第42話 黒龍との接触
翌朝。
まだ星が残る夜明け前に、俺は村を出た。
昨日よりも少し早い。
誰にも行き先を告げず、ただ使い慣れたクワを肩に担ぐ代わりに、腰に最低限のポーションだけを差して。
北の森に入ると、そこは昨日にも増して「異界」の様相を呈していた。
空気が重い。ただの酸素ではなく、高密度の魔力が肺に直接流れ込んでくる。
呼吸をするたびに、内臓が薄く膜を張った魔力に圧迫されるような不快感がある。
「……ふぅ、やはり快適とは言い難いな」
一歩踏み出すごとに、足元から「来るな」という無言の圧力を感じる。
並の冒険者なら、この圧力だけで膝をつき、心臓を鷲掴みにされたような恐怖で動けなくなるだろう。
だが俺は、これを手入れの行き届いていない畑の雑草取りのようなものだと自分に言い聞かせた。
面倒だが、避けては通れない作業。
そう思うと、不思議と足は軽くなった。
岩場を越え、昨日「山が呼吸している」のを見たあの場所へ辿り着く。
見えた、北の山の中腹。
切り立った崖を背にし、翼を折りたたんで、岩に寄りかかるようにして「それ」は座っていた。
昨日は遠目だったが、今日は意図的に距離を詰める。
およそ五十メートル。
人間同士なら大声を出せば届く距離だが、あの体躯を前にすれば、それは龍の爪先を眺めているのと同義だった。
黒龍が、ゆっくりと目を開いた。
金色だ。 だが、金塊のような輝きではない。
光を飲み込み、深い淵から滲み出てくるような、重く暗い金色。
その瞳が、俺を捉えた。
一秒。 いや、瞬きほどの刹那だったかもしれない。
それから——黒龍は興味を失ったように、静かに目を閉じた。
咆哮も、威嚇も、殺意すらない。
ただ、そこに「ある」だけの存在。
(……無視、ですか。まあ、初対面ならそんなものか)
俺は踵を返し、村への道を戻り始めた。
一回目の接触としては、生きて帰れただけで十分な収穫だった。
二日目。俺はまた同じ場所へ向かった。
昨日の「圧」に体が慣れたのか、呼吸は幾分か楽になっていた。
今日は昨日より近づいてみる。
黒龍は、俺がその位置に立った瞬間に目を開いた。
「おはようございます。いい天気ですね」
声をかけてみたが、もちろん返事はない。
龍は昨日よりも少しだけ長く俺を見つめ、それからまた重い瞼を閉じた。
まるで、羽虫が止まったのをやり過ごす牛のような無関心さだ。
だが、俺は知っている。
無視をされるということは、少なくとも「排除すべき敵」とは見なされていないということだ。
三日目。更に近づく。
ここまで来ると、龍の呼吸による熱気が、肌をチリチリと焼くのがわかる。
黒龍は目を開いた。
俺がそこで立ち止まると、龍は暗い金色の瞳で、じっと俺を観察し始めた。
俺もまた、龍の瞳を見返した。
どちらも動かない。
風が吹き、岩が軋む音がする。
この高地に鳥の声はない。
聞こえるのは、龍の腹の底で鳴り響く、地鳴りのような鼓動の音だけだ。
どのくらいそうしていただろうか。
黒龍が、わずかに鼻先を動かし、息を吐いた。
「……っ」
熱波が押し寄せ、足元の岩が瞬時に赤熱する。 威嚇ではない。
それは、どちらかと言えば「ため息」に近いものに感じられた。
何かに疲れ、何かに飽き果てた者が、ふと漏らす溜息。
「……今日は、ここまでにしましょう」
俺がそう告げると、龍は満足したかのように目を閉じた。
言葉は交わしていない。
だが、何かが少しだけ認識された気がする。
四日目。
俺はついに二十メートルの距離まで踏み込んだ。
ここまで来ると、黒龍の鱗の一枚一枚が、巨大な盾のように連なっているのが見える。
光の加減によって、黒は深い藍色に、あるいは紫に表情を変えた。
翼の先が岩肌を削り、その一端だけで俺の身長の何倍もの大きさがある。
