8 平手打ち
翌朝、空は博の腕の中で目を覚ました。
「気分はどうですか?」
優しく尋ねる彼の手は、そっと彼女の髪を撫でている。
しばらくぼんやりとその顔を見ていた空は、やがてゆっくりと手を額に当てた。その指はまだ微かに震えていたが、それは薬の影響ではなく疲労によるものだ。
「・・・私は、どうやってここに戻って来たんでしょう?」
独り言のような呟きに、博はゆっくりと答えた。
「僕は、昨晩遅くに帰って来たんです。向こうに泊まらずにね。それで、ジーナの部屋に行って君を連れてきました」
ジーナ!
その名前を聞いた途端、空はギクリとして蒼白になり、両手で腕を掴んで身体を丸くする。そんな彼女の身体を抱き取り、博は自分の胸にぴったりとその頭を押し付けるように抱きしめた。彼女の身体は小刻みに震え、ギュッと眼を閉じている。
「怖いんですね?」
「・・・怖い?・・・初めてです、こんな・・・怖い・・・」
震える唇で呟く空は、身体の芯が冷えるような、ゾッとして鳥肌が立つような、そんな感覚を初めて知った。
「もう、大丈夫ですよ。怖いという感覚は、直ぐに落ち着きますから。こうしていれば、直ぐにね」
彼の腕の中で、その規則正しい鼓動を感じていると、確かに安心して落ち着いてくる。空は深く息を吸って、身体の力を抜いた。博はベッドサイドに置いていた彼女の補聴器を取って、その右耳にそっと着ける。
「怖い、と言う感情を教えたいと言っていた彼女の目論みは、ちゃんと成功したみたいですが・・・」
ジーナと言う名前を出さず、小さく呟いた博の言葉を、空は聞き取っていた。
「目論み?」
顔を上げ、彼の顔を見ながら空は問いかける。
博は、昨晩ジーナから聞いたことと、彼女の性癖、そして推測できる空が受けた行為について、全てを淡々と語った。
「彼女がバイセクシュアルであることは言えなかったのですが、こうなってしまっては言っても構わないでしょう。本当は、もっと早く君に教えておきたかったのですが」
説明を聞くうちにすっかり落ち着いた空の身体をベッドに戻し、タオルケットを肩まで掛けなおすと、博は優しく彼女の額にキスをした。もうすっかり、薬の影響は無くなっているようでひと安心だが、疲労はかなり酷そうだ。
「今日はゆっくりベッドで休んでくださいね。空港での見送りは、来なくて良いですよ。皆には体調不良だと言っておきますから」
そして博は、彼女を手伝ってシャワーを使わせると、再びベッドまでその身体を運び、眠りなさいと言って寝室を出た。
彼が支度を整えて部屋を出てゆく気配を追いながら、空はジッと天井を見つめて考えていた。
空港の出発ロビーには、ハイマン教授が先に着いており、2台の車に分乗してきた捜査官たちとジーナを見つけると、爽やかな笑顔で近づいてきた。
「やあ、おはよう」
「お待たせしてしまいました、教授。ここまでエスコートできずに、すみません」
博が軽く頭を下げて謝ると、彼は鷹揚に手を振って答える。
「いやいや、少し前に来たばかりだよ。研究所の朝ご飯は美味しかったし、向こうを出るギリギリまで話が出来たしね。局長ともなれば忙しいのは当たり前なんだから、気にしないでくれ。また機会があれば、是非こんな風に議論したいものだ。次のチャンスを楽しみにしているよ」
教授は嬉しそうに手を差し出し、2人は固く握手を交わした。そこでふと、教授はジーナの様子に気づく。二日酔いの様子は無かったが、元気がなく瞼が腫れぼったく目が赤い。
「どうしたね、ジーナ?」
まるで父親が娘を気遣うように、教授は優しく彼女に尋ねる。
「・・・失恋したのよ、2人に」
「えっ!2人?」
思わず声が出てしまった真は、ここまで来る途中の車の中でジーナの様子に気づいていた。けれど彼女は黙って窓の外を眺めていて、そっとしておこうと声を掛けなかったのだ。
それにしても、2人?と怪訝そうな顔をする真を含め、ジーナはメンバー全員の顔を見て向き直る。
「博と、それから空よ」
「えっ?」
博を除く全員が、目を丸くして驚く。
「ワタシね、バイセクシュアルなの」
はっきりと告げられた言葉に、傍にいた教授がその肩をポンと叩いて尋ねた。
「いいのかね?言ってしまって」
「ええ、支局の皆には、イイかなって思って」
空の影響かもしれない。彼女は何も隠さず、自分のどこか変な部分や過去を事実だとして曝け出している。そうやって自分の全てを受け入れて生きる、いや多分に諦めもあるのだろうが、そんな空の生き方に惹かれたのだろう。
勿論、宣伝するようなことでは無いのだから、自分がこの人ならと判断できた相手にだけ教えるのだが。
「そうかい・・・」
そう言って、ジーナの頭をポンと軽く叩いた教授は、ふいに出発ロビーの方を見て、驚くように眼を見開いた。
その様子に一同が振り返って背後を見ると、そこにはこちらに向かって、いつもの落ち着いた雰囲気で歩いてくる空の姿があった。
彼女に1番よく似合う黒の上下を着た空は、穏やかな笑顔で教授の前に立ち、軽く頭を下げて言う。
「遅れまして申し訳ありません。研修、お疲れ様でした。またお会いできることを楽しみにしています。どうぞ、お気をつけて」
空はそう言うと、綺麗な立ち姿で捜査官としての敬礼を行う。
「ありがとう。君とももっと話してみたかったよ。今度来る時・・・そうだな、定年退職したらこっちに遊びに来るから、その時でも会えるとありがたいな」
教授は彼女の前に、握手しようと手を伸ばす。空は一瞬身体を強張らせたが、直ぐに平静に戻りその手を取った。教授と言う信頼のおける相手でも、男性と接触するのは怖いという反応が出たようだ。けれどそんな教授の言葉に、笑顔でハイと答えて握手を終えた空は、ジーナの方に向き直りスッと無表情な顔になる。
「・・・そ、空・・・」
ジーナは唖然として、一歩足を進めるが、次の瞬間、小気味よい音がロビーに響いた。
パァンッ!
