マッチ売りと煙突掃除夫
二つのアンデルセン童話を混ぜた感じの話です。
館に飾られた羊飼いの少女の人形が自由を求め、若い煙突掃除夫の人形の魔法によって、煙突から煙に乗り、外へ出た。
そんな話がある。
コペンハーゲンの街に住まう、ある著名な作家が描いた物語だ。
以来、何故だか煙突掃除夫を見るといいことがある、などという噂が立って、コペンハーゲンの街を行き交う人々が一々、クラウスを呼び止めるようになった。
つい、さっきもそうだ。
クラウスが煙突掃除用の柄の長いブラシを手に、雑巾を掛けたブリキのバケツを引っ提げて石畳を歩いていると、酒を飲んでいるらしい赤ら顔の老人二人が、ハンチング帽を片手に、クラウスに挨拶して来た。
「やあ、煙突掃除夫の少年!」
「今日はいいことがありそうだ」
「朝から煙突掃除夫を目に掛けるとは縁起がいい」
「お仕事頑張ってくれたまえ。善き魔法使いの少年!」
クラウスも、黙って被っていたハンチング帽を手に挨拶する。
二人の気のいい老人は仲良く笑いながら、街の角を過ぎて行った。
クラウスは溜息を吐いた。
十二月末、どんより曇った鉛色の寒空の下だから、吐く息が白い。
冬の年末、大晦日のコペンハーゲンの街はクリスマスに染まっている。
シルクハットを被った御者が手綱を引く馬車が、石畳の大通りを駆け抜け、道の両脇に並ぶ街灯の傍を、コートを着た家族が笑いながら通り過ぎていく。
クラウスは寒さに、裏地が羊毛のコートの襟元を少し摘み上げた。
木枯らしに、誰かが読み捨てにしたタブロイド新聞が道の上を転がって来て、クラウスは新聞を拾い上げ、ポケットに仕舞った。
次の仕事は、ニュハウンに軒を連ねているアパートの一室だ。
煙突に溜まった煤を掃除するのが、クラウスの仕事だ。
言われている時間には、まだ少し早い。
クラウスは近くのパン屋でデニッシュを一つ買い、ニュハウンの通りにあるベンチに腰掛けた。
ニュハウンは海に面した港で、カラフルな建物が立ち並び、海の上にたくさんボートが浮かんでいる。通りは、沢山の人々がクリスマスの用意に行き交っていた。
クラウスがデニッシュを頬張りながらボロボロのタブロイド新聞を読んでいると、女の子の抑えたような笑い声が聞こえて、クラウスは半目で振り返った。
背が低く痩せ細った少女が、籠を手に笑っている。
「なんだよ。エミィ」
剣呑なクラウスに、その少女……エミィは両手を振って謝った。
「あ、ごめん。さっき、クラウスがお爺さん達に話し掛けられているのを見ちゃって。……だって、クラウスが魔法使いなんておかしくって」
エミィは金髪に編んだ二つの長い三つ編みを揺らして、可愛らしく笑っていた。
エミィは継ぎ接ぎだらけの赤い服に質素な白いエプロンを着て、肩には毛糸のケープを羽織っている。
手に持っている木の枝で編み込まれた大きな籠には、木綿の布が被っていた。
クラウスは白い息を吐き、肩を竦めた。
「魔法なんか使えねーよ。お前も知ってるだろ。作家の先生が、そういう話を描いてから、何だか、そう呼ばれるようになっただけで」
「何だっけ。煙?」
「そう。煙突掃除夫は魔法使いで、煙を操って、色んな場所へ行けるんだそうだ」
クラウスは大体目を通したタブロイド紙をたたむと、エミィの持つ籠を見つめた。
「それよりエミィ。それ」
「これ?」
「その籠の中身」
エミィはごそごそと、籠から真っ赤な林檎を取り出した。
「私のお昼ごはん」
「そうじゃなくて」
クラウスはベンチから立ち上がり、ブリキのバケツをぶら提げたブラシを持ち、肩に掲げた。
「また、“売る”のか? その、布の下にあるもんを」
