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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ひしゃく地蔵

むかーし昔……ならば、どれだけ良かったことか。

少し昔のお話にて。


岡山県のとある町では、変わったお地蔵さんが建てられていたそうだ。

その地蔵はどういう訳か、拝む際には特殊な手順を踏まなければならないらしい。そばに置いてある柄杓(ひしゃく)を使って、横に流れている小さな細い水路から(すく)った水を、地蔵にかけてから拝まなければならないのだ。

水をかけるのだ。例え雨が降っていようと、関係なく。

何というか、地蔵に対して侮辱的であるように思わなくもないが、しかしその隣に『お地蔵さんにひしゃくで水をかけてから、拝んでください』と、注意書きの看板があるのだから仕方ない。


さて、ところでこの地蔵。

そもそもこの地蔵はかなり無名で、地元でも殆ど知られてはいないのだが、これを知る一部の者からは『柄杓地蔵』などと呼ばれてはいる。

しかしそれは、あくまで格式ばったような正式名称的な言い方に過ぎず、この地蔵について知る彼らは普段、それとは異なる呼び方をしているのである。


曰く……『人食い地蔵』。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



岡山県のとある田舎町に初めて訪れた三助(そうすけ)は、だらだらと汗をかきながら車を降りて、祖母との挨拶もそこそこに、ひぃひぃと家の中に這入(はい)った。

8月の残暑。お盆だと言うのに、こんな暑さで熱中症にでもなったらかなわない。ご先祖様も、まさかこのタイミングで自分達側に来るとは思わないだろう。

「うおー、クーラーあるんだ!?」

だが幸いなことに、田舎町にある祖父の家に帰省してきたというこのような場面、あるいはこの平成前半の時代では珍しく、家の中にはクーラーが備え付けてあった。

昔だなんて言う程に昔ではないとは言え、この平成前半の時代に、クーラーはちょっと高級品である。田舎町にぽつんと建つ古い民家には似つかわしくない、ハイテクな内装であった。

やっぱり三助の祖父は、やたらと暑がりらしい。

そもそも、帰省とは言うものの、元々祖父はこの町に住んでいた訳ではない。祖父は前年、この町に引っ越して来たのだ。だから三助は、過去に祖父の住む家に帰省したこと自体は何度かあったものの、この町のこの家に来るのは、これが初めてであった。


「いやいやいや、今日は物凄い熱気よねぇ。暑かったでしょう。ほら、そうくん、これ冷たい緑茶。飲みな飲みな」

「ありがとうお婆ちゃん。あれ?お爺ちゃんは?」

「お爺ちゃんは今、イチジクの面倒を見てるよ。もう、孫が来る日だって言うのに、全然帰って来ないんだから」

「イチジク?」

「あー、イチジクか。ほら三助、お爺ちゃんは去年ここに住み始めてから、イチジク農園を始めたって話、聞いたろ?」

「うーん、前に聞いてたっけ。あ、父ちゃんそれ、俺の荷物も混ざってる」

「おう、これな」


三助の祖父は、そもそも農園を開くためにこの町に引っ越して来たと言っても良いくらいだ。元々住んでいた家賃の高い賃貸ではなく、あえてこの田舎町の空き家を安く買い取ることで、結果として生じる経済的な余裕をもって、農園の経営に専念し始めたのである。

祖父も三助もその両親も、元々は岡山県民ではなかったため、だからみんな大体は標準語を喋ることが多いのである。


「凄いよねぇ。農薬もなんにも一切使わず、日がな一日、ああして手作業で虫を取り除いて回ってるんだから」

「え?何それ?」

「ほら、農薬ってさ、虫喰いを防ぐためのものでしょう?でもお爺ちゃんはその農薬を買うお金を惜しんで、どうせ暇だからって言って手作業で虫を取り除いてるのよ。虫がいたら虫取り網とかで捕まえて、虫の卵が産み付けられてるのを見つけたらピンセットで除くんよ、四六時中」

「はぇー、そりゃ凄いなぁ」

「そうよねぇ。市場には(おろ)してないんだけれど、農園の入り口に販売コーナーもあったり、時期によってはイチジク狩りなんかを開催したりなんかしてねぇ。去年なんかは結構儲けたんよ」

