第1話 捨てられた令嬢は肉を焼く
「君のような地味で華のない女は、未来の王妃にふさわしくない」
王宮の夜会。
シャンデリアが煌めく広間の中心で、婚約者のアリステア様が高らかにそう宣言した。
彼の隣には、ピンク色のふわふわした髪の可愛らしい女性――新しい聖女が勝ち誇った顔で寄り添っている。
「よってシェリル・ヴァイオレットとの婚約を破棄し、辺境の魔境へ追放する! これは決定事項だ!」
周囲からの嘲笑。
冷ややかな視線。
「やはりな」「地味な公爵令嬢だもの」という囁き。
本来なら、ここで泣き崩れたり、無実を訴えたりするのが令嬢としての正解だったのかもしれない。
けれど、私の頭を占めていたのは別のことだった。
(……ああ、最悪だわ)
私はドレスの袖口に隠した「あるもの」の感触を確かめ、絶望した。
目の前のアリステア様との別れにではない。
(まだメインディッシュの「仔牛のロースト」を食べていないのに!)
今日のローストは、隣国から取り寄せた最高級品だと聞いていた。
だからこそ、私はマナー違反を承知で、晩餐会のテーブルから「銀のナイフ」をこっそり袖に隠し持っていたのだ。
いつものように「ダイエットのため」と皿を下げられる前に、隙を見て切り分けて食べるために。
その計画が、この茶番のせいで台無しだ。
空腹で胃が鳴りそうになるのを必死でこらえ、私は優雅にカーテシーをした。
「……承知いたしました」
心の中で(私の肉を返して)と毒づきながら。
◇
それから数時間後。
私は王家の紋章が入った馬車に揺られ、国境のさらに奥、「帰らずの森」と呼ばれる場所に放り出された。
鬱蒼と茂る木々。
湿った土の匂い。
どこか遠くで、地響きのような獣の咆哮が聞こえる。
「二度と戻ってくるな!」
御者はそう吐き捨てて、逃げるように馬車を走らせていった。
残されたのは、身につけているドレスと、袖の中に隠し持っていた「銀のナイフ」一本だけ。
「お腹がすいたわ……」
ぐう、と情けない音が静寂の森に響く。
悲しみや恐怖よりも先に、空腹が来るのが私という人間だ。
公爵家での生活は、飢えとの戦いだった。
『王太子の婚約者』として完璧な体型を維持するため、食事は極限まで制限された。
味のしない野菜スープ。パサパサのパン。
一口ごとに咀嚼回数を監視され、食べることへの罪悪感を植え付けられる日々。
(あれに比べれば、誰にも監視されない今の状況……精神衛生上は最高かもしれない)
問題は、ここにはレストランがないということだ。
私はため息をつき、森の奥へと足を踏み入れた。
ズブッ。
「……歩きにくいわね」
泥にハイヒールが沈む。
こんな靴では、獲物を見つけても追いかけられない。
私は躊躇なく靴を脱ぐと、生活魔法を発動させた。
「『切断』」
魔力を刃状にして、ヒールの踵部分をスパッと切り落とす。
これで即席のフラットシューズだ。
ついでに重たいドレスの裾も膝丈まで切り裂き、動きやすく加工する。
「よし」
身軽になったその時だった。
ガサガサと茂みが大きく揺れ、凄まじい殺気が放たれたのは。
「ブモオオオオオオ!」
現れたのは、見上げるほど巨大なイノシシだった。
普通のイノシシではない。
全身が鋼のような黒い剛毛で覆われ、牙は赤黒くねじれている。
鼻息だけで地面の草が焦げ、木々が震えている。
魔物だ。
知識として知っている。この森には、騎士団ですら手を焼く凶悪な魔物が生息していると。
普通の令嬢なら、ここで悲鳴を上げて気絶するだろう。
けれど、私の目は違ったものを捉えていた。
視界の端に、半透明の文字が浮かび上がる。
私の持つ唯一の特技――『鑑定』スキルだ。
【名前:アイアンボア】
【肉質:Aランク(赤身と脂のバランスが至高)】
【推奨調理法:厚切りステーキ、直火焼き】
【弱点:首元の動脈(右耳の下3センチ)】
(……美味しそう)
恐怖? いいえ、これは「歓喜」だ。
あの分厚い胸板。
絶対にジューシーだ。
焼けば脂が滴り落ちて、香ばしい匂いが立ち上るに違いない。
