第43話 黒龍と自称農家
(黒龍side)
話しかけてしまった。
なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。
四日間、あの人間が来た。
最初は無視した。
この世界に生まれてから幾度となく繰り返してきた、取るに足りない「排除」のプロセスだ。
剣を振るう者も、魔術を編む者も、群れをなして来る者も、等しく私の前では「恐怖」という一色の感情に染まる。
だが、あの人間は違った。
一日目。
縄張りに入り、格下だと判断し、私は目を閉じた。
翌日。
昨日より少し近い位置に、男はいた。
更に翌日。
苛立ちを込めて鼻息を吐いた。
熱波で岩が溶ける様を見れば、いかなる強者も死を悟るはずだった。
だが、あの人間は逃げない。
更に翌日。
あの人間は私の吐息一つで灰になる距離まで踏み込んできた。
そこまで来た者を、私は数えるほどしか知らない。
その大半は、私の魔力の圧力に内臓を潰され、発狂するか、あるいは震えながら命乞いをした。
それが「捕食者」と「餌」の正しい関係だ。
なのに、あの人間は平然と立っていた。
そして、私を「見た」。
小さな、人間の目だ。
虫の目ほどにしか思っていなかったその瞳と視線が合った瞬間、私は背筋に奇妙な疼きを感じた。
それは恐怖ではない。好奇心とも違う。
この男は、私を神とも災厄とも思っていない。ただ、そこに存在する巨大な「何か」として、極めて冷静に分析し、測っている。
その「深さ」に、私の何千年も止まっていた興味がわずかに動いた。
だから——問いかけてしまった。
「なぜ来る」
男は「様子を見ている」と答えた。
まるで、明日の天気をうかがうような平淡な声で。
怒りは湧かなかった。
ただ、名前のない困惑だけが残った。
「帰れ」と言えば、男は素直に帰った。
その背中を見送りながら、私は不覚にも思ってしまった。
——明日も、この静寂を乱しに来るのだろうか。 期待ではない。
だが、この数千年の退屈に穿たれた小さな「穴」が、どう広がるのかを、私はわずかに注視していた。
(ガイウスside)
五日目の朝。
北の空気に、明確な「予感」が混じっていた。
岩場を越え、開けた場所に出る。
そこには、最初から目を開けて待っている黒龍がいた。
「また来たか」
俺が足を止めるより早く、声が届く。
昨日の「帰れ」という拒絶ではない。
それは、俺という存在の継続を認めた上での、地鳴りのような呼びかけだった。
「来ました」
「帰れと言ったはずだ。死に急ぐか」
「言われましたね。ですが、昨日の問いにまだ答え足りていない気がしたので」
黒龍が鼻から息を吐き、足元の岩を赤く焼いた。
苛立っているのか、あるいは俺の図太さを試しているのか。
「何をしに来た」
「あわよくば交渉をしたいと思いまして」
「交渉……だと?」
黒龍の金色の瞳が細くなる。
圧力が一段階跳ね上がった。
俺は一歩踏み込み、その圧力の真っ只中でクワ……ではなく、自分の腰に差したポーションの瓶を軽く叩いた。
「あんたが動き始めたせいで、南に逃げたAランク龍たちが俺の畑を脅かしている。正直、非常に迷惑です」
「……羽虫が。自分の庭の心配か」
「農家にとって、庭は世界のすべてですので‥ただあんたが動いた理由があるはずだ。それを教えてもらいたい」
黒龍はしばらく沈黙した。 風が吹き、その藍色の光沢を帯びた鱗が不気味に輝く。
「……縄張りが、狭くなったのだ。北の地脈が、ここ百年ほどで歪み、私の居所を侵し始めた」
「地脈の修復が始まったからでしょうね。王国の無茶な開発を止める協定を結びました。今、流れが激しく変わっている時期なんです」
龍の瞳に、初めて「驚き」の色が混じった。
「王国と協定だと? ……貴様は何者だ」
「農家です」
「……農家が、国を動かしたというのか。支離滅裂なことを」
「色々あったんです。とにかく、あと数年もすれば地脈は安定し、北の地は元より豊かになる。それまで、この場所で待てませんか。その代わり——」
俺は龍の巨大な瞳を真っ直ぐに見据えた。
「南へ逃げた龍たちに『北へ戻れ』と命令を出してほしい。あんたの咆哮一つで済む話だ。そうすれば、俺の畑も守られ、あんたの睡眠も邪魔されない」
黒龍は再び黙った。 それは、数千年の誇りと、目の前の男が提示した「合理的な利害」を天秤にかける時間だった。
「……いいだろう。龍どもには、私の不機嫌を伝えておく。奴らは二度と南へは行かん」
「助かります。礼を言いますよ」
「礼などいらん。不愉快だ」
黒龍はそう切り捨てたが、俺が去ろうとしたとき、その低い声が背中に刺さった。
「待て。……名を名乗れ。私にこれほど物を言わせた男の名を」
「ガイウス・ノア。農家です」
「農家、か……。私はヴェルダ。古き契約において、そう呼ばれていた」
「ヴェルダ、ですね。明日は、退屈しのぎに良いポーションを持ってきます。地脈の毒を和らげるやつを」
「……勝手にしろ」
ヴェルダはそう言って目を閉じた。 それは「帰れ」という拒絶ではなく、再来を許容する沈黙だった。
村に戻ると、広場にはリナが待ち構えていた。 俺の顔を見た瞬間、彼女は大きくため息をつき、それから少しだけ安心したように肩を落とした。
「おかえり。……なんだか、今日は顔つきが違うね」
「名前を教えてもらいました。ヴェルダというそうです」
「名前を!? 黒龍が自分から?」
「まあ、名乗らないと俺が勝手に変な名前をつけそうだと察したのかもしれません」
(クロとか良い名前かなと思ったけど)
「それは……否定できないけど」
リナが少し真面目な顔になり、俺の目を見た。 「ねえ、ガイウスさん。……もし、黒龍‥ヴェルダと戦うことになったら、どうするの?」
「戦わずに済むのが一番ですが……。もし向こうが『無関心』を捨てて、明確な敵意を持ったら、その時は——」
俺は、まだ答えの出ない右手の平を見つめた。 「やってみないとわかりません。あんなに巨大な存在とやり合うのは、俺も初めてなので」
「……ガイウスさんが『わからない』なんて言うの、初めて聞いたかも」
リナが少しだけ、俺の服の袖を引いた。
「でも、わかったよ。ガイウスさんは、そのヴェルダと『対等』になろうとしてるんだね」
「対等、というよりは……。お互いに自分の生活を守るための、境界線を引いているだけですよ。それが農家のやり方ですから」
夕焼けが北の山脈を赤く染める。
あそこに、ヴェルダがいる。
名前を知ったからといって、すべてが解決したわけではない。
だが、少しづつだけど、良い方向に向かって来ていると思う。
スローライフは順調に流れていく。




