第7話 魔王城への侵入
ジュウウウウウ……。
食欲をそそる音が、広々としたリビングに響いている。
私はキッチンに立ち、フライパンの上で極上の肉を踊らせていた。
今日のメインディッシュは『ドラゴン・テールのステーキ』。
赤ワインと玉ねぎをじっくり煮詰め、真っ赤な特製シャリアピンソースを作っている最中だ。
「いい匂いだ……。待ちきれんな」
ダイニングテーブルについたレイヴンさんが、行儀よくナイフとフォークを握りしめて待機している。
その目は、餌を待つポチ(フェンリル)と同じくらいキラキラしている。
「もうすぐ焼けますわ。……あ、ポチ、よだれが垂れていてよ」
足元で待機していたポチが、慌てて前足で口元を拭う。
平和だ。
外では何やら騒がしい気配が近づいているけれど、この幸せな夕食の時間を邪魔させるつもりはない。
その時だった。
ドォォォォン!!
リビングの扉――重厚な石造りの二重扉が、爆音と共に吹き飛ばされた。
粉塵が舞い、静寂が破られる。
「……あら?」
私はお玉を持ったまま振り返った。
もう、乱暴ね。ノックくらいできないのかしら。
煙の向こうから、複数の人影が現れた。
泥と煤にまみれ、ドブのような異臭を放つ集団。
先頭に立つのは、錆びた剣を掲げた金髪の男、アリステアだ。
『見つけたぞ、魔王!!』
彼は部屋の中心で叫んだ。
そして、エプロン姿の私と、キッチンの惨状――巨大な肉塊と、煮えたぎる真っ赤なソースを見て、顔面蒼白になった。
『ひっ……! ち、血だ! 生き血を煮込んでいるぞ!』
『なんてことだ……あの肉、まさか人間か!?』
神官の少女が口元を押さえてえずいている。
(血? 赤ワインソースよ)
(人間? ドラゴンの尻尾よ。失礼ね)
しかし、アリステアは勝手に戦慄し、悲劇のヒーローのような顔を作った。
『おのれ魔王……! シェリルの体を乗っ取り、そんな邪悪な儀式を……!』
『安心しろシェリル! 今、この聖剣でその呪われた肉体を浄化(物理的に破壊)してやるからな!』
言っていることが支離滅裂だ。
要するに、私の料理をゲテモノ扱いした上で、私を殺すと言いたいらしい。
フッ。
背後で、気配が消えた。
レイヴンさんが音もなく立ち上がっていた。
室温が一気に氷点下まで下がる。本気の殺気だ。
「……貴様ら。俺の食事の時間を邪魔しただけでなく、彼女の料理を愚弄するとは」
彼が腰の剣に手をかけた。
まずい。このままだとリビングが血の海になる。
掃除が大変だわ。
「待って、レイヴンさん」
私は片手で彼を制した。
なぜなら、もっと許せない光景が目に入ったからだ。
アリステアたちが、ズカズカと部屋に入り込んでくる。
その足元。
沼地の泥と、ヘドロと、魔物の体液が混ざった汚いブーツ。
それが、私の自慢の「ラグ」を踏みしめた。
「――あ」
そのラグは、ポチの抜け毛(極上のブラック・カシミヤ風)を集め、私が夜なべして一本一本紡ぎ、織り上げた力作なのだ。
ふわふわで、真っ白な(脱色加工済み)、雲のような肌触り。
それが一瞬で、どす黒い泥に汚された。
プツン。
私の中で、何かが切れる音がした。
「……脱ぎなさいよ」
『あ? 何を言って――うおっ!?』
アリステアが聖剣を抜こうとしたが、錆びついていて抜けないようだ。
ガチャガチャと無様な音を立てている。
「土足厳禁って言ってるのよッ!!!」
私の怒声が響き渡った。
アリステアたちがビクッと肩を震わせる。
殺されることへの恐怖?
いいえ。
家主として、掃除を愛する者としての、正当な憤りだ。
私はお玉を置き、両手を突き出した。
狙いは一点。あの汚い集団ごと、汚れを排除する。
「『高圧床洗浄』!!」
本来は、タイルの目地に入り込んだ頑固な黒ずみを水圧で弾き飛ばす魔法。
だが、今の私は激怒している。
さらに、ここはダンジョンコア(私の可愛いスマート家電)の加護下にある。
出力リミッターは解除済みだ。
ドゴォォォォォォォッ!!!