空は、思い切りよくジーナの頬を平手打ちしていた。
「見くびらないでくださいね」
そんな言葉を、少しだけ冷ややかな笑顔に乗せて、空はジーナに告げた。
「今のは、貴女が私の許可も取らずにした昨晩の事に対する報復です。けれど、貴女が私のためを思ってしてくれたのだと言うことを、博から聞きました。その点に関してだけは、お礼を言いたくてここに来ました」
そして空は、優雅で丁寧なお辞儀をする。
「ありがとうございました、ジーナ」
語尾が少し震えていた理由に気づいたのは、博とジーナだけだっただろう。まだ、その名を口にするのも怖いのだ。
ジーナは呆けたように固まっていたが、直ぐに背筋を伸ばしていつもの雰囲気に戻り、にんまりと笑って口を開く。
「あら、A国で育ったなら、ありがとうの言葉はハグと共に贈るものじゃない?」
そんなジーナの台詞に、空は1歩下がりながら苦笑いで答えた。
「それは、ご容赦ください。実はまだ、怖くて・・・この距離まで近づくのが精一杯なんです」
引っ叩いて触ったくせに、どの口がそれを言うんだ、と思うジーナだ。
「それじゃ、握手くらいして。教授にはしたじゃないの」
ジーナは残念そうな表情になって、それでもそのくらいは、と手を差し出す。空は眉を寄せて少し躊躇するようだったが、1度唇をキュッと引き締めると、意を決したように手を伸ばした。
ジーナは差し出された彼女の手を握ると、そのまま思い切り強く引く。バランスを崩した空の身体を受け止め、ジーナはその唇を奪った。
「・・・・っん・・・」
咄嗟に対応できなかった空は、そのまま深いキスをジーナに与えられてしまう。昨晩の出来事を身体が覚えているのか、突き抜けるような感覚を与える彼女の熟練のキスに、蒸発するように力が抜けた。
そんな空の身体を、慌てて近づいた博に押し付けるようにして渡すと、ジーナは彼女に良く似合う悪戯っぽい笑みを浮かべてメンバーたちに言った。
「それじゃ、これで」
逃げるように去ってゆくジーナの背中を見ながら、博に抱き支えられている空が呟いた。
「・・・やっぱり、ジーナには敵いません」
教授もジーナの後を追う様に、一同に別れを告げて歩み去る。後に残された捜査官たちだが、博は取り敢えず空を手近なベンチに座らせた。
「すみません・・・何か、腰に・・・力が入らなくて・・・少し休めば治ります。後から1人で帰れますので・・・」
そう言ってバッグから車のキーを取り出し、それを見せながら言う空に、いつの間にか傍に寄って来た真が仏頂面で怒るように言った。
「こんな危険物、1人で置いて行けるかよ。お持ち帰りどうぞ、みたいな看板が出てるぞ・・・」
真はそう言って、彼女からキーを引っ手繰った。
確かに、ジーナの仕掛けたキスのお陰で、眼は潤み頬は染まり、力が抜けてぐったり座ってる空なのだ。そんな美人が1人で、こんな場所にいればどうなることやら、だ。
メンバーたちは全員が頷き、結局、空は抱き上げられて帰路につくのだった。
「ジーナ・・・大丈夫かね?」
搭乗口の近くの椅子に、1人ポツンと座って外を眺めているジーナの傍に、ハイマン氏が近づいて優しく尋ねた。
「そうね・・・大丈夫じゃないかも」
そんな彼女の隣に腰を下ろし、教授は言葉の続きを促すように優しく微笑んだ。
「ナンかもう・・・空には敵わないわ。どうしろって言うのよ、この気持ち」
ジーナは、昨晩の事を思いだす。綺麗で可愛くて、切ないほど愛しく思えた空。
1度だけ、と自分に言い訳して重ねた肌。
そしてついさっき見せられた、凛として怖さを抑え、気丈に振舞う美しい姿。
諦めようと決意した心が、無理だと叫んでいるようだ。
泣きそうになるのを堪えているかのようなジーナの言葉に、教授はその肩をポンポンと軽く叩いた。
「どうするか、もう君は解っているんじゃないかな。いつも前を見て、顔を上げて生きてゆく女性なんだから。私は、君をそんな人間だと思っているよ」
「・・・・そうね・・・」
ジーナは小さく呟いて立ち上がり、大きなガラス窓の傍に立った。
そこには梅雨明けの青空が、高く大きく広がっている。
手が届かなくても、追いかけることはできる。
追いかけることに喜びを見いだせるなら。
ジーナは顔を上げて、これから飛び立って帰る青空を見上げた。
いつかまた、この空を、再び飛んでここに戻る。
そんな努力をしてみよう、と思いながら。