『幻は世界の変え方を知っている』 外伝:マクスウェル器官の念料・後編
いち早く心理工学の取材に携わることができたのは幸運だった。未だ世間の認知度は低いが、国の戦略目標に指定され、今後間違いなく注目される技術になるからだ。
日本は、心理工学において世界を牽引している。今後、世界中で使用されていく技術だ。認知度を上げ、ユーザーを増やし、より多くの実証データを得ることは非常に重要である。そのため、国も研究機関も企業も広報に力を入れているわけだ。
そんな状況での依頼に、どのような記事で答えるのか。私自身の今後の人生も左右する、非常に重要な局面である、のだが。
私にとって、この『心理工学』という学問の概念が非常に難解であった。表面的な内容であれば、一般の読者にも魅力を伝えることはできる。ただ、一般人と専門家の架け橋としての役割を果たすのであれば、難解な論理も噛み砕いて表現しなければならない。
昨年の秋、脳波を使った意思表示ツールの取材をした。
脳波でモールス信号を打つ単純な仕組みを、複数箇所の脳内電極から発信することで多くの情報を出力できる。さらにその信号を、音声や皮膚への触覚刺激に変換することで、第三者と通信を可能にする。
そこまでは複雑ではない、単純な技術であった。
これに共感覚を人為的に発現させる手法が生み出された。青色に冷たさを感じるように、異なる刺激と感覚が結び付けられる現象だ。その状態で行われる訓練によっては、機械的な信号に喜びや恐怖を覚えることができる。そうすることで感情を通信し共有することが可能になったそうだ。
この技術によって起きたパラダイムシフトの際に提唱された概念が心理工学だ。
通信の際、使用者に発現させる認知や感情と、機械的信号の対応表のようなものを構築し、それを脳波言語と呼んだ。それぞれの用途に合わせた言語の開発が行われ、視覚や聴覚、触覚、感情や思考、記憶などあらゆる心理的情報を共有可能にする技術開発を心理工学ではおこなっている。
次にカメラから視覚情報を送信させる『認知カメラ』の取材をした。
その際に執筆した記事が好評だった。
『かつて、目の見えない人の視神経に、画像データを直接流して視覚を得ようとする試みがあった。しかし実際に画像情報を脳に注ぎ込む必要はない。我々が、心が、必要としているのは、膨大な情報ではなく、そこにあるものが、美味しそうか、危険そうなのか、触っていいものなのか、それだけだ。その認知のいくつかの積み重ねが、我々の知覚している視覚なのです』
私のこの記事はなかなかウケた。読者に、そして心理工学の広報にも。出版社からも期待を受けて次の取材が複数決まった。
次の取材は、認知カメラの通信処理を行うため、人間の脳を粘菌で再現して作られた、全く新しい処理機構を持つ『有機演算器』の取材。
シャープペンシルの芯のケースほどの中に粘菌が収められ、スーパーコンピューターのように整然と並べられたラックに、そのケースが数百万も収められていた。
有機演算器は被験者から出力された認知信号を受け、学習をしている。そんな彼らは『標本』と呼ばれていた。それは心の標本ということだ。彼らは疑似視覚の脳波言語を構築するためにカメラを装着し、目にした物への認知を常時提供している。映像と、提供された認知が有機演算器の中で紐付けられ、言語が構築される。疑似視覚の言語を習得すれば、カメラから視覚を得られる。
『私達は常に、外界の刺激から心の中に認知を構築している。私達の本質はその認知の連続であり、外界と認知の対応表の違いが個性である。標本から一般化した対応表を作り、認知を共有できるようにする』これが心理工学の描く世界観だ。
ただ、なんとかここまでは付いていくことができたが、そこから先の取材は非常に難しいものになった。
人間の心理的現象を記述し、有機演算器の動作理論を設計した『有機計算学』。他人の認知構造を使用することで起こる『認知酔い』。それを防ぐため、自らの認知と外部由来の認知を区別し、緩衝するための機構『認知アイソレータ』。そのアイソレータの程度を決めるために有機計算学から算出される『ディストーション判定値』。
