表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放令嬢は美味しいものを食べて静かに暮らしたかった  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

第1話 捨てられた令嬢は肉を焼く


「君のような地味で華のない女は、未来の王妃にふさわしくない」


王宮の夜会。

シャンデリアが煌めく広間の中心で、婚約者のアリステア様が高らかにそう宣言した。

彼の隣には、ピンク色のふわふわした髪の可愛らしい女性――新しい聖女が勝ち誇った顔で寄り添っている。


「よってシェリル・ヴァイオレットとの婚約を破棄し、辺境の魔境へ追放する! これは決定事項だ!」


周囲からの嘲笑。

冷ややかな視線。

「やはりな」「地味な公爵令嬢だもの」という囁き。


本来なら、ここで泣き崩れたり、無実を訴えたりするのが令嬢としての正解だったのかもしれない。


けれど、私の頭を占めていたのは別のことだった。


(……ああ、最悪だわ)


私はドレスの袖口に隠した「あるもの」の感触を確かめ、絶望した。

目の前のアリステア様との別れにではない。


(まだメインディッシュの「仔牛のロースト」を食べていないのに!)


今日のローストは、隣国から取り寄せた最高級品だと聞いていた。

だからこそ、私はマナー違反を承知で、晩餐会のテーブルから「銀のナイフ」をこっそり袖に隠し持っていたのだ。

いつものように「ダイエットのため」と皿を下げられる前に、隙を見て切り分けて食べるために。


その計画が、この茶番のせいで台無しだ。


空腹で胃が鳴りそうになるのを必死でこらえ、私は優雅にカーテシーをした。


「……承知いたしました」


心の中で(私の肉を返して)と毒づきながら。


   ◇


それから数時間後。

私は王家の紋章が入った馬車に揺られ、国境のさらに奥、「帰らずの森」と呼ばれる場所に放り出された。


鬱蒼と茂る木々。

湿った土の匂い。

どこか遠くで、地響きのような獣の咆哮が聞こえる。


「二度と戻ってくるな!」


御者はそう吐き捨てて、逃げるように馬車を走らせていった。

残されたのは、身につけているドレスと、袖の中に隠し持っていた「銀のナイフ」一本だけ。


「お腹がすいたわ……」


ぐう、と情けない音が静寂の森に響く。

悲しみや恐怖よりも先に、空腹が来るのが私という人間だ。


公爵家での生活は、飢えとの戦いだった。

『王太子の婚約者』として完璧な体型を維持するため、食事は極限まで制限された。

味のしない野菜スープ。パサパサのパン。

一口ごとに咀嚼回数を監視され、食べることへの罪悪感を植え付けられる日々。


(あれに比べれば、誰にも監視されない今の状況……精神衛生上は最高かもしれない)


問題は、ここにはレストランがないということだ。

私はため息をつき、森の奥へと足を踏み入れた。


ズブッ。


「……歩きにくいわね」


泥にハイヒールが沈む。

こんな靴では、獲物を見つけても追いかけられない。


私は躊躇なく靴を脱ぐと、生活魔法を発動させた。

「『切断(カッター)』」

魔力を刃状にして、ヒールの踵部分をスパッと切り落とす。

これで即席のフラットシューズだ。

ついでに重たいドレスの裾も膝丈まで切り裂き、動きやすく加工する。


「よし」


身軽になったその時だった。

ガサガサと茂みが大きく揺れ、凄まじい殺気が放たれたのは。


「ブモオオオオオオ!」


現れたのは、見上げるほど巨大なイノシシだった。

普通のイノシシではない。

全身が鋼のような黒い剛毛で覆われ、牙は赤黒くねじれている。

鼻息だけで地面の草が焦げ、木々が震えている。


魔物だ。

知識として知っている。この森には、騎士団ですら手を焼く凶悪な魔物が生息していると。


普通の令嬢なら、ここで悲鳴を上げて気絶するだろう。

けれど、私の目は違ったものを捉えていた。


視界の端に、半透明の文字が浮かび上がる。

私の持つ唯一の特技――『鑑定』スキルだ。


【名前:アイアンボア】

【肉質:Aランク(赤身と脂のバランスが至高)】

【推奨調理法:厚切りステーキ、直火焼き】

【弱点:首元の動脈(右耳の下3センチ)】


(……美味しそう)


