『幻は世界の変え方を知っている』 外伝:マクスウェル器官の念料・前編
甲板の上で眩しい青空を映した小さなガラスの玉が揺れていた。
透明な樹脂製の小さな水槽のような箱の中に、6個のガラス玉が独立して吊り下げられている。
両腕で胸の高さに持ち上げたそれは、夏の日差しを反射しながら、船体に合わせて揺れていた。
東京を出港して1時間ほどが経った。川崎人工島を過ぎ、両岸にはプラントやコンテナクレーンが立ち並び、大型輸送船が控えている。
私は、顎につたう汗に気を取られないように、その中の1つのガラス玉だけをじっと見つめていた。その輝きはやがて意思を持ち、私に答えるように、大きく揺れ始める。
この衝撃をどう記事にするか。取材を始められるまで、プロットでも考えていよう。
『マクスウェル機関』人間の思考からエネルギーを取り出す装置。
電子の状態を知覚し、それを制御する技術、……だという。いいネタにはなるのだが、どうして本当に科学者というものは、とんでもないものを作る。
取材に行ったのが一昨日。その構想と難解さに衝撃を受けた。
受付の警備員に名乗ると、すぐに完璧な笑顔の中年男性が出てきて丁寧に出迎えてくれた。
ここの所長のようだ。
「良い記事を書いていただけることを期待しております」
彼は記事のネタを紹介する。私はそれを大衆に向けて広報をする。広く周知され、この技術の重要性が認識されれば、研究に予算がつく。科学者と私はビジネスパートナーだ。ただ、その顔に張り付いた笑顔に、何か嫌な予感がしていた。
近くの大学生も数名見に来ているようで、見学会のような雰囲気だった。施設の案内をしながら、所長は穏やかな口調でずっと語り続けていた。
「有機計算学は人間の脳に無限の記憶容量があることを示しています。私は魂という存在もここでなら証明できるはずだと思うのです」
予感は当たってしまっていた。彼は科学者の中でもたまにいる、オカルトを好むタイプの人物のようだ。さっきからずっと、小さな論理を拡大解釈して話しているような感覚を受ける。この分野について、うちの出版社は文部科学省からも広報の依頼を受けている。もう少し技術的な話を記事にしたいのだが。
「こちらが、マクスウェル機関の中央装置です」
廊下の片側がガラス張りになっており、実験室を見下ろせる構造になっている。広い実験室に見たことのない様々な機材が並び、大量の配線が複雑に伸びている。その中央には介護用ベッドのようなものが置かれ、まるで昔何かで見た人造人間を作る悪の組織の実験室のようだ。そして何かを補おうとするように、ベッドの周りにはいくつかの観葉植物が不自然に置かれている。強い違和感を覚えた。
「あのベッドはなんですか?」
「悪魔役にはあそこで接続してもらうんですよ。本当は同じ空間にいてもらう必要はないのですが、人間の思考を利用しているという説明がしやすいと思いまして、このような配置にしたんです」
相変わらず穏やかな笑顔で奇抜な発言をする。
「魂が燃料となる。我々はこうして進化し、この世に生まれてきたのかもしれません」
この配置と案内役は、一般公開されるまでに修正されるべきだろう。
ただ、実験には衝撃を受けた。被験者の男性がベッドに横たわり準備が整うと、所長は高揚した声でモニターを見るよう促した。そこには機材の状態や数値が周囲に表示され、中央にはグラフがあり、1定時間毎にプロットが打たれていく。
「この点が現在のエネルギーです。追加される点が右上に向かっていけば彼の記憶とエネルギーが交換されたことになります。調子はいかがですか?」
所長はベッドに横になる男性に問いかけた。彼はわずかに手首を動かした。すぐに所長はモニターの方へ振り返る。新たに現れる点は、徐々に右上に表示されていく。
「すばらしいです! 良い記事が書けますね。これでスポンサーが付くと良いのですが」
理屈も原理も、まったくわからない。だが実際に、今までにない何かが、この技術で可能になっていた。
会議室に案内されて取材を始めた。理論的な話を求めると、非常に難解で「観測した、という情報的な変化がエネルギーと関係している」らしい。わかりやすい説明を求めると「念じる力が何かを変えられると感じることはありませんか?」と、またオカルトじみた話になる。
参考資料や論文を貰い、学生らと一緒にマクスウェル機関の概要をプレゼンしてもらった。熱力学が1番苦手だったことを思い出した。もっと勉強しておけばよかった。
困惑していると所長は「とっておきの物がある」と言って、奥から何かを取り出してきた。
「発注していた物がようやく届いたんですよ。今回はデザインに凝ってみましてね。より感動していただけるように」
所長は振り子の入った箱を渡してきた。
「差し上げますよ。これが貴方の違和感を打開する糸口になると良いのですが。1度でも経験していただければ、我々の世界観を共有できるはずです」
