14 支局の病室
雑居ビルの表の障害物を取り除いて中に入って来た警察に後を任せ、真と豪は救出した博と衰弱している空を車に乗せて帰局した。
玄関で待っていた春や小夜子の手を借り、意識の無い2人をふみ先生の待つ医務室に運び込む。
博の方は3日間無理やり覚醒状態にあった反動で深く眠っている状態だったから、ひとまず点滴の処置だけをして医務室の隣の病室に寝かせた。
しかし、問題は空の方だった。
ふみ先生は彼女の状態をひと目見るなり、直ぐに処置室の方に寝かせ取り敢えずの応急処置をするが、何が原因なのかが解らない。
「3日間、休みなしに行動してたみたいなんだが、仮眠くらいは取ってると思ってた。もし寝ないで、飲まず食わずで動いてたとしても、ここまで酷くはならなよな。・・・で、空はコイツを持ってたんだが」
そう言って、真はポケットに入れて持ってきた薬の容器を差し出した。
「覚醒剤か何か、ヤバい物なのか?」
ふみ先生は、容器を開けて1粒だけ残っていた白い結晶をしげしげと見詰める。
「これ1粒だけじゃ、解らないわ。空は、どこでこれを入手しのかしら?市販品じゃないみたいだけど」
それを聞いて、小夜子はアッと思いつく。
「研究室かも!私、ちょっと見てくるわ!」
彼女は急いで薬学系研究室に向かった。そこは空が管理者になっていて、本部から届く様々なサンプルやデータが揃っている。
部屋に入って薬品棚を除くと、不自然に1つだけカラのケースがあった。ラベルには『SWP』の文字がある。小夜子はケースを持って医務室に戻った。
「これだけカラだったわ。怪しくない?」
ふみ先生は傍のPCで、早速調べる。その間、春は空のスマホを調べ、真は空の傍に付き添っていた。
「あ!これか・・・」
ふみ先生は小夜子たちにPCの画面を見せて、解りやすく説明した。
「つまり、超強力な眠気覚ましみたいなものだけど、使用者の体力を搾り取るような物ね。使えば頭も体もすっきりするように感じてそのまま行動できるけど、エネルギーを補充する訳じゃないのよ。その間、食欲も無くなるから、効果が切れた時の反動が凄い薬物ね。常習性は無いけど、連続使用すれば命の危険もある劇薬よ」
その場にいた全員の顔から、血の気が引いた。
「・・・これ、空さんが記録したものじゃないでしょうか」
春が、彼女のスマホのメモを見せて言った。そこには時刻と0.1gの文字が、6列書かれている。
ふみ先生は、本部と連絡を取り、『SWP』の連続使用について問い合わせ、更に空の残した記録も送る。暫くして彼女は、皆に告げた。
「特にこれと言った治療方法とかは無いようだわ。対症療法でやるしかないわね。取り敢えず、呼吸の維持と点滴かな。それで様子を見ます」
博は2日間、ぶっ通しで眠ったが、目が覚めた時は意外にすっきりと起き上がれた。流石にやつれてはいたが、健康的には問題ないようだ。
「お、目が覚めたか」
診察室にいた真が、気配に気づいて病室に入ってくる。
「ええ、すっかり皆に迷惑をかけてしまって、すみません。後で、詳しいことを教えてください。・・・ところで、空は?」
一応きちんと謝罪をして、けれど直ぐに彼女の事を気に掛けるのはいかにも博らしい。けれどそんな言葉に真は何とも言いづらそうな顔をするが、1つため息をついて答えた。
「・・・処置室だよ。まだ目が覚めない」
「何があったんですか!」
その言葉と同時に、博はベッドから飛び降りると処置室に駆け込む。
そこには、やつれたという言葉では足りないほど、痩せて生気の無い姿で横たわる空の姿があった。
「空!・・・これは・・・どうして?」
博は彼女の傍らに駆け寄って、その手に触れる。乾いた枝のような指は、冷たく力なく何の反応も無い。ベッドサイドに置かれた補聴器が、豪の手によって綺麗にメンテナンスされて、ひっそりと置かれていた。
「これでも、だいぶマシになったんだよ。さっき、酸素マスクも外れたしな。取り敢えず、風呂入って、飯食ってこいよ」
「小夜子さんが来たら空は病室に移すから、身綺麗にしていらっしゃい。医務室は清潔第一なのよ」
そこに、小夜子もやって来て、博をひと目見るなり眉を顰めて言う。
「目が覚めて良かったわ。でも・・・臭いわよ」
鼻を摘ままなかっただけマシだが、辛辣なひと言を投げつける。確かに3日間、寝かせて貰えずろくに飲食も出来なかったらしい博の姿は、無精ひげも手伝ってまるでホームレスのようだ。
3人にダメ出しを食らい、博は後ろ髪を引かれながらも彼らの言う通り、部屋に引き取っていつも通りの姿に戻った。