エミィは「あはは」と苦笑いしながら、木綿の布の下にあるものに手を触れる。
「……うん。お父さんに言われて。昨日も一昨日も逃げて、怒られちゃったから」
クラウスは、コートのポケットにごそごそと手を突っ込んで、銅貨を三枚、エミィに渡した。
「一束買ってやるよ。他はいらねぇから」
「ありがとう。クラウス」
エミィはそう笑うと、木綿の布を掛けた大きな籠の中から、一つ、掴んだものをクラウスの掌に置いて、去って行った。
「私、売りに行かなきゃいけないから」
真冬の曇り空を仰ぎながら、ブラシとバケツを手に、クラウスも歩き始めた。
(俺、本当は、そんな仕事やめろって言いたい。お前に似合わないって。でも、そう言いたいのに言えないんだ。どうしようもないんだ)
クラウスは、先程、エミィから銅貨三枚で買い取ったものをポケットから取り出して見つめた。
クラウスの掌に置かれたのは、一束のマッチだった。
(マッチ売り。多くは、それを買うのは……イヤらしい貴族だ。つまり、ただマッチを売るだけで終らない場合が多い仕事だ。そんな仕事お前に似合わねえよ。やめろよ。そう言いたいのに言えなかった。……だって、エミィだけじゃないからだ。皆が、自分や命を売る。そういうご時世だからだ)
クラウスはバケツを持つ手に力を込めるが、心はすっかり諦めきってしまっていて、手に込めた力も呆気なく抜けてしまった。
十九世紀、デンマーク。
敗戦が度重なり、領地を失い、賠償金の支払いにより国庫は破綻。
壮絶な貧困が蔓延し、クラウス達子供にも過酷な労働が強いられた。
クラウスも戦争に巻き込まれ、両親を亡くして独りになった。
父は最後まで、クラウスと母を守って死んだ。
母は怪我を悪くして、結局死んでしまった。
煙突掃除夫。
ヘマをすれば落ちて死ぬし、煤に肺をやられて死ぬ者も多い。
それが、多くの貧しい男の子に課せられた仕事。
そして、多くの貧しい女の子に課せられた仕事は、マッチ売りや花売り。
それが意味するものは……。
クラウスは唇を噛んだ。
ただ、曇り空の下、白い息を吐いてクラウスは仕事に向かった。
ニュハウンのアパートの暖炉や煙突の煤を払って、その後、二軒目の客の元でも、クラウスはいつも通り屋根に登り、ブラシを手に綺麗に煤を払った。
二軒目の客はお得意の、作家先生だった。
例の話……魔法の煙を使う煙突掃除夫を描いた作家だ。
クラウスの仕事を認めて、ついでに境遇を憐れんでいるのか、たびたび呼んでくれる常連だ。
その日は、なんだかスパナを手にネジを回して、暖炉から繋がるあちこちを綺麗に煤払いしなければならなかった。
クラウスは顔や手を煤で真っ黒に染めて、咳こみながら仕事を終えた。
「仕事終わりました。ハンス先生」
「ありがとう。凄い恰好だねぇ」
「まあ、いつものことです」
クラウスは先程エミィから買ったマッチの束をポケットから出すと、一本出して暖炉縁に擦り付けた。マッチに、火が煌々と灯る。
クラウスはハンスから、いらない紙類や薪を手渡されると、暖炉に投げ入れて火を点けた。
たちまち、暖炉の中の火は燃え上がり、周囲を暖かい空気が包み込んだ。
クラウスが煤に染まった顔を手の甲で拭っていると、ハンスは暖炉の臭いを嗅ぎ、顔をしかめた。
「君、そのマッチ……」
「どうかしましたか?」
「ちょっと、貸してくれないか」
クラウスが戸惑いながらマッチの束をハンスの手に渡すと、ハンスはマッチに鼻を近付けて、確証めいた表情で言った。
「そのマッチは少し古いものだ。使わない方がいい」
「え……」
「古いマッチの中には、幻覚作用のあるものがあるんだ」
