アルトの尾行
おかしい。
そう思い始めたのは、いつ頃からだろうか。
あの農家が初めて私の縄張りに現れたとき、私はただ無視した。
矮小で、格下で、取るに足りない命。
それは数千年変わらぬ私の「世界の理」であったはずだ。
だが今日。
奴が来るのが、ほんのわずかに遅かった。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、私は岩場の方角を幾度も確認していた。
無意識に視線を向け、そのたびに自嘲的な不快感を覚える。
なぜ見ている。
来るか来まいかなど、私の永劫には何の影響もないはずなのに。
あの人間と対話するようになってから、世界の「刻み」が変わった。
以前の私は、ただ山に座し、風の鳴動を聞き、地脈の淀みを数えるだけで一日を終えていた。千年の孤独は、当然の静寂だった。
だが今は、朝が来るたびに考えている。
「今日は、あの羽虫は何を問うてくるのか」
雨の日も、風が荒れ狂う日も、奴は欠かさずやってきた。
私の知る人間は、逃げるか、挑むかの二択だった。
だがあの農家は、まるで隣の畑に挨拶にでも行くような顔で、二十メートルの境界線を踏み越えてくる。
魔族の子供が消えていく土地を、好まない。
龍に向かって、己の信条を平然とぶつけてきた。
——少し、嬉しかった。
その感情を認めた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
「嬉しい」という感覚など、もはや化石のように風化したものだと思っていた。
だが、あの男が語る「土地の再生」を信じたのは、その目が、その言葉が、嘘偽りのない「多少の根拠」に基づいていたからだ。
足音が聞こえる。
岩場の向こう、いつものリズム、いつもの魔力。 私は静かに目を開けた。
「来ました」
そう言うであろう男の姿を捉えたとき、私の内側に名前のない温かな何かが満ちた。
格下の人間に、これほどの期待を寄せる己を「おかしい」と笑い飛ばすことすら、もはや心地よい。
七日目の朝。 ガイウスが村を出て三十分後。
アルトは、細心の注意を払ってその背中を追っていた。
「……散歩です。北方面への、ちょっとした散歩」
「アルト。ガイウスさんの扱いに慣れすぎて、他人にまでその言い訳が通用すると思ったら大間違いだよ」
出発時、リナに見送られた際の言葉を思い出し、アルトは冷や汗を拭った。
止められなかったのは、リナもまた「今のガイウス」に必要な何かを察していたからだろうか。
森の深部へ進むにつれ、空気が物理的な質量を持ち始めた。
測量魔術を展開するまでもない。
肌を刺すような、圧倒的な「強者の残滓」。
一歩踏み出すたびに、肺が重く圧迫される。
「……これを毎日、一人で?」
ガイウスが平然と歩いている道の険しさを、アルトは今更ながらに知った。
やがて木々が途切れ、視界が開ける。
そこで、アルトの思考は停止した。
視界に入り切らない
存在の濃度が濃すぎるばかでかい「もはや地形である)
語彙が崩壊したアルトの視界の先で、ガイウスが二十メートルの距離を保ち、黒龍と「世間話」をしていた。
「……会話してる。マジかよ」
「している。そして、隠れるのが下手だな」
真後ろからかけられた声に、アルトは心臓が飛び出るほど跳ね上がった。
振り返ると、いつの間にか背後にガイウスが立っている。
「いつから……!」
「岩場を越えたあたりで足音が変わった。緊張で重心が浮きすぎていたぞ。農家は観察が基本だ」
「今の文脈で農家の話を持ち出すの、ガイウスさんだけですよ」
ガイウスは少しだけ困ったような、だがどこか吹っ切れたような顔をしていた。
「今日の交渉は終わった。毎日一つずつ、信頼の薬草を育てるように進めると決めている」
「黒龍相手にその理屈、やっぱりおかしいですよ……。怖くないんですか?」
「怖い。だが、怖いからこそ、相手をちゃんと見ていられる」
ガイウスの言葉に、アルトは言葉を失った。
強さの根源は、無敗の力ではなく、恐怖すらも「観察」に変換するその図太さにあるのだと。
村へ戻る道中、アルトはとはやしやガイウスを
「レオやカナ、それにリナさんには言うな」と口止めされたが、リナに関してはすでに見抜かれていることを伝えると、ガイウスさんは「やばい、どうしよう」と言う顔していた。
村の広場では、リナが夕食の準備をしながら待っていた。
「おかえり。アルト、大丈夫だった?」
「あ、はい何のことでしょうか」
「あはは、お疲れ様。……ガイウスさん、アルトを止めなかったんだね」
リナの問いに、ガイウスは夕陽に目を細めながら、短く答えた。
「……一人で抱えるのも、たまには面倒だったので」
その言葉に、リナもアルトも、一瞬だけ動きを止めた。
常に完璧で、常に一歩先を行く「農家」が、初めて見せた隙。
「……珍しいこと言うじゃん」
リナが、これ以上ないほど優しい笑みを浮かべる。
「そっか。なら、もっと頼っていいからね。はい、約束」
「……約束します」
アルトは、二人の間に漂う少しだけ気恥ずかしいような、それでいて確かな絆を感じ、小声で呟いた。
「俺も、一応その頼られるメンバーに入ってていいですよね?」
誰も答えなかったが、ガイウスの足取りが、来る時よりもほんの少しだけ軽くなっているのをアルトは見逃さなかった。
スローライフは、色々あるけど順調だ。