「グルルァアアッ!」
イノシシが突進してくる。
戦車のような質量が、轟音と共に迫る。
私は動かない。
タイミングを計る。
王宮で嫌というほど叩き込まれたダンスのステップ。あれに比べれば、この直進攻撃はあまりに単調だ。
衝突の直前、私は半歩だけ横にずれた。
ごうっ、と熱風が頬を撫でる。
イノシシが横を通り過ぎる瞬間、私は右手をかざした。
私には、聖女のような「聖なる光」も、勇者のような「炎の剣」も出せない。
使えるのは、地味で役に立たないと言われた「生活魔法」だけ。
でも、使い方次第だ。
「『高圧洗浄』」
本来は、頑固な床の汚れを落とすための魔法。
だが、その水流を針の穴より細く絞り、全魔力を込めて噴射すれば――それは鉄さえ断つ「水刃」になる。
ヒュッ。
微かな水音がしただけだった。
鑑定スキルがピンポイントで示した弱点――右耳の下の動脈を、見えない刃が正確に貫く。
「ブ、ギ……ッ!?」
イノシシは悲鳴を上げる間もなく、勢いのまま数メートル滑って絶命した。
巨体が沈黙する。
「……ふぅ。勝てちゃった」
公爵家で「無能」と罵られていたけれど、意外と何とかなるものね。
それより今は、解体だ。
鮮度が落ちる前に処理しなくては。
私は銀のナイフを取り出し、イノシシに近づく。
「『洗浄』」で泥を落とし、「『乾燥』」で表面の水分を飛ばす。
ナイフを入れると、驚くほどスッと刃が通った。
スキルが「ここを切れば骨に当たらない」というラインを教えてくれるからだ。
手早く肉を切り出し、枯れ木を集めて「『着火』」で火を熾す。
串に刺した肉を火にかける。
ジュウウウウウ……。
脂が炭に落ちて爆ぜる音。
鼻腔をくすぐる、濃厚で野性的な香り。
(いい匂い……!)
王宮のキッチンから漂ってくる気取った料理より、ずっと暴力的で、食欲をそそる。
表面がきつね色に焦げ、中はロゼ色の焼き加減。
味付けはない。
でも、文献で読んだことがある。「魔物の肉は高濃度の魔素を含み、それ自体が濃厚な塩気と旨味を持つ」と。
「いただきます」
私は熱々の肉にかぶりついた。
カリッ。ジュワッ。
「ん……っ!」
口の中に、旨味の爆弾が弾けた。
臭みなんて全くない。
噛むたびに溢れる肉汁は甘く、それでいて深いコクがある。
上質な岩塩を振ったような、絶妙な塩加減。
(美味しい……!)
涙が出そうだった。
今まで食べてきた冷え切ったスープや、毒見後の崩れた料理とは次元が違う。
これが、生きている味だ。
夢中で肉を平らげると、不思議な感覚に襲われた。
体の芯からカッと熱くなり、指先まで力がみなぎってくる。
疲れ切っていた手足が軽くなり、肌に潤いが戻るような感覚。
「魔力を……食べた?」
どうやら私の体には、魔物が栄養として最適だったらしい。
満腹になったお腹をさすりながら、私は夜空を見上げた。
木々の隙間から、美しい星が見える。
追放された。
家も、地位も、婚約者も失った。
これからの生活の保証なんて何もない。
けれど。
「……あのお城にいた時より、今のほうがずっと幸せだわ」
自然と笑みがこぼれた。
誰に遠慮することなく、好きなものを好きなだけ食べる。
それだけのことが、こんなに自由で心地よいなんて。
「さて、寝床を探さないと」
お腹が満たされると、次は快適な睡眠だ。
野宿は肌に悪い。
私は残りの肉を生活魔法の『収納』――空間を真空遮断して鮮度を保つ魔法――にしまい込み、再び歩き出した。
◇
この時の私はまだ知らなかった。
この森が、かつて世界を滅ぼしかけた古代ダンジョンの入り口であることも。
私が「ただのイノシシ」だと思って食べたのが、Cランク上位魔物『アイアンボア』だったことも。
そして――頭上の木の上から、怪しい影が私を凝視していることにも。
(……なんだ、あの女は)
(アイアンボアを一撃で……それに、あんなに美味そうに……)
暗闇で金色に光る瞳が、興味深そうに私を追っていることに、私はまだ気づいていなかった。