「……幻覚作用?」
「そのマッチをどこで手に入れた?」
「友達の女の子です」
「使わないように言った方がいい」
「……でも」
クラウスは茫然と呟いたが、結局全てを言い切ることは出来なかった。
その日の、クラウスの仕事はそれで終わりで、ハンスはクラウスに銀貨を数枚くれた。
外に出ればすっかり夕暮れで、大通りのバーには、仕事を終えた男達が詰め掛けていた。
他の似たような恰好の煙突掃除夫仲間が、ブラシを片手にクラウスに挨拶がてら片手を上げる。クラウスも片手を上げた。
「……クラウス。仲間が一人、落ちて死んだ。今月に入って二人目だ」
「……そうか」
クラウスは、瞼を伏せて溜息を吐いた。
(俺……どうしたらいいんだろう。どうしたらって……バカじゃねえの。……あいつだけじゃない。皆がそうなのに)
クラウスは、アパートの部屋に帰ると、適当に食べてベッドに疲れた身体を放り出し、ふて寝した。
(……仲間が次々に死んでる。あいつにもあいつの事情がある。俺は、どうしたらいいんだろう)
翌日、クラウスはいつも通り、客の家にある暖炉の中に首や身体を突っ込んで、内側に溜まった煤をブラシで払っていた。
あらかた終わって、煙突の内側に取り付けられた梯子を登りきると、煙突から顔を出し、煙突の外側に取り付けられた鉄の梯子を下りて、屋根の上に出た。
寒さと、鉄の冷たさに手がかじかむ。
やっていることは、まるでサンタクロースだ。
クラウスは一息吐くと、ポケットの中に入れていた布を取り出して、手や顔を拭いて溜息を吐き、ボンヤリ、空やコペンハーゲンの街の景色を眺めた。
凍える冷たい風が、クラウスの黒髪を揺らす。
普段は六階や七階立てのアパートだったりするが、今日の客は三階立ての屋敷だったので、そこまで恐怖感はない。
昨日、お世話になったお得意客の作家、ハンス先生の住むアパートがすぐ近くに見える。
(今日は一段と寒いし、空も灰色だし。雪が降りそうだな)
クラウスが屋根で昼寝をしていると、 ぴょこっと、見知った顔が目の前に現れた。
「クラウス!」
顔の両脇で、長い金髪を三つ編みにした少女が微笑んでいる。
クラウスは、突然のことに驚いて起き上がった。
「え、エミィ! 何でここに」
「えへへー。クラウスが登るのを見て、来ちゃった。クラウスはお昼寝?」
「馬鹿。ここ、人んちだぞ! ああ、落ちるところだった」
「私も一度、屋根の上に登って見たかったんだ。メリー・クリスマス!」
「ああ、メリー・クリスマス」
エミィは、マッチの入った籠を手に、コペンハーゲンの景色を見つめた。
「いい眺めだね。カステレットの砦も教会も、ストロイエ通りも市庁舎も、オペラ劇場も、チボリ公園も海も、みんな見える。今頃チボリ公園では、きっと、大きなモミの木やヤドリギや、リースを飾ったりしてるんだろうね」
クラウスは、片膝を立てて、肘を置き、頬杖を突いて景色を眺めた。
吹き付ける冷たい風も、エミィは気にしていないみたいだった。
「でも、仕事は命懸けだよ。仲間の何人かは下に落ちたり、肺病で死んだ」
クラウスは皮肉気に言った。
「ガキも男も女も金稼ぐのに体張ってる。……お前だってそうじゃねーか……って何してんだよお前!」
エミィは、マッチの入った籠と木の靴を屋根に残し、冷え切った鉄の梯子に手や足を掛け、煙突を登っていた。
「煙突、登ってみたくて」
長い金髪の三つ編みや、赤いスカートとエプロンが強風にはためいている。
「馬鹿! 言ったろ、落ちたら死ぬんだぞ! スカートの中身見てもいいのかよ! 見るぞ! とにかく下に降り……」
