第44話 黒龍と自称農家2
北の岩場に出ると、そこには最初から「山」の主が目を開けて待っていた。
朝霧が龍の藍色の鱗を濡らし、金色の瞳だけが鋭く発光している。
「……来たか」
地の底を這うようなヴェルダの声が、俺の足を
止めるより先に届いた。
「来ました」
「遅い。羽虫の歩みは、いつの間にこれほど鈍くなったのか」
「昨日と同じ時間ですが」
俺は平然と答え、二十メートルの境界線で立ち止まった。
龍は一瞬、不快そうに鼻を鳴らした。その熱風だけで霧が瞬時に蒸発し、周囲に不気味なほどの静寂が訪れる。
「そうか。……貴様の時間の感覚など、私にはどうでもいいことだ」
龍は山の向こうへ視線を逸らした。
「別に待っていたわけではない」という、あまりにも不器用な拒絶。
だが、その瞳は確かに俺の姿を認めてから動いた。
「龍たちに伝えましたか」
「伝えた。私の不機嫌をな。南の境界を越えていた連中は、五十キロほど北へ戻らせた。貴様の庭を汚す無粋な輩は、当面は現れんだろう」
「……ありがとうございます」
「礼を言うなと言った。不愉快だ」
ヴェルダはまた鼻から息を吐いた。
かつては威嚇だと思っていたそれは、今では「言葉にならない溜息」に聞こえた。
数千年の退屈の中で、自分の言葉を理解する存在がいなかった者の、長い、長い溜息だ。
「ヴェルダ。一つ聞いていいですか」
「またか。貴様の『一つ』は、常に重い」
「毎日一つずつ聞くのが、農家の効率です」
ヴェルダは低く唸り呆れている。
だが、その唸り声には、昨日のような殺気は混じっていない。
「なんだ?」
「縄張りが戻れば——それで終わりですか。地脈が修復されれば、すべて解決ですか」
俺の問いに、ヴェルダは長い沈黙を返した。
風が吹き、岩肌が軋む。
龍の鱗が光の角度によって深い藍から紫へと移ろい、その一枚一枚が歴史を刻んだ碑文のように見えた。
「……そうはならぬ」
ヴェルダの声は、今までで最も低く、冷たかった。
「地脈は修復できるだろう。だが、毒された『土地』はすぐには戻らぬ。この二十年で、北の土は死に、水は腐り、植物は変異した。地脈という血が戻ったところで、肉である土が再生するには、百年はかかる」
「百年、ですか」
「龍にとっては瞬きのようなものだが……そこに住まう命にとっては、絶望に等しい時間だ。北に戻れぬ龍たちは南に留まり続け、やがて縄張り争いを起こす。貴様の村のすぐ近くでな」
俺は唇を噛んだ。
地脈の修復という「インフラ」を整えても、そこにある「畑」が死んだままでは意味がない。
カインが言っていた、魔族の子どもの話を思い出す。
来年も、あの場所で笑えるかどうか。それは、この「百年」という壁の向こう側にある。
「土地の回復を早める方法はありますか。人の手で」
「通常の人間には、土に魔力を浸透させる技術などない。だが……」
ヴェルダが、じっと俺を見た。
その金色の瞳が、俺の魔力回路を、筋肉の動きを、そしてその「質」を透かし見る。
「……お前のような、土を愛でる執念を持つ者なら、あるいは可能かもしれぬ。地脈から直接魔力を引き抜き、それを土地の隅々まで行き渡らせる。それは耕作というよりは、世界を再定義する作業だ」
「やったことはありませんが——やってみる価値はありそうですね。地脈を流す技術は、水の引き込みと同じです。応用できます」
「根拠なき自信だな、人間」
「根拠、ですか。さあ。ただ、やってみないとわからない、というだけです」
ヴェルダがまた唸った。今度のそれは、呆れではなく、確かな「興味」を孕んでいた。
「……なぜお前は、そこまでする。貴様の寿命で、百年の先を見据える意味があるのか」
「面倒なことは、俺が生きているうちに終わらせたいだけです。……それに、知っている魔族の子どもの話を聞いたので」
「魔族の子のことか。会ったこともないだろうに」
