第36話 船の屋敷
「この気持ち悪い塊はなんだ?」
「牛のタン。」
「たん…?」
と聞いたバリュバルに悠はこともなげに答えた。
「牛の舌、ベロ。」
「…うげ」
先にニンフの湖に寄るといった悠に「なぜ?」と問うバリュバルにニンフの湖におすそ分けするものがあるのだと悠は答える。ついでに厨房で包んでもらった包みを開いて中身を見せる。
「ふむ。牛の舌を食べる習慣ってないんだ。」
やはり。数日前から厨房に頼み込んで、牛の解体の際に「舌」の部分を捨てずに取っておくようにお願いしたのだが、厨房の年配の女性は不思議そうな顔をしながらもうなずいた。
もともとニンフが「人間の舌」を食べるという話を聞いたときに、悠の頭に真っ先に思い浮かんだのは「タン」だった。その後無性に食べたいと思い厨房にお願いしてみたのだが、ふと、思い立ってニンフにおすそわけしたら、それがことのほか喜ばれた。
ミルクと酒に一昼夜付け込んで臭みを抜いてから軽く炙って食べやすいように切り込みを入れる。
ニンフの長は一口食べてから大感激して「もっともってこい。私にできることならなんでも願いをかなえてやろう。」と大興奮していた。
こんなに人間の里近くで共存するなら食性を知っておきたいし、人間以外に何が食べられるのか、知っておきたい気持ちもある。
人里の様々な味をおぼえられてしまうと家畜が襲われる危険も無きにしも非ずだが、まぁ彼女らは湖から遠く離れないため、さほど問題もないだろう。
うきうきと寄り道を終えてエギドの住処へ赴く悠を気味悪そうにバリュバルが眺めていたが、やがて何かを言うのをあきらめたのだろうか、静かに首を振っただけだった。
エギド達は全部で20体ほどの大移動になった。
「嬉しいなぁ。正直なところ、あんなこと言ってくれたけど、ほんとに何とかしてくれるなんて思ってなかったんだ。その場を収めるための方便だろって。街への移住を進めてたところだったんだ。」
「できる限り何とかするって、私は約束したつもりたったんです。ただ、話をつないだだけで、決めてくれたのはサナニエル公と奥方のジャイルーンさまだから、機会があればお礼を言ってもらえると。あ、そだ、屋敷に寄るように言われてたんだ。」
ジャイルーンはエギド達に会いたいと、途中立ち寄ってほしいと言っていたが、さすがにこの大人数で屋敷に押しかけるわけにもいくまい。
「いやぁ、、屋敷に寄らないならこっちの道からでも行けるかなぁなんて…。」
「…ということで道に迷ってしまいましたと。」
困ったようにつぶやく悠に、じっとりした目を向けるバリュバルであったが、「…といいつつも」と言説を翻す。
「俺もこの道で近道になると思った。ここ、地図、うっすらだが道もあるよな。」
そうなのだ。エギドの原住地から移住先までは、一旦南の街道に戻って屋敷の前を通り抜けて西へ向かう、当初はこの予定だったが、屋敷へ行かずとも西へ突っ切る道が地図上に見えるので、そのルートからでも問題なく到達できそうと、2人とも感じたのだ。
「エド、わかるか?」
「うーん。方向はあってると思うんだけど、こんなに遠いかな…。ちゃんと進んでれば、そろそろ目印の牛舎と畑があると思うんだけどな…。」
ギギが、エドに地図を渡して問うと、エドは地図と道…と言えるかかなり怪しい獣道だが、を交互に首をひねる。
と、分かれ道に来てしまい一同は足を止める。
一方はかなりしっかりした道だが、もう一方は獣道というのもおこがましい、かすかに草が横倒れているのを見つけなければ道などと気付かないほどの小道だった。
うん?