クラウスは言葉を全部言えなかった。
スカートが風に捲れて、丸出しになったエミィの足が痣まみれだったからだ。
青や赤や、紫色に腫れ上がっている。
普通、人の肌はこんな色はしていない。
「……お前、それ」
「……一番、この街で一番、空に近い場所に登ってみたいの」
エミィは、そう言って笑った。
「一番、天国に近い場所に」
「馬鹿、何言って……お前、って危な!」
煙突に取り付けられた鉄の梯子を、エミィは半分ぐらいまで登っていたが、クラウスと違って不慣れなエミィは足を滑らせてしまった。
「きゃあ!」
「わあ!」
屋根の上から心配してエミィを見上げていたクラウスは、慌ててエミィを受け止めようとするが受け止めきれず、そのまま勢い余って足を滑らせ、屋根から転げ落ちてしまう。
「きゃああ!」
「ぐえっ!」
そのまま二人は、屋根をゴロゴロと転がり落ちた。
木の枝を数本折りながらも、途中の木に引っ掛かってどうにか事なきを得た。
「……いってー」
見事にエミィの下敷きになったクラウスは、木の枝や枯葉を払いながら起き上がった。
エミィが目を覚まさず、死んでしまったかと心配したが、即座に心音を聞いて、クラウスはホッと溜息を吐いた。
周囲には、エミィの売り物であるマッチと籠が散乱していて、クラウスはそれをかき集めて籠に入れた。
(……言わんこっちゃない。……にしてもこいつ)
クラウスが思い詰めた表情でエミィを見つめていると、傍から、聞き覚えのある男の声が聞こえて来た。
「大丈夫かい? クラウスくん」
クラウスが振り返ると、お得意客の作家先生が、心配そうに覗き込んでいた。
「ハンス先生……」
ハンスは気を使って、アパートの部屋を使わせてくれた。
クラウスが気を失ったエミィを背負い、ハンス先生の部屋のベッドに寝かせた。
「何だか疲れて眠っているみたいだね」
ハンスの声に、クラウスは頷いた。
「こいつ……エミィは、父親に暴力を振るわれているみたいなんです」
ハンスは、クラウスが一緒に持ち運んできた籠の中身に目を留めた。
「マッチ売りか。私の母親もマッチ売りだったよ」
クラウスは何かを言おうとしたが、何も言えなかった。
「……俺、仕事があるんで行きます。仕事の途中だったから」
「私も、看ていてあげたいところだが、今夜はクリスマスで人に呼ばれているんだ。物騒だが、一晩だけなら家は開けておいてもいい。早く戻ってきて、エミィちゃんを励ましてあげなさい」
「俺なんか……何も出来ないです」
「……今日は、クリスマスだね。言い忘れていたよ。メリー・クリスマス。クラウスくん」
「そうですね。メリー・クリスマス」
ハンスは静かに、マッチの入った籠を見つめていた。
苦く笑うと、クラウスは歯を食い縛り、ブラシとバケツを手に出ていった。
(……何だかあいつ、死にたがっている気がした)
夕方、エミィはハンスの暗い部屋で目を覚ました。
「ここ、どこ……?」
見知らぬ部屋で目覚めたエミィは、不安げにキョロキョロ首を動かし、傍の棚の上にマッチの入った籠を見つけた。
「……マッチの籠。良かった。私、マッチを売らなきゃ。今晩、逃げたら……お父さん……凄く怒る」
エミィはそう呟くと、マッチの入った籠を持って、部屋のドアを開け、外に出た。
外は夜で、真っ白な綿雪が降っていた。
エミィは大通りに出て、籠を手に道を行く人々に声を掛けた。
「あの……マッチ、いりませんか。お願いします、マッチを買ってください」
コート姿の人々が、通り過ぎていく。
街灯の明かりが、雪の降る聖夜の街を照らしていた。
「おい、危ないぞ!」
馬車が道を通り過ぎて、エミィは転んでしまった。