黒龍が目を開けた。
今日は、逃れようのない圧力が全身を貫いた。 視線が合った瞬間、本能が警告を鳴らす。
「逃げろ」ではない。
「気を抜くな。一歩でも踏み外せば、世界が終わるぞ」という、冷徹な警告。
俺は両手を軽く上げ、敵意がないことを示した。
龍は動かない。俺も動かない。
永遠とも思える静止。 その時だった。
「…………なぜ、来る」
声、ではなかった。
それは振動であり、衝撃だった。
大気が震え、岩場が小刻みに波打ち、足の裏から骨の芯まで響いてくる重低音。
ただそれは紛れもない、【古代語】だった。
俺は驚きを隠し、呼吸を整えてから答えた。
「様子を見に来ています」
「何の様子をだ」
「あなたの。そして、この先の村に影響が出るかどうかの」
黒龍の鼻から、また熱い息が漏れた。
今度は岩が赤くなるだけでは済まず、ドロリと溶け始めた。
「……帰れ」
地の底から響くような、短く、拒絶に満ちた言葉。
だが、俺は口の端を少しだけ上げた。
「わかりました。今日は、言われた通りに帰ります」
俺は踵を返し、山を降り始めた。
足取りは驚くほど軽い。
四日かかったが、ついに「会話」が成立した。 「帰れ」は拒絶だが、それは相手を認識していなければ出ない言葉だ。
無関心から、対話の対象へ。
種を蒔き、毎日水をやり、ようやく芽が出た瞬間に似た喜びが、胸の奥に灯っていた。
村に戻ると、広場の入り口にリナが立っていた。
夕暮れの中、彼女は腕を組み、俺が戻ってくるのを今か今かと待っていたらしい。
俺の姿を認めると、彼女は安心したように肩の力を抜き、すぐに怒ったような顔で詰め寄ってきた。
「おかえり。……どうせ今日も、無茶してきたんでしょう?」
「いえ、今日は大きな進展がありました」
「進展?」
「話しかけてきました。黒龍が」
リナの動きが、ピタリと止まった。
「……あの龍が? 本当に?」
「ええ。古代語で『帰れ』と」
リナは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で俺を見た。
「……帰れって言われたのに、そんなに嬉しそうなの?」
「言われた通りに帰ってきましたから、問題ありません。無視されるよりは、ずっといい」
「もう、ガイウスさんの基準、本当におかしいよ……」
リナは呆れたようにため息をついたが、その瞳には隠しきれない好奇心と、少しの不安が混じっていた。
「……ねえ、ガイウスさん」
「なんですか?」
「あの龍……怖くないの? 記録じゃ、息一つで軍隊を消すんでしょ?」
俺は少し考え、正直に答えることにした。
「怖いですよ。正直、立っているだけで精一杯です」
「じゃあ、なんで……」
「面白くなってきました。あんなに巨大な存在が、なぜ今になって動き、なぜ俺に『帰れ』と言ったのか。それを知るのが、今は少し楽しみです」
リナは俺の顔をじっと見つめ、やがて噴き出すように笑った。
「……やっぱり変な人。怖いって言いながら面白いなんて、普通は言わないよ」
「そうですか?」
「そうだよ。でも……」
リナが、少しだけ俺の袖を引いた。
いつもの、少し困ったような、それでいて俺を繋ぎ止めようとする仕草。
「……変な人だから、信じられるのかもね。無茶しすぎたら、私が力ずくでも連れ戻してあげるから」
「それは頼もしい。夕飯は何ですか?」
「ガイウスさんの好物。……頑張ったご褒美に、特別にサービスしてあげる」
リナが前を歩き出す。
俺はその背中を追いながら、もう一度だけ北の空を振り返った。
あの金色の瞳が、まだ脳裏に焼き付いている。
だが、明日もまた行く。
言わなくなるまで、あるいは別の言葉が漏れるか、別の形で終わるまでは。




