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Sランク宮廷魔術師、理不尽な理由でクビになったので田舎でスローライフ(農家)始めます  作者: 仁科異邦


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リナと黒龍

朝、リナがいなかった。

宿屋にも。 食堂にも。 広場にも。


井戸のそばにさえ、彼女の姿はなかった。

嫌な予感が胸をかすめる。

リナの母に尋ねると、彼女は事も無げに答えた。


「リナなら、朝早くに出ていったよ」

「……どちらに?」

「北、だって。荷物も持たずに『行ってきます』って」


心臓の鼓動が跳ねた。

「北」――そこには、黒龍ヴェルダがいる。


俺は作業場の上着をひったくり、走り出した。 背後でリナの母が「あら、二人で逢瀬?」と嬉しそうに声をかけていたが、今は答える余裕などない。


森へ駆け込む。

魔力を全開にし、周囲の痕跡を拾う。

踏み折られた小枝。 乱れた下草。

リナの足跡は、迷いなく真っ直ぐに「北」へ向かっていた。

「……方向感覚だけは、無駄に良いからな」

独り言を吐き捨て、速度を上げる。

ヴェルダは龍だ。

かつて一息で四十人以上の命を奪った厄災だ。 もし、彼がリナを「排除すべき対象」と見なしたら――。

思考を振り切り、俺は地を蹴った。


三十分後。

岩場の影から、その光景が目に入った。

開けた場所に、リナが立っていた。

俺がいつも立ち止まる、あの二十メートルの境界線。 その先に、山のごとき黒龍が鎮座している。

金色の巨眼が、小さな娘を射抜いていた。

どちらも動かない。 張り詰めた沈黙。

俺は飛び出そうとした足を止め、あえて岩陰に潜んだ。


今、俺が出るのは正解ではない気がした。

リナが、小さく口を開いた。

「ヴェルダ」

龍の鱗が、わずかに波打った。

「……何者だ」


地の底から響くような声。

リナの肩が、びくりと揺れた。 当然だ。

本能が「死」を予感する圧倒的なプレッシャー。 だが、リナは一歩も引かなかった。


「村の人間です。ガイウスさんがお世話になっている村の、リナといいます」

「農家の仲間か。……なぜ、死を恐れずここに来た」

リナは深く、深く呼吸をした。 震える拳を握りしめ、真っ直ぐに龍を見上げた。


「村の近くに住むなら、挨拶してほしくて」

ヴェルダが、固まった。

俺も、岩陰で同じように固まった。


「……挨拶、だと?」

「そうです。挨拶なしに居座られるのは、お隣さんとして失礼じゃないですか」


ヴェルダの鼻から熱風が吹き出し、周囲の岩が赤く灼ける。 威嚇。

だが、リナは逃げない。

「ガイウスさんが毎日来ているのに、私だけ来ないのは……なんか、嫌だったんです。話を聞いているうちに、貴方に会いたくなった」


「……私に、会いたかっただと?」

ヴェルダの視線が、値踏みするようにリナをなぞる。 殺気はない。だが、困惑がそこにはあった。

「お前は……あの男と、どういう関係だ」

「……む、村の人間ですっ」

赤くなるリナの耳。

ヴェルダは「嘘が下手だな」と低く笑った。


「数百年以上、生き物を見てきた。その程度の嘘、気配でわかる。……お前も、あの農家と同じだ。正直すぎて、面倒なほどに」


ヴェルダの鼻から、今度は穏やかな溜息が漏れた。 岩を焼かない、ただの溜息。

「……ヴェルダだ。お前の村の近くに、しばらく世話になる」


リナの瞳が、ぱっと輝いた。 泣きそうな顔で、彼女は満開の笑顔を作った。

「リナといいます。よろしくお願いします、ヴェルダ!」

龍が、笑った。 低く、短く。大地を小刻みに震わせる、柔らかな音だった。


俺は岩陰から姿を現した。

「遅かったな、農家」

「……先を越されました」

振り返ったリナは、俺の姿を見るなり「ぜ、全部聞いてたの?」と顔を真っ赤にした。


「嘘が下手だと言われたあたりから、全部な」

「……もう!」

頬を膨らませるリナを見て、ヴェルダがまた笑う。


「挨拶を求めに来る人間など、初めてだ。……だが嫌いではない」

短い言葉。 だが、百年以上孤独を貫いた王が、初めて許した「隣人」への言葉だった。


「温かい感じがします」

リナがふと、そう呟いた。

「温かい……?」

「はい。ヴェルダの声。なんだか温かいです」

ヴェルダが沈黙した。 長い、長い沈黙。 何かを噛みしめるように、龍は目を細めた。

「……温かいと言われたのは、初めてだ」


その静かな声には、数千年の孤独を溶かすような響きがあった。


帰り道。 夕焼けに染まる森を、二人で歩く。

「ガイウスさん、心配した?」

「……かなりですね、喰われるか消し炭になるかと思いましたよ」


「あはは、お返し。いつも心配させられてるから‥ごめんね」

リナは少しだけ嬉しそうに、弾むような足取りで進む。


「でも、行ってよかった。ヴェルダ、温かいって言われて……すごく優しい目をしたんだよ」

俺は、彼女の横顔を見ながら考えた。


「倒す」ための力だけでは、届かない場所がある。 リナの無鉄砲さが、龍の心の鍵を開けたのだ。

「リナさんが行ってくれて、よかったです」

「……え、今なんて?」

「一度しか言いません」


リナが止まり、俺を凝視する。

「ガイウスさん。……いずれはヴェルダと、戦うんだよね?」

「そうですね、格を示さなければ、彼は納得しないでしょう」

「でも、加減してあげてね。あのご近所さん、意外と寂しがりやみたいだから」


「……善処します」

村の灯りが見えてきた。

食堂から漂う美味そうな匂い。マルクの笑い声。 そこにはもう、黒龍という「新しい隣人」を迎える準備ができている気がした。


スローライフは、今日も――黒龍が少しだけ照れながら――順調だった。


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