ぶかぶかの木の靴が脱げてしまい、そこへ裕福そうな小さい男の子がやって来て、木の靴を拾った。
「へへっ、なんだこれ。赤ちゃんの揺り籠になるな。貰って行こう」
小さな男の子はそう言うと、木の靴を持って、どこかへ去ってしまった。
起き上がったエミィは暫く木の靴を探したが、見つからないので仕方なく諦めた。
「……寒いな」
エミィは雪が降り積もる石畳の上を、裸足で歩いた。
雪の中で、近くの家はどこも明かりが灯り、賑やかな声が聞こえる。
ガチョウの焼ける匂いがする。
エミィは、赤くかじかむ手に白い息を吐いて、擦り合わせた。
屋敷の軒下で雪を凌ぎながら、エミィは籠からマッチの束を一つ取り出した。
(……寒いな。マッチに火をつけたら少しは暖かくなるかな。少しぐらい、いいよね)
エミィは、壁でマッチを擦った。
すると、目の前が明るくなり、ガチョウの丸焼きやケーキが現れた。
「うわあ、凄い!」
ガチョウの丸焼きとクリスマスケーキが、美味しそうな匂いを醸し出して、エミィの周りを踊り出し、エミィはそれを楽しそうに見つめていた。
だがマッチの火が消えると、ガチョウの丸焼きもケーキも消えてしまった。
何もない、ただ雪が降るだけの空間を、エミィはぼんやりと見つめていた。
「消えちゃった。もう一回擦ってみよう」
大通りに面した屋敷脇の路地。
小さくうずくまるエミィに誰も気付かない。
エミィは再び、壁でマッチを擦った。
すると、美しく飾られたクリスマスツリーが現れた。
「今度はクリスマスツリーだ! 綺麗……」
大きなもみの木には沢山の蝋燭が灯され、荘厳な輝きを放っていた。
エミィはぼうっと見惚れていたが、マッチの火と共にツリーも消えてしまった。
目の前には何もない。
エミィはまた、マッチ棒を一本手にした。
「もう一回」
エミィは壁にマッチを擦って、マッチに火をつけた。
今度は、死んだ筈の祖母が現れた。
「……お婆ちゃん?」
雪は止んで空には満面の星が輝き、祖母がエミィに対して手を伸ばしている。
エミィは、瞳から涙をボロボロ零した。
「……お婆ちゃん。お婆ちゃん、天国にいるんだね」
分厚いケープを肩に羽織ったお婆ちゃんは、優しく頷いた。
エミィが肩に掛けているものも、お婆ちゃんが編んでくれたものだ。
「私も連れてって。辛いだけなの。もう嫌なの。私もお婆ちゃんのところに行きたいの……」
エミィは、お婆ちゃんが微笑む星空に手を伸ばした。
そこには煉瓦の壁以外何もなかった。
マッチの火もとっくに消えていた。
だが、エミィは何もない空間に手を伸ばした。
「お婆ちゃん……」
クラウスは息を切らせ、ハンスの住むアパートに向かっていた。
(今日はクリスマスだから、仕事も早く終わった……)
クラウスはハンスの部屋の扉を開き、中へ入った。
だが、ハンスの家にエミィはいなかった。
「エミィ?」
エミィが寝ていた筈のベッドは空っぽで、布団はすっかり冷え切っている。
近くの棚に置いていたマッチ入りの籠もない。
(どこだ、あいつ)
クラウスは、長いブラシやブリキのバケツなど、仕事道具をハンスの家に置いて外に飛び出した。
「エミィ、どこだよ! あの馬鹿!」
雪の降る街中を走りながら、クラウスは苦々しげに呟いた。
あちこちの家から明るい光と笑い声が溢れている。
皆が、部屋を飾って聖歌を歌い、ご馳走を囲み、シャンパンやワインを開けてプレゼント交換をしているのだ。
クラウスは白い息を吐きながら、エミィを探して、必死に雪まみれの町中を走った。
裏通りも探した。みすぼらしい格好の女がマッチの灯りを手に、男と抱き合うのが見えて、クラウスは目をそらした。