私の掌から、ダムが決壊したような激流が噴出した。
それはもはや掃除ではない。災害級の鉄砲水だ。
『な、なんだこれはぁぁぁッ!?』
『水!? いや、水圧がおかしいぃぃぃ!』
アリステアたちの叫び声が、轟音にかき消される。
彼らは泥汚れと一緒に、木の葉のように舞い上がった。
「私のラグを汚した罪、万死に値するわ! 消毒! 洗浄! すすぎ!!」
私は容赦なく水を浴びせ続ける。
水流は渦を巻き、彼らをドラム式洗濯機の中のようにグルグルと高速回転させ、壁際まで押し流していく。
『ぐぼァッ! 息が……!』
『回るぅぅぅ! 目が回るぅぅぅ!』
数秒後。
私は魔法を止めた。
「『脱水』」
仕上げに乾燥魔法をかけると、壁際に「人の形をした何か」が五つ、ピタッと張り付いた状態で停止した。
彼らは白目を剥き、ピクピクと痙攣している。
鎧の泥も、服の汚れも、体臭さえも綺麗さっぱり落ちていた。
ついでに装備もいくつか水圧で弾け飛んで、半裸になっているけれど。
「ふぅ。綺麗になったわ」
私は満足して頷いた。
ラグの汚れも完全に落ちている。さすが私の魔法だ。
振り返ると、レイヴンさんが剣の柄から手を離し、呆然と立ち尽くしていた。
ポチは腹を見せて降伏のポーズをとっている。
「……シェリル。今の魔法は?」
「床掃除の魔法ですけれど?」
「……そうか。俺の知っている掃除とは、概念が違うようだ」
レイヴンさんは乾いた笑いを漏らした。
壁際のアリステアが、震える手で聖剣を杖にして、ふらりと立ち上がった。
さすが勇者。あの水圧を受けても意識があるとは、しぶとい。
『ば、馬鹿な……』
彼はガタガタと歯を鳴らしながら、私を見た。
その目は、先ほどまでの傲慢さは消え失せ、底知れぬ恐怖に染まっている。
そして、ピカピカになった自分の肌を見て、絶望の表情を浮かべた。
『汚れが……傷跡まで……消えている……!?』
『間違いない……これは「存在浄化」の呪いだ……!』
『俺たちの存在そのものを、洗い流して消そうとしているんだ……!』
(失礼ね。ただの「洗浄」よ)
私が一歩近づくと、彼は「ひいっ! 消される!」と悲鳴を上げて後ずさった。
仲間たちも這いつくばって逃げようとしている。
「あら、まだ懲りていないの?」
私は手にしたお玉を軽く振った。
すると、彼らは一斉に悲鳴を上げた。
『く、来るな!』
『退却! 一時退却だぁぁッ!』
アリステアたちは、這々の体で扉の向こうへ逃げ出した。
入ってきた時の勢いはどこへやら。
脱兎のごとく、とはこのことだ。
ピカピカに磨き上げられた彼らは、来た時よりも輝いて見えた。
「……逃げ足だけは速いのね」
私はため息をつき、壊された扉を生活魔法『修復』で直した。
そして、何事もなかったかのようにキッチンへ戻る。
「お待たせしました、レイヴンさん。お肉、冷めないうちにいただきましょう」
「……ああ。君のメンタルが鋼すぎて、俺の方が胃もたれしそうだ」
そう言いながらも、レイヴンさんは席に着いた。
焼き上がったドラゴンステーキからは、先ほどの騒動を忘れさせるような、芳醇な香りが立ち上っている。
「いただきます」
「いただきます」
私たちはナイフを入れた。
肉は驚くほど柔らかく、口の中で解ける。
シャリアピンソースの酸味とコクが、肉の脂と絡み合い、完璧なハーモニーを奏でている。
「美味い……」
「ええ、最高ですわ」
壁際にへばりついた勇者たちの怨念(と水垢)など、この美味しさの前では些細な問題だった。
(でも、次は玄関マットを用意しておかないといけないわね。泥落とし機能付きのゴーレムでも置きましょうか)
私は次なる「カイゼン」を誓いながら、赤ワインを一口飲んだ。