身支度を整えた博は、急いで食堂に向かう。そこには全てを知っている食堂のオバチャン、花さんが絶食後に良い食事を整えて待っていて、更に真もコーヒーを飲みながら待っていた。
ゆっくり食べるように言われ、空っぽの胃の中に食べ物を少しずつ流し込む博に、真は彼が拉致された後から今までの事を全て語った。
「さっき警察の方から連絡が入って、その雑居ビルの現場検証が終わったそうだ。1階のエアダクトからロープが見つかったそうで、空はそこから入ったんだな」
処置室で感じた妙な油臭さはそのせいか、と博は思う。№3のウェルフェアだけが、行方が解らない状態だという真の説明を聞き終えると、博は空の元に急いだ。
博が病室に入ると、ちょうどふみ先生が彼女の清拭を終えたところだった。傍らのワゴンに、黒く汚れたタオルが山積みになっている。
「・・・うん、それなら良いわ。付き添いを許可します。やっと身体を拭けるようになったし、多分もう少ししたら、目も覚めるんじゃないかと思うわ」
看護士の言葉に、今終わった清拭は自分がやりたかったと思いながら、博はお礼を言った。
「ありがとうございます。何か僕に、出来ることはありませんか?」
「そうね・・・目が覚めたら少しずつ食事をさせるけど、先ずは体調を整えて体力回復だから・・・手足を摩ってあげるのも良いかな。血行促進させれば代謝が上げると思うし、リハビリにもなるからね」
博はふみ先生の心遣いをありがたく思い、ベッドサイドの椅子にそっと腰を下ろした。
(これでマシになったということは・・・どれだけ酷かったのでしょうか)
彼は眠る空の顔を窺って、自分を責めた。拉致などされなければ、彼女がこんな風になることも無かったのだ。見る影もなくやつれた顔と、細くなった腕に涙が零れそうになる。
清拭されても、まだどこか焦げたような油の臭いが残る。そんな彼女の頬に、博はそっと手を当てた。
覚えがあるしっとりと滑らかな肌は乾いて、頬骨がはっきりと解るほど頬がこけている。瞼に触れれば、眼窩が落ちくぼんでいるのが解り、指で触れた唇も荒れてカサカサだ。
髪は拭いきれない油汚れがまだ残りべた付いていて、愛してやまない彼女の髪の香りなど全く感じられない。
けれど、博は、愛しいと思った。
切ないほど愛しくて、胸が熱くなる。
どんな姿になっても、その美しさなど欠片も無くなっても。
それでも自分は、彼女を心から愛している、と。
彼は空の手を取り、まだ爪の間に拭いきれない汚れが残るその指にキスをした。
そして左手でその腕を、そして右手は毛布の下に入れて彼女の足を、優しく摩り始める。
やがて、空は静かに目を覚ました。
瞼を半分ほど上げて、彼女はぼんやりと病室の天井を見る。
「・・・空?・・・目が覚めましたか?」
博は優しく声を掛け、彼女が見やすいように顔を近づけた。
「・・・ひ・・ろ?・・・よか・・った」
空は唇を震わせながら、やっとのように小さく呟く。
彼は彼女の手を取ると、自分の頬にそれを当てた。
「僕はここにいますよ。だから、安心してください・・・ありがとう・・・愛しています」
空は彼の眼を真っすぐに見つめ、ふわりと微笑むと再び眼を閉じた。
それから数日間、博は付きっ切りで空の世話をする。
食堂から花さんが届けてくれる病人食は、重湯から始まって三分粥、五分粥、七分粥、全粥と段階を踏み、飽きないようにスープやポタージュ、ジュースなどが添えられる。そして空が喜ぶだろうと、好物のプリンや消化の良いフルーツなどもこまめに持ってきてくれた。
それらの食事を、最初はスプーンを持つことも大儀だった彼女の口にせっせと運ぶ。優しく微笑みながらそれを行う博は、子供の世話を喜んでしている父親のようだったかもしれない。
彼女が話せるようになると、疲れないよう注意しながら、あの悪夢のような3日間のことを少しずつ話してゆく。
「助けて貰っておいて、こんな事を言えた義理じゃないのですが・・・あんな無茶をするなんて・・・」
『SWP』の事だ。確かに彼女のお陰で、短期間に情報が得られ、監禁場所は限られていた時間内に見つかったのだけれども。
「・・・ジッとしていられなかったんです。眠る時間も惜しくて・・・」
空は、少しだけ申し訳なさそうな表情で告げる。
博としては、彼女の気持ちは痛いほどよく解るが、それでも劇薬を使った結果がこれなのだ、と思わざるを得ない。
「それは解りますが・・・」
「一応、限界は計算して・・・だから、最後の1粒を摂取するのは我慢しました」