理解しようと取材を進めて勉強しても、全くついていけなかった。科学に関する知識や情報は常に仕入れていたが、急速に発展したこの分野はまだ一般向けの書物が少ない。一般人が理解をしていくために、我々が先陣を切っていく必要があるのだ。
大学に何度も足を運び、講義に参加し、論文を読みあさった。ようやく最近になって概要が見え始めたところで、一昨日のマクスウェル機関の取材である。
あまりの説明の突拍子もなさに、すっかり弱気になっていた。
今回の彼女への取材で何か糸口を掴めると良いのだが。
彼女の研究への熱意を一通り聞き終え、話を本題に移す。
「所長さんが仰っていた『念をエネルギーにする』って、いったい何なんでしょうか?」
「私に聞かれても困りますよ。あぁいう人たち苦手だし。そもそもこれ使ってあんな説明するなんて、ほんと嫌でした」
彼女は私の座るベンチの横に置かれたガラスの振り子を指差した。
「心理工学で、あぁいうスピリチュアルな表現をするのはタブーなんです。心理的現象を理解して、私達の本質と向き合って、それを運用するのが心理工学なんですから」
彼女と話していると、なかなか良いキーワードをくれる。
一般人が『心理』と聞いて抱くイメージには大きな誤解がある。心の複雑な機構を技術的に取り扱うのが彼らの生業だからだ。それは今後、積極的に説明に加えていかないといけないだろう。
「たしかに、抵抗感がありました。とくに被験者のことを悪魔と例えたのは。昔の思考実験の引用なのでしょうが」
「そうなんですよ! 人の事を燃料とか思念源とか。もっと被験者の方に配慮した表現をすべきですよ」
情報とエネルギーを交換する存在『マクスウェルの悪魔』。あたかも何もないところからエネルギーを持ち出すその思考実験上の存在は、当時の科学者にとって現行の法則を覆しかねない、まさに悪魔であった。
今、その存在は心理工学により人間が担えるようになった。つまり、人間の思考からエネルギーを取り出せるようになった。と、言うことらしい。
「私、量子とかエントロピーとか直感的じゃない、ちまちま計算するやつ苦手なんですよね」
彼女はベンチに置いた振り子を手に取り腰掛けた。胸の前に持ち上げてそれを眺めると、すぐに左から三番目の振り子が揺れだした。
「眼球の揺れを拾っているんです」
「眼球?」
「えぇ。念じるって、つまり集中して見つめれば他の体の動きは弱くなります。長さが違って固有の振動数をもった振り子を見つめると、眼球がもともとの揺れを追いかけて同期された振動が伝わります。ブランコを漕ぐ、でしたっけ? 揺れるイメージを強くすれば、全身の緊張と緩和が同期されるなんてこともあるのかな? で、腕を動かさなくても、タイミングの合った僅かな揺れを徐々に拾っていくんです」
彼女に取材ができて本当に良かった。
「それをあの所長は『ただ念じただけなのに揺れだした、わーすごい!』ってところで止めて、スピリチュアルなウケを狙ってるんですよ。一部の人には良くても、あれじゃスポンサーは付かないですよ」
彼女は振り子を私の膝に置くと、立ち上がって大きな伸びをした。
「まぁでも、この振り子の実験自体は確かに私達をうまく表現していると思います。説明が不適切なだけで」
そして彼女は『標本』について語り始めた。
彼女は気象についての感覚を標本化している。疑似視覚などの、元々が人間に備わっている感覚は認知と信号の対応がわかりやすい。しかし、人間の器官でない刺激を、人間の感情に当てはめていくことは、単に対応していくだけではなくデザインが必要なのだという。
手帳にメモをする。
『彼女は気圧を想い、風向きを憂い、海流に歓喜する』
彼女は船首へゆっくりと歩きながら風で髪をなびかせている。
「今向かっている海上気象観測点で構成される気象観測網。それに各地気象台、気象衛星のデータ。今私は、全てを統合して気象感覚を作っています。この脳波言語を発現させた人たちは、私がデザインした気象感覚と接続されます。今まで気象予測AIが膨大な演算の末に出す予報を、私達は自身の感覚として直感的に感じ取ります」
船首で両手を広げている彼女は、一呼吸おいてこちらに振り返る。
「例えば、この船が港へ戻る頃は、ちょうど土砂降りでしょうね」
にやりと視線を合わせてくる。
「それは今朝、教えてほしかったですね」
