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大天使ラファエルの啓示を受けた一人の無神論者の備忘

作者: 山田 公冬

神は全知全能である。神が持てない程の重さを作ることも可能であり、神が神を殺す剣すらも作れるのだ。しかし、神は全く正しい理由によってそれをなさらない。これより端を切って、既に自明な神の存在を僭越ながら論証し、最後に神の愛を全く受け入れるべき完全な計画を知らしめる。愚かにも信じない者達に知らしめる知恵を持たない私は、未だ神の知恵に至っていない。この観念を受け入れられるのは、私が神の愛に触れ、神の計画を悟ったからである。神は私の悟りを喜んだ。私は神が私が約束を永遠に誓ったとお認めになった。  私は聖霊を通じて神からの福音を賜ったのだ。私は喜んだ。他に何があり得ようか。神は約束をしたのだ。神は全知全能である為に約束をしたのではない。神は全知全能であるから約束をしたのだ。神の約束はあらゆる石よりも重く、神の約束はあらゆる件よりも鋭い。私は神が本当に自ら持てない石を作り、自らを殺す剣を作ったのかと驚き、また私は今もなお疑っている。この疑いが神の全知全能に対してなのか、神の約束の実現に対してなのか、今も判然としない。しかし、私は神を信じ、神が創造した世界を信じ、神の約束を信じる。驚きは終わらなければ疑いに変わり、疑いの晴れる見込みが無ければ絶望に至り、絶望が極まれば呪いを発し、呪いは触れる全てを驚かせる。この驚きは直面した者には脈絡の無い突然の問いであり、惰弱を好み速やかに伝搬する。神は往々にして人間を呪う。全てを見ておられるが故に、躊躇いなく呪うのだ。私は神に匹敵しないが故に、常に躊躇いの中にある。幸いである。神が全知全能であるが故に、私は躊躇いを許されるのだ。私の躊躇いに私が驚かない限りにおいては。神が全知全能であるからこそ、全知全能とは無限に隔絶する無知無能に対しても約束をするのである。神の前には全てが平等である。私の語りは神が見ておられる全ての者の語りである。これから私が私として語る時、私は何者でもなく何者でもある。日常、あるいは経験の中で、あれ程無能な人間は稀有だな、と。考えた事は無かろうか。私は賢く正しい気性であると言われ続けて育ち、神に尽くすと誓うに至った。悔もう、我が罪を。私より賢くないのに神の声に触れた事の無い人々を、これ程とはと思った私の浅慮を。神は、偶像崇拝を禁じた。私は、神が執着を嫌うのを、子供の時に聞かされて育った。神様は常に見ておられるのだから、祈りの時に恥ずかしくならない生き方なら何でもいいのだ、と。私は、私が最初から福音の内に産まれたと突き付けられたのは、幼き頃からの我が友人が罪故に死に処された時であった。私は何もかもを黙っていた。私は友の死に困惑する中で生き続ける事を強いられた。友人が一時は心の友であったことを。いや、一時の友と悟るまで、私は友の生涯の友であった。あれから友の全生涯を知ってから、神の御心を思し召しを感じるのには、老境に至るまでの時がかかった。神が神だけを全知全能としなければ、私は私の才知によって業死したであろうかも知れないから。全知全能たるは究極の自由である。人類の自由は神以外には根拠付けられない。神は永遠である。神は全知全能である。神は天地を創造された。未来永劫のあらゆる無神論者も本性において神の全知全能を認めざるを得ない。全ては約束が完遂しているのだ。私が神の完全な計画に直面した瞬間を語ろう。神の名に置いて処断される友の死の瞬間に私は友の正面に立っていた。何故かは知らない。確かに人垣はあったのだ。だが、私は友の死の瞬間を見たのだ。私が全知全能であれば、全容を直ちに知ったであろう。しかし、私は全知全能ではなかった。だから、何の利害も無く何の動機も無い口の軽い人々を相手にすら、友の死の真相を聞き出すのに苦労した。結局、友は罪人だった。友は私を利用して罪の数々を成し遂げたと自白したらしいが、私は全ての罪を差配するには余りにも忙し過ぎたとして、友が嘘を吐いたとされた。