……そう。これなのだ、結局は。
これが。マッチ売りの仕事。
「……マッチとか売りに行ってんじゃねえよ。ふざけんなよ。だってそれって、大半の奴は、自分を売るってことじゃねえか」
クラウスは半分泣きながら、探し続けた。
全身、雪にまみれていた。
(でも、あいつだけじゃないんだ。皆が大変なんだ。俺だって大変なんだ。命懸けてんだ。自分を売ってるんだ。……でも、でもさ)
クラウスは、人々が寝静まった後も、一晩中、エミィを探し回った。
(お願いだからさ……。無事でいてくれよ。死ぬのだけが幸せだなんて、悲しすぎるんだよ)
幾ら探しても、エミィは見付からなかった。
先程に通り掛かった裏通りも、マッチの灯りは消えていた。
クラウスは、汗を拭い、白い息を荒く吐いた。
雪は止んでいて、星空だけが、混じり気のない澄んだ空気の中で綺麗に輝いていた。
コペンハーゲンの街は明かりが消えて暗かった。
街中の皆はクリスマスを祝い終わり、寝静まっているのだ。
今夜のところはもう、子供達が、サンタクロースの到来を待つだけだ。
きっと今頃は、赤い服を着た長い白鬚の老人がプレゼントを手に、あちこちの家の煙突という煙突に潜り込んでいるだろう。
クラウスの煙突掃除も役に立っている筈だ。
クラウスは疲労感に、近くの商店の軒下にしゃがみ込んだ。
酷く凍える夜だった。
やがて日が昇り、空が白んで来て夜が明けた。
いつの間にか眠っていたクラウスは、軒先から滴る雫の冷たさに驚いて目を覚ました。
クラウスがしゃがみ込んだ場所のすぐ近く、大通りに面した屋敷の傍に、人だかりが出来ている。
クラウスは疲れた身体で、どうにか起き上がって、人だかりに近づいた。
大人達が口々に言う。
「夕べのうちに死んだのか」
「マッチぐらい買ってやれば良かったな」
その言葉にハッとして、クラウスは人ごみを掻き分けた。
違って欲しいというクラウスの願いとは裏腹に、そこにあったのは、雪の上に目を閉じて横たわる女の子……エミィの姿だった。
「エミィ!」
クラウスはエミィに近づくと、身体を抱き起して揺さぶった。
「おい、起きろよ。エミィ! エミィ!」
「可哀想に。こんなに寒い中死んだのか」
クラウスは急いでエミィの胸に耳を当てた。
心臓は緩やかだが、ちゃんと動いている。
「……死んでない」
「えっ?」
「死んでない!」
「おい、君……」
クラウスは歯を食い縛ってどうにか涙をこらえ、エミィを背負った。
見物人に声を掛けられるが「こいつは俺の友達なんです! 死んでません!」と叫んで、その場を離れた。
クラウスは、近くにあるハンスの住むアパートに向かった。
自分の部屋よりハンスの部屋の方が近いと思ったからだ。
だが、都合悪くハンスは留守で、鍵が掛かっていた。
「鍵が掛かってる……ハンス先生! ハンス先生!」
何度も扉を叩くが、ハンスは現れなかった。
クラウスの仕事道具は外に出ている。
バケツの中には、何かを包んだ袋と、二つに折り畳まれた紙の切れ端が入っていた。
袋の中には銀貨が何枚か入っていて、紙の切れ端は「他に用事があるので外出している。少ししかないけれどこのお金を、何かに用立てなさい」という書置きだった。
(ハンス先生……)
クラウスはエミィを背負うと、ハンスのに感謝しながら家を離れ、近くの教会に向かった。
親を失ったクラウスを育ててくれた孤児院のある教会だった。
中から、年老いたシスターがやって来た。
「あら、クラウス。どうしたの? ……その子は」
「俺の友達のエミィです。すみません、もう孤児院を出た身なのに、他にあてがなくて」