悠は小道の先に微かに揺れる影のようなものを見た気がした。
「方角的にはこっちの大きな道だよね。ま、こっちの小道は違うと思うけど、ちょっと偵察してきまーす。」
草をかき分けてしばらく進むと、1件の古びた屋敷にたどり着く。
「悠!頼むから!勝手に一人でどこかに行かないでくれ!」
がさがさと同じように草をかき分けてバリュバルが駆け寄ってくる。
「大丈夫。メルセデスと一緒だよ。それより…。」
「これは…。小屋…にしてはでかいな…。別宅か何かしら用として建てられた洋館のようだが…。もう用は成していないな。」
彼のそういうのの気持ちもわかる。古ぼけたレンガ、大半以上蔦に覆われて、裏側にまわれば屋根は半分以上崩れているではないか。
しかし、廃屋と言い切って通り過ぎることのできない迫力のある屋敷だった。それが…。
「これは…女神像…か。」
入口と思われる部分には、ペンキがすっかり剥げたような真っ白の楕円形の膨らみと、そのとんがり先にかろうじて女性とわかる石像が張り付いてた。
扉は、その女性像の腹の部分を割り開いたような形で左右開きの開けることができるようだ。悠が手をかけて左右に引っ張ると、さび付いた音がしてバラバラと粉のようなものが落ちてくる。粉が顔に当たって悠は、うへ、とつぶやいて口に入った粉をぺっぺっと吐き出した。
「あ。こら。またそうやってすぐ触る…。」
最近はバリュバルにも、悠のことがよくわかってきた。気になったものはとにかくすぐに触ってみたい、解明したい、体験したい、なんなら持って帰りたい。
扉が開くと右手は二階への階段、左手は1階の中扉となっていた。
いつ屋根が崩れてくるかわからないおんぼろ具合である。悠は慎重に中を覗き込んだ。
壁に絵が飾ってある。サナニエル公によく似た紳士と妻が赤ん坊を抱えてほほ笑んでいる。
「サナニエル公のお屋敷?」
「地図にはなかったな…。」
「綺麗な人…。」
悠のつぶやきに答えたものがいる。
「ダナン様とテロメア様ですねぇ。」
声は部屋の奥から聞こえた。
声の主は崩れかけた階段にちょこんと座っていた。虫眼鏡のようなものをかざしながら熱心に手元の紙に目を通している。
「あ、ごめんなさぁい。驚かしちゃいました?」
ぴょん、と階段から飛び降り、まっすぐ悠の前にやってくると右手を差し出す。
「あなた誰?」
「おっと、失礼。僕、綺麗な人をみるとすぐ色々忘れちゃうんです。あなたのことリィンザエル様から聞いておりますよぉ。麗しい、西方諸島からの留学生の…。」
そこまで言って男は沈黙した。右手は差し出したままなので不自然な格好のまま停止してしまったことになる。
「えっと。お名前、スー、さん?いや違ったな。ごめんなさいちょっと待ってね…。」
手元の書類をバラバラめくるが、そこに書いてあるのだろうか。
悠はしばらく待った。男は焦って書類をかき回している。
「あの…。悠です…。あなたは一体…。」
「失礼。レヴィル・メールロと申します。この度ご領主様の奥方のご懐妊にて生まれてくるお子の洗礼の準備のために遣わされております。諮問官です。」
「諮問官…ですか。」
「ええ!ああご存じ無いのも無理がありません。王朝の交代にて新しく設置されたポストになります。本来は、地域調査や統計業務を行うところなりますが、なにぶん、人手不足でしてぇ。あ、神官職としての職位はありますのでご安心ください。」
「え、ええ。宗教的なものは疎くて疑ったわけではありません。それより、この絵、ご存じなんですね。」
男、レヴィルは人好きのする笑顔を悠に向け、うんうんとうなずいて壁にひっそりと立てかけられた絵画に持っていた虫眼鏡をかざす。
「はい。ここ、小さいですが王都にて有名な絵師の署名がございます。またダナン・ノワティエ公とテロメア様夏離宮庭園にて、と記載がありますね。」
ほら、と言われても悠には文字が小さい過ぎて、見えない。
いつの間にかバリュバルはおろかギギ達やほかのエギド達も、なんだなんだ?と集まり始めている。古い屋敷は急に風が通ったことにより踏み込めない二階の方からギシギシと不穏な音がする。
レヴィルはニコニコしながら絵画を見つめている。虫眼鏡をあちこちにかざし、何がそんなに面白いのだろう、興味深そうに絵画のあちこちを点検している。そのうち飽きたのかそのレンズの外側の突起をぐい、と手前に起こし、耳にかけている眼鏡のフレームに押し込んで装着する。
「でも、不思議ですよね。」
レヴィルが笑いながら首をかしげて言う。
「ダナン公とテロメア夫人にはお子さんはいらっしゃらなかったはず。第二夫人のシルベーヌ様もお子はいらっしゃらない。この子誰なんでしょう。」
「えっ。前公爵ですよね。だったら元当主のサナニエル公ではないんです?この赤ちゃん。」
「いえいえ。サナニエル公はダナン前公のお子ではありません。ダナン公の兄上のダワール様のお子ですよ。ダナン公にはお子がお生まれにならなかったので兄上のダワール様のお子であるサナニエル公が家督をお継ぎあそばされおります。」
悠は思わずバリュバルの方を向くが彼も無言で首を振るだけである。
「そんな事情があるのですね。…と、すると、この子は誰なんでしょうね。」
ふくよかな頬をしたかわいらしい赤子。ほほえみを浮かべる女性に抱かれて、そばには寄り添う前公爵。幸せを絵にかいたような絵画だ。窓から光がさして赤子の頬の血色の桃色をより一層際立させている。
悠は幸せそうな絵画の赤子に吸い寄せられるように指を触れる。
そのとたん、指先にチリ、とした痛みを感じて瞬間的に手を離す。
今のはなんだろう。
もう一度、今度は両手で触れる。今度ははっきりと感じる。指先のしびれるような痛み。
悠は立ったまま、気を失いそうな意識の奔流に巻き込まれていた。