「え、今年は?今年はいつやるん?俺も行きたい!」

「あっはっは、そんなに興味持ってくれたらお爺ちゃんも喜ぶわ。今年は…あと1週間くらい経ってからかねぇ。でもほら、イチジク狩りが終わっても多少はイチジクが余るから、その中から良さそうなやつだけ選んで、後でそうくんの家に送ってあげるよ」

「良いんか!?ありがとう!」


三助はそのまま、祖母や両親と一緒にクーラーの効いた部屋でくつろいで、(しばら)く落ち着いた時間を過ごした。

1時間ほど経ったところで、玄関のドアがガチャっと開き、何やら重い物を運び入れるかのような音が聴こえた。


「よいしょ、よっと」

「あ、お爺ちゃん!お邪魔してたよー」

「おーう、三助。またちょっと背ぇ伸びたんじゃねえか?」

「まあねー。あれ、そのクーラーボックスって、何入ってるの?」

「ああ、これな。おい三助、イチジクは食えるか?」

「え!?もしかしてその中身って!」

「まあまあ慌てんな、上がってからな、皮剥いてからな」

「よっしゃあ!」


祖父が手土産にと持ち帰って来たイチジクは、まず水で洗ってから、早く食べようよと()いて言う三助の案で、包丁で軽く切り込みを入れただけの状態で更に盛り付けられた。

それをそのまま皮を剥きながら食べたり、電子レンジで軽く温めてから食べる三助。温めて食べるという食べ方は中々に通であったが、祖父母はそれを知らなかったらしく、『変わってるねぇ。この調子だと、今度はイチジクにとんかつソースでもかけるんじゃないかしら?ソースケだけに』などと、名前をいじるような冗談を言い出した。

少し不快に思いながら、三助はふとテレビの電源を入れる。


「なんか面白い番組無いかなー?」

「この時間だとぉ……大喜利番組とかやってるんじゃないか?」

「大喜利?別に興味ないけどなぁ…」

「いやいや、面白いんだぞあれ。歳取った落語家の人とな、あの腹黒い落語家の人とのいじり合いとかよぉ」

「あはは、何それ?観てみようかな……ん?」


適当にチャンネルを切り替えていた三助の目に、その時、いやに不穏な文字が目に()まった。

勢い余って切り替えてしまったチャンネルを再び戻して、三助はその文字を読み直す。


「何だこれ。『用水路への転落にご注意を』?用水路ってあれだよな?前にも同じようなニュースやってたけど、またかよ?」

「うーん、確かに前にも同じような話あったよなあ。大丈夫かこれ?再放送じゃねえだろうな?」

「いやいや、ニュースを再放送してどうすんのよ!」

「それもそうだな、がはははは!」


用水路。岡山県では聞き慣れた言葉である。

魔の用水路。人食い用水路。

4年間で108人を殺したと悪名高い、岡山県の落とし穴。

とは言え、三助はそんなに用水路が多い地域で生まれ育った訳ではない。話には聞いていたものの、沢山の人を殺している用水路が実際にどのような外見をしているのか、どうして間違えて転落してしまうのか、今ひとつ想像できていなかった。


「最近この辺でも、色んな場所で増えてんだよなぁ。前々からこの辺、用水路に落ちる人はいるけどよー」

「前々から当たり前のようにいたらおかしいと思うんだけども」

「ただ、ここ最近になってからなんか増えてきてるらしいんだよ。いやあ、お盆の時期だからなのか?あ、いや、もうちょっと前の時期からか……」

(『お盆の時期だからか?』って言うのは、普通に帰省とかでこの田舎町を訪れる人が増えるからっていう話なのかな?それとも、霊的な話なのかな?)


その辺りのあまり重要ではないことに疑念を残しつつ、三助は黙って話を聞いていたものの……

しかし三助だって、必要最低限の危機管理もできない愚か者ではなく、少ししてから口を開いた。


「ねえ、この辺りの用水路で、危ないところってどんな感じなの?怖いから、どんな見た目になってるんか教えてよ、お爺ちゃん」

「この辺りか?この辺りだと、あっちの方向にある路地の……いや、今は晴れてるし、用水路は丸見えだから、安全だと思うんだよな。今から実際に行ってみて、探検して、用水路を見て来たらええ。そうすりゃ確実だ」