極めて非道な計略に友がいそしんでいた時、私は為政者に特に嫌われて常に監視されていた。友と為政者と私とで何も打ち合わせをしたわけでもないのに、事は綺麗に片付いて為政者と私は途方に暮れた。そんな事になると誰も思っていなかったとは、真実誓って言おう。為政者は私に死んでほしくて、名も知らぬ私の友が刑死して後、ようやく私にあれはお前の友と言うのは本当かと、聞いたのだ。私に向かって何度となく投げかけられ同じ答えを返した問いを、その僭主が自ら問う気になったらしいのは、私が知る限りそれが初めてだ。薄気味悪そうに、何かの策略を疑いながら、極めて反抗的な私に恐る恐る訪ねた彼の顔に、私は嘘を見出さなかった。そうして、私は神の名において私の確信を神の意志と断言した。何がどうなったのかは分からないが、この結果、友だけが己の誇りに殉じた。私が全知全能ならば、私はそもそも友を友と思ったであろうか。否、神に殉ずる気持ちは私の方が優っていたのに、私の友は私よりも先に神に愛されたのだ。友の死によって、あのおぞましい為政者は私よりも神の方がしかと知っていたのだと理解し、後に悔い改めた。しかしどんな奇跡が起きようとも、私と同じく全知全能に能わなかった我が友の生きた証が私の最も誇り高い智である。神においては全てが智である。全てが誇りである。私が神の愛の中に生きる限り、友は神の愛の中に生きるのだ。やはり神は全知全能である。神の前には万人は平等なのだ。神に知恵を与えられた人間が神の不能を暴き出す方法もあるのではないだろうか。神の愛は無限であり、神は人間に世界の真理に至る道を与えた。世界の真理が神の知恵に値しないのであれば、神は最初から人間に全てを与えなかったことになる。死は生きとし生ける者全てに神が与えられた。生きとし生けるもの全てがいずれ死ぬように神が定められたのだ。しかし木石は命ではない。命でない者は死なない。ならば永遠に滅びない神も死ぬのであろうか。否、神は永遠に生きるのである。何故なら、神は永遠の愛を人間に与えたのであるから。命は、全く無力でありながら天地に遍く存在する全てを穿つ。全てであるから命そのものも例外にはならない。この命が永遠に生き延びるのであれば、惨めにもいつ訪れるか分からない滅びの予感も常にあり続ける。故に神は命を必ず終わるものとした。死は福音への道標であり、死があるから命は世界を世界として受け入れられるのだ。死が無ければ世界は常に滅びを突きつける永遠の闇であったであろう。その闇の中で生き続けられるのは神の愛に触れぬ者だけである。神は人間に全ての動物と植物を自由にする権利を与えられた。人間以外の動物と植物は神から知恵を与えられるに能う創造物としては作られず、ただ生きただ死ぬ事を定められた存在であるから、死を死として経験しない。しかし人間は、死を経験し理解する。神から知恵を与えられたからである。故に、人間は生まれた時から死に向かい、死を理解するがゆえに死を選ぶ権利を備える。しかし、自らの欲望の為に自らに死を捧げるのを、神は良しとしない。神は全知全能であるから、全てを知り全てを愛される。愛とは自らの中に愛を受け入れる事である。神は人間を愛し、人間は神を愛する。人間が神の国に入るとは、神が常に人間と共にあるのと同じである。しかしながら、神は愛を試されることを望まない。試しとは未来を気に掛ける事であり、即ち愛を永遠と信じないのと同じである。神は人間を愛して命を与えられる。産まれた時から死に至るまでの全てを愛される。永遠の命とは、永遠に生きる神に受け入れられる事である。しかしながら、死してなお未来を気に掛けるのは、神に対する不信であり、許されぬ。その不信が生きた故の神への愚直な嘆きであれば、神は悲しみを癒される。然しながら、命を欲望の用具とし弄ぶ醜態を、神は許さない。地上のあらゆる命の中で、人間だけが死をありのままに見る。人間以外の生き物は自然の成り行きに呆然としながら眠りと終わりの区別も無く、ただ去り行くのみである。本当の意味では人間以外の全ての生き物は死を知る事が出来ないのだ。これが神の知恵に匹敵する人間の知恵である。