「まあ。身体が冷え切ってるわ。……それにクラウス、貴方も何だか顔が赤いわよ」
「俺は大丈夫です」
クラウスはブリキのバケツから、ハンスがくれた銀貨入りの袋を取り出した。
「あの、これで医者を。お願いします」
「わかったわ」
シスターはそう言うと、他のシスターに町医者を呼んでくるよう指示を出して、すぐにエミィを部屋に連れて行き、ベッドに寝かせた。
エミィは意識を失ったままだった。
町医者は程なくしてやってきて、クラウスはシスター達に任せて少し席を外した。
町医者は黒い鞄から聴診器などを出して、エミィを診察した。
診察が終わり、クラウスは部屋に入ることを許された。
「とにかく暖炉や毛布で身体を暖めて。低体温症に陥っているから。あと薬を置いて行くので、目を覚ましたら飲ませるように」
「ありがとうございます、これ……」
クラウスは銀貨を差し出したが、町医者は首を振った。
「クリスマス明けだからね。お金は取らないことにしよう。そのお金で何か、栄養のあるものを食べさせてあげなさい」
町医者はそう言うと、黒い外套を羽織り、馬車に乗って帰って行った。
クラウスはシスターと一緒に、町医者を見送り、感謝に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ありがとうございますお医者様」
クリスマスは終わったが、まだ暫く、クリスマスの祝いは続く。
教会はあちこち燭台に火が燈り、ステンドグラスの聖母やイエスを照らしていた。
クラウスは聖堂のイエス像を見て、真面目に祈った。
エミィが助かるように。
やがて、数時間経って、エミィは薄っすらと目を覚ました。
「あれ? ここは……」
近くでエミィの看病をしていたシスターは喜んで、クラウスを呼びに行った。
「クラウス! エミィが目を覚ましたわ!」
クラウスは、ベッドの上のエミィを抱き締めて泣いた。
「……クラウス?」
「ふざけんなよ……。勝手に死んでんなよ!」
「……クラウス」
「実家には絶対に帰るな、ここにいろ。貧乏なところだけど、シスターはいい人だし、お前の親父より遥かにましだ」
「…うん。わかったよ。クラウス」
エミィは照れながら微笑んだ。
「…クラウスも、煙突掃除の仕事で死なないでね」
「…死なねぇよ」
クラウスは、そう言ってエミィに微笑んだ。
エミィは暫く、教会のベッドで養生した。
クラウスも良く仕事の合間に抜け出して、エミィに会いに行くようになった。
その教会の本棚で、クラウスは一冊の赤い本を手に取った。
煙突掃除夫の少年と羊飼いの少女、二つの人形の話だった。
羊飼いの少女の人形が外に出たがり、煙突掃除夫の人形の魔法で煙に乗り、外に出してやる話だ。
……だが結局、羊飼いの少女の人形は、元に戻ることを願ったらしい。
別に、クラウスもエミィも人形ではないけれど。
クラウスのお得意客の作家、ハンス先生……ハンス・クリスチャン・アンデルセンの話だ。
彼は、自分の母を元に、マッチ売りの少女という話を描いたという。
結局、エミィは身体を売らずに済んだ。それで良かったとクラウスは思う。
デンマークは、この時代の悲しみを忘れず、のちに高福祉国家となった。
雪が溶けて、花が咲き始めた頃、クラウスがエミィに言った。
「……あのさ」
「うん」
「……その、俺が、大人になったらさ」
「うん」
クラウスは照れていて、エミィは嬉しそうに微笑んでいた。
教会の庭には、花が咲き始めていた。
〈終〉
もうずいぶん昔、専門学校時代に練ったネタを小説にしたものです。
このネタを練ったら専門学校が潰れました。