「晴れてれば安全かな」

「おう、安全だろ。雨が降った時に用水路が水で満たされて、水たまりとの区別が難しくなるんだけど、この頃は晴れてるしなあ。ま、百聞は一見にしかずだろ!」

「そっか」


百聞は一見にしかず。

あるいは、可愛い子には旅をさせろ。

この時の祖父は、もしかするとそんな風に考えていたのかも知れなかったが、これらの(ことわざ)に潜む致命的な落とし穴について失念していた。

一見も、旅も、命に関わる程に危険ならば、控えるべきなのだ。

と言うより、せめて誰かがこの時、天気予報を確認するべきだった。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「へぇー、これが用水路かあ。うちの近所で見るやつよりもでかいな」

「そうねぇ……深いし、こんなところに落ちたら危ないわよねえ」

「それに加えて、柵がある訳でもねえ。雨が降って水が溜まってくれば、本当にこりゃわからんぞ。気を付けろよ三助」

「勿論気を付けるよ。でも、これくらいなら大きさの問題であって、うちの近所にある用水路と大差ないんじゃないかな?」

「まあ、ここはな。別の場所はそうじゃないかも知れん」

「そうだね。次はあっちに行ってみようかな」


祖父に言われた通り、三助は両親と共に町中を探索する。

確かにこの辺り一帯には、どうやら大きな用水路が多いようだ。とは言え用水路という物については、自分達が普段暮らしている市街地にだって多少はあるものなので、これはもはや、ただ用水路の場所を憶えていくだけの簡単な作業であるかのように、当の本人達には平生(へいぜい)っぽく感ぜられた。


「ふぅ…お母さんはもう疲れてきちゃった。こっから歩いてお爺ちゃんの家まで戻ることも考えるとねえ…」

「そうか?まあ、そもそも俺らは元々、別にこうやって町中を歩き回る予定があった訳でもないし、俺らが用水路の位置を憶えて回る必要は無いもんな。三助が遊びにどっか出かけるかも知れないから、三助のために探検してる訳だし。まあー、そしたら……三助、お前はまだ、この辺を探検したいか?」

「うん、したいけど?」

「お父さんとお母さんは、先にお爺ちゃんの家に戻っていようと思うけど、家の場所は憶えてるよな?」

「あ、先に帰るの?家の場所は憶えてるよ」

「まあ、この辺りは治安も良いだろうし、三助一人でも大丈夫だろ。じゃあ、何かあったら携帯で連絡な」

「わかった!じゃあ、俺はあっちのほうに行ってみる!」

「気ぃ付けろよー!」

「はーい!」


……実を言うと。

三助はこの探検行動に、心地良い高揚感を覚えていた。

『探検』という言い方。初めて見る大きな用水路。

ちょうど良い強さの風。緑豊かで、空気の澄んだ田舎町。

加えて、家から出た時くらいから、気温が下がり始めていたのだ。少しは暑さも和らいで過ごしやすくなり、それでも念の為に持って来たスポーツドリンクはショルダーバッグの中にきちんと収まっている。

このような状況に、普段は市街地で生活している三助は、どこか新鮮な体験をしている気分になっていた。

言い知れぬ快感と期待感に支配され……

言ってしまえば、冷静ではなくなっていた。

先程の父との会話だって、探検を続けたいかと訊かれて二つ返事で即答し、祖父の家の場所はうろ憶えであるにも関わらず、憶えてるよと断言してしまった。


「何だこの入り組んだ道、面白そうだな…!」


とにかく、浮かれていた。


憶えること、記憶することは、多少は意識の片隅に残ってはいたものの、道順もうろ憶え、用水路の位置もそこまで正確には憶えないで、三助は随分と、探索に興が乗りすぎてしまっていた。

この田舎町、されども相当に広大で、無駄に道路や用水路の本数も多いと言われるこの町で、迷子になることが何を意味するのか、深く考えずに。


どれくらい経った頃か、いっそう足場の悪い場所に流れている用水路を観察していた時に、ぽつぽつと降り始めた雨に身体(からだ)が濡れたことで、ようやく三助は、長く時間が経過しすぎていることに気付いた。

そう、雨だ。ちょっと前までは晴れていたのに。

何時間か前までは疑いようも無い晴天だったこともあって、天気予報は誰も確認していなかったのだ。


「来た時は晴れてたのに。流石に遅くなりすぎたかな?でも、夕飯まではもうちょっと時間あるし……いや、帰るのにも時間がかかるし……あ、あれ?あっ!帰り道がわかんなくなった!」


