でも無理しないでね、ガイウスさんが居なくなっちゃうとその‥」
「ほ、ほら、村が寂しくなっちゃうじゃないの!そ、そうよ、だからほら、無理は絶対しないで」
俺も強く頷く。
「もちろんです、分かりました」
「……それで準備、できそうなの?」
「七日あれば、何とかしてリナさんに話して納得させられるとヴェルダには言ってます」
「……その七日って、ヴェルダに『リナさんに話す準備だ』って言ったの?」
「はい。事実なので」
「…………恥ずかしいって言ってるでしょ! 龍にまで、私の尻に敷かれてるみたいに思われちゃうじゃない!」
リナの耳が真っ赤に染まる。
だが、彼女の瞳には怒りよりも、深い不安と、それ以上の「信頼」が揺れていた。
「……話す準備って、何を言うつもりだったの?」
「正直に戦う理由と、勝つつもりだということ……それと、心配させてすみません、ということを」
リナは、泣きそうな顔で深いため息をついた。
そして、俺の袖をぎゅっと、引きちぎらんばかりの力で掴んだ。
「……順番が、逆。そういうのは、ヴェルダに言う前に、私に言うべきでしょ」
「そうですね。……すみません」
「……わかってくれれば、いいよ」
リナは袖を離さなかった。
夕焼けが、俺たちの影を長く、村の広場に伸ばしていく。
「約束して。……絶対、勝ってきて。
勝って、またこの広場で、お腹すいたって言いながら帰ってきて」
「約束します。……勝ちますよ、俺は農家ですから」
「……意味わかんない」
リナが笑った。 泣きそうな顔で、だが力強く。
「ヴェルダに伝えておいて。私のために七日も取らせてごめんなさいって。……あと、私のことは世界一怖いから、覚悟しておきなさいってね」
「そのまま伝えます」
北の山に、一番星が輝き始めた。
決戦まで、あと七日。
俺の、そしてこの村の「スローライフ」を守るための、大切な一週間が始まる。