彼はこれに相当の自信がある様子で自慢げに渡してきた。この箱を両手で掴んで胸の前へ持ち上げろという。
「足は肩幅に広げてリラックス~」
学生らの視線が辛い。
「深呼吸をして、そして集中して。それが自分の一部であるように、共鳴するように……」
中の振り子の1つを見つめて揺れるように念じろと言う。気色が悪いが、何が起こるのか興味はある。まぁ従おう。
「…………」
「心理的現象と物理的現象の接点です。我々はこれを確立された技術として扱います。それが心理工学です」
あまりの衝撃に駅から走って帰宅した。あれが何だったのか再現してみる必要がある。あの所長の世界観に頼ってはいけない。自分の言葉で説明できるようにならなければ。
帰宅すると真っ先に妻に縫い糸を出してもらう。キッチンのカウンターの端に貯金箱がある。五円玉がちょうどいい。その近くに立てかけてある菜箸は、後でこっそり戻せば大丈夫だろう。6枚の五円玉に糸を通して菜箸に結びつける。おそらく糸の長さが全て違うことは関係があるはずだ。
腕を動かしているわけではないのに、念じるだけで揺れる。この箱に何か仕掛けがあるのなら、この五円玉は揺れないはずだ。
菜箸の両端を持ち、胸の高さまで持ち上げ1つを見つめる。
「ブランコを漕ぐイメージ……」
周囲で各々揺れている五円玉の中で、見つめたそれだけが呼応するように徐々に大きく揺れ始めた。再現できてしまっていた。こんなにも簡単に。この揺れのエネルギーが思念や魂のような抽象的なものから顕現……。
「何やってるの? ……催眠術?」
妻は訝しげな表情で、リビングの入り口から様子を伺っている。
慌てて、この驚きと再現実験のことを説明し、そう!別の人物でも起こるか試したいと菜箸を差し出した。
「箸を使わないならやってあげる」
引かれている自分に気づいた。完全に高揚していた呼吸を整えるように1度息を吸い込んで「わかった」と言ってキッチンへ向かった。また機嫌を損ねるのは得策ではない。
糸を外した菜箸を洗いながらカウンターに置いた手帳に目をやった。『心と物理の接続』と、取材のメモがある。そして泡立つスポンジの動きに目を落とす。
手が何故思ったとおりに動くのか、不思議に感じたことがあった。理科の先生から借りた脳の仕組みの本を読んでも、納得できないまま忘れてしまっていた。
水気を切り、かごに立てかける。手を拭いて、手帳に挟んだ名刺を取る。『宮井穂乃香』。
その女性は、見学に来ていた学生だ。帰り際に目をキラキラさせながら近づいてくると名刺を差し出してきた。
「心理工学についてもっと知りたければ私の取材もしませんか? こんな量子とかよくわからない内容より、きっと面白い記事がかけますし、理解も深まると思います。とっつきやすく心理工学の真髄を紹介しますから!」
理解が追いついていないことを悟られたのだろう。どんな切り口で記事にするべきか悩みながら質問をしていたからだ。学生に励ましを受けてしまった。
私は、あの場で『こんな』呼ばわりを無邪気にしてしまう熱意のある学生に興味があり、とりあえず名刺交換をしたのだった。
しかしよく見ると、その場では気づかなかったが、名刺には気象庁のロゴが入っている。文部科学省の戦略目標を受けた研究機関まで載っている。
『学生か……』と偏見を持った自分が若干でも居たことに気づいた私は、反省しながら彼女に連絡をとった。
そして今、私は東京湾にいた。
彼女は現場を見せるため、私も同乗できるよう乗船の手配をしてくれた。急な話ではあったが、文部科学省に気象庁、それにいくつもの大手企業が出資している事業であることがわかり、出版社からは電話の向こう側で万歳でもしているかのような口調で出張を認められた。
当日、搭乗口で名乗ると客室に案内された。すぐに彼女は部屋へ挨拶に来た。資料やら何かの装置を抱えながら慌ただしく「出港したら1時間後にデッキで待っていてください!」と言って、食堂の利用券を置いていった。ひとまず彼女にも礼儀という概念があって安心した。来客の対応には慣れているようだ。
荷物を整理して機材の準備をして食堂で休み、少し早くデッキに来た。強い日差しに照らされ熱くなったベンチに腰掛ける。でも、通り抜ける海の風は心地よい。彼女が何を紹介してくれるのか、どんな記事がかけるのか、まだわからない。
鞄から振り子の箱を取り出す。とりあえず、あの場に居合わせたのだから、マクスウェル機関を大衆向けにわかりやすく説明できるヒントが得られると良いのだが。
十五分ほど待っているが彼女は来ない。流石に暑い。食堂に戻ってもう少し涼もうか。
「それ、ニュートンの振り子ってやつですか?」
作業服姿の若い男性が話しかけてきた。ベンチに座って、揺れる振り子をじっと見つめる私は、それは怪しく見えただろう。私はすぐに笑顔を整えて答えた。