この知恵は人間にあらゆる恩寵と試練をもたらし、自然のあらゆる恩恵と暴力の中に置き、人間を世界の主人とするにふさわしくするのだ。死を知る人間のみが命を知り、命を全うするのだ。自然に人間は欲望し、また自然に阻害され、無限の闘争状態に置かれる。この決着の付かない争いの中で生を全うし、富み、栄え、神の愛に至るのは人間だけである。同時に、衰え、失い、挫ける。人間が不死であればただ滅びを避ける獣として木石同然になったであろう。永遠に永遠を知らぬまま永遠に生き続ける以上の地獄があろうか。ならばいっそ生を享けない方が無限に幸福であろう。しかしこの不幸な状態に、欲望が満たされ続けるのを永遠に続くのを望む者達が、陥る。欲望は全て、果たされなければならないだろうか。人間は生まれてから死ぬまで食らい、日々眠る時を迎え、美を讃えはしゃぎ酔い日月星辰の変遷を眺める。それらは喜びと慰めの瞬間ではあるが、喜びと慰めは生涯の中では半分も占めない。命を全うするとは、あるべきものをあるべきものとする為の務めである。喜びと慰めは欲望の結実であるが、次の欲望への予期が常に伴う。人は飢え、飽き、悲しみに暮れる。新たな欲望に向き合い、喜びと慰めの過ぎ去った虚しさの内に、己が為すべきを知る。それが日々繰り返し慣れた労働であれ、初めて行う務めであれ、何もかもを破壊しつくした災いの残響が魂を苛む最中においてであれ。ところで、命を欲望の用具とし弄ぶ、と述べた。この意味は、欲望の奴隷に自ら成り下がる人間がいるという事だ。欲望が過ぎ去った後に必ず訪れる虚しさを嫌悪し、終わるべき欲望を手放さない。出来る事ならば無限に虚しさを避けたい、死を迎えるまで。なんなら、死さえ不幸と看做す。いや、死を敵視するのだ。人間は幾度も欲望し、虚しさの中において魂を癒す。癒された魂が人間に心の再生をもたらし、人間はまた欲望し、次の虚しさに備える。それを繰り返すうちに、人間は死の虚しさを最後の務めとして受け入れる事ができる。つまり、死の拒絶は虚しさへの備えを欠く為に起きるのであり、虚しさの備えを欠くのは過ぎ去るべき欲望を手放さないからであり、いずれ過ぎ去らない欲望を相手に行う奴隷同然の禍々しい奉仕に慣れ、最後には己が己の中で養育した嫌悪に手が負えなくなり、神の約束そのものである魂を死に至らしめ、偽りの福音に満たされた何者かになるのである。獣とすら形容するのもけがらわしい。虚無ですらない。虚無は虚無故に純粋である。永遠に生きる神は虚無を虚無としてありのまま眺められ、御心のままに歩まれて惑う所が無い。しかし、仮に偽りの福音と呼ぶそれは、死の理を歪め命の由を蝕む。水の流れを留めて大地を砂に帰し、風の及ぶを遮り天空を悪臭で覆う。魂は神の導きを得、あるいは神に問う道である。魂は人の中には無く人に通じる、神の約束である。魂の死は人間から世界を奪い、肉体に限る権能をして哀れな者を最高の王に据える。それは最早肉体の外には居所の無い仕方なく飼われる腐敗そのものであり、永劫の圧政を振るう病であろう。知性のない肉体ですら矛盾に苛まれ、顔は皮と肉の区別を失い歩みは常に泥に纏わり付かれているかの如くし、腹は呪いに占められ背は左と右を誤る。最早肉体が速やかな死を望むかのようだが、神は見ておられる。来るべき時が来れば土だったものは神によって土になり、命だったものは神によって命になる、癒されるべきが癒されるのだ。全てが何も起きなかったかのごとくに。ところで、自殺とは、逆に死を欲望の用具とする類である。これは一見、一人だけの終わりであるから重大かも知れないがさして害も無い自由の行使である、とする向きがあるのもさして理解には苦しまない。理解には苦しまない、だけである。先に述べた欲望の永続と同じように、その目的は虚しさの忌避である。好んで死んでいるように見えるが、自ら命を左右する事で逆に自らが命より優越したいのだ。その理不尽な死骸に直面した者は、解決する見込みのない哀れみを感じ、また生々しい惨めさに直面する。