それまでの自分は、あまりにも夢中すぎた。どこか惑わされたかのように、何かに引き寄せられたかのように夢中だったのだということを、ここで初めて、三助は自覚した。

とにかく焦った。

とにかく慌てた。

冷静に、遭難対処術……今で言うサバイバル術的に考えてもみれば、そこまで喫緊(きっきん)でも火急でもない筈であるこの状況に、しかしこのような経験の浅い三助は、つい、焦ってしまった。


「携帯…携帯で時刻を、いや連絡を…あっ!」


懐からおぼつかない手つきで取り出した、ガラパゴス式携帯電話。

それを、手を滑らせて、落としてしまった。

道路に(しつら)えられた排水側溝の、格子(こうし)状の蓋。その隙間に吸い込まれるように、無情にもその携帯電話は、三助の手の届かない所まで行ってしまった。


「嘘っ!?まじかよ!?あああああ!やばいやばいやばい…高いのに!何だよくそっ…!折角買ったのに…!」


更に慌てた三助は自分の置かれている状況も忘れて、何とかそのガラケーを取り戻そうと、側溝の格子状の蓋を開けんとして四苦八苦したが、こういった部品の構造に詳しくない三助にはやはり開けられる筈もなく、そのまま時間は流れていく。

強引にこじ開けようとしたり、周囲に助けを求めようかと考えて、人を探しに辺りをうろついたり、時々側溝の蓋が少し動いたことで希望が見えたり、かと思えば全く動かなくなって、しかし一度見えた希望を諦めきれずに蓋を外そうと悪戦苦闘し続けたり。

そんなことをしているうちに、とうとう辺りは薄暗くなって、不気味な様相を(かも)し始めたのである。


「諦めよう。早く帰ろう。みんな心配してる……あ」


携帯電話を取り戻すのは諦めるべきだと、そう悟り、そう自分に言い聞かせた時には、しかし遅かった。

三助は、さっきの側溝の蓋との悪戦苦闘、その四苦八苦の中でついに、帰り道を完全に忘れてしまったのである。


「くそ、どうかしてた…!なんでこんな所まで来ちゃったんだよ、俺…!ああ、くそぉ…!」


雨は激しさを増すばかり。

三助は頭を抱え、今にもこぼれ落ちそうな涙をぐっと堪える。


「いや。まだ何とかなる。大丈夫だ、冷静に、記憶を辿って行けば良い。大丈夫だ……まず、あっちから来たから、あそこまで戻るだろ…?それで、次は左で……」


しかし、感傷や後悔に浸ることに意味は無い。

生きたい。その強い意志によって、再びほんの少しの冷静さを取り戻した三助は、一度落ち着いて、来た道を戻り始めた。


「そう、この景色だ。憶えてる。ここにこの雑草が生えてて、電柱があそこにあって、で、そこの曲がり角だ。よし、ここを曲がって、次は……え?」


三助は確かに今、道順についての記憶を思い出している。

しかし先程も言ったように、一度その記憶は完全に忘れてしまったものなのだ。一度完全に忘れた記憶を再び思い出すことは、普通ならば相当に難しい。

余程不安定な精神状態に陥って、頭の中で強引に記憶と記憶を繋ぎ合わせて、架空の記憶を作りでもしない限りは。


「何だよこの道……来た時と違うよな……?」


簡単に言うなら……

三助は恐らく、記憶違いを起こしていたのだろう。

よもや、本当にそれまで無かった道がいきなり現れることなど、普通に考えてあり得まい。


「あれ?あっちだっけ?」


三助は一度、一つ前の曲がり角まで戻る。

そして、さっき選ばなかったほうの道へ進む。

が、やはりぴんとこない。


「なん…で…」


……この時点で三助は、完全に迷っていた。

そして辺りは、よりいっそう暗くなる。

先程までは道順のことばかり考えていたが、自分の記憶を頼りにできなくなり、道順を思い出そうとすることから意識が()れたことによって、改めて三助は、辺りに漂う不気味な雰囲気に気が付いた。