「あぁ、これはマクスウェル機関の取材の際にもらった実験装置です」
「もしかして念じると動くってやつですか?」
「えぇ。さすが、よくご存知ですね」
「最近聞きますね。やったことないですけど」
「やってみますか?」
「ぜひ!」
彼は好奇心旺盛だった。
「あぁ、ニュートンの振り子とは全然違いますね。1つずつ間隔あるし、それぞれ長さも違うんだ」
彼は隣に座ると、箱を胸の前に持ち上げてじっとガラス玉を見つめだした。やり方は知っているようだ。それにしても……。
「傍から見たら、やっぱり怪しかったですね」
「いや、ここのみんなは慣れっこだと思いますよ。それに僕はこういうの好きですし」
期待に満ちた表情の目の前で、右から二番目のガラス玉が徐々に揺れを増していった。
「うわぁ、まじだ」
この驚きは伝えるべきだ。実際に作り方を載せて、やってみるよう促す記事でも面白いかもしれない。ただ、この振り子から思考をエネルギーに変える技術について一体どう繋げればいいのか。
「取材の方ですよね? 宮井さんを待ってるんですか?」
「そうなんです。見せたいものがあるそうで」
「上がってきましたよ」
振り返るとそこには自分の体よりも大きな箱を背負った彼女が階段を上がって来ていた。息を切らしながらゆらゆらと近づいてくる。
「記者さん! 待たせてごめんなさい~」
「いえ、今日はありがとうございます。」
「いやー。ここ暑いですね~」
そう。暑い中を待ち合わせ場所にしたのだ。
彼女は荷物を降ろそうと、登山用ザックのようなベルトを外している。なかなか外しにくいのかよろめきながら格闘していた。すると彼はため息をつきながらタンスのような箱を支える。
「取材の方もこの暑いところで待っていたんですよ。宮井さん、大丈夫ですか?」
「もちろん、バッチリメンテ済。 面白いんですよ、これ!」
やれやれという顔をする彼には、その中にも笑顔があった。気持ちはわかる。彼女は悪い人間ではない。
ちょっと、いい意味で外れた人間なんだろう。そのような人物にはたくさん会ってきた。
「えっと。なんですか、その箱?」
「も~、すっごいですよ! すぐに準備できますから」
彼女は樹脂製の箱を下ろしてロックを外し、開き始めた。大きさの割にそれほど重くはなさそうだった。
「また勝手に打ち上げるんですか?」
彼は呆れながら言った。
「大丈夫、大丈夫。めっちゃ叱られましたから、今回は別回線使って制御するのでバレませんよ」
「あー、知らない知らない。何も見なかったー」
彼は両手を耳に手ぽんぽんと当てた。
「では、僕は仕事に戻ります。ぜひ良い記事を書いてくださいね。我々のスポンサー様のためにも。これありがとうございました」
彼は待っていた私の相手をしてくれていたのだと、今気がついた。振り子が収められた箱を丁寧に手渡し、彼は階段を降りていった。
彼女の方は手際よく、何やら準備をしている。
「今、丹沢の方でかなりの積乱雲ができてるんですよ」
彼女が開いた箱には1メートル程の飛行機が収められていた。はしごのようなものを伸ばすと2メートルを超える。
「無人観測機?」
「えぇ。よーし。んじゃ離れててください」
キーンと高い音が徐々に唸り始める。コンデンサのようなものに充電しているのか。伸ばしたはしごはカタパルトのような……。
「いってらっしゃい!」
発射の音は一瞬レールを擦る音がしただけで、思いのほか静かだった。数メートル垂直に飛びあがり、すぐに風で後方に流れていった。
「ちゃんと帰るんだよー。あの子は勝手に大学に戻るんです」
彼女は空に向かって手を振っていた。
「これを見せてくれたんですか?」
「いえ、これは思いつきでやったんです。記者さんの記事って、その人との出会いを物語調に書いてるじゃないですか。こういう登場とか派手で良くないですか?」
彼女は空を見上げて伸びをすると、この船がまるで舞台であるかのように、大きな身振りで語る。
「こんな見出しはどうでしょう。『心理工学、期待の新人。疑似感覚を地球規模に広げる若き女性研究者!』どうですか?」
水平線を背景に、舞うように。両手を掲げて青空に記事のタイトルを載せる。
「魅力的です。とっても」
素直に好感が持てた。理屈っぽいだけでない。生き生きとその素晴らしさを語ることができる。それは私がサイエンスライターとして大切にしていることだからだ。
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作中の五円玉はぜひやってみてください。
主人公の真似をすれば皆さんも体験出来ると思います。
1本だけで十分です。つまんで見つめてみてください。
立って脱力し、本当に念じることに集中することが大切です。
揺れた人は是非、後編を楽しみにしていてください。
工学部の化学と心理学部の学士を持っています。
少しでも不思議な世界を体感してもらえたら嬉しいです。