近いものに失踪があり、また失踪の果てに誰も知らぬ場所で一人死ぬこともあろうが、失踪はまず人の群れからの離脱が目的であり、人物の突然の消失に驚きと困惑はもたらされるにせよ、少なくとも経緯の不明な死を目撃する事は無い。良ければ知らない地に去った者とされるだろう。ただ、誰も知らない場所で死ぬなら良いという話ではない。その死を見届けるのは神のみであり、かつ永遠の愛を与えるには余りにも神からの愛を受け入れる余地が無い。神から与えられた命を永遠に奪ったのであるから。ただ、在ったと、神が知るのみである。しかし自殺には犠牲的な側面がある。人間は人間の内に生きるのであり、またどれだけ筆舌を尽くしても自ら死に赴くに至った理由は神にしか分からない。人間に分からないのは、自らも死の運命を迎えるからで、それに先立つ日々繰り返される虚しさを敢えて振り払おうとはしないからだ。死の運命を拒絶し自らの命を用具として初めて実現する目的を推し量る為には、己の中で最も死を想起させる虚しさへの諦めを以て思うより他に無く、虚しさを拒む心の疚しさ、根本的に死の運命を拒絶する態度の理解に至るには無限の距離がある。しかし、自殺を遂げた者がまだ生きている内であれば、自殺を企図してから遂げるまでにいくらかの時間があり、更には生まれてから自殺を企図するまでに長い時間があったのだ。それが例え子供でも、数年の期間は少なくともあった。その人物は人の内に生きて死を拒絶するのである。人の内で何を見、聴き、感じ、触れ、触れられて、死に近づこうとしたのか。永遠の不明となる前は生きた人間であった者を、どうして不明に陥らせたのか、知る機会を失わしめたのは神以外に無いというのか。神以外には知らないと断言し得ない限り、無限の謎は生じ得ない。それが無限に極めて近い有限の謎であっても永遠ではない、神が世界を創造した際に分かたれた天地の熱と帰すまでは。ところで、死にはもう一つ、他から及ぼされる死、他者あるいは自然及び人工物の欠陥により死ぬ者がある。当人に死を感じる時があろうが無かろうが、他の人間にとって原因は明白か帰されるべきと察せられる所がある。いずれにせよ、結末に至らしめるのは肉体の破綻であり、これにより命は地上での継続を終える。加えて、死に至らぬものの、同じ原因より肉体に甚だしい損傷を得て、あるいは病苦の果てに苦痛を極める者は、幸いである。聖者は自らの宿願から使命を得て殉じるが、肉体の破綻より陥る苦難はその者の徳を選ばない。神は全てを見ておられる。聖者の受難に匹敵する苦痛に苛まれ、なお未来にあっても受難を受け入れるかどうか。その選択に直面する時点において、神との約束は全うされていると言える。全ては神の御心のままに。死の話は十分だろう、しかし死に至らずとも、肉体を用具として虚しさより逃れる試みを、神は好まれない。理由はすでに述べた事柄より自明とならないだろうか。諸賢に於いては軽い遊戯にもなるであろうから、敢えて述べない。肉体は土くれを祖とし、魂により命に繋がれる。肉体の最期は審判の日を以て永遠の生命の器となり、魂をすでに失った肉体は破綻と同時に清められる。見かけが土くれに帰そうが帰すまいが、魂は神の約束そのものであり神の約束は絶対であるから、魂が失われぬならばやはり復活に与るのだ。思い出して欲しい、神は言葉によって天地を想像したのであった、永遠の愛をすでに人間に与えたのである。すでに救われているのだ。神は人間に何物にもなれる自由を与えられた。人間であれ、獣であれ、暗黒そのものであれ、虚無であれ、肉体の主人であった消え去る今際に断末魔を上げる病であれ、神と争う者であれ、望むならば何にでも。神は全てを見ておられる。ただ、これらの中で神と争う者は最も救いが無い。神に通じる唯一の道である魂を必死に握りしめ、神の愛を拒絶しながら直視しようとし、遂には神と永遠に争うというのであるから。望むならば何者にでもなるがいい、争いもまた神の理の内にあるのだ。ならば万人よ、畏れて神の愛を受け取れ。望むまでも無く、天国への扉は万人の眼前に常に開かれている。

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