恐怖? いいえ、これは「歓喜」だ。

あの分厚い胸板。

絶対にジューシーだ。

焼けば脂が滴り落ちて、香ばしい匂いが立ち上るに違いない。


「グルルァアアッ!」


イノシシが突進してくる。

戦車のような質量が、轟音と共に迫る。


私は動かない。

タイミングを計る。

王宮で嫌というほど叩き込まれたダンスのステップ。あれに比べれば、この直進攻撃はあまりに単調だ。


衝突の直前、私は半歩だけ横にずれた。

ごうっ、と熱風が頬を撫でる。

イノシシが横を通り過ぎる瞬間、私は右手をかざした。


私には、聖女のような「聖なる光」も、勇者のような「炎の剣」も出せない。

使えるのは、地味で役に立たないと言われた「生活魔法」だけ。


でも、使い方次第だ。


「『高圧洗浄(ハイ・ウォッシュ)』」


本来は、頑固な床の汚れを落とすための魔法。

だが、その水流を針の穴より細く絞り、全魔力を込めて噴射すれば――それは鉄さえ断つ「水刃」になる。


ヒュッ。


微かな水音がしただけだった。

鑑定スキルがピンポイントで示した弱点――右耳の下の動脈を、見えない刃が正確に貫く。


「ブ、ギ……ッ!?」


イノシシは悲鳴を上げる間もなく、勢いのまま数メートル滑って絶命した。

巨体が沈黙する。


「……ふぅ。勝てちゃった」


公爵家で「無能」と罵られていたけれど、意外と何とかなるものね。

それより今は、解体だ。

鮮度が落ちる前に処理しなくては。


私は銀のナイフを取り出し、イノシシに近づく。

「『洗浄(ウォッシュ)』」で泥を落とし、「『乾燥(ドライ)』」で表面の水分を飛ばす。

ナイフを入れると、驚くほどスッと刃が通った。

スキルが「ここを切れば骨に当たらない」というラインを教えてくれるからだ。


手早く肉を切り出し、枯れ木を集めて「『着火(イグニス)』」で火を熾す。

串に刺した肉を火にかける。


ジュウウウウウ……。


脂が炭に落ちて爆ぜる音。

鼻腔をくすぐる、濃厚で野性的な香り。


(いい匂い……!)


王宮のキッチンから漂ってくる気取った料理より、ずっと暴力的で、食欲をそそる。

表面がきつね色に焦げ、中はロゼ色の焼き加減。

味付けはない。

でも、文献で読んだことがある。「魔物の肉は高濃度の魔素を含み、それ自体が濃厚な塩気と旨味を持つ」と。


「いただきます」


私は熱々の肉にかぶりついた。


カリッ。ジュワッ。


「ん……っ!」


口の中に、旨味の爆弾が弾けた。

臭みなんて全くない。

噛むたびに溢れる肉汁は甘く、それでいて深いコクがある。

上質な岩塩を振ったような、絶妙な塩加減。


(美味しい……!)


涙が出そうだった。

今まで食べてきた冷え切ったスープや、毒見後の崩れた料理とは次元が違う。

これが、生きている味だ。


夢中で肉を平らげると、不思議な感覚に襲われた。

体の芯からカッと熱くなり、指先まで力がみなぎってくる。

疲れ切っていた手足が軽くなり、肌に潤いが戻るような感覚。


「魔力を……食べた?」


どうやら私の体には、魔物が栄養として最適だったらしい。

満腹になったお腹をさすりながら、私は夜空を見上げた。

木々の隙間から、美しい星が見える。


追放された。

家も、地位も、婚約者も失った。

これからの生活の保証なんて何もない。


けれど。


「……あのお城にいた時より、今のほうがずっと幸せだわ」


自然と笑みがこぼれた。

誰に遠慮することなく、好きなものを好きなだけ食べる。

それだけのことが、こんなに自由で心地よいなんて。


「さて、寝床を探さないと」


お腹が満たされると、次は快適な睡眠だ。

野宿は肌に悪い。

私は残りの肉を生活魔法の『収納(パック)』――空間を真空遮断して鮮度を保つ魔法――にしまい込み、再び歩き出した。


   ◇


この時の私はまだ知らなかった。


この森が、かつて世界を滅ぼしかけた古代ダンジョンの入り口であることも。

私が「ただのイノシシ」だと思って食べたのが、Cランク上位魔物『アイアンボア』だったことも。


そして――頭上の木の上から、怪しい影が私を凝視していることにも。


(……なんだ、あの女は)

(アイアンボアを一撃で……それに、あんなに美味そうに……)


暗闇で金色に光る瞳が、興味深そうに私を追っていることに、私はまだ気づいていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