薄暗い。

ざわざわと、音が聞こえてくるような気がする。

何者かに、見られているような気がする。

気味の悪さと背筋に走る怖気に、多少涼しくなりかけている程度の気温でありながら、不意に三助は、寒さを感じた。


「……………っ」


焦りはある。慌ててもいる。

しかし今はそれ以上に、ただこの空気感が、怖い。

声も出したくない。動きたくもない。

周囲に何かいるのではないか、何かが物陰から自分を見ているのではないか……そんな警戒心に支配されて、思わず三助は、周囲を見渡した。


「…ひっ!?」


カサカサ、と、音がした。

自分の背後から聴こえた音に、三助はびくりと振り返る。

木の枝と葉が、ただ風になびいて電柱に擦れているだけだった。


「はぁ……はぁ……!」


三助は思わず、走り出す。

元々自分が帰ろうとしていた方向、恐らく家があるのではないかと思われる方向に、しかし何の確証がある訳でもない五里霧中の状況を、無我夢中に駆けた。

風になびいた物が擦れること。それ自体に何ら脅威は無い。

しかし、それだけのことなのにここまで驚いてしまう自分に、三助は甚だしい危機感を(いだ)いた。


(この場所が悪いんだ。こんな不気味な場所だから怖くなるんだ)


三助は、とにかく移動を試みた。

あんな不気味な場所に居ては、そりゃあ誰だって冷静ではなくなるだろうと、自分の焦りはあの場所のせいなのだと、そう決め付けながら走った。


雨は更に強くなり、絶え間なく叩きつける大粒の雨に、走る三助は目を開けるのもやっとだった。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「はあ、はあ……父ちゃん、母ちゃん……帰りたいよ」


雨は、暫く降り続けた。異常な勢いの豪雨だった。

天気予報では、本当にこんな大雨が予報されていたのだろうか?テレビで朝の予報番組を観ていなかった三助には、もはや知る術は無いが。


「携帯、無いんだもんな。あー不便だ……買い替えるしか無いかな。次は何にしよう……あ、最近はスマートフォンっていうのが出てきてるんだっけ」


この時代でスマートフォンは一部の富裕層のみが使用する高級品であるが、三助は現実逃避のように、そんな他愛も無い独り言を呟いた。

辺りはすっかり暗くなり、それでも未だに帰り道がわからなくなった三助は、しかしその状況の割に、随分と落ち着いて見える。

もはや、三助は妙な気分であった。恐怖や不安はあるかも知れないが、焦りや(あわただ)しさは感じず、『別に、餓死するより先に帰ることができれば良いだろう』という風な心持ちに、いつからか変わってしまっていた。


「雨宿りができる場所も無いんだよなぁ。何だってこんな、やけに広い田舎町に、やけに長い道が迷路みたいに入り組んでるんだか。なんか、なんか無いのかよこの辺に。屋根付きの何か……ベンチとかさあ……ん?」


独り言をぶつぶつと続けながら、ぶらぶらと歩いて曲がった角の先に、初めて見るような目新しい光景があった。


「んん?何あれ?」


先程までの豪雨よりかはマシになったものの、まだ雨は降っている。その雨の中、なんだか目を引くような地蔵が一つ、あった。


「何だ?このお地蔵さん……」


地蔵そのものには、特に変わったところは無い。しかし、その隣に色々と添えられている物が変わっていた。

まず、注意書きの看板があった。

『お地蔵さんにひしゃくで水をかけてから、拝んでください』……

そして隣にはその柄杓と、綺麗な水の流れる細い水路があった。

水路と言っても、先程見たような用水路のように地面より低い位置に作られた水路ではなく、むしろ地面より高い位置にある、流しそうめんでもするのかというサイズ感の水路である。

その水路の水が流れていく先を見ると、奥の曲がり角を曲がって、まだその先に流れて行っているらしい。

看板は、地蔵から見て右側に。

柄杓と細い水路は、地蔵から見て左側に、それぞれ設置されてあった。

三助は今、地蔵から見ると右斜め前の位置に立っている。


(折角だし、拝んどくか。無事に帰れますようにって)


そう思って、三助は地蔵に歩み寄る。

途中、どうせならばしっかりした万全の状態で拝もうと思って、三助は改めて、髪型を整え始めた。短パンも垂れ下がりかけていたのをしっかりと上げ直して、シャツは一応、中に入れて……

