閑話 悲劇再び
王国の南端。
かつてガイウスが作った高さ数十メートルにも及ぶ『大地の防壁』。
エルフの精霊魔導機部隊の総攻撃すら傷一つ付けられなかったその絶対の壁は今、中央から無残に叩き割られ、巨大なクレーターのような大穴を開けていた。
崩落した岩塊が砂煙を上げる中、その穴を潜り抜けて「それ」は姿を現した。
ズズンッ……!
一歩踏み出すたびに、大地が悲鳴を上げてひび割れる。
体長三十メートルを超える、山のような巨大な異形。
かつて誇り高きエルフの将軍ゼルギスであったその怪物は、もはや美しい人型の面影を微塵も残していなかった。
全身を覆うのは、黒曜石のように鈍く光る禍々しい樹皮。
だが、それは健康な植物のそれではない。
樹皮の隙間からは、腐った泥水のような緑色の体液が滝のように流れ落ち、地面をジュウジュウと溶かしている。
太い丸太を何十本もより合わせたような両腕は、不気味に捻じれ、先端は鋭い杭のように尖っていた。
『……ォ……ォォォ……』
怪物の頭部にあたる部分には、無数の木の根が絡み合ってできた「顔のようなもの」があった。
そこには目も鼻もなく、ただ一つ、底なしの虚無へと続く巨大な「口」だけがポッカリと開いている。その奥から漏れ出すのは、獣の咆哮でも、エルフの言語でもない。
世界そのものを呪うような、耳障りなノイズの塊だった。
怪物が息を吐き出すたび、猛毒の瘴気が緑色の霧となって周囲に撒き散らされる。
「ひ、ひぃぃぃっ!」
「逃げろ! 息を吸うな、肺が腐るぞ!!」
防壁の裏側で警戒にあたっていた王国の国境警備隊が、恐怖に顔を引き攣らせて逃げ惑う。
彼らが放った火球や氷の矢といった魔術は、怪物の周囲三十メートルに近づいた瞬間に、見えない力場によって「プツン」と掻き消された。
大気中の魔力を根こそぎ奪い、死の風へと変換する精霊王シルフィードの『狂気の加護』。
それが、ゼルギスという肉体を苗床にして、極限まで増幅されていた。
「だ、駄目だ! 結界符も発動しない! 魔力が……空間から消えている!」
一人の若い兵士が、崩れた岩につまずいて転倒した。
彼が顔を上げた瞬間、上空を覆い隠すほどの巨大な影が落ちる。
怪物が、ゆっくりと、しかし確かな殺意を持って巨大な腕を振り上げた。
『……ジョウカ……セヨ……ケガレ、ヲ……』
ノイズに混じって、怪物――ゼルギスの心の奥底に残った「狂信」だけが、うわ言のように繰り返される。
エルフとしての自我はとうに崩壊し、ただ「人間を滅ぼす」という命令だけに従う肉の機械。
ドゴォォォォォンッ!!
振り下ろされた丸太の腕が、兵士がいた大地ごと、周囲の空間を物理的に粉砕した。
舞い上がる土砂。
しかし、それ以上に恐ろしいのは、怪物の歩いた跡だった。
怪物の足が触れた大地からは、瞬く間に緑が失われていく。
青々としていた草は一瞬で黒く変色して炭のように崩れ去り、土壌に潜んでいた虫や微生物すらも死に絶える。
豊かな水分を含んでいた土は、手で触れればサラサラと崩れる「死の砂」へと変わっていった。
かつて南の大地から吹き抜けていた暖かな風は、今や鼻を突く腐肉のような臭いと、冷たい死を運ぶ暴風へと変貌している。
空には分厚い暗雲が立ち込め、太陽の光すらもこの異形を恐れるように隠れてしまった。
「ああっ……終わりだ。王国は、このバケモノに食い尽くされる……!」
生き残った兵士たちは、武器を捨てて王都の方角へと走り出した。
背後から迫る重低音の足音は、死神の足音そのものだ。
ズズンッ……ズズンッ……。
怪物は歩みを止めない。
痛みも、疲労も、恐怖も感じない。
ただ、視界に入るすべての「生」を呪い、大地を枯らしながら、北へ、北へと進軍していく。
王国の南半分が、文字通り「死の砂漠」に呑み込まれようとしていた。
防ぐ手立ては、既存の軍隊にも、魔導師団にも残されていない。
この理不尽なまでの絶望の行進を止められる者がいるとすれば――この星の法則すらも力業でねじ伏せる、あの「規格外の農家」ただ一人だけであった。