あの時、どれほど直ぐに彼の傍に行きたかったことか。けれど、これからもずっと傍にいることを、自分は選んだのだ。そこだけは褒めて欲しいと思う空だ。
「でも・・・ここまで酷くなるとは・・・予想していませんでした」
空は、自分の腕を目の前にかざして苦笑する。けれど、直ぐにその腕はパタリとシーツの上に落ちた。まだ腕に限らず、身体全てに力が入らない。
「それでも、博が無事に戻って来たのですから、私は後悔していません」
少しだけ悪戯っぽい色を瞳に乗せて、空はきっぱりと彼に告げる。もしまた、こんな事があったら、迷わず自分はそうするだろう、と思いながら。
「僕は、もう二度と拉致されないようにしないといけない、ということですね」
博の返事に、空はニッコリと笑って答えた。
「是非、そうしてください」
毎日丁寧に優しく行われる清拭のお陰で、いつの間にか髪や爪の間にこびりついていた油の汚れや臭いも取れ、少しずつ彼女の肌は潤いを取り戻してゆく。乾いてひび割れていた唇が、以前のように色を取り戻し柔らかな感触になってゆくのを、彼は1日に何度も自分の唇で確かめていた。
あまりに頻繁に顔や髪、そして唇に触れてくる博に、空はつい思っていることを口にしてしまう。
「・・・あの・・・あまり触らない方が良いのではありませんか?」
「え?何故です?・・・嫌ですか?」
「いえ、嫌と言うわけでは無くて。その・・・触り心地が悪いと思うのですが」
わざわざこんな荒れた状態の皮膚や髪に触って、不快にならなくても良いのではないかという空に、博はクスリと笑って答える。
「触れるだけで、心は気持ちよくなるんですよ。確かに今の触り心地は、前とは違いますが、それでも愛する人に触れると癒されるものです」
「・・・そう言うものでしょうか?」
「そう言うものです」
そんな時間の合間にも、メンバーたちは手土産を持っては病室を訪れる。日を追って回復してゆく空の顔を見たかったのもあるが、少しでも多く食べさせて体力を付けさせたいとも思ったのだろう。
ケーキ・クッキー・チョコレートの他、大福やら饅頭やら、真はこっそり羊羹まで買ってきていた。
「・・・流石に食べきれません」
山と積まれたお菓子を前に、呆気にとられて空が呟く。ふみ先生は、ご相伴に預かれるので密かに喜んではいたが。
「まぁ、皆の気持ちですから・・・逆ハロウィンみたいですね」
お菓子を貰ってくれなきゃ悪戯するぞ、みたいな?
博はのほほんと饅頭を食べながら、面白そうに答えたのだった。
そんなある日、真が医務室にやって来て、診察室の方に来るよう博を手招きした。空は補聴器を外して眠っているので聞かれる心配はないが、気配で起こしてしまうのもなんだと思い、彼はそちらに移動する。
「何か、ありましたか?」
「いや、急ぎじゃないけど、気になってな。・・・奴らに監禁されてた間、こっちの情報とかしゃべらされたのかなと思ってさ」
『シラヌイ』のリーダーとブレーンは逮捕されているので、情報漏洩の心配はほぼ無いと思えるが、まだ№3が捕まっていないこともあるので、真は少し心配になったのだ。
「ああ、多分大丈夫だったと思います。朦朧としている間、ずっと別の事を頭に浮かべていましたから。そんな時でも、楽に浸っていられることをね」
「へ?・・・それって、何?」
後学のために、聞いておきたいと思う。
「空を、抱いている時のことですよ。色々と思い出して、うっとりしてると眠気なんて飛んでいきました。お陰で彼らに何度も引っ叩かれて『エロ親父!』とか『ドスケベ野郎!』なんて怒鳴られましたが」
博はしれっと、恥ずかしげもなく答えた。
「・・・あっ、そう」
そう言うものなのか?と思わないでもないが、真は『シラヌイ』の2人が逮捕されていて良かった、と思った。警察内は仕方が無いとしても、世間に広まることは無いだろう。
FOI日本支局の局長が、そんな事で頭をいっぱいにしていたなどと言う事は。
局長がそれなら、支局全体が妙な集団に思われそうだ。
真は短い返事だけを残し、何とも微妙な顔つきで戻って行った。それにしても、彼はどんな台詞をしゃべったんだろう、と思いながら。
そんな日々を送り、何時しか時は過ぎてゆく。
そして1週間が過ぎた。
空は病室から自室に戻ってはいたが、まだ出勤できるほどには体力が回復していない。
そしてその朝、博は空を除く全ての捜査官とスタッフを、ミーティングスペースに集めた。
「急ですが、明日新しい捜査官たちがここに来ることになりました」