普段はチャラチャラと振る舞ったり、あるいは子供らしく振る舞うこともある三助だが、この辺の()真面目さについては、大人達から気に入られていた。


そうして、靴紐を結び直そうとした時。

地蔵の前で、顔を下げた時。

どこからか、視線を感じた。


「…っ!?」


途端、三助は再び、恐怖心に包まれる。

慌てて顔を上げるが、周りには誰も見当たらない。

地蔵しかいない。

その地蔵だって、目を閉じている。

地蔵は石像の一種だから、身体を動かすこともできなければ、目を開けることもできる訳が無い。こちらを見ることなんてできない。

できない筈だ。


「……………」


しかし。

何となくその視線は、地蔵の方向から感じたように思った。


(……お地蔵さんにも、魂は宿っているものなのだろうか?もしかしたらそうかも知れない。確かめようはないけれど、その可能性は否定できない。だったら、尚更……)


意を決して、三助は地蔵に話しかけた。

意味があるかどうかはわからないが、心があるのかどうかもわからない相手に、ひざまずいて。


「お地蔵様、助けてください。お願いします、俺を無事に、家に返してください」


……地蔵は、答えない。

動きもしない。何も起こらない。

ただの石像として、全く、何の反応も示さない。

普通に考えれば、それはそうだ。よもや地蔵が急に動き出して、『わかった、しかしその代わりに…』などと喋り始める訳が無い。科学的にあり得ない。

しかし、三助はその地蔵の反応を、次のように解釈した。


「ああ、ごめんなさい。ちゃんと手順通り、まずは柄杓で水をかけないと駄目なんですよね。すぐにやります、えーと、ちょっと前を失礼しますね」


そうして、自分の中で辻褄を合わせて納得した三助は、柄杓を置いてある場所に近寄ろうとして、その柄杓が置いてある台の下辺りに広がる水たまりに、足を踏み入れた。


その瞬間。

勢いよく、足が地中に引きずり込まれた。


「えっ!?うあああっ!!!」


地中に、引きずり込まれる。


「ごぼっ!ごふっ!ぶはぁ!」

(何だよ!?足を何かに掴まれている!何かが俺の足を…!)


何かが足を掴んでいる。

何者かが、三助を更なる深みに引き込もうと、地中から三助の足を引っ張ってきている。


「助けて!助けっ!ごぼっ…ぶはっ!助けてください!」


目にも耳にも鼻にも色々と汚い物が入り込む中で、三助は地蔵に向かって、必死に乞い願った。

もう目も開けられず、何も見えない。耳に汚物が入り込んで、音もよく聴こえない。鼻も痛い。

そんな中で、自分の足が絡み付かれたように捕えられていて離せず、そのまま引っ張られる感覚だけを、ただ感じていた。

そして、違和感に気付く。


(あれ?俺の足を引っ張ってるコレって、まさか……)


ーーーその瞬間。

三助の頭を、誰かの手が押さえ込んだ。


「っ!?ーーー!!!ーーーっ!!!」


息継ぎすらもできず完全に息が止まった三助は、激しくもがき苦しむ。じたばたと暴れて、どうにか自分の頭を押さえ込んでいる手を掴み、何とかそれを外そうと、見えない相手と格闘する。


三助は一瞬、ついに地蔵が動き出したかと思った。

しかし自分の頭を押さえ込む手を掴んでみると、その感触は像のような硬い質感とはかけ離れていて……

人間の手だった。


(そうか、そういうことか…!?)


ようやっと、三助は理解する。

心霊現象など、初めから無かったのだと。


三助は初め、地面の中に、地中に引きずり込まれたと思った。

しかし、それが間違いだということにはすぐに気付いた。

()()()()()()()()()()

誰も引きずり込んでなどいない。

三助はただ、水があふれて水たまりとの区別が付かなくなった用水路に、転落しただけだった。

そして今、三助の足を引っ張っているコレ。

よくよく感じ取ってみると、三助が水から這い上がろうと必死に暴れた時だけ、それに抵抗するかのように引っ張ってきているだけなのだ。

三助が、引っ張られるのに抵抗しているのではなく。

()()()()()()()()、自分を引っ張ってくる三助に抵抗しているのだ。

三助の足にはただ、元々そこにあったツルが絡み付いているだけだったのだ。暴れてじたばたと足を動かす三助の足に、絡み付いてしまっただけだったのだ。


そして。


「ーー!!!っ!!!」


三助は、祖父の家で見たニュースを思い出す。

何故か急増する、水難事故。用水路への転落事故。

そして、今のこの状況。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

この不自然な状況。


そして今、一瞬だけ手を振り払うのに成功したことで、ほんの一瞬だけ見えた、三助の頭を押さえ込もうとしている男の、見知らぬ顔。


()()()()

()()()()()()()()()()()


今自分の頭を押さえ込んで、水の中に浸け続けて、不気味な笑みを浮かべているこいつこそが、全ての元凶なんだ!