「会わなくても、そこに『いる』と知った以上、俺にとっては実在する隣人です。子どもが減っていく土地を、俺は好まない。農家ですから」
「……そうか」
ヴェルダの声に、一瞬だけ湿った響きが混じった。
「あの集落の子どもたちは、毎年少しずつ消えている。龍には関係のない話だ……だが、消えゆく火を見るのは、あまり心地よいものではなかった」
沈黙が降りた。
山の稜線が夕陽に染まり、空が燃えるような橙色に変わっていく。
その時、不意にヴェルダが問いかけてきた。俺ではなく、龍の方から。
「一つ聞いていいか。……ガイウス・ノア」
名前を呼ばれた。俺は驚きを隠し、頷いた。
「どうぞ」
「お前は——強いか」
シンプルだが、最も重い問い。
俺は少し考え、正直に答えた。
「そこそこは。ただ、相手によります」
「私と比べて、どうだ」
「やってみないとわかりません。……ですが、可能性はゼロではないと思います」
ヴェルダが、低く笑った。
腹の底から湧き上がったような快活な音だった。
龍が笑うのを、俺は初めて見た。
「ハッハッハ、正直な人間だ。私より強いかもしれないと、心のどこかで盲信しているな?」
「可能性と確信は別ですよ。ただ、嘘をついて自分を小さく見せるつもりもありません」
「……ふむ、試したくなった。お前という男を。お前が持つその『可能性』を」
その言葉には、明確な闘争の意志が宿っていた。
だが、それは殺し合いの宣告ではない。
数千年の高みにいた王が、ついに見つけた「対話の相手」への、最上の招待状だった。
「今日は面倒なので、また今度にしてください」
「ふっ……。今日でなくていい。お前がそのクワを置き、私と真に向き合う準備ができたときだ。待ってやる。百年でも構わんが、お前の寿命が尽きる前には来るのだな」
「善処します。……では、また明日」
ヴェルダが静かに目を閉じた。
それは、確かな信頼関係、あるいは「対等の契約」の合図だったんじゃないだろうか。
村に戻ったのは、夕闇が本格的に降りてくる頃だった。
リナが食堂の前に立ち、腕を組んで待っていた。
「おかえり。……なんだか、今日は顔つきが険しいね」
「いやぁ、面倒なことが増えました。地脈の修復だけでは、土地が戻るのに百年かかるそうです」
俺はリナに、ヴェルダから聞いた土地の再生の話をした。
リナは驚き、それから少し不安げに俺を見上げた。
「ガイウスさんが、土地を再生させるの? あの広い北の地を?」
「やるしかないでしょうね。後ヴェルダには『勝負したい』と言われました。一騎打ち、ですかね」
リナが目を丸くし、それからふっと笑った。
「やっぱりね。仲良くなってるじゃない、完全に」
「仲良く、ではないでしょう。認め合わないと先に進めない相手だと言っているんです」
「それを世間じゃ『仲良くなった』って言うのよ、ガイウスさん。……ねえ、ガイウスさん」
リナが少し歩み寄り、俺の袖をそっと引いた。
「ヴェルダって……孤独だったのかな、ずっと」 「……そうかもしれませんね。百年、いや数千年、誰とも対等に話せなかったと言っていましたから」
「寂しいよ、それは。絶対。だから、毎日来るガイウスさんのことを、あんなに怖そうな顔をして待ってるんだよ」
俺は北の山を振り返った。
夕焼けが沈み、深い藍色の夜が始まろうとしている。
あそこで、ヴェルダは一人、目を閉じている。
孤独かどうかはわからない。
だが、毎日やってくる一人の人間に、自分の名を教え、自分の故郷の惨状を語り、そして戦いを求めた。
それは、強すぎる者が唯一許された、甘やかな「甘え」なのかもしれない。
「……明日、また行きます」
「うん。……気をつけてね。それと、明日は美味しいお弁当を持たせてあげる」
「いつも助かります。農家は体が資本ですから」
リナが笑い、俺も少しだけ口の端を上げた。
一騎打ちの予感。 土地の再生。
スローライフまでの道のりは険しい。