『SWP』を持ち出して使用したことが本部に知られ、空はその処分として薬学系研究室管理者の身分を剝奪された。その程度の処分で済んだのは、彼女が自らの身体で行った実験データが評価されたからだが、それでも管理者が居なくなると支局は困る。
また空が完全復帰をするにはもう少し時間が掛かりそうで、しかも『シラヌイ』の№3であるウェルフェアが、最後の足掻きのように活動を開始したらしいとの情報も入っていた。捜査官不足になることは否めない。そこで博は、予定されていた捜査官の着任を急いでもらうよう本部に要請したのだ。
「1人は、研究室の管理者として、エドモンド・ホスマーという捜査官が入ります。彼は薬学系のエキスパートで本部の研究員ですが、捜査官としても行動できるうえに、看護士の資格ももっています。なので、医務室の方のサポートも頼む予定です」
既に病室の拡張工事も行われている。捜査官が増えれば、ベッド数も多めに必要になるのだ。以前インフルエンザの猛威で、捜査官たちが次々と罹患したこともあったのだから。
一同は、彼の説明に頷き、心強いメンバーになりそうだと思う。
けれど、博はそこで一旦口を閉じて、どこか言いにくそうな表情を浮かべた。
そして、徐に口を開く。
「もう1人は、ジェラルディーナ・ハートです」
「ジーナっ⁉」
博の言葉に、全員が口を揃えて叫んだ。
支局側から出した希望条件が、どこでどうなってこの結果になったのかまるで解らない博だが、もしかしたらと言う考えは浮かんでくる。
ジーナ自身が日本に来ることを強く望み、そのために得意分野で上層部に圧力をかけたのではないか、と。
ここで言う圧力とは、はっきり言えば、色仕掛けなのだが。
しかし、本部の決定事項を覆すのは極めて困難なのだ。
ジーナの件を空にどう告げるか、博は悩んでしまった。
博が自室に戻ると、空はリビングのカーペットにペタンと座ってビートと遊んでいた。
まだ少し痩せた印象はあるが、こけた頬もくぼんだ眼も元通りになり、顔色も肌の艶も以前とほぼ変わらないくらいになっている。
楽し気に彼女の周りをピョンピョンと飛び跳ねて、しきりに明るい声を上げる灰色の鳥。そして床に座ったままそんなビートを追うように動き、笑みを湛えながら自然な表情で戯れる空。
そんな光景は、博の心を和ませた。
(何だか、可愛いですね・・・幼く見えますが、自然な表情はやはり素敵です)
そんな事を考えながら近寄ると、そこでようやく気付いたらしい空は、急いで立ち上がろうとした。
「ああ、そのままで良いですよ」
ぎこちなく動く彼女を制し、博は自分もカーペットに腰を下ろす。
まだ筋力が戻らず、咄嗟の行動には対応できない空なのだ。
「すみません・・・気づかなくて」
ビートとの戯れに集中していて、ドアが開いた気配にも気づかなかったらしい。けれどこの時間に、彼が戻ってくることは予想していなかった。
「何か、あったのですか?」
その割には、のんびりと一緒に床に座る博の様子だが、空は一応尋ねてみた。
彼は、やっと元のサラサラな状態に戻った彼女の黒髪に手を触れたくなったが、グッと我慢して口を開いた。
「新しい捜査官が2名加わることになっていたのは、覚えていますよね。そのうちの1名は・・・ジーナなんですが」
空がどんな反応をするか気掛かりで、博はその表情を窺いながらジーナの名を告げる。
けれど、空は意外なほど平静だった。
「空?・・・その・・・大丈夫なんですか?怖いのではありませんか?」
そんな博の台詞に、空は軽く小首を傾げて答えた。
「さあ、どうでしょう・・・少なくとも今、彼女の名前を聞いても怖さは感じませんでしたが。実際に会ってみないと、何とも言えません。でも・・・」
ジーナの荒療治のお陰なのか、あの3日間の強引な捜査中も、無遠慮な接触や怪しい展開になりそうな気配は殆どなかった。対応が過激になったきらいは無きにしも非ずだが、それはそれとして、雰囲気が多少なりとも変わったのかもしれない。
「特定の怖い人が居る、と言うのはあまりいいことでは無いと思います。ですからジーナにも慣れておいた方が良いと考えています。大丈夫です」
そう言って微笑む空に、博は彼女の芯の強さを改めて感じた。
空が、凛として佇むようになるのは、もう直ぐの事だろう。
「僕も充分に注意しますが、ジーナにも釘を刺しておきますね。まぁ、あんなことはもうしないだろうとは思いますが・・・」
それでも、今後支局の雰囲気がどう変わるのか、全く予想がつかない博だった。