私もその視線に答える。彼女には、もっと聞いてみたいことがある。他の取材先の紹介もお願いしてみよう。彼女は語り続ける。
「私が記者さんに見せたかったものは、この広い海と、ほら。あのカモメたち」
彼女の指差す先に三羽のカモメが飛んでいた。
「感覚って当事者でなければ、けっして理解できないじゃないですか。私達は翼をどんな感覚で動かすのか、けっして理解できません。でも、今記者さんがペンを持って字を書く感覚だって、鳥からすれば理解できません。そして記者さん自身も、自分の心理的現象が物理的現象へと繋がる接点のことを理解できていない。少なくとも揺れだした振り子にあれだけ驚いてしまうくらいには」
彼女はまた、にやりとこちらを見た。苦笑いを返す。
「でも、その接点には意識できていなかった機構がきちんと存在する。それを解明し、応用できたのなら、私達の世界はこの海どころじゃない、どこまでも広がっていくんです!」
強い日差しの中、彼女の目は輝いていた。
そろそろ東京湾を出た頃だ、広大な水平線の先に、立派な入道雲がある。彼女はあれのことをどう感じているのか。私には理解ができない。
しかし彼女は感じている。あの雲だけでない。地球を取り巻く気候の想い、全てを。
彼女はスタスタとこちらへ戻ってくるとまたベンチに座った。
「今までの実績をまとめて報告すれば気象庁のお墨付きは間違いなしです。そしたら、次は国土交通省にもかけあうことになっていて、将来的にはGPSの測位系の情報も統合して、地盤の動きや地殻活動を疑似感覚として統合するの。地震予知なんかの可能性だってあると思いませんか? それに、もしこれで実績が作れれば、今度は重力波望遠鏡とカミオカンデに接続するの。将来的には世界中の天文台につないで宇宙望遠鏡も含める。こんなのわくわくしないわけがないでしょ!」
しばらく彼女の話に耳を傾けてから食堂にいって取材を行った。
道路状況を認知し、新たな交通管制システムを開発する計画。刺激に経験を照らし合せて認知を生むのが記憶であるのなら、他人の記憶から疑似記憶を作り、記憶を共有できるということ。耳の聞こえない女の子が疑似聴覚で聞いたクラシックをアレンジしてピアノ演奏した話。認知を直接交わせるのなら、脳波言語は人類共通の言語として普及していくこと。疑似感覚全てを統合し、調節された疑似人格の開発について。彼女は終始、楽しそうだった。
午後に観測ブイの調整があるらしく、彼女は一旦去っていった。後で船内を案内してくれるそうだ。
彼女の話は非常にわかりやすかった。今後の活躍を追いかけていきたい。
客室に戻ってマクスウェル機関の文献を読みながら、あの実験のことを思い返していた。
配線だらけの実験室。ベッドに横たわる男性は、どこか遠くを見つめるような顔つきで穏やかに呼吸をしていた。彼もまた、接続されているのだ。あの配線を通じて。あの無機質な機材を、粒子の揺らぎを、まるで自分の『器官』のように。
船で語る気丈な彼女には感じなかったが、彼に対しては不安を感じた。それは、あの所長のせい、なのだろうか。
あとから聞いた同僚の話によると、取材の依頼主はマクスウェル機関を宣伝用の研究として位置づけているらしい。外部のスポンサーはいない。できたことに意義がある。そういった技術だった。
あの怪しげな所長にも苦労があるのだろう。
『心理工学は人類を次のステージへ導きます。外界からの情報に呼応するのが、我々の心です。我々が常に翻弄されている心の問題を、この技術で少しでも外部に委託できたのならば、我々は安寧を得られると思いませんか?』
所長の言うところ、心理工学の次の構想は、悩みや不安といった『心のタスク』を他人の記憶を利用して解決を得る仕組みを作ること、だそうだ。
心が何処にあるのか、彼らは知っているのだろうか。私にはわからない。そして、これから、もっと探すのが難しくなってしまわないだろうか。
海の似合う彼女が人間と違う別の生き物になってしまった、と感じているわけではない、だが。
「どんな感覚、なんだろうな……」
他人の心も、自分の心も、理解できた時なんてきっと私には一度もなかった。
この技術が開いた世界に何が待っているのか。私はわずかに揺れる客室で考えていた。
<終>