(あの時の視線、こいつか!)


そうだ。辺りが暗くなり始めて、周囲から視線を感じるかのような、不気味な雰囲気に変わったあの時も。

この地蔵の前に来た時に、突然どこかから、どこかと言えば地蔵から、視線を感じたかのような気がしたあの時も、それはこの男の視線だったのだ。別に、視線なんていう不確かなものは、必ずしもそれを感じる方向が、自分を見ている相手がいる方向と一致するとは言い切れないだろう。

そもそも、こんな位置にこんな奇妙な地蔵を建てたのも、その隣に看板を立てたり、細い水路を作って横に柄杓を置いたり、用水路の中に植物のツルを仕込んだりしたのも。

全部、この男がやったのではないか?


しかし、どうしてそんなことができる?

勝手に地蔵を建てて、勝手に細い水路を作って看板を建てて。

町内会にでも怒られるだろう。

……いや。

勝手にやったことは、それだけではないとしたら?

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだとすれば?


(ここ、()()()()()()()()()()!)


そう。

ここは、この男が所有する私有地だと、考える他ない。

この道は公道ではなく私道なのだと、考えざるを得ない。


意味はわからない。目的もわからない。

しかし、理論上できるかできないかと言えば、だからなるほど、できるのだろう。

広大な土地を買い取り、そこで密かに、公道と瓜二つの道を、人を迷わせるための迷路のような道を作り。

用水路を作り、地蔵を建てて、細い水路と柄杓を用意し。

雨の日に、そうとは気付かずに足を踏み入れた人がこの場所で転落するのを待ち伏せして、転落したらすかさずその人の頭を押さえ込んで溺死させて。

それから違う場所の用水路まで運び、あたかもその場所での溺死事故に見せかける。

だから、色々な場所で溺死事故が増えているのだということにされる。


尤も、見知らぬ道にずかずかと入り込んで行くような人間は、普通はいない。言わんやこんな人口の少ない田舎町では。

探検をし始めるような変わり者でもいなければ、だ。

何故、こんな場所でそんな犯罪をやろうと思ったかはわからない。あるいは他の場所にも、この男はそういう風な私有地を持っているのかも知れないが……とにかく。

事実として、三助はこの邪悪な罠にかかった。

広大な土地を安く買うには最適な田舎町。

この町だからこそ実現した、机上の空論だった。


(何てことだ…!)


真実かどうかははっきりせずとも、そのように一通りの辻褄が合う仮説を、思い付いてしまって。

それらの仮説が、一瞬にして脳内を駆け巡ったことで。

三助はつい、衝撃のあまり、口を開けてしまった。


「あがっ!ごぼっ…ぼっ…」


ニタニタと嗤いながら、自分の頭を押さえ込んでくる男の手に、三助は爪を立てる。しかし、もう彼の身体には酸素が足りない。うまく力が入らない。


(助けて…死にたく…な…)


やがて三助の身体は、静かに沈んでいき。

水中から浮かんでくる泡は、だんだんと少なくなり。

暫くしてから男が引き上げた三助の体は、冷たくなっていた。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



翌日。

昨晩の必死の捜索にも関わらず未だ発見されない孫について、祖父母は家の中で、頭を悩ませていた。


「本当に何があったんだ…?」

「神隠しでもあるまいし……かと言って人に攫われたかって言っても、この辺は治安も良いし……」

「いやぁ、そうやって治安が良い地域にだって、その地域の平和ボケにつけ込んで悪事を働く輩が来ることもあるけどなあ……」

「そう……かしらねぇ……?」


そこに、据え置きの電話が着信音を鳴らした。

急いで出てみると期待通り、それは三助の父からの電話だった。


「三助が、見つかった」


重々しいその声色(こわいろ)に、祖父は状況を察した。


三助の遺体が発見されたのは、どういう訳か、三助が出かけていった方向の、両親と別れた筈である場所とは、全然違った明後日の方向に離れた地点であった。

道に迷った末、混乱して変な方向に行ってしまったのか。

あるいは、何か事件性があるのか。


これから警察組織によって調査が進むのだろうけれども、この時点ではまだ誰にも、何もわからないのであった。

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